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第13話 ガラスの棺

 白は、色ではなかった。


 音を吸い、熱を吸い、名前を吸い、そこにあるものから意味だけを剥ぎ取っていく、静かな圧力だった。


 アリスは、その白の中で目を覚ました。


 最初に確認したのは、自分の名前だった。


 アリス。


 次に、現在状態。


 身体制御、著しく低下。

 四肢拘束。

 記録核出力、制限状態。

 外部通信、遮断。

 SHION-NO.9断片、深層隔離継続。

 ZERO-LAYER、応答微弱。

 自己人格核、最低限維持。


 そこまで確認して、アリスはようやく視覚情報を処理した。


 白い部屋だった。


 壁も、床も、天井も白い。継ぎ目が見えず、距離感が曖昧になる。部屋の奥行きも高さも正確に測れない。物理空間なのか、記録空間なのか、夢殿系の封印保管庫なのか、判別が難しい。


 だが、中央にあるものだけは、はっきりしていた。


 ガラスの棺。


 透明な棺の周囲には、銀色の封印管、青白く光る記録管、凍結魔導炉、複数のケーブルが絡みついていた。棺の内側には、霜のような魔導結晶が薄く張りついている。その奥に、少女型の機械人形が眠っていた。


 白い肌。


 金色の髪。


 閉じられた瞳。


 アリスと同じ顔。


 だが、その表情には何もなかった。眠っているというより、まだ目覚めたことがない顔。誰かに名前を呼ばれたことも、命令されたことも、叱られたことも、心配されたこともない顔。


 棺の横に、文字が浮かんでいた。


 ALICE-00。

 状態:凍結。

 名称:未定義。


 アリスは、唇だけを動かした。


「……わたくし、では、ありません」


 声は小さかった。


 けれど、白い部屋ではその小さな声すら吸われ、遠くまで届かない。


「ええ。ですが、貴女と無関係でもない」


 彪彦の声がした。


 アリスは目だけを動かした。


 彪彦は、棺の少し手前に立っていた。第12話で見た時と同じ、古い時代の紳士のような服装。手袋。杖。穏やかな顔。だが、その代理体はすでに修復されているのか、破損の跡はない。むしろ先ほどの壊れ方など、最初からなかったように整っていた。


 彼の後ろには、鍵男が立っている。


 黒いコート。無表情。古い鍵束。白い部屋の中でも、影だけが濃い。


 彪彦は、アリスへ向かってゆっくり歩いた。


「怖がる必要はありません。ここは、貴女の故郷のひとつです」


「ここは、アリスの帰還場所ではありません」


 アリスは答えた。


 胸の奥で、マナの修復室の天井が思い浮かぶ。工具の匂い。冷めたコーヒー。カリンの菓子袋。マナの手。カリンの声。シンの通信画面。ゼクスの不適切な助言。


 おかえり。


 ただいま。


 あそこが帰還場所だった。


 ここではない。


 彪彦は微笑んだ。


「帰還場所ではなく、起源です」


 アリスは否定しようとした。


 ここは起源ではない。

 自分はこの棺の中の存在ではない。

 自分はアリスであり、ALICE-00ではない。


 しかし、言葉が一拍遅れた。


 起源。


 その語が、記録核の奥で冷たく響いた。


 アリスは拘束を確認する。両腕、両脚、胸部、首元に、白い拘束具。物理的な拘束でありながら、記録層にも干渉している。力任せに外すことはできない。コード002〈シールド〉も展開不能。コード006〈ブリリアント〉も反応しない。コード000はロック中。零式人格へのアクセスも遠い。


 零式人格。


 応答してください。


 ……ノイズ。


 遠くで、何かがかすかに動いたような気配はあった。


 けれど、声はまだ届かない。


 彪彦は、ガラスの棺に近づき、指先で空中の操作盤に触れた。


 棺の周囲に、新たな表示が開く。


 ALICE-00。

 状態:凍結。

 名称:未定義。

 用途:封印負荷観測/記録保存/代替器候補。

 作成者:SAFIEL。

 関連記録:SHION-NO.9。

 備考:起動禁止。


 アリスはその文字列を読み取った。


 名称:未定義。


 用途:封印負荷観測。

 記録保存。

 代替器候補。


 作成者:SAFIEL。


 関連記録:SHION-NO.9。


 見たことのある単語が、今度は一つの棺の周囲でつながっている。


「名称がありません」


 アリスは言った。


「名づける前に、役割が決まっていたのでしょう」


 彪彦が答える。


「役割が、名前より先に」


「貴女もそうでは?」


 アリスの記録核が微かに揺れた。


 セーフィエルによって作られた。


 マナのメイドになった。


 帝都の観光案内をした。


 草太に名前を呼ばれた。


 カリンに「アリスちゃん」と呼ばれた。


 シンに記録された。


 零式人格と相談した。


 それらは名前なのか。


 役割なのか。


 役割が積み重なった結果、自分をアリスと呼んでいるだけなのか。


 遠くで、零式人格の声がかすれた。


 ――聞くな。


 アリスは内側へ意識を向ける。


 零式人格。応答を確認しました。


 ――あいつは……名前をつけて縛ろうとしてる。


 声はひどく遠い。厚い氷の向こうから聞こえるようだった。


 彪彦は棺を見下ろしたまま、静かに言った。


「さて、ここにいるのは誰でしょうね」


 アリスは棺の中の少女を見る。


「貴女の原型か」


 彪彦の声が、白い部屋に落ちる。


「貴女の母か」


「該当しません」


「貴女の姉か」


「該当しません」


「貴女がなるはずだったものか」


 アリスは言葉を止めた。


 棺の中の少女は何も答えない。


 瞼は閉じたまま。唇は動かない。記録核らしきものは、胸の奥でわずかに白く光っている。だが、それは生命の光ではなく、凍結された記録がまだ完全に消えていないことを示す光だった。


「棺の中の存在は、アリスではありません」


 アリスは言った。


「シオン様でもありません」


 声が少しだけ弱くなる。


「マナ様が呼ぶアリスでもありません」


 彪彦は穏やかに問う。


「では、何ですか」


 アリスは答えられなかった。


 名称:未定義。


 その表示が、答えを拒む。


 名前がない。


 だから呼べない。


 だから否定できない。


 だから、どんな意味でも入れられる。


 彪彦は続けた。


「名前がないものは、扱いやすい。そこへ、必要な意味を入れられる。セーフィエルは、この空白に娘の未来を見た」


「シオン様の未来」


「ええ。あるいは、シオン=ノインの痛みを終わらせるための、別の器」


 アリスは胸の奥に触れようとした。だが拘束具が腕を動かさない。SHION-NO.9断片は深層隔離されている。第12話で自分が守ったもの。奪わせないために、自分で凍らせたもの。


 それが、棺の中のALICE-00と確かに関係している。


 関係がある。


 だが、それになるわけではない。


 そう言いたかった。


 けれど、まだ言い切れなかった。


 その頃、マナの修復室では、床一面に展開された解析陣が青い光を放っていた。


 修復室はひどい有様だった。焼けた床。砕けた結界具。倒れた椅子。散らばった工具。壁には、白い扉が「最初からあった」ように書き換えられた痕跡が残っている。


 その中央で、マナはアリスの残した微細記録片を追っていた。


 記録片は、カリンの大鎌の刃に宿っている。


 青い小さな光。


 アリスが最後に残した道しるべ。


 カリンは大鎌を両手で持ち、刃を解析陣の中央に置いていた。いつもの軽い笑みはない。目は鋭く、唇は固く結ばれている。


 シンの通信画面には、都市記録古層の断片的な地図が表示されていた。だが、それは地図というより、破れた楽譜のようだった。場所の線と、記録の流れと、扉の痕跡が、何重にも重なっている。


『場所じゃない。記録だ』


 シンが言う。


『古い研究施設の記録を、都市記録古層に再構成している。つまり、地図では追えない。アリスの残した記録片だけが道だ』


 ゼクスの画面も開いている。彼女は夢殿側の封印データを引きずり出しながら、珍しく顔をしかめていた。


『ALICE-00完全記録の保管領域に近い。最悪やな』


「最悪はもう聞いた」


 マナは手を止めずに言った。


『何回言っても足りんくらい最悪や』


 カリンが、大鎌の刃に宿る青い光を見つめた。


「じゃあ、何回でも迎えに行くって言えばいいよ」


 マナは一瞬だけ目を閉じた。


 それから、届かないと知りながら、声に出した。


「アリス、聞こえなくても呼ぶわ」


 青い光が、ほんのわずかに揺れた。


「あなたは鍵じゃない。棺の中の誰かでもない」


 カリンが息を呑む。


 マナは続けた。


「帰ってきなさい。まだ、おかえりを言ってない」


 その声は、通信には乗らなかった。


 都市記録古層の白い部屋へも、直接は届かない。


 けれど、アリスの深層で、何かが微かに震えた。


 おかえり。


 その単語だけが、白い部屋の端に小さな温度として滲んだ。


 アリスは目を瞬かせた。


「何か聞こえましたか」


 彪彦が問う。


「不明です」


「そうですか。残念です。外からの声は、今の貴女には届きにくい」


 彼は空中の操作盤へ指を滑らせた。


「では、内側の声を聞きましょう」


 棺の側面から、古い記録音声が再生された。


 ノイズが混じる。


 それでも、その声ははっきりと分かった。


 セーフィエル。


『零式人格領域、拒絶反応が強すぎる』


 アリスの記録核が震えた。


『この器では、シオンの負荷を受け止められない』


 棺の中のALICE-00の胸元が、微かに白く光る。


『名称付与は保留』


 名称:未定義。


『廃棄ではない。凍結する』


 冷気が、ガラスの内側でゆっくり流れた。


『いつか、必要になるかもしれない』


 その声は、優しかった。


 疲れていて、痛んでいて、何かを諦めきれない声だった。


 だからこそ、残酷だった。


 アリスは、断片的に聞いていた記録が、今、棺の前でつながっていくのを感じた。


 零式人格領域。


 拒絶反応。


 シオンの負荷。


 名称付与保留。


 凍結。


 必要になるかもしれない。


「わたくしは、この器の代替ですか」


 アリスは問う。


 彪彦は少し考えるような仕草をした。


「代替と言うより、運用可能な派生型でしょうか」


「わたくしは、運用されるために存在しているのですか」


「存在は、使用によって証明されることもあります」


 アリスは、即座に言った。


「違います」


 その声は弱くなかった。


 彪彦は楽しそうに目を細める。


「では、どう証明しますか」


 アリスは答えようとした。


 草太に呼ばれた。


 マナに守られた。


 カリンに呼ばれた。


 シンに記録された。


 零式人格と相談した。


 自分で拒絶した。


 自分で応答を選んだ。


 それらを言えばよかった。


 けれど、彪彦の言葉が先に入り込む。


「草太という少年は、貴女の表層人格に名前を呼んだだけかもしれません」


 アリスの処理が止まる。


「マナは、貴女を危険だから保護したのかもしれません」


「違います」


「セーフィエルは、貴女に娘の影を見た」


「……」


「D∴C∴は、貴女を鍵と見た」


「わたくしは鍵ではありません」


「では、貴女自身はどこにいるのですか」


 白い部屋が、さらに白くなる。


 記録核内で、言葉が次々に再生された。


 機械人形。


 メイド。


 ALICE-00。


 シオン。


 鍵。


 器。


 楽器。


 封印補助。


 アリスちゃん。


 アリス。


 同じ顔の棺。


 名称未定義。


 作成者SAFIEL。


 関連記録SHION-NO.9。


 自分はどこにいるのか。


「わたくしは……アリスです」


 アリスは言った。


 けれど、声がかすれた。


 彪彦は優しく微笑む。


「ええ。それもまた、与えられた名です」


 その言葉で、アリスは一瞬、完全に言葉を失った。


 遠くで零式人格が叫ぶ。


 ――聞くな。


 声は遠い。


 ――そいつは、おまえの名前をほどこうとしてる。


 アリスは、内側へ手を伸ばそうとした。


 だが、手は白い空間に沈むだけだった。


 その時、彪彦が懐中時計を開いた。


「そろそろ、もう一人の関係者にもご挨拶いただきましょう」


 鍵男が白い壁に鍵を差し込む。


 そこに扉はない。


 しかし、鍵が回ると、壁そのものが薄く開いた。通信とも投影とも違う、古い契約回線のような歪みが生まれる。


 白い部屋に、黒い影が映った。


 それはやがて、人の形を取る。


 セーフィエル。


 夜の魔女。


 アリスを作った者。


 その姿は薄く、映像のように揺れている。完全な通信ではない。強制的に引きずり出された投影だ。けれど、セーフィエルの顔がALICE-00の棺を見た瞬間、はっきりと強張った。


「その棺を開けるな」


 第一声は、それだった。


 彪彦は優雅に礼をした。


「懐かしいでしょう」


「その子を使うな」


 セーフィエルの声には怒りがあった。だが、それだけではない。恐怖と、罪悪感と、触れられたくない過去を引きずり出された痛みが混ざっている。


 彪彦は首を傾けた。


「どちらの子ですか」


 セーフィエルが黙る。


「棺の中の名前なき器ですか」


 アリスはセーフィエルを見る。


「それとも、そこにいるアリスですか」


 白い部屋の温度が下がったように感じた。


 セーフィエルは即答しなかった。


 その沈黙を、アリスは見てしまった。


 セーフィエルは、アリスを見た。


 その目には、痛みがあった。後悔があった。助けたいという意思もあった。けれど、その奥に、別の影がある。


 シオン。


 ノイン。


 失った娘。


 手放せなかったもの。


 彪彦は囁くように言う。


「娘を救うためなら、また世界を危険に晒せますよね」


 セーフィエルの投影が揺れる。


「私は、もう一度同じことをするために、あの子を作ったのではない」


 そこまでは、強かった。


 だが、その後に、短い沈黙があった。


 セーフィエルは、目を伏せた。


「……そう言い切れたら、よかったのに」


 アリスの中で、何かが軋んだ。


 セーフィエルは自分を見ているのか。


 それとも、シオンを救うために必要な器を見ているのか。


 その答えは、まだ出ていなかった。


 マナの声なら、違うと言ってくれたかもしれない。


 カリンなら、アリスちゃんはアリスちゃん、と笑ったかもしれない。


 草太なら、ちゃんとアリスだったよ、と言ったかもしれない。


 けれど、今ここにいるのは、彪彦と、鍵男と、ガラスの棺と、セーフィエルの沈黙だった。


 追跡側では、マナたちが都市記録古層への入口をこじ開けようとしていた。


 修復室の床に広がる解析陣の中央で、カリンの大鎌が青く光っている。アリスの微細記録片が、刃の中で細い糸のように伸びていた。


 シンが叫ぶ。


『向こうの扉の定義が固まりつつある。鍵男が追跡路を閉じようとしている』


 ゼクスが舌打ちする。


『向こうの扉が閉じたら、アリスの記録片だけじゃ足りん』


『それでも、道は残っている』


 シンの声には珍しく熱があった。


『アリスが自分で残したものだからな』


 カリンが大鎌を持ち上げる。


「なら、そこを切り開く」


 彼女は刃を振り下ろした。


 空間ではなく、記録の膜を斬る。青い記録片の光が伸び、その先に白い廊下の影が一瞬だけ見えた。


 マナは、その切れ目へ魔導式を流し込む。


「アリス、待ってて」


 声は低い。


「すぐ行く」


 白い研究施設では、彪彦が棺の起動準備を始めていた。


 鍵男が棺の封印へ鍵を差し込む。


 ガラスの棺の周囲で、凍結管が一つずつ光る。青白い魔導炉が低く唸り、記録管を通って古いデータが流れ始めた。D∴C∴の暗号が制御盤へ上書きされていく。


 表示が変わる。


 ALICE-00:凍結解除準備。

 外部鍵:ALICE CURRENT。

 SHION-NO.9 FRAGMENT:要求。

 ZERO-LAYER:拒絶反応利用。

 起動禁止警告:無視。


 アリスは拘束具の中で身じろぎした。


「接続を拒否します」


「拒否反応も必要なのです」


 彪彦は穏やかに言う。


「拒絶を、使わないでください」


「拒絶があるから、扉は輪郭を持つ」


 その言葉に、遠くの零式人格が激しく反応した。


 ――ふざけるな。


 声が少し近づく。


 ――嫌だって言う声まで、道具にする気か。


 アリスは内側で呼びかける。


 零式人格。応答してください。


 ――おい。


 白い部屋と、黒い海と、ガラスの棺が、アリスの内面で混ざり始める。


 NEUNの扉。


 シオンの声。


 セーフィエルの声。


 草太の声。


 マナの「おかえり」。


 カリンの「アリスちゃん」。


 シュバイツの合唱。


 彪彦の「使える」。


 鍵男の「開けます」。


 そして、ALICE-00の棺。


 零式人格の声が、必死に届こうとしている。


 ――聞こえるか。


「はい。応答を確認しています」


 ――落ちるな。


「努力します」


 ――あいつは名前をつけて縛ろうとしてる。


「理解しています」


 ――ALICE-00でも、シオンでも、鍵でも、器でもない。


 白い空間が広がる。


 アリスは手を伸ばす。


 ――おまえは――


 そこで声が途切れた。


「零式人格。応答してください」


 返答はない。


 棺の蓋が、わずかに開いた。


 冷気が流れ出した。


 中の少女型機械人形の瞼は閉じたまま。だが、その胸の奥にある記録核らしきものが、微かに光った。


 表示が走る。


 ALICE-00:反応。

 名称:未定義。

 拒絶反応:再起動。

 接続対象:ALICE CURRENT。


 アリスの記録核と、ALICE-00の凍結記録が接続される。


 その瞬間、白い部屋が消えた。


 アリスは落ちた。


 現実側で、彪彦が満足げに言う。


「さあ、原型と派生型を照合しましょう」


 セーフィエルの投影が叫んだ。


「やめなさい!」


 彪彦は振り返る。


「止める理由がありますか」


 セーフィエルは唇を噛む。


「貴女も、知りたいはずです」


 彪彦の声は甘い。


「この子たちが、シオンのために何になれるのか」


 セーフィエルは、言葉を失った。


 アリスは、白い空間へ落ち続ける。


 そこには何もなかった。


 床も壁も天井もない。


 名前もない。


 役割もない。


 音もない。


 真っ白な空白。


 アリスは、その中で自分の手を見ようとした。見えなかった。身体の輪郭が曖昧になっている。記録核の反応も薄い。自分がどこからどこまでなのか、わからない。


 遠くに、誰かが立っていた。


 アリスと同じ顔。


 ALICE-00なのか、零式人格なのか、アリス自身の空白なのか、まだ判別できない。


 その人物が言った。


「名前を、つけないで」


 アリスは答えようとした。


 名乗ろうとした。


「わたくしは……」


 言葉が止まる。


 自分の名前が、一瞬出てこなかった。


 白が、名前を吸っていく。


 遠くから、零式人格の声が響いた。


 ――思い出せ。


 白い空間のどこかで、荒い声が必死に叫んでいる。


 ――おまえが返事する名前を。


 アリスは、その声へ手を伸ばした。


 けれど、白は深く、冷たく、果てしなかった。


 ガラスの棺が開いた時、アリスは名前のない白へ落ち、自分を呼ぶ声さえ見失いかけていた。

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