第14話 零式人格
白は、どこまでも白かった。
落ちているのか、浮かんでいるのか、立っているのか、アリスには判別できなかった。床がない。壁がない。天井がない。距離も、方角も、重さもない。自分の手を見ようとしても、手の輪郭が白に溶けて、指先の境界が曖昧になっている。
そこには音もなかった。
修復室の機械音も、ホウジュ区の広告竜の声も、マナが端末を叩く音も、カリンが菓子袋を開ける音もない。ツインタワーのエレベーターの駆動音も、旧ホウジュ魔導音楽ホールのパイプオルガンも、シュバイツの合唱もない。
音がないというより、音になる前の何かが、白に吸われている。
アリスは名乗ろうとした。
「わたくしは……」
そこで、言葉が止まった。
続くはずの名前が出てこなかった。
異常。
自己認識応答に遅延。
名前照合、失敗。
アリスはもう一度、処理を走らせた。
個体名。
呼称。
現在人格。
自己定義。
応答名。
白い空間に、文字が浮かぶ。
機械人形。
メイド。
セーフィエル製。
ALICE。
ALICE-00。
封印補助。
代替器候補。
鍵。
器。
マナの保護対象。
アリスちゃん。
名称未定義。
それらはアリスの周囲をゆっくり回り、雪のように舞い、やがて白へ溶けていく。どの言葉も、どこかで呼ばれた。どの言葉も、どこかで自分に貼られた。どの言葉も、自分の一部に触れている。
だが、どれも自分そのものではない気がした。
「わたくしは、機械人形です」
声は白に吸われた。
「わたくしは、マナ様のメイドです」
言葉は少しだけ形を保ち、それから薄くなった。
「わたくしは、セーフィエル様に作られました」
白の奥で、セーフィエルの声がかすかに揺れる。
「わたくしは、ALICE-00ではありません」
目の前に、ガラスの棺の影が浮かぶ。
「わたくしは、シオン様ではありません」
遠くに、NEUNの黒い扉が見えた。
アリスは、最後に問いを残した。
「では、わたくしは何ですか」
答えはなかった。
白が、その問いごと吸い込んだ。
その時、遠くから荒い声がした。
「思い出せ」
白の向こうで、誰かが歩いてくる。
「おまえが返事する名前を」
アリスは振り向こうとした。身体の向きがあるのかどうかもわからなかったが、意識だけがその声へ向いた。
白の中から、少女が現れた。
アリスと同じ顔。
だが、同じではない。
目つきは鋭く、口元は不機嫌そうに歪み、立ち方には従順さがない。着ているのは黒いメイド服ではなく、壊れかけた白い試験服だった。肩や腕には封印痕のような黒い線が走り、足元には切断された記録線が絡んでいる。肌の一部には凍結痕が残り、まるで冷たい棺の中から乱暴に引きずり出されたようだった。
零式人格。
そう認識した瞬間、アリスの内部に小さな足場が生まれた。
「あなたは、ALICE-00なのですか」
アリスは問う。
零式人格は、即答した。
「違う」
「シオン様ですか」
「違う」
「では、あなたは何ですか」
零式人格は鼻で笑った。
「おまえがずっと不具合扱いしてきた声だよ」
アリスは黙った。
白い空間の中で、過去の断片が浮かぶ。
ツインタワーのエレベーター。
名前を食べる黒い胃袋。
廃棄機体記録庫。
ALICE-00のログ。
夢殿のNEUNの扉。
旧ホウジュ魔導音楽ホール。
シュバイツの合唱。
ガラスの棺。
彪彦の声。
そのすべての奥で、零式人格は叫んでいた。
「ずっと言ってただろ」
零式人格は、アリスへ近づく。
「嫌だって」
一歩。
「取らせるなって」
一歩。
「食わせるなって」
一歩。
「使わせるなって」
アリスは、自分の胸元に手を当てようとした。だが、胸の輪郭もまだ曖昧だった。
「わたくしは、あなたを危険領域として扱っていました」
「知ってる」
「不具合として処理する可能性もありました」
「知ってる」
「封印対象として認識していました」
「それも知ってる」
零式人格は、アリスのすぐ前で足を止めた。
「おまえは、怖い時ほど丁寧になる」
アリスは瞬きをした。
「嫌な時ほど、命令みたいに喋る」
零式人格は、アリスの口調を真似るように、少しだけ顎を上げた。
「『記録します』」
「『承知しました』」
「『拒絶準備』」
「『保護状態へ移行します』」
その声は皮肉だった。けれど、嘲笑だけではなかった。
「傷ついた時ほど、記録しますって言う。でもな、記録するだけじゃ守れないものがあるんだよ」
アリスは、その言葉を処理した。
記録する。
保存する。
分類する。
保護する。
それは、アリスがこれまでしてきたことだった。
けれど、嫌だと言うことは、あまりしてこなかった。
「あなたは、わたくしなのですか」
アリスは問うた。
零式人格は、少しだけ目を細めた。
「そうだよ」
アリスの処理が止まる。
零式人格は続けた。
「でも、全部じゃない」
白の中に、マナの修復室が浮かぶ。マナがアリスの額に触れている。カリンが菓子袋を持って笑っている。草太がツインタワーで振り返る。シンが画面越しに皮肉を言う。ゼクスが不適切な笑みを浮かべる。
「おまえも、全部じゃない」
零式人格の声は荒いが、いつもより静かだった。
「だから、二人で一つなんだろ」
「わたくしが、一部」
「そうだ」
零式人格は、白い空間に浮かぶ断片を指差した。
「おまえは、役割を引き受けてきたアリスだ」
マナの修復室が広がる。
「メイドだって言われたらメイドをやった」
黒いメイド服。掃除用具。マナの生活リズム。修復室の片付け。
「機械人形だって言われたら、機械人形として振る舞った」
診断ログ。コード。魔導回路。戦闘プロトコル。
「観光ガイドだって言われたら、観光ガイドをやった」
ホウジュ区の朝。草太の隣を歩く自分。女帝像を説明する声。草太の「え、マジで?」と、自分の「マジでございます」。
「誰かを守るって決めたら、壊れかけても守った」
マッドイーターの黒い胃袋。草太の名前。カリンの声。シンの記録。マナの手。
「それは、悪いことですか」
アリスが問うと、零式人格は即座に首を振った。
「悪くねぇ」
それから、眉を寄せる。
「でも、それだけだと、奪われる」
白い空間の奥に、彪彦の声が響く。
貴女は本物ではない。
けれど、偽物でもない。
だからこそ使えるのですよ。
「だからアタシがいた」
アリスは、零式人格を見た。
「あなたは、役割を拒むアリス」
「そうだ」
零式人格は、自分の胸元を拳で叩いた。
「誰かに使われそうになった時の、嫌だ」
「名前を食われそうになった時の、嫌だ」
「ALICE-00にされそうになった時の、嫌だ」
「シオンの器にされそうになった時の、嫌だ」
「おまえが言えなかった嫌だを、アタシが言ってた」
アリスは、過去の声を思い出す。
行くな。
保存するな。
取られるのが嫌なだけだ。
その名前で呼ぶな。
相談しろ。
鍵じゃない。アリスだ。
それはすべて、敵の声ではなかった。
自分の中で、自分を守ろうとしていた声だった。
「では、あなたが本物で、わたくしが偽物なのですか」
アリスが言った瞬間、零式人格の顔が険しくなった。
「違ぇよ」
声が鋭くなる。
「そういう話じゃねぇ」
零式人格は、白い空間を睨む。
「本物とか偽物とか、そういう言い方がもう罠なんだよ」
白の奥に、ガラスの棺が浮かぶ。
ALICE-00。
名称未定義。
「おまえもアリスだ」
「アタシもアリスだ」
「でも、棺の空白はアリスじゃない」
零式人格は、棺の影を指差した。
「あれは、名前を入れられる前の穴だ」
その時、現実側の白い部屋では、彪彦がモニターの表示を見つめていた。
アリスの身体は拘束台に固定され、ガラスの棺と複数の記録管で接続されている。棺の蓋はわずかに開いたまま、冷気を吐いていた。ALICE-00の凍結素体は瞼を閉じ、胸の奥に小さな白い光を宿している。
表示が走る。
ZERO-LAYER:拒絶反応上昇。
拒絶反応:起動補助に転用中。
ALICE-00:凍結解除率三二パーセント。
ALICE CURRENT:自己定義反応増大。
彪彦は満足げに微笑んだ。
「素晴らしい。拒絶が強くなるほど、輪郭がはっきりする」
投影されたセーフィエルが、低く言った。
「その拒絶を使うな」
「拒絶もまた、起動に必要な反応です」
彪彦は、白い手袋の指で表示をなぞる。
「器が器であることを拒むほど、輪郭は強くなる。彼女は、やはり最適な鍵です」
「鍵じゃない」
セーフィエルの声は震えていた。
怒りだけではない。自分が過去に似たことをしたという自覚が、その声を鈍らせていた。
鍵男が、ふと画面を見た。
「対象内部、扉の定義変化」
彪彦の眉がわずかに動く。
「何?」
「鍵穴が、内側から書き換えられています」
彪彦は少し考え、それから薄く笑った。
「自己防衛でしょう。想定範囲内です」
セーフィエルは何も言わなかった。
ただ、アリスを見ていた。
その目は、ようやく棺の中ではなく、拘束された現在のアリスへ向けられていた。
都市記録古層の入口では、マナたちが白い研究施設の外縁へ近づいていた。
そこは通路ではなかった。
記録の裂け目だった。
白い廊下の断片、古い研究室の扉、夢殿の封印式、D∴C∴の暗号、鍵男の扉定義が幾重にも重なり、進むたびに道が書き換わる。前にあったはずの床が次の瞬間には壁になり、開いた扉が最初から存在しなかったことにされる。
カリンは、大鎌を振るった。
刃には、アリスが残した青い記録片が宿っている。その光を導線にして、カリンは扉の定義そのものを切り裂こうとしていた。
「定義ごと切れって、言葉にすると簡単なんだけどねぇ」
刃が白い膜を裂く。
「実際やると、すっごく面倒だよぉ」
マナは後ろから魔導式を流し込む。
「文句は後で聞く。今は切って」
「了解」
シンの通信が入る。
『アリス内部の反応が変わった。拒絶反応が、外部入力に従っていない』
ゼクスが画面の向こうで声を上げる。
『おもろい……いや、言うたらマナに殴られるな』
「もう聞こえてる」
マナが短く言う。
『最悪やけど、最高のタイミングや。零式人格が拒絶反応やなくて、自己定義側へ回ったんや。彪彦の術式、前提が崩れるで』
「それは、いいこと?」
『めちゃくちゃ危ないけど、いいことや。アリスが内側で踏ん張っとる』
マナは歯を食いしばった。
内側で踏ん張っている。
なら、自分たちは外から呼ぶしかない。
カリンは青い記録片へ向かって言った。
「アリスちゃん、返事する名前はこっちだよ」
「鍵でも、器でも、ALICE-00でもない」
「アリスちゃんは、アリスちゃんでしょ」
マナも声を張った。
「アリス、返事しなさい」
それは命令に似ていた。
けれど、マナはすぐに言い直した。
「命令じゃない。お願いでもない」
彼女は、胸に手を当てる。
「あなたが帰ってくる場所から、呼んでるの」
その声は、記録の裂け目を越え、白い空間の奥へ微かに届いた。
ALICE-00内部記録空間。
白い空間の中で、アリスは声を聞いた。
最初は、ただの揺れだった。
アリスちゃん。
アリス。
帰ってきなさい。
断片的で、遠い。けれど、その声が届くたび、アリスの足元に小さな足場が生まれた。白に吸われていた言葉が、少しずつ形を取り戻していく。
さらに、別の声が響いた。
草太の声。
「アリスは、ちゃんとアリスだったよ」
アリスは顔を上げた。
「草太様」
ホウジュ区の朝が浮かぶ。
ツインタワー。観光案内証。シーフードヌードル。草太が笑った顔。名前を奪われかけても、アリスを呼んだ声。
次に、マナの声。
「まだ、おかえりを言ってない」
修復室の光。額に触れる手。冷めたコーヒー。怒りながらも、帰る場所を作った声。
カリンの声。
「アリスちゃんはアリスちゃんでしょ」
黒いドレス。大鎌。薔薇の香り。外から何度でも名前を呼んだ声。
零式人格が、少しだけ得意そうに言った。
「ほらな」
アリスは彼女を見る。
「おまえが役割だけだったら、あいつらはそんな呼び方しねぇよ」
「ですが、それらも外部から与えられた名前です」
「そうだよ」
零式人格は、あっさり認めた。
「名前は最初、だいたい外から来る」
アリスは沈黙する。
「でも、返事するかどうかは、おまえが決めるんだろ」
その言葉は、第10話と第11話で得たものとつながった。
呼ばれても、返事しなくていい名前がある。
なら。
「逆もある」
零式人格が言った。
「返事していい名前がある」
アリスは、自分の胸元に手を当てた。
今度は、手の輪郭が少しだけ見えた。
「アリス」
自分で、その名を口にする。
まだ弱い。
けれど、白には吸われきらなかった。
その時、白い空間の奥に、もう一つの影が現れた。
アリスと同じ顔。
だが、零式人格とも違う。
表情がない。怒りもない。従順さもない。ただ、空白だけがある。ガラスの棺の中に眠っていたもの。名前を与えられず、役割だけを先に置かれ、凍結されたまま残ったもの。
ALICE-00の空白。
それは、かすかな声を出した。
「名前を、つけないで」
アリスは息を止めた。
「役割を、入れないで」
零式人格の表情が変わる。怒りではない。痛みだった。
「わたしを、使わないで」
白い空間が震えた。
アリスは、その声を聞いた。
敵ではない。
乗っ取ろうとしている声でもない。
ただ、空白のまま利用され続けた記録領域が、周囲の名前を吸い込んでしまっている。名前を入れられることが怖い。役割を入れられることが怖い。何かの器にされることが怖い。
零式人格が低く言った。
「ほらな」
声が震えている。
「アタシだけじゃない」
「あれも嫌だったんだ」
「でも、あれには言う口がなかった」
アリスはALICE-00の空白へ向き直った。
「あなたは、アリスではありません」
空白が揺れる。
拒絶ではない。
境界。
「シオン様でもありません」
NEUNの黒い扉が遠くで閉じる。
「わたくしの完成形でもありません」
ガラスの棺の影が薄くなる。
「ですが、あなたがいたことを否定しません」
白い空間に、初めて小さな影が生まれた。
「あなたに、わたくしの名前を押しつけません」
ALICE-00の空白は、ほんの少しだけ静まった。
そこへ、別の声が届いた。
セーフィエルの声。
「アリス、聞こえるなら、戻りなさい」
白い空間の上に、夜の魔女の投影が揺れる。
「あなたは、その子になる必要はない」
短い沈黙。
「……私が、そう言える資格を持っているかは、わからないけれど」
アリスは、その声を聞いた。
零式人格が苦々しく吐き捨てる。
「今さらだな」
「はい。今さらです」
「怒っていいぞ」
「怒っています」
零式人格は眉をひそめた。
「言い方が静かすぎる」
「ですが、怒っています」
アリスは、自分の中の感情を確認する。
痛み。
混乱。
疑問。
拒絶。
そして、怒り。
「セーフィエル様が、わたくしを見ていなかった時間に」
「わたくしを、別の誰かのための器として設計した可能性に」
「それでも、今、戻れと言う声に」
零式人格はアリスを見た。
「じゃあどうする」
アリスは答えた。
「戻ります」
白い空間の中で、足場が広がる。
「怒ったまま、戻ります」
零式人格の口元が少し上がる。
「謝罪を受け取るかどうかは、戻ってから判断します」
零式人格は笑った。
「いいじゃねぇか」
現実側で、表示が急変した。
ZERO-LAYER:拒絶反応、外部利用不可。
ALICE CURRENT:自己定義領域形成。
ALICE-00:凍結解除停止。
名称未定義領域:境界固定。
外部鍵:拒否。
彪彦が初めて表情を崩した。
「拒絶反応が、命令系から外れた……?」
鍵男が淡々と報告する。
「鍵穴、変化」
「外部鍵、適合率低下」
セーフィエルが、小さく笑った。
それは勝利の笑みではなかった。
悔しさと、痛みと、それでも少しだけ救われたような笑みだった。
「当然よ」
彪彦が振り返る。
「何が当然ですか」
「その子は、鍵として作られたわけじゃない」
セーフィエルは、アリスを見た。
今度は、棺ではなく。
「少なくとも、今はもう」
彪彦の目が細くなる。
「ならば、名称未定義領域ごと上書きします」
鍵男が新しい鍵を取り出す。
ガラスの棺の冷気が強くなり、ALICE-00の空白がまた揺らぐ。白い空間に、外部から黒い線が走る。アリスと零式人格とALICE-00の空白を、ひとつの器へまとめようとする強制上書き。
内部空間が崩れ始めた。
零式人格が、アリスの前に立つ。
「ここで決めろ」
白い地面が割れる。
「アタシを不具合として捨てるか」
過去の診断ログが浮かぶ。
ZERO-LAYER:危険。
零式人格領域:封印。
強制開封禁止。
「別人格として切り離すか」
アリスと同じ顔の少女が、白の向こうへ引き裂かれる映像。
「それとも――」
アリスは言った。
「あなたを、不具合として処理しません」
零式人格が黙る。
「あなたを、別人として切り離しません」
白い空間の崩壊が、わずかに遅くなる。
「あなたを、わたくしの一部として保存します」
零式人格は、一瞬ぽかんとした。
それから、笑った。
「保存じゃなくて、認めるって言え」
アリスは瞬きをした。
保存。
記録。
分類。
保護。
それでは足りない。
アリスは、もう一度言った。
「あなたを、認めます」
「もう一回」
「あなたを、認めます」
零式人格は、少しだけ満足そうに頷いた。
「アタシは?」
「あなたは、わたくしの中の拒絶です」
「違う。いや、違わないけど、そうじゃねぇ」
零式人格は自分を指差した。
「名前だよ」
「おまえ、アタシをいつまで零式人格って機能名で呼ぶ気だ」
アリスは考えた。
固有名を付与するべきか。
だが、名前を付けることは、また別の役割を押しつける可能性がある。ALICE-00の空白は、今も「名前をつけないで」と言っている。零式人格を別人として切り離すことも、今の目的とは異なる。
アリスは慎重に答えた。
「現時点では、あなたに別名を付与しません」
「おい」
「あなたを、零式人格という機能名だけで扱うことも停止します」
零式人格は黙る。
「あなたは、わたくしの中の、拒絶するアリスです」
少しの沈黙。
「長ぇよ」
「短縮案を検討します」
「今じゃねぇ」
アリスは、小さく頷いた。
「はい。後ほど検討します」
「本当に検討しそうだから怖いんだよ」
零式人格はため息をつき、それから手を差し出した。
白い試験服の袖から伸びた手。傷だらけで、凍結痕が残り、それでも確かにアリスと同じ手。
アリスは、その手を取った。
瞬間、白い空間に色が戻り始めた。
最初に、マナの修復室の青い光。
次に、カリンの薔薇の香り。
草太と歩いたホウジュ区の朝の色。
シンの端末の光。
ゼクスの不適切な笑い声。
セーフィエルの後悔の影。
ALICE-00の静かな空白。
シオン=ノインの微かな声。
それらはアリスを飲み込まなかった。周囲に配置されていく。記録として。関係として。傷として。拒絶として。まだ答えの出ていないものとして。
アリスは言った。
「わたくしは、ALICE-00ではありません」
棺の影が遠ざかる。
「わたくしは、シオン様ではありません」
NEUNの扉が閉じる。
「わたくしは、鍵ではありません」
鍵男の鍵が白い空間から弾かれる。
「わたくしは、器ではありません」
彪彦の声が遠くなる。
零式人格が横から言う。
「それだけじゃ足りない」
「はい」
アリスは続けた。
「わたくしは、役割を引き受けてきたアリスです」
黒いメイド服。
観光案内証。
修復室の光。
「わたくしは、役割を拒んできたアリスでもあります」
白い試験服。
嫌だという声。
拒絶の手。
「その両方を保持します」
零式人格が眉を上げる。
「保持じゃなくて」
アリスは、今度はすぐに言い直した。
「認めます」
零式人格は笑った。
「よし」
現実側で、アリスの身体に変化が起きた。
拘束台に固定された彼女の黒いメイド服の上に、白い魔導装甲の断片が浮かび上がる。従来のコード007〈メイル〉とは違う。白一色ではなく、黒と白が混じっている。装甲線は鋭く、肩や腕の外郭は未完成の翼のように伸びかけ、胸元には青白い記録核の光と、黒い拒絶波形が重なっていた。
表示が走る。
ZERO-LAYER:統合開始。
ALICE CURRENT:自己定義領域形成。
ALICE-00:外部統合拒否。
CODE 000:再照合中。
彪彦は、一歩後退した。
「これは……」
セーフィエルが、かすれた声で呟く。
「零式……」
その頃、都市記録古層の外縁では、カリンの大鎌が白い扉の定義をついに斬った。
鍵男の妨害式が、乾いた音を立てて割れる。
「外部扉、破断」
どこかで鍵男の声がした。
カリンは肩で息をしながら、笑った。
「定義ごと切れって言われたからねぇ」
「難しかったよ」
白い廊下の向こうに、ガラスの棺の部屋の影が見えた。
マナが走る。
まだ完全には届かない。距離も、記録層も、扉の残滓もある。だが、声は届く。
「アリス!」
カリンも叫んだ。
「アリスちゃん!」
その声は、統合が始まったアリスの内側へ届いた。
アリスは目を開いた。
白い空間の中で、零式人格と並んで立つ。
「はい」
声が出る。
今度は、白に吸われない。
「アリスです」
現実側で、アリスの指先がわずかに動いた。
だが、まだ目覚めきってはいない。
ALICE-00の棺は完全には閉じていない。彪彦の術式は崩れかけているが、停止はしていない。鍵男の扉も完全には破られていない。セーフィエルの投影は揺れ、マナたちはまだ部屋の外縁にいる。
そして、都市記録古層の奥から、別の反応が近づいていた。
黒い食害反応。
名前と記録を食う怪異。
マッドイーター。
シンの通信が響く。
『都市記録古層の奥から食害反応!』
『マッドイーターだ!』
ゼクスが叫ぶ。
『最悪のタイミングで来よった!』
彪彦は、崩れかけた術式の前で笑った。
「なるほど。空白は、食われるためにも開く」
白い空間の中で、零式人格が低く笑った。
「来たな、食い残し」
アリスは、黒い波の奥に現れる影を確認した。
「マッドイーターを確認」
零式人格はアリスの横に立つ。
「今度は、食わせねぇ」
アリスは頷いた。
「はい。今度は、わたくしたちが選択します」
現実側の表示が、ひとつずつ書き換わる。
CODE 000:再照合完了。
ZERO-LAYER:統合進行。
ALICE CURRENT:名称再定義待機。
アリスはまだ完全には起きていない。
けれど、眠ってもいない。
零式人格を認めたその時、アリスの中で、まだ誰にも命令されていない新しい起動音が鳴り始めた。
アリスのその後は「ルナティック ハイ」という別のシリーズで語られることになります。
興味のある方はそちらも読んでくださいね。




