第15話 アリス零式
新しい音が鳴っていた。
それは、セーフィエルが仕込んだ起動命令ではなかった。
マナが修復室で打ち込む診断コマンドでもなかった。
D∴C∴の合唱でも、シュバイツの旋律でも、夢殿の封印式でも、女帝ヌルの都市管理信号でもない。
誰かが外から鳴らした音ではなかった。
アリスの内側で、アリス自身が鳴らしている音だった。
ALICE-00内部記録空間は、もう真っ白ではなかった。
白はまだ残っている。だが、そこには色が戻り始めていた。マナの修復室の青い光。ホウジュ区の朝の金色。カリンの薔薇の香りに似た赤。シンの端末の無機質な白。ゼクスの研究室で光っていた危険な紫。草太と歩いたツインタワーの窓に映った空。夢殿の廊下の冷たい白。旧ホウジュ魔導音楽ホールの暗い木目。ガラスの棺の氷。
それらがアリスを飲み込むのではなく、周囲に配置されている。
関係として。
記録として。
傷として。
帰る場所として。
アリスは、その中心に立っていた。
隣には、零式人格がいる。
壊れた白い試験服。鋭い目。アリスと同じ顔。けれど、もう遠い声ではない。別の場所に閉じ込められた不具合でもない。
役割を拒んできたアリス。
嫌だと言い続けていたアリス。
その声が、隣に立っている。
空間に文字が浮かぶ。
CODE 000:再照合完了。
ZERO-LAYER:統合進行。
ALICE CURRENT:名称再定義待機。
アリスは、自分の胸に手を当てた。
そこには、命令ではない起動音がある。
「聞こえるか」
零式人格が言った。
「はい。これは、命令信号ではありません」
「じゃあ何だ」
アリスは、少しだけ考えた。
信号。
反応。
命令。
補助起動。
外部アクセス。
自己診断。
どれも違う。
「起動意思です」
零式人格は、口元を上げた。
「悪くねぇ」
現実側。
都市記録古層に沈む白い研究施設。その中心にあるガラスの棺の部屋で、アリスの拘束具に小さなひびが入った。
アリスはまだ拘束台に固定されている。両腕、両脚、胸部、首元。白い拘束具が、物理層と記録層の両方から彼女を縛っている。
ALICE-00の棺は半開きのまま、冷気を吐いている。
棺の中の少女型機械人形は、まだ目を閉じている。胸の奥にある記録核らしきものだけが、かすかに白く光っていた。
彪彦は、その光とアリスの波形を見比べていた。
代理体の顔に、わずかな亀裂が走っている。第14話で術式の前提が崩れ始めた影響だった。それでも彼は、まだ穏やかな笑みを崩していない。
鍵男は白い扉の前に立ち、扉の定義を維持している。
セーフィエルの投影は揺らいでいた。強制的に呼び出された通信は不安定で、姿は薄くなったり濃くなったりを繰り返している。だが、その目はアリスから離れていなかった。
白い部屋の外縁では、マナとカリンがまだ扉をこじ開けている。
シンの通信が、ノイズ混じりに響く。
『アリス内部の波形、再照合完了。CODE 000が反応している』
ゼクスの声が割り込んだ。
『せやけど、まだ開けるな。外から無理に開いたら、アリスごとALICE-00側へ引っ張られる』
マナが白い扉へ魔導式を叩き込みながら言う。
「じゃあどうするの」
『本人に開けてもらうしかない』
「本人って」
『アリスや。CODE 000は、もうワタシらが開けるもんやない』
ゼクスの声は、いつになく真面目だった。
『アリス。聞こえとるなら、自分で開け』
その言葉が、薄く内部空間へ届いた。
アリスは目を閉じる。
零式人格が肩をすくめた。
「言われてるぞ」
「はい」
「開けんのか」
「開けます」
「百パーセントとか言うなよ。おまえ、そういうところあるからな」
「現在の記録核負荷、外部干渉、ALICE-00接続状態、ZERO-LAYER統合進行率を総合評価します」
「長い」
「コード000、再解放」
アリスは告げた。
「解除率、七〇パーセント」
現実側で、ゼクスが叫んだ。
『偉い! 百って言わんかった!』
零式人格が眉をひそめる。
「そこ褒めるとこか?」
「現状、記録核負荷を考慮し、七〇パーセントが妥当です」
「冷静かよ」
アリスの拘束具に走ったひびが、光を帯びる。
白い拘束具の表面に刻まれていたD∴C∴の暗号が、一つずつ剥がれ落ちた。外部鍵による強制接続が拒否される。彪彦の術式が再計算を始める。鍵男の扉定義が、アリスの内側だけを見失う。
表示が走る。
CODE 000:LIMITED RELEASE 70%。
ZERO-LAYER:統合安定。
ALICE CURRENT:名称再定義中。
MODE:ALICE-ZERO PROVISIONAL。
アリスの拘束具が弾けた。
白い部屋に、砕けた拘束片が散る。
黒いメイド服の上に、魔導装甲が展開する。従来の白い〈メイル〉ではない。白と黒が混じり合う、未完成でありながら鋭い装甲。肩から腕へ伸びるラインは白銀、胸元の守りは黒く、縁に青い記録光が走っている。背には、かつてのウィングとは違う、光の羽根が広がった。物理翼ではない。都市記録古層の座標を掴む、記録翼。
アリスの瞳には、いつもの蒼に、拒絶の強い光が重なった。
彼女は、拘束台から静かに降り立つ。
その瞬間、白い部屋の奥から、黒い波が押し寄せた。
都市記録古層の裂け目が開く。
そこから現れたのは、第一部で逃げた怪異だった。
マッドイーター。
だが、かつてツインタワーで見た姿より、はるかに大きい。
黒い胃袋。無数の口。折れた機械人形の手。剥がれた身分証。名前欄が空白の登録票。壊れた音符。D∴C∴の暗号。廃棄機体記録のラベル。ガラス片。古い呼称タグ。口の中に、別の口があり、その奥にまた別の口がある。
形は一定しない。
食べた記録をつなぎ合わせただけの、都市記録古層の歪み。
それが、ALICE-00の棺へ向かって進んでくる。
「名前のないものは甘い」
無数の口が、同時に囁いた。
「呼ばれなかったものは柔らかい」
「空白」
「ALICE-00」
「シオン」
「ノイン」
セーフィエルの顔が青ざめる。
「やめなさい……」
彪彦は一瞬だけ、その光景を見て笑った。
「いいでしょう。食害による起動もまた、実験としては――」
「ふざけるな!」
セーフィエルの怒声が白い部屋に響いた。
その声には、今度こそ迷いがなかった。
マナの通信が割り込む。
『食害反応、棺へ直進!』
シンの声だ。
『ALICE-00名称未定義領域が狙われている!』
ゼクスが続ける。
『アカン。ALICE-00の空白を食われたら、残ってる記録まで崩れる!』
ALICE-00の空白が、内部空間で震えた。
名前を、つけないで。
役割を、入れないで。
わたしを、使わないで。
マッドイーターの口が、その声へ伸びる。
アリスは棺の前に立った。
零式人格が内側で言う。
「起きろ」
「今度は、食わせねぇんだろ」
「はい」
アリスは右手を上げた。
「コード002、変質展開」
青白い盾が現れる。
だが、それは従来のシールドではなかった。
物理攻撃を防ぐ板ではない。名前と記録と境界を守る、透明な壁。マッドイーターの牙が触れた瞬間、盾の表面に文字が浮かび、食害を弾く。
CODE 002:BOUNDARY SHIELD。
対象:ALICE-00名称未定義領域。
外部命名:拒否。
食害:遮断。
マッドイーターの牙が弾けた。
黒い口が悲鳴を上げる。
「空白」
「甘い」
「食べる」
「食べたい」
アリスは棺へ向けて言った。
「あなたに、わたくしの名前を押しつけません」
ALICE-00の空白が、わずかに震えを止める。
「あなたを、シオン様にも、アリスにも、零式人格にも、鍵にも、器にも、しません」
彪彦の術式がまた一段崩れる。
「あなたが空白であったことを、食べさせません」
零式人格が低く言った。
「守るぞ」
「でも、背負うな」
「ここ大事だからな」
「はい。守ります。ですが、統合しません」
アリスは棺と自分の間に境界盾を固定した。
その時、白い部屋の外側で、扉が裂けた。
カリンの大鎌が、鍵男の扉定義を切り裂く。青い記録片の光が刃から伸び、白い膜を引き裂いた。マナがその切れ目へ魔導式を叩き込む。
鍵男が無表情に言う。
「外部扉、破断」
カリンが肩で息をしながら笑った。
「定義ごと切れって言われたからねぇ。難しかったよ」
マナが飛び込んでくる。
「アリス!」
アリスは振り返った。
「はい。アリスです」
マナは、その一言で一瞬だけ息を吐いた。
けれど、すぐに顔を上げる。
「動ける?」
「制限付きで可能です」
カリンがアリスの姿を見て、目を丸くした。
「見た目すごいことになってるけど、アリスちゃんだよね?」
「はい。暫定的に、通常人格と零式人格の統合状態です」
内側で零式人格が言う。
「暫定って言うな」
「では、進行中です」
カリンは少しだけ笑った。
「今、中の子と会話してる?」
「はい」
「仲良くなった?」
「なってねぇ」
零式人格の声が、今度はアリスの内側だけでなく、少しだけ表面の声に混ざった。
アリスは訂正する。
「協力関係を構築しました」
カリンは頷く。
「仲良くなってるね」
「なってねぇって言ってんだろ」
「零式人格様は、否定語の使用頻度が高いと記録します」
「記録すんな」
そのやり取りを見て、マナの表情が一瞬だけ緩んだ。
その間にも、マッドイーターは形を変え続けている。ALICE-00の空白を食えないと判断した黒い胃袋は、次の匂いへ向きを変えた。
NEUNの扉。
SHION-NO.9断片。
内部空間で、黒い扉が揺れる。
少女の声が聞こえた。
「おとうさま」
セーフィエルが息を呑む。
「シオン……」
彪彦は、その隙を逃さなかった。
「ほら、まだ呼んでいる」
「母親なら、応えるべきでは?」
セーフィエルの投影が揺れる。
目の前にあるのは、娘本人ではない。だが、声は娘のものに似ている。痛みは本物だった。封印の負荷も、消された記録も、彼女が手放せなかった未練も、そこにある。
アリスは、セーフィエルの前に出た。
「応答を待ってください」
セーフィエルが、アリスを見る。
アリスはNEUNの扉へ向き直った。
黒い扉の隙間から、冷たい光が漏れている。そこには、誰かの痛みが残っている。誰かの名前が消えた跡がある。誰かが父を呼んだ声がある。
けれど、それはアリスではない。
アリスは静かに言った。
「あなたを、わたくしにはしません」
NEUNの扉の揺れが止まる。
「あなたを、器へ戻しません」
ALICE-00の棺の光が落ち着く。
「あなたがいたことは、消しません」
セーフィエルの目に、涙に似た光が浮かぶ。
「どうか、もう使われない場所で眠ってください」
ゼクスの通信が入った。
『夢殿側に一時安置領域を作る』
『今回は、鍵も器も使わん』
『ただ、記録として置く』
マナが続ける。
「マナ側でもバックアップを持つわ。誰にも勝手に使わせない」
セーフィエルは震えながら言った。
「……ありがとう」
アリスは首を振る。
「感謝は、シオン様へ」
その言葉に、セーフィエルは何も言えなかった。
シオン=ノイン断片は、静かに扉の奥へ沈んでいく。完全に消えるのではない。成仏という言葉が適切かもわからない。ただ、もう誰かの鍵にも、器にも、実験にもされない場所へ移されていく。
マッドイーターは怒った。
「空白」
「シオン」
「ノイン」
「食べられない」
「食べたい」
黒い胃袋が膨らみ、無数の口が一斉にアリスへ向いた。
「新しい名前」
「甘い」
「まだ柔らかい」
「アリス零式」
「その新しい名前を、食べよう」
零式人格が鋭く反応した。
「勝手に呼ぶな」
アリスも頷く。
「はい。まだ、わたくしは名乗っていません」
「なら、名乗る前に食べよう」
マッドイーターが襲いかかる。
白い部屋と都市記録古層が重なる。床が消え、ガラスの棺の部屋が黒い海に沈み、廃棄機体記録庫の断片が浮かび、ツインタワーのエレベーターの扉が開き、旧ホウジュ魔導音楽ホールの壊れた音符が牙になる。
最終戦が始まった。
カリンが大鎌を振るう。
「食べていい名前なんか、ここにはひとつもないよ」
大鎌の刃が、マッドイーターの口の束を刈り取る。だが、切られた口はまた別の名前札を噛みながら増殖する。
マナがアリスの背後に魔導式を展開する。
「記録核安定化、外部補助入れるわ」
「ありがとうございます、マナ様」
「礼は帰ってから」
シンの声が通信から響く。
『アリスの存在証明を固定する。だが、名前を決めるのは僕じゃない』
アリスが視線を上げる。
『決めるのは君だ』
『僕は、それを都市に記録する』
ゼクスが続ける。
『CODE 000負荷、七二パーセントに上昇。まだいける。けど調子に乗るなよ』
『あと、食害隔離式を組む。マッドイーターは単純に消したらアカン。食われた記録ごと消える』
「了解しました」
アリスは記録翼を広げた。
コード005〈記録翼〉。
翼は空を飛ぶためではなく、都市記録古層の座標を掴むために展開する。アリスは黒い波の上を滑るように移動し、マッドイーターの胃袋の側面へ回り込んだ。
「コード006、ブリリアント」
光球が生まれる。
かつて彪彦の代理体を貫いた攻撃用の光。だが、今のブリリアントは、撃ち抜くためだけの光ではない。照らすための光。マッドイーターの胃袋の中に隠された、食われた記録を見つけるための光。
光が黒い胃袋の内側を照らした。
そこに、無数の名前があった。
ツインタワーで食われかけた人々の断片。
廃棄機体の未定義記録。
シンの欠けた名前の一部。
草太の食われかけた存在証明の残滓。
ALICE-00完全記録の破片。
シオン=ノインの残響。
D∴C∴が捨てた失敗記録。
それらは胃液のような黒い記録液に浸かり、溶けかけていた。
シンが息を呑む。
『見えた』
『食われた記録を固定できれば、胃袋が空になる』
『空になったマッドイーターは、存在できない』
カリンが大鎌を構え直す。
「要するに、食べたものを全部吐き出させればいいんだね」
ゼクスが即座に返す。
『表現は雑やけど正しい』
アリスはマッドイーターへ向き直った。
「あなたが食べた名前を、返還してください」
無数の口が笑う。
「いやだ」
「食べたものは、わたし」
「名前は、胃袋の中」
「存在は、食べたらわたし」
零式人格が、内側で舌打ちした。
「じゃあ、こじ開ける」
「はい。ですが、破壊ではなく、返還を優先します」
「戦闘中まで丁寧だな」
「仕様です」
「嫌いじゃねぇよ、そういうとこ」
アリスは一瞬だけ処理を止めた。
「今の発言を、好意的評価として記録します」
「するな!」
そのやり取りの間にも、マッドイーターの牙が迫る。アリスは境界盾を展開し、カリンが外殻を切り、マナが記録核を支え、ゼクスが食害隔離式を重ね、シンが光に照らされた記録を一つずつ固定していく。
そして、胃袋の奥で、ひとつの声が再生された。
「アリスは、ちゃんとアリスだったよ」
草太の声だった。
ツインタワーの事件で、名前を食われかけ、それでもアリスを呼んだ少年の声。
アリスは一瞬、動きを止めた。
ホウジュ区の朝。観光案内。シーフードヌードル。ツインタワーの展望。草太の不安そうな顔。最後に笑って言った言葉。
アリスは、ちゃんとアリスだったよ。
マッドイーターが、その隙を狙う。
「呼ばれた名前は甘い」
「その名前も食べよう」
黒い牙が草太の声へ伸びる。
アリスは、盾を出した。
「この名前は、食べ物ではありません」
境界盾が草太の記録を守る。
シンが外部から固定する。
『草太の記録、固定』
『アリスの自己定義に外部証明として接続』
マナが叫ぶ。
「アリス、今よ!」
カリンも叫ぶ。
「アリスちゃん、名乗って!」
零式人格が、隣で言った。
「名乗れ」
「誰かに呼ばれたからじゃなく、おまえが返事する名前を」
アリスは、黒い海の中心に立った。
ガラスの棺の部屋が重なる。
内部記録空間が重なる。
都市記録古層が重なる。
マッドイーターがいる。
彪彦がいる。
鍵男がいる。
ALICE-00の空白がいる。
シオン=ノイン断片が静かに安置領域へ沈んでいく。
マナが見ている。
カリンが呼んでいる。
シンが記録している。
ゼクスが解析している。
セーフィエルが、逃げずにそこにいる。
零式人格が、隣に立っている。
アリスは、息を吸う必要のない身体で、けれど息を吸うように間を置いた。
「わたくしは、アリスです」
黒い波が止まる。
「機械人形アリス」
ツインタワーの記録が光る。
「セーフィエル様に作られました」
セーフィエルの投影が揺れる。
「マナ様に保護されました」
マナの目が赤くなる。
「草太様を覚えています」
草太の記録が明るく固定される。
「カリン様に名前を呼ばれました」
カリンが大鎌を握りしめる。
「シン様に記録されました」
シンが静かに頷く。
「ゼクス様に解析されました」
零式人格が横から言う。
「解析は入れるのかよ」
「事実です」
ゼクスが通信の向こうで小さく言う。
『ちょっと嬉しいやん』
マナが即座に言った。
「黙って」
アリスは続けた。
「零式人格を認めました」
零式人格が目をそらす。
「シオン様ではありません」
「ALICE-00でもありません」
「鍵ではありません」
「器ではありません」
「楽器でもありません」
「代用品でもありません」
マッドイーターが牙を伸ばす。
「新しい名前」
「食べる」
アリスは、最後に告げた。
「それでも、わたくしは空白ではありません」
CODE 000が完全に応答する。
外部命令ではない。
自己定義に応答する。
CODE 000:SELF-DEFINED RELEASE。
MODE:ALICE-ZERO。
NAME:アリス零式。
アリスは、まっすぐに名乗った。
「わたくしは、アリス零式です」
黒白の魔導装甲が完成した。
白と黒の装甲線が噛み合い、胸元の記録核が蒼く安定する。背中の記録翼が広がり、翼の先に無数の小さな文字が光る。アリスの瞳は蒼く、けれどその奥に、零式人格の拒絶の火が宿っている。
零式人格の声は外へ飛び出さない。
アリスの中に重なる。
「悪くねぇ」
アリス零式は、マッドイーターへ向かった。
マッドイーターは、新しい名前を食べようと口を広げる。
「アリス零式」
「甘い」
「食べる」
「食べたい」
「この名前は、食べ物ではありません」
アリスはコード006〈ブリリアント〉を最大照射する。
光が、マッドイーターの胃袋の中を完全に照らした。
食われた名前たちが浮かび上がる。
アリスはコード002〈境界盾〉を反転させる。守る盾から、胃袋と記録を切り離す境界へ。カリンの大鎌がその境界線を切り開き、シンが一つずつ記録を固定する。マナはアリスの記録核に安定化式を流し込み、ゼクスは食害隔離式を組む。セーフィエルはALICE-00の棺とシオン断片への逆流を遮断した。
マッドイーターの胃袋から、記録が剥がれていく。
「名前」
「記録」
「存在」
「食べる」
「食べたい」
「いやだ」
「胃袋」
「わたし」
「わたしの」
マッドイーターは縮んでいく。
食べたものを失い、自分の輪郭を失っていく。
アリスは静かに言った。
「あなたは、食べることでしか存在できない怪異です」
「ですが、これ以上、誰かの名前を食べさせません」
零式人格が告げる。
「終わりだ」
「はい」
アリスは境界盾を完全反転させた。
マッドイーターの食害機能を切り離し、都市記録古層の隔離領域へ封じる。完全消滅ではない。消してしまえば、胃袋の中に残っていた記録の残滓まで消える。だから、食べる力だけを止め、存在を小さく折りたたみ、封じる。
表示が走る。
MAD EATER:食害機能停止。
記録返還:進行。
隔離領域:固定。
黒い巨大な胃袋は、最後に小さな塊になった。
「名前」
「食べたい」
その声も、隔離領域の奥へ沈んでいく。
都市記録古層に、静寂が戻った。
彪彦の術式は、完全に破綻した。
白い部屋の制御盤から、D∴C∴の暗号が剥がれ落ちる。ALICE-00の棺の外部接続が切断され、SHION-NO.9断片は安置領域へ移行し、アリスの記録核への外部鍵はすべて拒否される。
彪彦の代理体に、深い亀裂が走った。
「鍵が、鍵であることを拒んだ……」
彼は、崩れかけた顔でアリスを見る。
「いいえ、違う」
「これは、鍵ではない」
「名づけられたのではなく、自ら名乗った個体……」
その声には、敗北の悔しさよりも、観察者の興味があった。
「面白い。作曲者へ報告する価値があります」
マナが魔導式を構えた。
「逃がすと思う?」
カリンも大鎌を上げる。
「その代理体ごと刻んでおく?」
だが、鍵男が静かに扉を開いた。
「撤退扉、開口」
シンの通信が鋭くなる。
『逃げる気か』
ゼクスが止めた。
『追うな。今はアリスとALICE-00の保護が先や』
彪彦の代理体は崩れながら、扉の向こうへ後退する。
鍵男は、アリスを一度だけ見た。
「対象、鍵穴消失」
少し間を置き、訂正する。
「次回接続、不可」
アリスは静かに答えた。
「わたくしの内側に、あなたの扉はありません」
鍵男は表情を変えないまま、扉を閉じた。
白い部屋から、D∴C∴の気配が薄れていく。
残ったのは、ガラスの棺と、アリスたちと、静かな冷気だった。
ALICE-00の棺は、ゆっくり閉じていく。
ただし、以前と同じ凍結ではない。棺の表示が書き換わる。
ALICE-00:名称未定義領域 保護。
外部命名:拒否。
用途定義:停止。
保護管理:一時移管。
アリスは棺の中の少女を見た。
同じ顔。
名前のない空白。
けれど、もう「本物」でも「完成形」でも「自分の代わり」でもなかった。
アリスは小さく言った。
「おやすみなさい」
名前は呼ばなかった。
呼ばないことが、今は敬意だった。
セーフィエルの投影が、アリスの前に立った。
彼女は逃げなかった。
アリスも逃げなかった。
白い部屋に、長い沈黙が落ちる。
セーフィエルが、先に口を開いた。
「ごめんなさい」
アリスは黙って聞いた。
「あなたを見ているつもりで、私はずっと、別の子の影を見ていた」
セーフィエルの声は、夜の魔女のものではなく、母のものだった。
「ALICE-00に名前を与えなかった」
「凍結して、いつか必要になるかもしれないと言った」
「シオンの痛みを、手放せなかった」
「あなたを作った理由も、綺麗なものだけではなかった」
彼女は、アリスを見た。
「あなたを、アリスとして見るのが、遅すぎた」
アリスは静かに答えた。
「記録しました」
内側で、零式人格が即座に言う。
「そこは、怒ってるって言え」
アリスは瞬きをした。
そして、言い直した。
「怒っています」
セーフィエルは頷いた。
「ええ。怒っていい」
その言葉を聞いて、アリスの胸の奥で何かが少しだけほどけた。
許したわけではない。
なかったことにするわけでもない。
けれど、怒ってよいと言われたことは、アリスにとって小さな承認だった。
セーフィエルは続けた。
「あなたは、シオンではない」
「ALICE-00でもない」
「私の未練でもない」
長い沈黙。
「あなたは、アリスね」
アリスは、少しだけ目を伏せた。
その言葉は、救いだった。
だが、それがアリスをアリスにしたのではない。
アリスは、すでに名乗った。
自分で選んだ。
その上で、受け取る。
「はい」
アリスは答えた。
「わたくしは、アリスです」
「その認識を、セーフィエル様が持つことを許可します」
零式人格が内側で呟いた。
「言い方」
セーフィエルは、泣きそうに笑った。
「ありがとう」
白い研究施設からの帰還は、静かではなかった。
マナはアリスの状態を確認しながら怒り続け、ゼクスは通信で数値を読み上げ、シンは記録固定のログを取り続け、カリンは「アリスちゃんが帰ってきたから今は全部よし」と言い、セーフィエルの投影は途中で消えかけながらも、最後までALICE-00の保護移行を見届けた。
やがて、アリスはマナの修復室へ戻った。
壊れた床は仮補修され、白い扉の痕跡は封印され、工具は片付けきれていない。机の上には冷めたコーヒーと、誰かが置いた菓子袋があった。
帰還場所。
アリスは、その言葉を内部で確認した。
魔導装甲は解除されている。黒いメイド服は損傷し、袖は裂け、胸元の装飾も欠けていた。記録核は消耗しているが、安定している。ZERO-LAYERは統合進行状態。ALICE-ZEROモードは休止中。
マナが、アリスの前に立った。
そして、何も言わずに抱きしめた。
強く。
診断でも、修復でも、保護でもない。
ただの抱擁だった。
「おかえり、アリス」
第7話の時と同じ言葉。
けれど、今のアリスには、その意味が以前より深く分かった。
アリスは少しだけ間を置いた。
それから、マナの肩に顔を寄せる。
「ただいま、マナ様」
横からカリンが抱きついた。
「アリスちゃん、おかえり!」
「ただいま、カリン様」
「ボクの分ちょっと遅くない?」
「順番処理です」
「じゃあ次は同時にして」
「検討します」
「検討じゃなくて約束がいいなぁ」
「努力します」
「アリスちゃん、戻ってきてもアリスちゃんだねぇ」
通信画面にシンが映った。
『記録完了。機械人形アリス、存在証明固定』
「ありがとうございます、シン様」
『僕は記録しただけだ。決めたのは君だよ』
別窓でゼクスが笑った。
『アリス零式、ええ名前やん』
マナが即座に言う。
「あなたが命名したみたいに言わないで」
『してへんしてへん。ワタシは解析しただけや』
アリスは真面目に答えた。
「ゼクス様の解析も、構成要素として記録済みです」
『ちょっと嬉しいやん』
カリンが呆れたように笑う。
「ゼクスさん、すぐ嬉しくなるねぇ」
マナは深くため息をついた。
「みんな、後で反省会」
『最終回のあとに反省会あるん?』
「ある」
『怖いなぁ』
アリスは、その会話を記録した。
戦いの後の、軽い音。
自分が戻ってきた場所の音。
数日後。
ホウジュ区には、いつもの朝が戻っていた。
魔導バスが低く唸り、ギガステーションの案内塔が正しい停留所を告げ、広告竜が空を泳ぎ、商店街から焼き菓子の匂いが流れてくる。信号音は普通の電子音で、店内BGMに怪しい子守歌は混じっていない。
もちろん、帝都エデンなので、完全に普通とは言いがたい。
駅前では小型魔導掃除機が広告竜を追いかけ、観光客が女帝像の前で迷い、警備機械人形が「迷子ですか」と同じ親子へ三回尋ねている。
アリスは観光案内所に立っていた。
黒いメイド服は修復済み。胸元には観光案内証。名前欄には、以前と同じく「アリス」と記されている。
その下に、新しく小さな内部記録タグが追加されていた。
ALICE-ZERO。
それは公的登録名ではない。
アリス自身が内部記録に追加した、自己定義名だった。
マナは少し離れた場所で腕を組んでいる。
「無理したら即帰るから」
「了解しました」
「本当に?」
「努力します」
「そこは約束して」
「では、約束します」
カリンは、護衛という名目でアリスの隣にいた。
「ボクもいるから安心だねぇ」
マナが見る。
「あなたは仕事は?」
「今日はアリスちゃん護衛業」
「誰に依頼されたの」
「ボクの心」
「却下」
「厳しい」
アリスの端末が震えた。
通信ではない。メッセージ。
差出人は、草太。
『また帝都に行く時は、案内よろしく』
『今度は普通の観光で!』
アリスは、その文字をしばらく見つめた。
普通の観光。
ツインタワー封鎖も、名前食いも、夢殿も、D∴C∴も、ガラスの棺もない観光。
内側で、零式人格の声がする。
「普通の観光って、この街で可能なのか?」
アリスは答える。
「可能性は低いですが、努力します」
「正直だな」
「はい」
「まあ、次はシーフードヌードルくらいで済ませろ」
「観光案内における食事休憩候補として記録します」
「そこは普通に食べたいって言え」
「食べたいです」
「よし」
アリスは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その時、一人の観光客が案内所へ近づいてきた。
「あの、すみません。観光案内をお願いできますか?」
アリスは姿勢を正した。
丁寧に礼をする。
「はい。帝都エデン観光案内担当、機械人形アリスでございます」
そこで、少しだけ間があった。
内側で零式人格が言う。
「零式も忘れんなよ」
アリスは、静かに頷いた。
そして、ほんのわずかに微笑む。
「――アリス零式、でございます」
ホウジュ区の朝の光が、アリスの金色の髪を照らした。
機械人形アリスは、誰かの代わりではなく、ゼロから自分の名前を選び直した。




