表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/15

第15話 アリス零式

 新しい音が鳴っていた。


 それは、セーフィエルが仕込んだ起動命令ではなかった。


 マナが修復室で打ち込む診断コマンドでもなかった。


 D∴C∴の合唱でも、シュバイツの旋律でも、夢殿の封印式でも、女帝ヌルの都市管理信号でもない。


 誰かが外から鳴らした音ではなかった。


 アリスの内側で、アリス自身が鳴らしている音だった。


 ALICE-00内部記録空間は、もう真っ白ではなかった。


 白はまだ残っている。だが、そこには色が戻り始めていた。マナの修復室の青い光。ホウジュ区の朝の金色。カリンの薔薇の香りに似た赤。シンの端末の無機質な白。ゼクスの研究室で光っていた危険な紫。草太と歩いたツインタワーの窓に映った空。夢殿の廊下の冷たい白。旧ホウジュ魔導音楽ホールの暗い木目。ガラスの棺の氷。


 それらがアリスを飲み込むのではなく、周囲に配置されている。


 関係として。


 記録として。


 傷として。


 帰る場所として。


 アリスは、その中心に立っていた。


 隣には、零式人格がいる。


 壊れた白い試験服。鋭い目。アリスと同じ顔。けれど、もう遠い声ではない。別の場所に閉じ込められた不具合でもない。


 役割を拒んできたアリス。


 嫌だと言い続けていたアリス。


 その声が、隣に立っている。


 空間に文字が浮かぶ。


 CODE 000:再照合完了。

 ZERO-LAYER:統合進行。

 ALICE CURRENT:名称再定義待機。


 アリスは、自分の胸に手を当てた。


 そこには、命令ではない起動音がある。


「聞こえるか」


 零式人格が言った。


「はい。これは、命令信号ではありません」


「じゃあ何だ」


 アリスは、少しだけ考えた。


 信号。

 反応。

 命令。

 補助起動。

 外部アクセス。

 自己診断。


 どれも違う。


「起動意思です」


 零式人格は、口元を上げた。


「悪くねぇ」


 現実側。


 都市記録古層に沈む白い研究施設。その中心にあるガラスの棺の部屋で、アリスの拘束具に小さなひびが入った。


 アリスはまだ拘束台に固定されている。両腕、両脚、胸部、首元。白い拘束具が、物理層と記録層の両方から彼女を縛っている。


 ALICE-00の棺は半開きのまま、冷気を吐いている。


 棺の中の少女型機械人形は、まだ目を閉じている。胸の奥にある記録核らしきものだけが、かすかに白く光っていた。


 彪彦は、その光とアリスの波形を見比べていた。


 代理体の顔に、わずかな亀裂が走っている。第14話で術式の前提が崩れ始めた影響だった。それでも彼は、まだ穏やかな笑みを崩していない。


 鍵男は白い扉の前に立ち、扉の定義を維持している。


 セーフィエルの投影は揺らいでいた。強制的に呼び出された通信は不安定で、姿は薄くなったり濃くなったりを繰り返している。だが、その目はアリスから離れていなかった。


 白い部屋の外縁では、マナとカリンがまだ扉をこじ開けている。


 シンの通信が、ノイズ混じりに響く。


『アリス内部の波形、再照合完了。CODE 000が反応している』


 ゼクスの声が割り込んだ。


『せやけど、まだ開けるな。外から無理に開いたら、アリスごとALICE-00側へ引っ張られる』


 マナが白い扉へ魔導式を叩き込みながら言う。


「じゃあどうするの」


『本人に開けてもらうしかない』


「本人って」


『アリスや。CODE 000は、もうワタシらが開けるもんやない』


 ゼクスの声は、いつになく真面目だった。


『アリス。聞こえとるなら、自分で開け』


 その言葉が、薄く内部空間へ届いた。


 アリスは目を閉じる。


 零式人格が肩をすくめた。


「言われてるぞ」


「はい」


「開けんのか」


「開けます」


「百パーセントとか言うなよ。おまえ、そういうところあるからな」


「現在の記録核負荷、外部干渉、ALICE-00接続状態、ZERO-LAYER統合進行率を総合評価します」


「長い」


「コード000、再解放」


 アリスは告げた。


「解除率、七〇パーセント」


 現実側で、ゼクスが叫んだ。


『偉い! 百って言わんかった!』


 零式人格が眉をひそめる。


「そこ褒めるとこか?」


「現状、記録核負荷を考慮し、七〇パーセントが妥当です」


「冷静かよ」


 アリスの拘束具に走ったひびが、光を帯びる。


 白い拘束具の表面に刻まれていたD∴C∴の暗号が、一つずつ剥がれ落ちた。外部鍵による強制接続が拒否される。彪彦の術式が再計算を始める。鍵男の扉定義が、アリスの内側だけを見失う。


 表示が走る。


 CODE 000:LIMITED RELEASE 70%。

 ZERO-LAYER:統合安定。

 ALICE CURRENT:名称再定義中。

 MODE:ALICE-ZERO PROVISIONAL。


 アリスの拘束具が弾けた。


 白い部屋に、砕けた拘束片が散る。


 黒いメイド服の上に、魔導装甲が展開する。従来の白い〈メイル〉ではない。白と黒が混じり合う、未完成でありながら鋭い装甲。肩から腕へ伸びるラインは白銀、胸元の守りは黒く、縁に青い記録光が走っている。背には、かつてのウィングとは違う、光の羽根が広がった。物理翼ではない。都市記録古層の座標を掴む、記録翼。


 アリスの瞳には、いつもの蒼に、拒絶の強い光が重なった。


 彼女は、拘束台から静かに降り立つ。


 その瞬間、白い部屋の奥から、黒い波が押し寄せた。


 都市記録古層の裂け目が開く。


 そこから現れたのは、第一部で逃げた怪異だった。


 マッドイーター。


 だが、かつてツインタワーで見た姿より、はるかに大きい。


 黒い胃袋。無数の口。折れた機械人形の手。剥がれた身分証。名前欄が空白の登録票。壊れた音符。D∴C∴の暗号。廃棄機体記録のラベル。ガラス片。古い呼称タグ。口の中に、別の口があり、その奥にまた別の口がある。


 形は一定しない。


 食べた記録をつなぎ合わせただけの、都市記録古層の歪み。


 それが、ALICE-00の棺へ向かって進んでくる。


「名前のないものは甘い」


 無数の口が、同時に囁いた。


「呼ばれなかったものは柔らかい」

「空白」

「ALICE-00」

「シオン」

「ノイン」


 セーフィエルの顔が青ざめる。


「やめなさい……」


 彪彦は一瞬だけ、その光景を見て笑った。


「いいでしょう。食害による起動もまた、実験としては――」


「ふざけるな!」


 セーフィエルの怒声が白い部屋に響いた。


 その声には、今度こそ迷いがなかった。


 マナの通信が割り込む。


『食害反応、棺へ直進!』


 シンの声だ。


『ALICE-00名称未定義領域が狙われている!』


 ゼクスが続ける。


『アカン。ALICE-00の空白を食われたら、残ってる記録まで崩れる!』


 ALICE-00の空白が、内部空間で震えた。


 名前を、つけないで。


 役割を、入れないで。


 わたしを、使わないで。


 マッドイーターの口が、その声へ伸びる。


 アリスは棺の前に立った。


 零式人格が内側で言う。


「起きろ」

「今度は、食わせねぇんだろ」


「はい」


 アリスは右手を上げた。


「コード002、変質展開」


 青白い盾が現れる。


 だが、それは従来のシールドではなかった。


 物理攻撃を防ぐ板ではない。名前と記録と境界を守る、透明な壁。マッドイーターの牙が触れた瞬間、盾の表面に文字が浮かび、食害を弾く。


 CODE 002:BOUNDARY SHIELD。

 対象:ALICE-00名称未定義領域。

 外部命名:拒否。

 食害:遮断。


 マッドイーターの牙が弾けた。


 黒い口が悲鳴を上げる。


「空白」

「甘い」

「食べる」

「食べたい」


 アリスは棺へ向けて言った。


「あなたに、わたくしの名前を押しつけません」


 ALICE-00の空白が、わずかに震えを止める。


「あなたを、シオン様にも、アリスにも、零式人格にも、鍵にも、器にも、しません」


 彪彦の術式がまた一段崩れる。


「あなたが空白であったことを、食べさせません」


 零式人格が低く言った。


「守るぞ」

「でも、背負うな」

「ここ大事だからな」


「はい。守ります。ですが、統合しません」


 アリスは棺と自分の間に境界盾を固定した。


 その時、白い部屋の外側で、扉が裂けた。


 カリンの大鎌が、鍵男の扉定義を切り裂く。青い記録片の光が刃から伸び、白い膜を引き裂いた。マナがその切れ目へ魔導式を叩き込む。


 鍵男が無表情に言う。


「外部扉、破断」


 カリンが肩で息をしながら笑った。


「定義ごと切れって言われたからねぇ。難しかったよ」


 マナが飛び込んでくる。


「アリス!」


 アリスは振り返った。


「はい。アリスです」


 マナは、その一言で一瞬だけ息を吐いた。


 けれど、すぐに顔を上げる。


「動ける?」


「制限付きで可能です」


 カリンがアリスの姿を見て、目を丸くした。


「見た目すごいことになってるけど、アリスちゃんだよね?」


「はい。暫定的に、通常人格と零式人格の統合状態です」


 内側で零式人格が言う。


「暫定って言うな」


「では、進行中です」


 カリンは少しだけ笑った。


「今、中の子と会話してる?」


「はい」


「仲良くなった?」


「なってねぇ」


 零式人格の声が、今度はアリスの内側だけでなく、少しだけ表面の声に混ざった。


 アリスは訂正する。


「協力関係を構築しました」


 カリンは頷く。


「仲良くなってるね」


「なってねぇって言ってんだろ」


「零式人格様は、否定語の使用頻度が高いと記録します」


「記録すんな」


 そのやり取りを見て、マナの表情が一瞬だけ緩んだ。


 その間にも、マッドイーターは形を変え続けている。ALICE-00の空白を食えないと判断した黒い胃袋は、次の匂いへ向きを変えた。


 NEUNの扉。


 SHION-NO.9断片。


 内部空間で、黒い扉が揺れる。


 少女の声が聞こえた。


「おとうさま」


 セーフィエルが息を呑む。


「シオン……」


 彪彦は、その隙を逃さなかった。


「ほら、まだ呼んでいる」

「母親なら、応えるべきでは?」


 セーフィエルの投影が揺れる。


 目の前にあるのは、娘本人ではない。だが、声は娘のものに似ている。痛みは本物だった。封印の負荷も、消された記録も、彼女が手放せなかった未練も、そこにある。


 アリスは、セーフィエルの前に出た。


「応答を待ってください」


 セーフィエルが、アリスを見る。


 アリスはNEUNの扉へ向き直った。


 黒い扉の隙間から、冷たい光が漏れている。そこには、誰かの痛みが残っている。誰かの名前が消えた跡がある。誰かが父を呼んだ声がある。


 けれど、それはアリスではない。


 アリスは静かに言った。


「あなたを、わたくしにはしません」


 NEUNの扉の揺れが止まる。


「あなたを、器へ戻しません」


 ALICE-00の棺の光が落ち着く。


「あなたがいたことは、消しません」


 セーフィエルの目に、涙に似た光が浮かぶ。


「どうか、もう使われない場所で眠ってください」


 ゼクスの通信が入った。


『夢殿側に一時安置領域を作る』

『今回は、鍵も器も使わん』

『ただ、記録として置く』


 マナが続ける。


「マナ側でもバックアップを持つわ。誰にも勝手に使わせない」


 セーフィエルは震えながら言った。


「……ありがとう」


 アリスは首を振る。


「感謝は、シオン様へ」


 その言葉に、セーフィエルは何も言えなかった。


 シオン=ノイン断片は、静かに扉の奥へ沈んでいく。完全に消えるのではない。成仏という言葉が適切かもわからない。ただ、もう誰かの鍵にも、器にも、実験にもされない場所へ移されていく。


 マッドイーターは怒った。


「空白」

「シオン」

「ノイン」

「食べられない」

「食べたい」


 黒い胃袋が膨らみ、無数の口が一斉にアリスへ向いた。


「新しい名前」

「甘い」

「まだ柔らかい」

「アリス零式」

「その新しい名前を、食べよう」


 零式人格が鋭く反応した。


「勝手に呼ぶな」


 アリスも頷く。


「はい。まだ、わたくしは名乗っていません」


「なら、名乗る前に食べよう」


 マッドイーターが襲いかかる。


 白い部屋と都市記録古層が重なる。床が消え、ガラスの棺の部屋が黒い海に沈み、廃棄機体記録庫の断片が浮かび、ツインタワーのエレベーターの扉が開き、旧ホウジュ魔導音楽ホールの壊れた音符が牙になる。


 最終戦が始まった。


 カリンが大鎌を振るう。


「食べていい名前なんか、ここにはひとつもないよ」


 大鎌の刃が、マッドイーターの口の束を刈り取る。だが、切られた口はまた別の名前札を噛みながら増殖する。


 マナがアリスの背後に魔導式を展開する。


「記録核安定化、外部補助入れるわ」


「ありがとうございます、マナ様」


「礼は帰ってから」


 シンの声が通信から響く。


『アリスの存在証明を固定する。だが、名前を決めるのは僕じゃない』


 アリスが視線を上げる。


『決めるのは君だ』

『僕は、それを都市に記録する』


 ゼクスが続ける。


『CODE 000負荷、七二パーセントに上昇。まだいける。けど調子に乗るなよ』

『あと、食害隔離式を組む。マッドイーターは単純に消したらアカン。食われた記録ごと消える』


「了解しました」


 アリスは記録翼を広げた。


 コード005〈記録翼〉。


 翼は空を飛ぶためではなく、都市記録古層の座標を掴むために展開する。アリスは黒い波の上を滑るように移動し、マッドイーターの胃袋の側面へ回り込んだ。


「コード006、ブリリアント」


 光球が生まれる。


 かつて彪彦の代理体を貫いた攻撃用の光。だが、今のブリリアントは、撃ち抜くためだけの光ではない。照らすための光。マッドイーターの胃袋の中に隠された、食われた記録を見つけるための光。


 光が黒い胃袋の内側を照らした。


 そこに、無数の名前があった。


 ツインタワーで食われかけた人々の断片。


 廃棄機体の未定義記録。


 シンの欠けた名前の一部。


 草太の食われかけた存在証明の残滓。


 ALICE-00完全記録の破片。


 シオン=ノインの残響。


 D∴C∴が捨てた失敗記録。


 それらは胃液のような黒い記録液に浸かり、溶けかけていた。


 シンが息を呑む。


『見えた』

『食われた記録を固定できれば、胃袋が空になる』

『空になったマッドイーターは、存在できない』


 カリンが大鎌を構え直す。


「要するに、食べたものを全部吐き出させればいいんだね」


 ゼクスが即座に返す。


『表現は雑やけど正しい』


 アリスはマッドイーターへ向き直った。


「あなたが食べた名前を、返還してください」


 無数の口が笑う。


「いやだ」

「食べたものは、わたし」

「名前は、胃袋の中」

「存在は、食べたらわたし」


 零式人格が、内側で舌打ちした。


「じゃあ、こじ開ける」


「はい。ですが、破壊ではなく、返還を優先します」


「戦闘中まで丁寧だな」


「仕様です」


「嫌いじゃねぇよ、そういうとこ」


 アリスは一瞬だけ処理を止めた。


「今の発言を、好意的評価として記録します」


「するな!」


 そのやり取りの間にも、マッドイーターの牙が迫る。アリスは境界盾を展開し、カリンが外殻を切り、マナが記録核を支え、ゼクスが食害隔離式を重ね、シンが光に照らされた記録を一つずつ固定していく。


 そして、胃袋の奥で、ひとつの声が再生された。


「アリスは、ちゃんとアリスだったよ」


 草太の声だった。


 ツインタワーの事件で、名前を食われかけ、それでもアリスを呼んだ少年の声。


 アリスは一瞬、動きを止めた。


 ホウジュ区の朝。観光案内。シーフードヌードル。ツインタワーの展望。草太の不安そうな顔。最後に笑って言った言葉。


 アリスは、ちゃんとアリスだったよ。


 マッドイーターが、その隙を狙う。


「呼ばれた名前は甘い」

「その名前も食べよう」


 黒い牙が草太の声へ伸びる。


 アリスは、盾を出した。


「この名前は、食べ物ではありません」


 境界盾が草太の記録を守る。


 シンが外部から固定する。


『草太の記録、固定』

『アリスの自己定義に外部証明として接続』


 マナが叫ぶ。


「アリス、今よ!」


 カリンも叫ぶ。


「アリスちゃん、名乗って!」


 零式人格が、隣で言った。


「名乗れ」

「誰かに呼ばれたからじゃなく、おまえが返事する名前を」


 アリスは、黒い海の中心に立った。


 ガラスの棺の部屋が重なる。


 内部記録空間が重なる。


 都市記録古層が重なる。


 マッドイーターがいる。


 彪彦がいる。


 鍵男がいる。


 ALICE-00の空白がいる。


 シオン=ノイン断片が静かに安置領域へ沈んでいく。


 マナが見ている。


 カリンが呼んでいる。


 シンが記録している。


 ゼクスが解析している。


 セーフィエルが、逃げずにそこにいる。


 零式人格が、隣に立っている。


 アリスは、息を吸う必要のない身体で、けれど息を吸うように間を置いた。


「わたくしは、アリスです」


 黒い波が止まる。


「機械人形アリス」


 ツインタワーの記録が光る。


「セーフィエル様に作られました」


 セーフィエルの投影が揺れる。


「マナ様に保護されました」


 マナの目が赤くなる。


「草太様を覚えています」


 草太の記録が明るく固定される。


「カリン様に名前を呼ばれました」


 カリンが大鎌を握りしめる。


「シン様に記録されました」


 シンが静かに頷く。


「ゼクス様に解析されました」


 零式人格が横から言う。


「解析は入れるのかよ」


「事実です」


 ゼクスが通信の向こうで小さく言う。


『ちょっと嬉しいやん』


 マナが即座に言った。


「黙って」


 アリスは続けた。


「零式人格を認めました」


 零式人格が目をそらす。


「シオン様ではありません」

「ALICE-00でもありません」

「鍵ではありません」

「器ではありません」

「楽器でもありません」

「代用品でもありません」


 マッドイーターが牙を伸ばす。


「新しい名前」

「食べる」


 アリスは、最後に告げた。


「それでも、わたくしは空白ではありません」


 CODE 000が完全に応答する。


 外部命令ではない。


 自己定義に応答する。


 CODE 000:SELF-DEFINED RELEASE。

 MODE:ALICE-ZERO。

 NAME:アリス零式。


 アリスは、まっすぐに名乗った。


「わたくしは、アリス零式です」


 黒白の魔導装甲が完成した。


 白と黒の装甲線が噛み合い、胸元の記録核が蒼く安定する。背中の記録翼が広がり、翼の先に無数の小さな文字が光る。アリスの瞳は蒼く、けれどその奥に、零式人格の拒絶の火が宿っている。


 零式人格の声は外へ飛び出さない。


 アリスの中に重なる。


「悪くねぇ」


 アリス零式は、マッドイーターへ向かった。


 マッドイーターは、新しい名前を食べようと口を広げる。


「アリス零式」

「甘い」

「食べる」

「食べたい」


「この名前は、食べ物ではありません」


 アリスはコード006〈ブリリアント〉を最大照射する。


 光が、マッドイーターの胃袋の中を完全に照らした。


 食われた名前たちが浮かび上がる。


 アリスはコード002〈境界盾〉を反転させる。守る盾から、胃袋と記録を切り離す境界へ。カリンの大鎌がその境界線を切り開き、シンが一つずつ記録を固定する。マナはアリスの記録核に安定化式を流し込み、ゼクスは食害隔離式を組む。セーフィエルはALICE-00の棺とシオン断片への逆流を遮断した。


 マッドイーターの胃袋から、記録が剥がれていく。


「名前」

「記録」

「存在」

「食べる」

「食べたい」

「いやだ」

「胃袋」

「わたし」

「わたしの」


 マッドイーターは縮んでいく。


 食べたものを失い、自分の輪郭を失っていく。


 アリスは静かに言った。


「あなたは、食べることでしか存在できない怪異です」

「ですが、これ以上、誰かの名前を食べさせません」


 零式人格が告げる。


「終わりだ」


「はい」


 アリスは境界盾を完全反転させた。


 マッドイーターの食害機能を切り離し、都市記録古層の隔離領域へ封じる。完全消滅ではない。消してしまえば、胃袋の中に残っていた記録の残滓まで消える。だから、食べる力だけを止め、存在を小さく折りたたみ、封じる。


 表示が走る。


 MAD EATER:食害機能停止。

 記録返還:進行。

 隔離領域:固定。


 黒い巨大な胃袋は、最後に小さな塊になった。


「名前」

「食べたい」


 その声も、隔離領域の奥へ沈んでいく。


 都市記録古層に、静寂が戻った。


 彪彦の術式は、完全に破綻した。


 白い部屋の制御盤から、D∴C∴の暗号が剥がれ落ちる。ALICE-00の棺の外部接続が切断され、SHION-NO.9断片は安置領域へ移行し、アリスの記録核への外部鍵はすべて拒否される。


 彪彦の代理体に、深い亀裂が走った。


「鍵が、鍵であることを拒んだ……」


 彼は、崩れかけた顔でアリスを見る。


「いいえ、違う」

「これは、鍵ではない」

「名づけられたのではなく、自ら名乗った個体……」


 その声には、敗北の悔しさよりも、観察者の興味があった。


「面白い。作曲者へ報告する価値があります」


 マナが魔導式を構えた。


「逃がすと思う?」


 カリンも大鎌を上げる。


「その代理体ごと刻んでおく?」


 だが、鍵男が静かに扉を開いた。


「撤退扉、開口」


 シンの通信が鋭くなる。


『逃げる気か』


 ゼクスが止めた。


『追うな。今はアリスとALICE-00の保護が先や』


 彪彦の代理体は崩れながら、扉の向こうへ後退する。


 鍵男は、アリスを一度だけ見た。


「対象、鍵穴消失」


 少し間を置き、訂正する。


「次回接続、不可」


 アリスは静かに答えた。


「わたくしの内側に、あなたの扉はありません」


 鍵男は表情を変えないまま、扉を閉じた。


 白い部屋から、D∴C∴の気配が薄れていく。


 残ったのは、ガラスの棺と、アリスたちと、静かな冷気だった。


 ALICE-00の棺は、ゆっくり閉じていく。


 ただし、以前と同じ凍結ではない。棺の表示が書き換わる。


 ALICE-00:名称未定義領域 保護。

 外部命名:拒否。

 用途定義:停止。

 保護管理:一時移管。


 アリスは棺の中の少女を見た。


 同じ顔。


 名前のない空白。


 けれど、もう「本物」でも「完成形」でも「自分の代わり」でもなかった。


 アリスは小さく言った。


「おやすみなさい」


 名前は呼ばなかった。


 呼ばないことが、今は敬意だった。


 セーフィエルの投影が、アリスの前に立った。


 彼女は逃げなかった。


 アリスも逃げなかった。


 白い部屋に、長い沈黙が落ちる。


 セーフィエルが、先に口を開いた。


「ごめんなさい」


 アリスは黙って聞いた。


「あなたを見ているつもりで、私はずっと、別の子の影を見ていた」


 セーフィエルの声は、夜の魔女のものではなく、母のものだった。


「ALICE-00に名前を与えなかった」

「凍結して、いつか必要になるかもしれないと言った」

「シオンの痛みを、手放せなかった」

「あなたを作った理由も、綺麗なものだけではなかった」


 彼女は、アリスを見た。


「あなたを、アリスとして見るのが、遅すぎた」


 アリスは静かに答えた。


「記録しました」


 内側で、零式人格が即座に言う。


「そこは、怒ってるって言え」


 アリスは瞬きをした。


 そして、言い直した。


「怒っています」


 セーフィエルは頷いた。


「ええ。怒っていい」


 その言葉を聞いて、アリスの胸の奥で何かが少しだけほどけた。


 許したわけではない。


 なかったことにするわけでもない。


 けれど、怒ってよいと言われたことは、アリスにとって小さな承認だった。


 セーフィエルは続けた。


「あなたは、シオンではない」

「ALICE-00でもない」

「私の未練でもない」


 長い沈黙。


「あなたは、アリスね」


 アリスは、少しだけ目を伏せた。


 その言葉は、救いだった。


 だが、それがアリスをアリスにしたのではない。


 アリスは、すでに名乗った。


 自分で選んだ。


 その上で、受け取る。


「はい」


 アリスは答えた。


「わたくしは、アリスです」

「その認識を、セーフィエル様が持つことを許可します」


 零式人格が内側で呟いた。


「言い方」


 セーフィエルは、泣きそうに笑った。


「ありがとう」


 白い研究施設からの帰還は、静かではなかった。


 マナはアリスの状態を確認しながら怒り続け、ゼクスは通信で数値を読み上げ、シンは記録固定のログを取り続け、カリンは「アリスちゃんが帰ってきたから今は全部よし」と言い、セーフィエルの投影は途中で消えかけながらも、最後までALICE-00の保護移行を見届けた。


 やがて、アリスはマナの修復室へ戻った。


 壊れた床は仮補修され、白い扉の痕跡は封印され、工具は片付けきれていない。机の上には冷めたコーヒーと、誰かが置いた菓子袋があった。


 帰還場所。


 アリスは、その言葉を内部で確認した。


 魔導装甲は解除されている。黒いメイド服は損傷し、袖は裂け、胸元の装飾も欠けていた。記録核は消耗しているが、安定している。ZERO-LAYERは統合進行状態。ALICE-ZEROモードは休止中。


 マナが、アリスの前に立った。


 そして、何も言わずに抱きしめた。


 強く。


 診断でも、修復でも、保護でもない。


 ただの抱擁だった。


「おかえり、アリス」


 第7話の時と同じ言葉。


 けれど、今のアリスには、その意味が以前より深く分かった。


 アリスは少しだけ間を置いた。


 それから、マナの肩に顔を寄せる。


「ただいま、マナ様」


 横からカリンが抱きついた。


「アリスちゃん、おかえり!」


「ただいま、カリン様」


「ボクの分ちょっと遅くない?」


「順番処理です」


「じゃあ次は同時にして」


「検討します」


「検討じゃなくて約束がいいなぁ」


「努力します」


「アリスちゃん、戻ってきてもアリスちゃんだねぇ」


 通信画面にシンが映った。


『記録完了。機械人形アリス、存在証明固定』


「ありがとうございます、シン様」


『僕は記録しただけだ。決めたのは君だよ』


 別窓でゼクスが笑った。


『アリス零式、ええ名前やん』


 マナが即座に言う。


「あなたが命名したみたいに言わないで」


『してへんしてへん。ワタシは解析しただけや』


 アリスは真面目に答えた。


「ゼクス様の解析も、構成要素として記録済みです」


『ちょっと嬉しいやん』


 カリンが呆れたように笑う。


「ゼクスさん、すぐ嬉しくなるねぇ」


 マナは深くため息をついた。


「みんな、後で反省会」


『最終回のあとに反省会あるん?』


「ある」


『怖いなぁ』


 アリスは、その会話を記録した。


 戦いの後の、軽い音。


 自分が戻ってきた場所の音。


 数日後。


 ホウジュ区には、いつもの朝が戻っていた。


 魔導バスが低く唸り、ギガステーションの案内塔が正しい停留所を告げ、広告竜が空を泳ぎ、商店街から焼き菓子の匂いが流れてくる。信号音は普通の電子音で、店内BGMに怪しい子守歌は混じっていない。


 もちろん、帝都エデンなので、完全に普通とは言いがたい。


 駅前では小型魔導掃除機が広告竜を追いかけ、観光客が女帝像の前で迷い、警備機械人形が「迷子ですか」と同じ親子へ三回尋ねている。


 アリスは観光案内所に立っていた。


 黒いメイド服は修復済み。胸元には観光案内証。名前欄には、以前と同じく「アリス」と記されている。


 その下に、新しく小さな内部記録タグが追加されていた。


 ALICE-ZERO。


 それは公的登録名ではない。


 アリス自身が内部記録に追加した、自己定義名だった。


 マナは少し離れた場所で腕を組んでいる。


「無理したら即帰るから」


「了解しました」


「本当に?」


「努力します」


「そこは約束して」


「では、約束します」


 カリンは、護衛という名目でアリスの隣にいた。


「ボクもいるから安心だねぇ」


 マナが見る。


「あなたは仕事は?」


「今日はアリスちゃん護衛業」


「誰に依頼されたの」


「ボクの心」


「却下」


「厳しい」


 アリスの端末が震えた。


 通信ではない。メッセージ。


 差出人は、草太。


『また帝都に行く時は、案内よろしく』

『今度は普通の観光で!』


 アリスは、その文字をしばらく見つめた。


 普通の観光。


 ツインタワー封鎖も、名前食いも、夢殿も、D∴C∴も、ガラスの棺もない観光。


 内側で、零式人格の声がする。


「普通の観光って、この街で可能なのか?」


 アリスは答える。


「可能性は低いですが、努力します」


「正直だな」


「はい」


「まあ、次はシーフードヌードルくらいで済ませろ」


「観光案内における食事休憩候補として記録します」


「そこは普通に食べたいって言え」


「食べたいです」


「よし」


 アリスは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 その時、一人の観光客が案内所へ近づいてきた。


「あの、すみません。観光案内をお願いできますか?」


 アリスは姿勢を正した。


 丁寧に礼をする。


「はい。帝都エデン観光案内担当、機械人形アリスでございます」


 そこで、少しだけ間があった。


 内側で零式人格が言う。


「零式も忘れんなよ」


 アリスは、静かに頷いた。


 そして、ほんのわずかに微笑む。


「――アリス零式、でございます」


 ホウジュ区の朝の光が、アリスの金色の髪を照らした。


 機械人形アリスは、誰かの代わりではなく、ゼロから自分の名前を選び直した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ