第8話 シオン=ノイン
白い部屋だった。
そこには壁があるようで、なかった。天井があるようで、見えなかった。床はガラスのように透き通っていて、アリスが一歩を踏み出すたび、足元の奥で青白い光が波紋のように広がっていく。
音が遠い。
金属が鳴る音。鎖が擦れる音。誰かが呼吸を堪えている音。扉の向こうで、巨大なものがゆっくり開こうとしている音。
ここは、マナの修復室ではない。
だが、完全に夢でもない。
アリスは自分の身体を確認した。黒いメイド服。白い手袋。金色の髪。蒼い瞳。外装の損傷は見えない。けれど、胸の奥――記録核の深い場所に、細いひびのような違和感があった。
記録核内、休眠時夢様領域。
外部由来記録断片、自動再生中。
警告。
識別不能。
アリスは顔を上げた。
白い部屋のどこかで、小さな少女の声がした。
「おとうさま」
その声は、アリスのものではなかった。
零式人格の荒い声でもない。マナでも、カリンでも、草太でも、セーフィエルでもない。幼く、細く、けれど不思議なほど遠くまで届く声だった。
アリスは、その声がした方向へ向いた。
「あなたは、どなたですか」
返答はなかった。
代わりに、床の下が暗くなった。
ガラスのような白い床のさらに下、深い水底のような場所に、黒い水面が広がっている。その奥で、巨大な門の影が揺れていた。門は完全には見えない。輪郭だけがある。二枚の巨大な扉。そこに絡みつく鎖。閉じているのに、向こう側から何かが息をしている。
アリスは、そこへ近づこうとした。
白い床の上を歩く。足音はない。けれど、胸の奥のひびが少しずつ広がる。
その時、背後から声がした。
「行くな」
アリスは振り返った。
零式人格が立っていた。
アリスと同じ顔。けれど瞳は鋭く、表情は苛立ちと警戒で歪んでいる。白い試験服のような服は裂け、足元には黒いノイズが薄くまとわりついていた。
いつものように強気ではなかった。
怒っている。だが、それ以上に、怯えているように見えた。
「それは、おまえの記録じゃない」
零式人格が言った。
アリスは答えた。
「しかし、わたくしの記録核に保存されています」
「保存されてるからって、おまえのものになるわけじゃない」
その言葉は、白い部屋に静かに落ちた。
アリスは処理を止めた。
保存されている。
しかし、自分のものではない。
草太の名前を守った時、アリスは草太の記録を保存した。記録した。呼び続けた。存在証明を補強した。あの時、保存することは救出だった。
では、この声は。
この知らない少女の声を保存することは、何なのか。
白い床に、文字が浮かび上がった。
SHION-NO.9
STATUS:LOST
ANCHOR:TARTAROS
RELATED:SAFIEL
ACCESS:DENIED
文字列が現れた瞬間、白い部屋が軋んだ。
遠くの門の影が揺れる。黒い水面が盛り上がる。小さな少女の声が、もう一度だけ響く。
「おとうさま」
アリスは胸を押さえた。
記録核に異常負荷。
休眠維持不能。
外部呼びかけ受信。
現実の音が割り込む。
「アリス、起きて。深く行きすぎてる」
マナの声だった。
アリスは目を開いた。
最初に見えたのは、修復室の天井だった。
薄暗い照明。吊り下げられた魔導計測器。ケーブルの束。壁際の棚に並ぶ予備パーツ。作業机の上には、冷めたコーヒーと資料の山がある。窓の外はまだ青白く、帝都の朝は完全には始まっていない。
アリスは修復台に横たわっていた。
胸部外装は開かれ、記録核周辺に診断ケーブルが接続されている。右肩の外装は仮修復済み。左腕の関節には固定具。戦闘用装甲〈メイル〉の破損部は取り外され、隣の台に並べられていた。
部屋の隅では、カリンが椅子に沈むように眠っている。長い黒髪が肩に流れ、手元には開封途中の焼き菓子の袋。膝には毛布がかけられていた。眠っているはずなのに、アリスが目を開いた瞬間、片目だけうっすら開いた。
「起きたぁ……?」
「はい。休眠状態より復帰しました」
アリスが答えると、カリンはまだ眠そうな声で言った。
「おはよ、アリスちゃん」
「おはようございます、カリン様」
マナは修復台の横に立っていた。
目の下に薄い隈がある。髪は少し乱れ、白衣の袖はまくり上げられていた。端末の画面には、アリスの記録核の波形が表示されている。そこに赤い警告が残っていた。
SHION-NO.9:自動再生反応。
零式人格領域:防御反応上昇。
ALICE-00接触痕:微弱再活性。
休眠深度:危険域寸前。
マナは、深く息を吐いた。
「危なかった。あと少し深く行ってたら、強制切断しなきゃいけなかった」
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑じゃない。心配」
マナは即座に言った。
アリスはその言葉を処理した。
心配。
迷惑ではない。
保存。
マナは画面を見たまま、低い声で続ける。
「アリス。今、何を見た?」
「白い部屋を視認しました。ガラス様の床。不可視の扉。黒い水面の奥に巨大な門の影。少女の音声断片を確認しました」
「内容は?」
「『おとうさま』」
マナの指が止まった。
その沈黙で、カリンも完全に目を覚ました。
カリンは椅子から身体を起こし、眠気を払いながらも、いつもの軽さを少し抑えた声で聞いた。
「また、その声?」
「はい」
アリスはマナを見た。
「マナ様。シオン=ノインとは、どなたですか」
マナはすぐには答えなかった。
作業机へ歩き、コーヒーを淹れようとした。カップを取り、粉を入れる。そこで手が止まる。数秒、何もせずにそのまま立っていた。
カリンが半分寝た声で言った。
「マナちゃん、コーヒーが砂漠」
「……え?」
「粉だけ。お湯、入ってない」
マナはカップを見下ろした。
そこには確かに、乾いたコーヒー粉だけが入っていた。
「……寝不足ね」
「うん。あと動揺」
「動揺はしてる」
マナは素直に認め、湯を注いだ。湯気が立つ。焦げたような香りが修復室に広がる。マナは一口飲んで、眉をひそめた。
「濃い」
「砂漠に雨降らせたからねぇ」
「うるさい」
軽い掛け合いは、数秒だけ部屋の空気を緩めた。
けれど、すぐに沈黙が戻る。
マナはカップを置き、アリスのそばへ戻った。
「シオン=ノインは、帝都の記録から消された名前よ」
アリスは黙って聞いた。
「ノインはコードネーム。ワルキューレ第九位を意味する名。本名はシオン。セーフィエルの娘で、タルタロス封印の楔だった人」
「タルタロス封印の楔」
「死都東京、裁きの門、タルタロス、闇の子。その封印は、ひとつの機械みたいに動いていた。いいえ、今も動いている。その中心に、かつてシオンがいた」
マナの声は、いつもの勢いを失っていた。
説明している。けれど、解説ではない。知識を並べているのではなく、触れたくない傷に指を置いているような声だった。
「シオンは、ワルキューレ第九位ノインとして、封印の人柱になった。公的記録からは削除されて、ノインは永久欠番。帝都市民はもちろん、ワルキューレに詳しい人間でも、その名を知らない者が多い」
カリンは珍しく口を挟まなかった。
いつもなら「ひどい話だねぇ」くらいは言いそうなところで、何も言わない。ただ、膝の上で指を組み、黙って聞いていた。
マナは続ける。
「本編後……シオン本人は、永遠の苦痛からは解放された。少なくとも、私はそう聞いている。けれど、封印システムに残った観測記録、夢殿のバックアップ、ALICE-00へ転写された断片まで、すべてがきれいに消えたとは限らない」
アリスの胸の奥で、零式人格が小さく反応した。
――バックアップ、ね。
その声には、怒りがあった。
アリスは、口に出さずに保存した。
バックアップという言葉への拒絶反応。
零式人格領域、活動微増。
「マナ様」
アリスは言った。
「わたくしの中にある声は、シオン様なのでしょうか」
マナは、答えられなかった。
すぐに否定することもできたはずだった。
違う。あなたはアリス。シオンではない。
マナならそう言ってもおかしくない。第7話で、マナはアリスへ「あなたは誰かの記録じゃない」と言った。だから今回も、同じように言えばよかった。
けれど、マナは言わなかった。
しばらく沈黙したあと、静かに答えた。
「違う、と言い切りたい。でも、同じだとも言えない」
アリスは、その曖昧な答えを記録した。
違うと言い切れない。
同じとも言えない。
「では、わたくしは何を保存しているのでしょうか」
マナは目を伏せた。
「セーフィエルが、手放せなかったものよ」
セーフィエル。
創造主。
魔女。
アリスを作った者。
セーフィエルが、手放せなかったもの。
その言葉は、アリスの記録核に深く沈んだ。
自分は何のために作られたのか。
誰かの記録を保存するため。
誰かの代わりになるため。
誰かを救うための器になるため。
セーフィエルが手放せなかったものを、手放さずに置くため。
草太の声が再生される。
アリスは、ちゃんとアリスだったよ。
それに重なるように、零式人格が言った。
――ほらな。やっぱり、また誰かの代わりにされる。
アリスは、今回は否定しなかった。
否定できなかった。
その時、修復室の通信端末が鳴った。
画面に、シンの顔が映る。
背景には、東タワーの情報室らしい無数のモニターが並んでいた。表示されているのは、復旧中のテナント名、ツインタワー事件の被害記録、空白になった監視映像の修復ログ、そして何本もの黒い線で示されたマッドイーターの逃亡経路だった。
『おはよう。僕の名前は八割ほど戻った。残り二割は非常に不愉快な空白だ』
カリンが眠そうな顔のまま言った。
「八割シンくん」
『二割減額されたようで嫌だね』
「割引シンくん」
『それはもっと嫌だ』
アリスは画面を見た。
「存在証明の完全復元を推奨します」
『もちろんだ。自分の名前ほど高価な情報はない』
「料金換算可能ですか」
『不可能だね。高価すぎる』
軽口の後、シンの顔が少し真面目になった。
『本題に入る。SHION-NO.9を都市記録網で検索した』
マナの表情が引き締まる。
『結果から言うと、出ない。帝都市民記録、該当なし。ワルキューレ公開記録、該当なし。夢殿一般資料、該当なし。封印関連資料、アクセス拒否。古い削除インデックスにNO.9の欠損痕がある。SHIONという文字列そのものが、通常検索から除外されている』
「除外?」
カリンが聞く。
『そう。消去ではない。検索不能化だ。誰かが消したんじゃない。見つけられないように保存している』
シンは指を動かし、画面に検索結果を表示した。
該当なし。
該当なし。
該当なし。
ACCESS DENIED。
INDEX REMOVED。
NO.9:欠損。
SHION:検索対象外。
『記録がないんじゃない。記録に近づく道が消されている』
マナは低く言った。
「夢殿ね」
『だろうね。僕の領域じゃない。金を積まれても、夢殿の奥は覗きたくない』
「シンくんが嫌がるって、相当だねぇ」
カリンが言う。
『命と名前と人格を全部請求書に乗せても足りない』
「優しい言い方、まだ入荷してないねぇ」
『在庫切れだ』
マナはモニターから目を離さずに言った。
「夢殿側の封印規格なら、ゼクスに聞くしかない」
カリンが露骨に嫌そうな顔をした。
「うわぁ、あの人かぁ」
アリスは首を少し傾ける。
「ゼクス様とは、どのような方ですか」
マナは言った。
「会えばわかるわ。わからないままでいたくなるけど」
シンが続ける。
『一言で言えば、最悪の天才だね』
「最悪の天才」
アリスは復唱した。
「評価は高いのですか、低いのですか」
カリンが苦笑する。
「両方だよぉ」
マナは端末を閉じかけて、ふと思い直したようにシンへ言った。
「シン、マッドイーターの逃亡経路は?」
『地下深部から都市記録古層へ潜った可能性が高い。ALICE-00完全記録の食われた部分も一緒だ。ただし、今回のSHION-NO.9反応はマッドイーターだけが原因じゃない。アリスの記録核そのものが、夢殿側の何かに呼ばれている』
「呼ばれている」
アリスはその言葉を繰り返した。
『比喩だよ。正確には、照合要求に近い』
「わたくしに対する照合要求ですか」
『君というより、君の中にある断片へ、だね』
通信はそこで一度切られた。
修復室に、低い機械音だけが残った。
マナは画面を閉じ、アリスのそばへ戻る。
「アリス。記録核をもう一度見るわ。ただし、深くは触らない。解析じゃなくて、境界確認。中を見るだけ。嫌なら止める」
アリスはマナを見た。
命令ではない。
お願いでもない。
事前確認。
拒否権あり。
アリスはしばらく考えた。
自分の中にあるものを知らなければ危険だ。だが、知られることで開かれる危険もある。零式人格は警戒している。シオン=ノインの断片は自動再生を始めている。マナは触れすぎないと言った。
アリスは答えた。
「浅層確認のみ、許可します」
マナが一瞬、目を見開いた。
「……うん。わかった。浅層だけ」
カリンが小さく笑った。
「いいじゃん。アリスちゃん、契約書作るの上手くなってる」
「契約書ではありません。条件付き同意です」
「もっと強い」
マナは診断ケーブルを調整し、端末を操作した。
モニターにアリスの記録層が表示される。
通常人格領域。
草太救出時の記録。
カリン外部証言記録。
シン情報補助記録。
ALICE-00接触痕。
マッドイーター食害痕。
零式人格領域。
SHION-NO.9断片。
マナは慎重に、最も外側の層だけをなぞるように調べていく。
「通常人格は安定。草太の記録も安定してる。むしろ、いい固定点になってる。零式人格領域は……反応してるけど、暴走じゃない。警戒してる」
カリンが言う。
「人見知り?」
「人見知りで済むなら楽なんだけど」
マナは、SHION-NO.9断片の外縁にカーソルを近づけた。
その瞬間。
「触るな!」
声は、アリスの内側から響いた。
同時に、修復室の照明がちらついた。端末が警告音を鳴らし、アリスの身体が修復台の上で小さく痙攣する。胸部の記録核が青白く強く光った。
カリンが椅子から立ち上がる。
「アリスちゃん!」
マナは即座に手を引いた。
「ごめん、深かった」
警告音が少しずつ収まる。
アリスは呼吸をしていない。だが、まるで呼吸を乱した人間のように、肩のあたりがわずかに震えていた。
内側で、零式人格が荒く言う。
――それは、アタシじゃない。
アリスは答えた。
識別不能断片です。
――でも、混ぜられる。
零式人格の声は、怒っていた。けれど、その奥に恐怖があった。
――また、名前のないものにされる。
アリスは、初めて気づいた。
零式人格は、シオン=ノインの記録が嫌いなのではない。シオンを憎んでいるわけではない。むしろ、シオンという存在そのものへの感情は、判別できない。
怖いのは、別のことだ。
誰かの記録を理由に、自分たちの内側が開かれること。
誰かのために、誰かの痛みのために、誰かの未練のために、アリスという存在の境界が曖昧にされること。
「あなたは、シオン様の記録が怖いのですか」
アリスは内側で問いかけた。
零式人格は、苛立ったように答える。
――シオンが怖いんじゃねぇ。
少し間が空く。
――誰かのために、アタシらを開けられるのが嫌なんだよ。
アリスはその言葉を受け取った。
誰かのために開けられる。
拒絶反応。
自己境界保護。
「理解しました。あなたは、わたくしを守ろうとしているのですね」
――守るなんて綺麗な言い方すんな。取られるのが嫌なだけだ。
「それも、保護反応の一種です」
――言い方。
カリンが心配そうに覗き込む。
「今、話してる?」
「はい。零式人格は、シオン=ノイン断片そのものではなく、内部領域の開封に対して強い拒絶反応を示しています」
「そっか」
カリンは、ふっと息を吐いた。
「その子、ちゃんと怒れてるんだねぇ」
「怒りは危険反応でもあります」
「でも、怒れないよりいい時もあるよ」
マナは、端末から手を離したまま言った。
「ごめん、アリス。約束より深く触った」
「マナ様は即座に接続を停止しました」
「それでも、触れた」
「はい」
アリスは少しだけ沈黙した。
「次回以降、SHION-NO.9断片への接触は、より明確な同意条件を設定する必要があります」
マナは目を細め、それから小さく笑った。
「うん。そうしよう」
しかし、接触を止めても、断片は止まらなかった。
アリスの視界が、白く染まり始める。
修復室の輪郭がぼやける。マナの姿が遠ざかる。カリンの声が水の向こうのように揺れる。
SHION-NO.9断片、自動再生。
停止不能。
外部保護処理、未設定。
アリスは再び、白い夢の中へ落ちた。
今度は白い部屋ではなかった。
暗い部屋だった。
青白い光が揺れている。光源は見えない。床は冷たく、壁には細い魔導線が血管のように走っている。遠くで巨大な門が開きかけている。開いてはならないものが、向こう側から息をしている。
小さな手が見えた。
誰かの服の裾をつかもうとしている手。
その先に、背中があった。誰の背中なのかはわからない。男のようにも見える。父親のようにも見える。セーフィエルではない。少なくとも、アリスが知るセーフィエルの姿ではない。
少女の声がした。
「おとうさま」
泣いてはいない。
泣くことすら許されていない声だった。
アリスは、その声を記録しようとした。
音声断片。
保護対象。
消失防止。
保存――
「保存するな」
零式人格が止めた。
アリスは問い返す。
「なぜですか」
「保存したら、また自分のものみたいに思う」
零式人格は、暗い部屋の端に立っていた。白い夢よりもさらに険しい顔をしている。
「でもそれは、おまえの傷じゃない」
アリスは戸惑った。
草太の名前は保存した。草太の記録は守った。草太が消えないように、何度も呼んだ。記録することは、救うことだった。
では、シオンの記録は保存してはいけないのか。
知らない少女の声が消えてしまうなら、それを保存することは間違いなのか。
アリスは言った。
「しかし、消えてしまいます」
その時、現実側からマナの声が届いた。
「アリス、聞こえる? それは全部拾わなくていい。全部背負わなくていい」
アリスは暗い部屋の中で顔を上げた。
「しかし、消えてしまいます」
「消さないことと、背負うことは違う」
マナの声は、少し震えていた。けれど、はっきり届いた。
「消さなくていい。でも、あなたがその子になる必要はない。あなたがその痛みを全部引き受ける必要もない」
消さないこと。
背負うこと。
保存すること。
自分になること。
アリスは処理を組み替えた。
草太の記録は、アリスと草太の間に発生した記録だった。
観光案内。会話。海鮮麺。ツインタワー。名前を呼ぶ声。救出。ありがとう。
それはアリスの記録でもあり、草太の記録でもあった。
だが、この声は違う。
アリスが体験したものではない。
アリスの傷ではない。
アリスの名前ではない。
けれど、消していいものでもない。
アリスは、記録核内に新しい分類を作成した。
SHION-NO.9 FRAGMENT
分類:外部由来記録
所有者:不明
保護状態:一時隔離
自己人格への統合:停止
暗い部屋の空気が、わずかに静まった。
零式人格が少し黙る。
やがて、横を向いたまま言った。
「……まあ、それならいい」
「あなたの助言を反映しました」
「だから褒め方が硬い」
「では、ありがとうございます」
「急に素直になるな。気持ち悪い」
「感謝表現を拒否しますか」
「拒否はしないけど、慣れてねぇんだよ」
その掛け合いの直後だった。
暗い部屋の奥で、少女の声とは別の声が再生された。
「わたしを、もう使わないで」
それは、泣き声ではなかった。
叫びでもない。
長い長い時間、何度も同じことを言おうとして、それでも届かず、ようやくひび割れた記録の隙間からこぼれ落ちたような声だった。
修復室の機器が、一斉に警告を鳴らした。
アリスの目が開く。
マナの顔が青ざめている。カリンはすでにアリスのそばに立ち、いつでも何かを切れる距離にいた。修復室の照明は不安定に明滅し、モニターには複数の警告が走っている。
SHION-NO.9 FRAGMENT:高反応。
外部波形送出。
夢殿系封印規格へ照合要求。
ALICE-00関連信号、再浮上。
通信端末が勝手につながった。
シンの声が割り込む。
『今の声、こっちにも一瞬乗った。東タワーの復旧ログに同じ波形が出た』
マナは呟いた。
「夢殿にも、行ったかもしれない」
場所は変わる。
帝都エデン中枢、夢殿。
そこは、市民が見る行政施設の顔とは違う場所だった。白い石と金色の装飾で整えられた表の廊下ではなく、地下深く、封印監視室と呼ばれる層。
青白い魔導計測器が、無数の円環を描いて回転している。死都東京方面の結界値、裁きの門座標、タルタロス封印圧、ヨムルンガルド結界の循環、夢殿本体接続状況。どれも通常範囲内に見える。
その中の一つが、突然、淡く赤く光った。
NO.9 ARCHIVE:微弱反応。
TARTAROS ANCHOR:残響波形検出。
ALICE-00 RELATED SIGNAL:再浮上。
監視端末が自動で警告を送る。
夢殿の別区画。
機械と魔導式と用途不明の部品が山のように積まれた研究室。机の上には分解された魔導兵装、壁には封印式の図面、天井からは小型の機械人形アームがぶら下がっている。
端末のひとつが鳴った。
画面に、先ほどの警告が表示される。
椅子に足を乗せて半分寝ていた人物が、片目を開けた。
ゼクス。
ワルキューレ第六位。科学顧問。発明家。帝都の封印と機械人形技術を扱う、最悪の天才。
彼女は画面を見て、ゆっくりと口元を歪めた。
「セーフィエルの置き土産が、まだ動いとるやないか」
端末の奥で、削除された記録領域が一瞬だけ開いた。
NEUN。
SHION。
SAFIEL。
ALICE-00。
DO NOT RESTORE。
さらに、その奥に、誰かが先に触れた痕跡がある。
マッドイーターの黒い歯形ではない。
古い暗号。歪んだ祈りのような記号列。闇の子のノイズを真似た、誰かの手癖。
ゼクスは、それを見て目を細めた。
「……ほう。面倒くさいのも噛んどるな」
夢殿の警告は、すぐに通常表示へ戻った。
だが、閉じたはずの記録の奥で、NO.9という欠番だけが、微かに光り続けていた。
マナの修復室では、アリスの記録核の暴走がようやく収まっていた。
マナは修復台に手をつき、明らかに消耗している。カリンは警戒を解かず、アリスの胸元に浮かぶ光が完全に落ち着くまで、ずっとそばに立っていた。
アリスは、ゆっくり上体を起こした。
マナがすぐに止めようとする。
「まだ起きなくていい」
「必要な確認があります」
「……何?」
アリスはマナを見た。
「マナ様。わたくしは、シオン様ではありません」
マナは頷いた。
「うん」
「ALICE-00でもありません」
「うん」
「ですが、わたくしの中に、シオン様の記録が存在します」
「そうね」
アリスは、少しだけ目を伏せた。
「それは、わたくしがシオン様になる可能性を意味しますか」
マナは即答しなかった。
その沈黙に、アリスは誠実さを感じた。
簡単に否定することはできる。安心させるためだけなら、できる。けれど、マナはそれをしなかった。
マナは、嘘をつかない言葉を探していた。
やがて、彼女は言った。
「ならないようにする。私が」
「保証ではなく、意思表示ですか」
「そう。保証なんてできない。でも、意思表示ならできる」
アリスはその言葉を記録した。
保証ではない。
意思表示。
嘘ではない約束。
カリンが横から言った。
「じゃあボクも。アリスちゃんが誰かにされそうになったら、ボクが名前呼ぶよ」
アリスはカリンを見る。
「カリン様は、草太様の時も呼んでくださいました」
「今回も呼ぶよ。何回でもね」
カリンは軽く笑った。
「アリスちゃんはアリスちゃんでしょ。それ以上でも以下でもないよぉ。シオンちゃんのことは知らないけど、それとこれとは別」
アリスは、その言葉を保存した。
それとこれとは別。
名前の境界。
自分の境界。
アリスは、修復台の上で静かに言った。
「わたくしは、シオン様の記録を消しません」
マナもカリンも黙って聞いた。
「ですが、わたくしの名前として統合しません」
記録核の奥で、零式人格が微かに反応する。
「現時点では、外部由来保護記録として保持します」
マナが小さく笑った。
「言い方は相変わらず硬いけど、いい判断」
内側で、零式人格が言った。
――まあ、悪くない。
アリスはその声も保存した。
ほどなくして、シンから追加通信が入った。
画面の向こうのシンは、先ほどよりもさらに疲れた顔をしていた。だが、目だけは鋭い。
『波形照合の結果が出た。SHION-NO.9の反応は、夢殿の封印記録規格と一致する可能性が高い。通常の都市記録じゃ追えない。女帝政府の封印管理領域へ行く必要がある』
マナはうなずいた。
「ゼクスに会う」
カリンが即座に嫌そうな顔をした。
「えー」
「嫌なのはわかる。でも、夢殿の封印規格と機械人形の両方がわかるのは、あの人くらい」
「わかるけどぉ」
カリンは唇を尖らせる。
「あの人、絶対アリスちゃん見たら目ぇ輝かせるよ」
「輝かせるわね」
「分解したそうな顔するよ」
「するわね」
「ダメじゃん」
「だから私が立ち会う」
アリスは言った。
「ゼクス様は、アリスの解析を行うのですか」
マナはアリスを見た。
「勝手にはさせない。あんたが嫌なら止める」
アリスは考えた。
ゼクス。
最悪の天才。
夢殿封印規格。
ALICE-00。
SHION-NO.9。
解析の必要性。
自己境界保護。
そして、条件付き同意。
「解析を受ける場合、以下を条件とします」
カリンが少し笑う。
「お、契約書アリスちゃん」
アリスは構わず続けた。
「記録核への直接接続は、マナ様の立ち会いを必須とします。零式人格領域の強制開封は禁止。SHION-NO.9断片の自己人格統合は禁止。アリスの同意なく、ALICE-00関連記録を開かないこと。ゼクス様が不適切な発言をした場合、カリン様による制止を許可します」
カリンが目を丸くした。
「最後だけボクの仕事なの?」
マナは真顔で言った。
「たぶん一番大事」
「そんなに?」
「そんなに」
アリスは問う。
「ゼクス様は不適切な発言が多い方なのですか」
マナとカリンが同時に言った。
「多い」
シンが画面越しに付け加える。
『非常に多い。だが、有用でもある』
「不適切かつ有用」
アリスは記録した。
「分類困難な人物です」
カリンは笑った。
「会ったらもっと困るよぉ」
マナは端末を閉じ、アリスの修復台に向き直った。
「今日はこれ以上、深く触らない。ゼクスに会うにしても、まずはアリスの外装と基礎回路を安定させる。それから」
「承知しました」
アリスは静かに横たわった。
視界の端で、朝の光が少しだけ強くなっている。帝都の交通音も、少しずつ増えてきた。魔導バスの低い駆動音。遠くの広告竜の声。どこかの店が開くシャッター音。街が目を覚ましていく。
その普通の朝の音の奥で、アリスの記録核に残った断片が、もう一度だけ再生された。
「おとうさま」
続けて、別の声。
「わたしを、もう使わないで」
アリスは目を伏せた。
その声を、自分の名前にはしない。
その痛みを、自分の痛みだと偽らない。
けれど、消さない。
「あなたを、わたくしにはしません」
アリスは、声には出さずに記録核の奥で告げた。
「ですが、あなたがいたことは、消しません」
遠く、夢殿の封印監視室で、モニターが再び微かに光った。
NO.9 ARCHIVE:反応継続。
ALICE-00:再照合要求。
ACCESS ROUTE:ZECHS LAB。
アリスの中に残った少女の声は、夢殿の奥で眠る削除記録を、静かに呼び覚ましていた。




