第7話 おかえり、アリス
ツインタワー西タワーの封鎖解除は、夜明け前のように少しずつ進んでいた。
非常灯の赤が消え、代わりに通常照明の白が戻る。閉じていた防火シャッターが一枚ずつ上がり、緊急隔離区域の表示が「解除準備中」へ切り替わる。館内放送はまだ慎重な声で、来館者へその場で待機するよう案内していた。
だが、人々のざわめきは、事件の大きさに比べてどこか弱かった。
泣き出す者もいる。怒鳴る者もいる。携帯端末を何度も確認する者もいる。けれど、多くの人間は、何に巻き込まれたのかをうまく説明できない顔をしていた。
「何かあった気がする」
「エレベーターが止まって」
「誰かがいなくなって」
「誰だっけ」
「いや、そもそも誰かいたっけ」
名前を食われるというのは、そういうことだった。
恐怖だけが残る。空白だけが残る。そこに本来あったはずの誰かの形が、思い出す直前でぼやける。
アリスは、東タワー側の臨時後処理区画に立っていた。
黒いメイド服の裾は裂けている。肩口の外装には細い亀裂が入り、腕部関節には地下搬出路で受けた食害干渉の痕が残っていた。コード007〈メイル〉の展開部は一部が焼け焦げ、コード002〈シールド〉の記録には黒い歯形のようなノイズが残留している。
しかし、アリスの両手は空ではなかった。
草太が、そこにいた。
椅子に座らされ、毛布を肩からかけられている。顔色は悪い。唇にも血の気が少ない。けれど、胸元の観光パスには、かろうじて「草太」と表示されていた。
文字はまだ少し揺らいでいる。ときどき、端が欠ける。だが、消えない。
シンが草太の観光パスへ薄い端末板をかざした。
「これで君は、少なくとも帝都エデンの観光客として再登録された」
「再登録って、怖い言い方ですね」
草太が弱々しく言った。
「消えかけた人間にとって、登録されるのは悪いことじゃない」
「もっと優しい言い方ありません?」
「優しい言い方は現在、在庫切れだ」
「ずっと在庫切れじゃないですか」
カリンが横から笑った。
「シンくんの優しい言い方、まだ入荷してないんだよねぇ」
「仕入先が悪い」
「自分で作る気はないんだ?」
「専門外だね」
シンは肩をすくめながらも、端末操作の手は止めない。草太の存在証明は、まだ仮の鎖で現実につながれている状態だった。油断すれば、また空白に戻る。だからシンは、複数の証言と記録を結びつけて、草太という少年が帝都エデンへ来ていた事実を補強していた。
アリスは一歩前へ出て、観光案内ログを提出した。
「草太様は、ホウジュ・ギガステーションにて観光案内を開始しました。女帝ヌル様の聖像を見学し、死都東京方面を視認し、ツインタワーに移動後、海鮮麺を摂取しました」
「海鮮麺まで証明に使うんだ……」
草太が少しだけ困った顔をする。
「余計なところが大事なんだよぉ」
カリンが言った。
「人間って、名前と顔だけじゃなくて、そういうどうでもいいことでも残るんだよね。何食べたとか、誰を見て驚いたとか、変なこと言ったとか」
「俺、変なこと言いました?」
草太が不安そうに聞く。
アリスは即答した。
「カリン様をアイドルと誤認しました」
「それ今言う必要ありました?」
「存在証明補強に有効です」
「有効なんだ……」
草太は疲れたように笑った。
その笑いで、観光パスの文字が少しだけ安定した。
シンが端末を見て、うなずく。
「悪くない。くだらない記憶ほど、人を強く現実へ引っ張ることがある」
「くだらないって言われた」
草太が小さくつぶやく。
「いい意味だよ」
カリンが言う。
「たぶん」
「たぶんなんだ」
アリスは草太の反応を記録する。
笑い。
困惑。
疲労。
存在証明安定化。
保存。
草太の名は、もう空白ではなかった。
それでも、アリスの記録核の奥には、別の空白が残っている。
SHION-NO.9。
STATUS:LOST。
おとうさま。
アリスはその断片を、今は再生しないようにしていた。
草太の再登録手続きが終わると、保護スタッフが近くで待機を始めた。観光客としての草太を安全区域へ移し、体調確認と外部記録の復元を進めるためだ。
その前に、草太はアリスを見た。
「アリス」
「はい」
アリスはすぐに応答した。
草太は少し迷うように視線を下げ、それから言った。
「帝都、ちょっと怖くなった」
「今回の観光案内には重大な安全上の問題がありました。深くお詫び申し上げます」
アリスは丁寧に頭を下げた。
「いや、アリスのせいじゃないって」
「しかし、観光案内担当として、来訪者の安全確保に失敗したことは事実です」
「でも、アリスがいたから戻れた」
アリスの処理が、一瞬止まった。
草太は、まだ少し震える手で観光パスを握った。
「俺、途中から自分の名前もよくわかんなくなって。でも、アリスの名前は覚えてた。アリスが俺の名前を呼んでくれたのも、覚えてる」
「草太様の自己認識維持に、相互呼称が有効に作用したと推定されます」
「うん。そういう難しい話かもしれないけど」
草太は笑った。
「ありがとう、アリス」
「どういたしまして、草太様」
アリスはそう答えた。
即座に答えたはずなのに、その言葉はいつもより少し遅れて自分の中へ届いた。
ありがとう。
アリス。
草太の声で呼ばれた名前。
保存優先度、最高。
草太は続けた。
「今度は、普通の観光案内してくれる?」
「通常安全基準を満たした観光案内を実施いたします」
「それ、普通ってことでいい?」
「はい。普通でございます」
草太は、ようやく年相応の顔で笑った。
「じゃあ、また来る」
「再訪問時は、事前予約を推奨します」
「うん。次はちゃんと予約する」
「観光コースの希望はありますか」
「え、今聞く?」
「事前情報の取得は、次回案内品質向上に有効です」
草太は少し考えてから、言った。
「怖くないところ」
「承知しました。怖くない観光コースを構築します」
カリンが横で吹き出した。
「帝都エデンで怖くないコース、難易度高いねぇ」
「構築します」
「アリスちゃん、今ちょっと意地になった?」
「観光案内担当として、依頼に応答しただけです」
「そっかそっか」
カリンは楽しそうに笑った。
草太は保護スタッフに付き添われ、ゆっくりと歩き出した。何度か振り返る。アリスはそのたびに、軽く頭を下げた。
最後に草太は、もう一度だけ言った。
「アリスは、ちゃんとアリスだったよ」
アリスは、その言葉を受け取った。
外部観測。
存在証明補強。
自己認識安定化要素。
保存優先度、最高。
草太の姿が安全区域の向こうへ消える。
アリスは、その言葉を記録核内で再生した。
アリスは、ちゃんとアリスだったよ。
再生。
アリスは、ちゃんとアリスだったよ。
再生。
アリスは、ちゃんとアリスだったよ。
「また再生してる?」
カリンが言った。
アリスは振り向く。
「草太様の発言は、わたくしの自己認識安定化に有効であると判断されます」
「アリスちゃん、それは保存じゃなくて、嬉しかったって言うんだよ」
「感情分類は未確定です」
「じゃあ、未確定のまま大事にしな」
カリンの声は、いつもより少し柔らかかった。
アリスは、その言葉も保存した。
未確定のまま大事にする。
カリンは軽く伸びをした。だが、その動きの途中でわずかに肩が落ちる。アリスの感覚器が、カリンの呼吸の乱れ、筋出力の低下、魔導反応の減衰を検出した。
「カリン様」
「ん?」
「身体負荷が上昇しています。大鎌使用の反動と推定されます」
「バレたかぁ」
「休息を推奨します」
「アリスちゃんに言われるとは思わなかったなぁ。そっちの方がボロボロなのに」
「わたくしの損傷は、マナ様の修復室にて対応予定です」
「じゃあ、ボクもそこで休もっかな」
「マナ様の許可が必要です」
「たぶん許してくれるよ。差し入れ持っていけば」
シンが端末をしまいながら近づいてきた。
「草太は戻した。アリスも持ち帰った。僕は僕の名前と、逃げた胃袋を追う」
「シンくん、無理しないでねぇ」
カリンが言う。
「心配なら料金を前払いしてくれてもいい」
「無理はしてもらっていいかな」
「ひどいね」
シンは肩をすくめた。
アリスは一歩前に出る。
「シン様。支援に感謝します」
「どういたしまして。次に呼ぶ時は有料だ」
「今回も有料では」
「追加料金が有料という意味だよ」
「重複請求の可能性があります」
「情報屋の請求書は複雑なんだ」
シンは軽く笑った。
だが、次の声は少し低かった。
「アリス。シオン=ノインという名前には気をつけた方がいい」
アリスは顔を上げる。
「シン様は、その名称を知っているのですか」
「知らない。少なくとも、僕の通常検索には出ない。出ないということが、まず異常だ」
「該当者なし、ということでしょうか」
「それに近い。だが、ただの空白じゃない。誰かが意図的に、空白として保存している感じがする」
シンは東タワーの奥を見た。
「普通の記録じゃない。マナに見せるべきだ。セーフィエルに近い記録なら、僕より彼女の方が危険な匂いを嗅ぎ分ける」
「承知しました」
「僕は東タワーに残る。表層食害の後処理と、逃げた胃袋の追跡。それから、僕の名前の完全復元だ」
カリンが言う。
「戻ってきたら、優しい言い方仕入れといてね」
「検討する」
「仕入れないやつだ」
「よくわかっている」
シンは片手を上げ、東タワー側の通路へ戻っていった。
その背中はいつも通り軽い。けれど、端末に残る「シン:部分復元」の表示は、まだ完全には安定していなかった。
アリスとカリンは、マナの修復室へ向かった。
ホウジュ区の裏通りにあるその部屋は、第1話の朝と何も変わっていないように見えた。
修復台。
魔導計測器。
診断ケーブル。
古い工具箱。
アリス用の予備パーツ。
冷めたコーヒー。
マナの資料の山。
机の端に置きっぱなしの観光ガイド登録書類。
第1話でマナが「街を歩いて、人と喋って、自分が何を感じるか確認するの」と言った場所。
その時のアリスは、修復後の社会適応テストとして送り出された。
今のアリスは、裂けた服と損傷した外装、記録核の異常断片、そして保存済み人格領域の声を抱えて戻ってきた。
マナは、作業机の前にいた。
端末に向かい、何かの設計図を見ていたらしい。扉が開く音に顔を上げる。最初にカリンを見て、次にアリスを見た。
そして、固まった。
「……アリス?」
「はい。観光案内業務より帰還しました」
アリスは丁寧に頭を下げた。
マナの視線が、アリスの肩口、腕、胸元、脚部、裂けたメイド服、黒い食害痕、記録核周辺の異常光へ順番に落ちる。
「観光案内で、どうしてそんなに壊れてるの」
「報告します。観光案内中、ツインタワーにて名称および存在証明を捕食する都市怪異マッドイーターと遭遇。草太様の救出に伴い、戦闘機能および記録核に負荷が――」
「ちょっと名前を食べる怪物が出てねぇ」
カリンが横から言った。
「ちょっとで済ませないで」
マナの声が低くなる。
怒っていた。
だが、その怒りはアリスへ向けられたものではなかった。壊れたアリスを見て、どうしてこんなことになったのかと怒り、心配し、今すぐ修理したいと焦る、複数の感情が混ざった声だった。
「アリス、そこに座って。いや、修復台。すぐ」
「報告を継続しますか」
「あと。先に検査」
「承知しました」
アリスが修復台へ向かおうとした時、マナがふと手を伸ばした。
抱きしめようとしたのかもしれない。
けれど、アリスの損傷を見て、その手は途中で止まった。触れれば、壊れた外装に負荷をかけると判断したのだろう。マナは少しだけ拳を握り、それから静かに言った。
「アリス、おかえり」
アリスの処理が止まった。
おかえり。
帰還者に対する挨拶。
出発地点へ戻った者に向けられる言葉。
検査対象への呼称ではない。
修理品の搬入確認でもない。
任務完了報告への応答でもない。
おかえり。
「おかえり、は帰還者に対する挨拶です」
「そうよ」
「わたくしは、帰還者ですか」
「そう。ちゃんと帰ってきた」
マナは、少しだけ笑った。
「ただいま、でよろしいのでしょうか」
「よろしいです」
アリスは、マナを見た。
「ただいま、マナ様」
マナの顔が、少しだけ崩れた。
「うん。おかえり」
カリンが横で黙って見ていた。いつものようにからかわない。シンのように皮肉も言わない。ただ、アリスとマナの間にある言葉を、静かに見ていた。
検査はすぐに始まった。
アリスは修復台に横たわり、背面と胸部に診断ケーブルを接続される。魔導計測器が青白い光を走らせ、外装の損傷、内部魔導回路、記録核の状態を読み取っていく。
マナの顔は、すぐに技術者のものになった。
「外装損傷、多数。右肩、左腕、胸部外装に食害干渉痕。メイル、部分破損。ウィング出力、さらに低下。シールド系に記録捕食型の干渉痕……何これ、ただの物理戦闘じゃない」
「はい。マッドイーターは名称、記録、存在証明を捕食しました」
「観光案内で出ていい敵じゃないわよ」
「同意します」
カリンは部屋の隅の椅子に座り、差し入れの袋を机に置いていた。疲れているのが隠しきれていない。けれど、マナの邪魔をしないように黙っている。
マナは検査を続ける。
「記録核、異物混入。ALICE-00関連領域、活動上昇。零式人格領域、封印不安定化。……待って」
指が止まった。
モニターに、文字が表示されている。
UNKNOWN FRAGMENT。
SOURCE:SHION-NO.9。
STATUS:LOST。
マナの表情が変わった。
「アリス。その名前、どこで拾ったの」
「シオン=ノインのことでしょうか」
マナの顔色が、明らかに変わった。
カリンも気づき、身体を起こす。
「マナちゃん、その名前、知ってるの?」
マナはすぐには答えなかった。
検査室の機械音だけが残る。
やがて、マナは低い声で言った。
「知ってる、というより……知らないふりをしておきたかった名前」
「危険記録ですか」
アリスが問う。
「危険よ。技術的にも、感情的にも」
「感情的」
「セーフィエルに近すぎる」
セーフィエル。
その名前が出た瞬間、アリスの記録核の奥で、零式人格がわずかに反応した。
――その名前、嫌いだ。
アリスは、その発話を保存した。
マナはアリスへ詳細を求めた。
アリスは、地下記録保管庫での出来事を順序立てて報告した。ALICE-00完全記録へ接触したこと。セーフィエルの古い音声ログを聞いたこと。マッドイーターがその記録の一部を食ったこと。反動で、SHION-NO.9の断片が記録核へ流入したこと。
そして、少女の声。
「音声断片を再生します」
「待って」
マナが言った。
その声には、制止というより覚悟があった。
「……再生して」
アリスは、記録核内の断片を最小限だけ外部出力した。
『おとうさま』
短い声だった。
暗い部屋。小さな手。眠る誰か。セーフィエルではない誰かへ伸ばされる、細い指。
それだけ。
しかし、マナは目を閉じた。
カリンは、その反応を見て声を低くする。
「マナちゃん」
「……大丈夫」
「大丈夫そうには見えないよ」
「大丈夫じゃなくても、今は大丈夫って言うしかないの」
マナは、ゆっくり息を吐いた。
「アリス。その記録、勝手に開いちゃ駄目」
「命令ですか」
アリスが問うと、マナは一瞬迷った。
それから、首を振った。
「命令じゃない。お願い」
アリスは処理に困った。
「命令ではない場合、拒否権が存在します」
「そう。だからお願いしてる」
「なぜ命令ではないのですか」
マナは、修復台に横たわるアリスを見た。
「あなたを、ただの端末として扱いたくないから」
アリスは沈黙した。
命令ではない。
お願い。
拒否権あり。
ただの端末として扱いたくない。
内側で、零式人格が低く言った。
――また封印かよ。
アリスは、その声を聞いた。
修復。
検査。
封印。
都合の悪い声を消すこと。
零式人格は、警戒している。
アリスはマナへ報告するべきか迷った。
この声を隠すことは可能だった。報告義務があるかは不明。零式人格は、アリスを守った。草太救出時、マッドイーターの食害に対して拒絶反応として機能した。だが、マナが知れば、封印対象として扱う可能性もある。
沈黙が長くなる。
マナが気づいた。
「アリス?」
アリスは、マナを見た。
「マナ様。保存済み人格領域からの発話があります」
マナの目がわずかに見開かれた。
「聞こえてるの?」
「はい。ALICE-00記録領域への接触以降、会話に近い応答が可能になっています」
「会話……」
カリンが口を挟む。
「その子、口は悪いけど、アリスちゃんを守ってたよ」
「守ってた?」
マナがカリンを見る。
アリスは答えた。
「はい。草太様救出時、マッドイーターの食害に対して拒絶反応として機能しました。少なくとも、敵性のみとは判断できません」
マナは長く黙った。
モニターには、零式人格領域の活動値が不安定に揺れている。封印は緩んでいる。だが、暴走しているわけではない。
マナは、アリスの胸部記録核のあたりへ視線を落とした。
「その声は、あなたを壊そうとしてる?」
「いいえ」
アリスは即答した。
「少なくとも現時点では、わたくしを守る方向に働きました」
「なら」
マナは静かに言った。
「消す前に、聞かなきゃいけないね」
零式人格が、内側で小さく動いた。
――……セーフィエルとは違うのか。
アリスは、その声を保存した。
マナは修復を続けながら、ぽつりと言った。
「私は、セーフィエルみたいにはなりたくない」
「セーフィエル様の技術は、極めて高度です」
「そういう意味じゃない」
マナは苦笑した。
「あの人の技術はすごい。悔しいくらいにね。でも……あの人は、失ったものを取り戻すために、今あるものを見落とすことがある」
「今あるもの」
「あなたよ、アリス」
アリスは処理を停止した。
マナの手が、壊れた外装にそっと触れる。今度は、傷つけないように。機械人形の部品としてではなく、帰ってきた誰かの傷に触れるように。
「あなたは誰かの記録じゃない。誰かの器でもない。今ここに帰ってきたアリス」
草太の声が、記録核の中で重なる。
アリスは、ちゃんとアリスだったよ。
カリンの声も重なる。
未確定のまま大事にしな。
マナの声が、そこへ加わる。
今ここに帰ってきたアリス。
アリスは、そのすべてを保存した。
重い話が続いたあと、カリンがわざとらしく袋を掲げた。
「はい。生還祝い」
机の上に置かれた袋の中には、甘い焼き菓子、缶コーヒー、機械人形用の高濃度魔導バッテリーが入っていた。
「わたくしは摂食機能を有しますが、栄養摂取の必要性は低いです」
「必要じゃなくても、もらっていいんだよ」
カリンが言う。
マナはバッテリーを見て、少し表情を明るくした。
「そうそう。あと、そのバッテリーは助かる。今のアリス、かなり消耗してるから」
「請求はシンくんに回す?」
「やめなさい。絶対に三倍にして返してくるから」
「ありそう」
「あるわよ」
アリスは、焼き菓子の包みを見た。
必要ではないが、受け取ってよいもの。
保存。
「差し入れを受領します」
「はい、よくできました」
カリンは笑い、そのまま椅子へ深く座り込んだ。大鎌の反動がまだ抜けていないのだろう。数秒後には、目が半分閉じかけている。
「カリン様。休眠状態へ移行しています」
「寝落ちって言って……」
カリンはそう言いかけて、本当に寝落ちした。
マナは苦笑する。
「この子も無茶したんだろうなぁ」
「はい。カリン様は大鎌により、複数の食害鎖を切断しました」
「あとでちゃんと診るわ」
「カリン様にも修復台が必要ですか」
「人間用のベッドでいいと思う」
その時、修復室の通信端末が鳴った。
シンからだった。
モニターに、疲れた顔のシンが映る。背景は東タワーの情報室らしい。背後のモニター群には復旧中の記録、欠けたテナント名、マッドイーターの逃亡経路らしき黒い線が表示されている。
『生きているかな、機械人形とその保護者諸君』
マナが目を細めた。
「第一声がそれ?」
『優しい言い方の在庫はまだ入荷していない』
「仕入れて」
『努力はしている』
「してないでしょ」
『していないね』
シンは淡々と続けた。
『報告だ。東タワーの表層食害は沈静化。草太の外部記録復旧は進行中。僕自身の名前はまだ一部欠損。非常に不愉快だ』
「そこも報告するんだ」
カリンが寝ぼけた声で言った。完全には眠っていなかったらしい。
『重要事項だからね。マッドイーターは地下深部から、さらに古い都市記録層へ逃げた可能性がある。ALICE-00完全記録の食われた部分は復元困難。SHION-NO.9は通常検索では該当しない。ただし、セーフィエル関連の封印記録に、似た痕跡がある』
マナの表情が硬くなる。
「似た痕跡って、どの程度」
『直接名は出ない。だが、封印分類、欠損パターン、記録の隠し方が似ている。アリスの中にある断片は、たぶん鍵だ。だが、鍵穴の場所がわからない』
「勝手に開けさせないで」
『もちろん。鍵は高価だからね。壊すのは損だ』
「言い方」
カリンが言う。
『努力はしている』
「さっきしてないって言ったよ」
『努力目標だ』
マナはため息をついた。
「シン。追跡は続けて。でも、アリスには直接アクセスしないで」
『承知した。僕は有料だが、無断開封はしない主義だ』
「それは褒めていいの?」
「条件付きで有効です」
アリスが答えると、シンは画面越しに少し笑った。
『アリス。休める時に休んでおくといい。都市は、休んだ相手を待ってくれない』
「不穏な助言です」
『正確な助言だよ』
通信は切れた。
修復室に静けさが戻る。
マナはしばらく、SHION-NO.9の表示を見つめていた。それから、深く息を吐き、アリスの休眠準備を進める。
「今日はここまで。これ以上、記録核を深く触るのは危険」
「シオン=ノイン断片の解析は行いませんか」
「今はしない。お願いしたでしょう」
「はい。記録を勝手に開かない、というお願いを受諾します」
「ありがとう」
ありがとう。
その言葉も、今日は何度も聞いた。
草太から。
マナから。
たぶん、カリンからも別の形で。
アリスは修復台の上で、休眠準備に入る。視界が少しずつ暗くなり、外部入力の優先度が下がっていく。
カリンは椅子で眠っている。手元の焼き菓子の袋を抱えたまま、首が傾いていた。マナはその肩に毛布をかけ、それからアリスのそばへ戻る。
「大事な記録?」
マナがふいに聞いた。
アリスは、自分が草太の言葉をまた再生していたことに気づいた。
アリスは、ちゃんとアリスだったよ。
「はい。保存優先度は最高です」
「そっか」
「この記録は、嬉しい、に分類されますか」
マナは少し笑った。
「たぶんね」
「たぶん」
「感情って、最初はだいたいたぶんなの」
アリスは、その言葉を保存した。
感情は、最初はだいたいたぶん。
未確定のまま大事にする。
必要ではなくても、受け取ってよい。
帰還者には、おかえりと言う。
休眠に入る直前、記録核の奥で声がした。
荒く、皮肉っぽく、怒っていて、けれど今は少しだけ静かな声。
――……おかえり。
アリスは、その発話を検出した。
「今の発話を保存します」
――勝手にしろ。
「はい」
視界がゆっくり暗くなる。
マナの手が、修復台の横にある。カリンの寝息が遠くにある。外では、ツインタワー事件の後処理が続いている。シンは東タワーで自分の名前と逃げた怪物を追っている。草太は、草太として帰る準備をしている。
アリスの記録核の奥で、シオン=ノインの断片が一瞬だけ再生された。
暗い部屋。
小さな手。
少女の声。
『おとうさま』
その声に重なるように、零式人格の「おかえり」が残る。
アリスはまだ、その声が誰を呼んだものなのか知らない。
ただ、自分にも帰る場所があることだけは、少しだけ理解し始めていた。




