第6話 マッドイーター
草太の名前は、戻った。
完全ではない。仮固定。存在証明核、一部奪還。身体位置、廃棄機体搬出路。旧搬送ライン。救出可能。
シンの端末に並ぶ文字列は、いつもの事務的な表記でそう告げていた。だが、アリスには、それが単なる情報ではなく、薄い糸のように見えた。切れかけている。だが、まだつながっている。草太という名前が、現実へ戻るための糸。
廃棄機体記録庫の奥では、青白い非常灯が明滅している。周囲には、マッドイーターから切り離された機械人形たちの残響が、膝をついたり、棚にもたれたり、登録番号だけを呟きながら動きを止めていた。
名称未付与。
廃棄予定。
再利用禁止。
その声は、もう攻撃ではない。ただ、そこに残された記録のうわごとだった。
カリンは大鎌を肩に担ぎ、銀色の刃についた黒いノイズを振り払った。刃の根元に刻まれた薔薇の魔導紋が、冷たい光を帯びている。さっきまでの清掃員めいた笑みは戻っていたが、その目の奥にはまだ、氷のような鋭さが残っていた。
シンは古い端末から伸びる接続線を外し、携帯端末へ草太の位置情報を転送している。額に汗が浮いていた。彼にしては珍しい。だが、それでも口元だけは皮肉の形を保っている。
「草太の名前は固定した。身体の場所も出た。だが、まだ胃袋の中だ」
シンが言った。
「胃袋の奥をこじ開ける作業、だっけ?」
カリンが大鎌を肩に乗せたまま、軽く首を傾げる。
「そう。言い換えるなら怪物退治」
「清掃員らしい仕事だねぇ」
「清掃員の業務範囲を超過しています」
アリスは即座に指摘した。
カリンは笑った。
「今日の汚れは特別だから」
「特別清掃という区分が存在する可能性はあります」
「あるある。たぶんある」
「不確定情報です」
「じゃあ、あとでシンくんに調べてもらお」
シンは端末を操作したまま、顔を上げずに言った。
「調査費が発生する」
「シンくん、こういう時だけ反応早いよねぇ」
「名前を食われても、請求精神までは食わせない主義でね」
そう言ったシンの端末に、一瞬だけノイズが走った。
SIN。
Shin。
情報屋。
東タワーの情報屋。
該当者なし。
シンの指が止まる。
アリスはその表示を見た。
「シン様の存在証明は、まだ完全復元していません」
「知っているよ。腹立たしいほどにね」
シンは淡々と言った。
「だが、今は草太が先だ。僕の名前は、あとで怪物の腹から利子つきで回収する」
「利子つくんだ」
カリンが呆れる。
「もちろん」
シンは古い搬送ラインの奥を見た。
廃棄機体記録庫の最奥に、搬出路への扉が開いている。扉というより、黒く裂けた口に近かった。そこから冷たい風が吹いている。風の中に、古い機械油と焦げた記録結晶の匂いが混じっていた。
アリスの記録核に、かすかな声が届く。
『俺は草太』
『アリスはアリス』
『忘れない』
弱い。
しかし、確かに残っている。
アリスは胸元に手を置いた。
「草太様の音声断片を検出。搬出路奥より発信」
「じゃあ、行くしかないねぇ」
カリンが先に歩き出す。
大鎌の刃が、床に落ちた黒いノイズをかすめる。ノイズは小さく震え、逃げるように溶けた。
アリスはその後に続いた。
背中に、零式人格の声が響く。
――気を抜くなよ。あいつ、まだ食い足りてねぇ。
「承知しています」
アリスは小さく答えた。
カリンが横目で見る。
「今の声?」
「はい」
「何て?」
「気を抜くな、とのことです」
「まともなこと言ってる」
――うるせぇ。
「不快感を示しています」
「仲良しだねぇ」
「現在、関係性は定義中です」
――勝手に定義すんな。
「定義を拒否しています」
カリンは少し笑った。
「やっぱり仲良しだ」
アリスは答えなかった。
廃棄機体搬出路は、かつて貨物用の通路だった。
地下のさらに奥へ伸びる広い通路。床には錆びた搬送レールが二本走り、その脇に壊れた貨物台車が転がっている。天井には太い魔導冷却管が這い、ところどころから白い冷気が漏れていた。壁面には古い警告表示が残っている。
機体搬出中、関係者以外立入禁止。
人格核残留反応に注意。
名称未付与機体、管理番号確認。
廃棄処理完了後、記録照合必須。
だが、それらの文字はすでに現実の表示ではなかった。マッドイーターの食害によって、通路全体が記録空間と重なっている。
壁に黒い歯形が浮かぶ。
床には、食われた名前の欠片が散っている。
天井からは登録番号が雨のように落ち、床に触れる前に消える。
壊れた機械人形の声が、どこからともなく聞こえる。
「名称未付与」
「廃棄予定」
「用途終了」
「所有者不明」
「記録抹消」
その合間に、草太の声。
『俺は草太』
『アリスはアリス』
『俺はここにいる』
アリスは、その声を追った。
足元には、草太の足跡らしきものがある。だが、それは普通の足跡ではない。床の埃についた靴跡と、その上に重なる記録の光。現実の身体が通った痕跡と、存在証明が引きずられた痕跡が、二重に残っている。
シンは端末をかざしながら歩く。
「草太はまだ現実側に残っている。ただし、認識からはほぼ切断されている。繭の中に身体を閉じ込め、名前を餌にして残している状態だ」
「繭?」
カリンが聞く。
「マッドイーターの保存方法だろうね。食べきる前の食料を、記録空間に包んでいる」
「言い方」
「優しい言い方は在庫切れだ」
「さっきからずっと在庫切れじゃん」
「仕入先が悪い」
アリスは、先へ進もうとした。
その時、通路の壁に黒い文字が浮いた。
『おまえも名称未定義だった』
アリスの足が、わずかに止まる。
続けて、別の壁に文字が浮く。
『おまえも廃棄予定だった』
『名前をもらったから、自分が特別だと思っているのか』
『ALICE-00を見ろ』
『空白は空白のままだ』
声は、通路全体から響いた。
マッドイーター。
それはもう、ひとつの口ではない。搬出路そのものが、黒い胃袋の内側になっている。
アリスの記録核に、ALICE-00完全記録の断片がちらつく。
名称未定義。
状態、凍結。
廃棄予定、保留。
器として不安定。
いつか、必要になるかもしれない。
セーフィエルの声。
白い部屋。
眠る少女型機械人形。
名前をもらう前の、おまえ。
アリスは、胸元を押さえた。
零式人格が怒鳴る。
――食われるな。
アリスは目を閉じかける。
――あいつの言葉を信じるな。名前があるから偉いんじゃねぇ。名前がなかった時のおまえも、食い物じゃねぇ。
「記録します」
アリスが言うと、内側の声がさらに荒くなる。
――記録じゃなくて、言い返せ。
「現在、適切な反論を構築中です」
――遅ぇ。
「不完全な反論は、効果が低い可能性があります」
――効果じゃねぇ。腹だ。腹から言え。
アリスは答えられなかった。
その代わり、前へ進んだ。
今はまだ、言い返せない。
だが、止まらない。
通路の奥で、シンの端末が激しく乱れた。
「これはまた、ずいぶん趣味が悪い」
シンが立ち止まる。
端末に、彼の名義が次々と表示された。
シン。
SIN。
Shin。
情報屋。
東タワーの情報屋。
名無しの仲介人。
偽名A。
偽名B。
架空法人代表。
該当者なし。
該当者なし。
該当者なし。
画面上で、文字が黒い歯形に食われていく。
シンの周囲の情報接続が乱れ、草太へ伸びていた誘導ラインが一瞬で消えかけた。
「シンくん!」
カリンが声を上げる。
シンは返事をしなかった。
端末の光が彼の顔を照らしている。普段の軽い皮肉も、意地の悪い笑みも消えていた。
マッドイーターの声が響く。
『偽名を食う』
『裏名義を食う』
『記録を食う』
『おまえは誰だ』
『本名はどれだ』
『通称はどれだ』
『空の名前をいくつ並べても、腹は満たされない』
シンは、一度だけ目を閉じた。
そして、端末ではなく、自分の口で言った。
「僕はシンだ」
通路の空気が震えた。
シンは続ける。
「情報屋シン。東タワーの悪趣味な記録庫に勝手に名前を食われた、非常に不愉快な被害者だ。そして今、怪物の胃袋から客の名前を取り返している」
端末上の黒い歯形が止まる。
カリンが息を吐く。
「シンくん……」
「本名かどうかは重要じゃない」
シンは、端末を握り直した。
「この場で僕を呼ぶ名が、今の僕の名前だ」
その言葉が、アリスの記録核に残る。
この場で呼ぶ名。
今の名前。
名前は、記録にだけあるのではない。
誰かが呼ぶことで、今ここに結ばれる。
シンの端末に、淡い光が戻った。
シン:仮固定。
存在証明:部分復元。
草太誘導ライン:再構築。
シンは、小さく笑った。
「なるほど。名乗りというのは、なかなか強引なハッキングだ」
「それ、今度から料金取る?」
カリンが聞く。
「当然」
「本当にぶれないねぇ」
「ぶれない名義は大事だよ」
だが、マッドイーターは待たなかった。
通路の奥で、黒い鎖が現れた。
廃棄機体の残響たちが、鎖につながれている。顔のないメイド型、腕のない作業型、羽の折れた護衛型。彼らは自分の意思では動いていない。黒い鎖に引かれ、アリスたちの行く手を塞ぐ盾にされている。
カリンが大鎌を構えた。
「名前を食べる怪物なんて、掃除しがいがあるねぇ」
カリンは前へ出た。
鎖が一斉に伸びる。
カリンは身体をひねり、大鎌を低く振った。銀の刃が床すれすれを走り、黒い鎖だけを刈り取る。残響たちは崩れ落ちるが、傷つかない。カリンは次の鎖へ踏み込み、刃を返す。
「君たちは邪魔じゃない」
黒い鎖が切れる。
「邪魔なのは、君たちを盾にしてる胃袋の方だよ」
廃棄機体の残響が、ひとつ、またひとつと解放される。彼らは消えない。ただ、力なく壁際へ沈む。名称未付与。用途終了。再利用禁止。それでも、そこに残っている。
カリンは振り返らずに言った。
「アリスちゃん、前だけ見て」
大鎌が、黒い鎖を刈る。
「後ろの汚れは、ボクが刈る」
「感謝します」
「帰ったら、ちゃんと甘いもの奢ってね」
「費用はマナ様へ請求可能か確認します」
「そこはアリスちゃんが奢ってよぉ」
「わたくしは収入源が限定的です」
「観光ガイド代があるでしょ」
「修復費へ充当予定です」
「世知辛いねぇ」
軽口の間にも、大鎌は止まらない。
カリンが開いた道を、アリスは進んだ。
草太の声が近くなる。
『俺は草太』
『アリスはアリス』
『俺はここにいる』
『忘れない』
搬出路の最奥に、それはあった。
黒い記録の繭。
旧搬送ラインの終端、錆びた貨物台車の上に、黒い糸と食われた名前の断片で作られた繭が吊られている。表面には、草太の観光パス、ツインタワー入館記録、海鮮麺の注文履歴、アリスの観光案内ログ、カリンの補助記憶断片が、薄い膜のように貼りついていた。
繭の中に、草太がいた。
身体は現実に存在している。だが、半分は記録空間に沈んでいる。輪郭は薄く、髪や服の端が黒いノイズにほどけかけていた。胸元の観光パスには、かろうじて「草太」と読める文字が残っている。
草太は、意識が薄いまま繰り返していた。
「俺は草太」
「アリスはアリス」
「俺はここにいる」
「忘れない」
アリスは繭へ近づいた。
「草太様。聞こえますか」
草太の瞼が震える。
「アリス……?」
「はい。アリスでございます。救出に参りました」
草太の顔が、わずかに緩んだ。
「よかった……本当に来た」
「はい」
アリスは手を伸ばす。
その瞬間、搬出路全体が脈打った。
床の搬送レールが黒く染まり、壁から歯が生えた。天井から社員証、登録番号、廃棄タグ、観光パス、名称未付与のプレートが垂れ下がる。廃棄機体の声が混ざり、館内放送の断片が逆再生され、黒い胃袋のような空間が現実を飲み込んでいく。
マッドイーター本体。
通路そのものが口になった。
『名前はラベル』
『記録は骨』
『呼ぶ声はすぐに消える』
『ならば、食べた方が早い』
黒い牙が、アリスへ向かって伸びた。
それは身体ではなく、名前へ噛みつく牙だった。
ALICE。
ALICE-00。
ALICE-ZERO。
名称未定義。
廃棄予定。
代用品。
アリスの視界が歪む。
白い部屋。
セーフィエルの手。
名称付与保留。
器として不安定。
いつか必要になるかもしれない。
おとうさま。
SHION-NO.9。
STATUS:LOST。
名前がほどける。
アリスが、自分を見失いかけた。
零式人格が叫ぶ。
――名前を呼べ。
アリスは膝をつきかける。
――自分で言え。おまえが誰かを、あいつに決めさせるな。
カリンの声が飛ぶ。
「アリスちゃん!」
シンの声も重なる。
「アリス、草太の繭が解ける。今しかない」
草太の声。
「アリス……」
アリスは、立ち上がった。
黒い牙が迫る。
マッドイーターの声が、壁から天井から床から響く。
『ALICE-00』
『セーフィエルの人形』
『廃棄予定』
『代用品』
『名称未定義』
『空白』
『空白』
『空白』
アリスは、口を開いた。
「わたくしは、アリスです」
黒い牙が、一瞬止まる。
アリスは続けた。
「機械人形アリス」
胸の記録核が青白く光る。
「草太様を覚えているアリス」
繭の中で、草太が目を開く。
「草太様を救出するアリスです」
零式人格が内側で言った。
――悪くない。
アリスは、さらに前へ出た。
「わたくしの名前も、草太様の名前も、食べさせません」
黒い牙が弾かれた。
完全に砕けたわけではない。だが、アリスの名前へ食い込もうとしていた歯が、拒絶の光で押し返された。コード000は開いていない。メイルも不完全。シールドも食害に弱い。
それでも、今のアリスには別の防御があった。
自分で名乗ること。
誰かを呼ぶこと。
呼ばれた名前を、受け取ること。
カリンの大鎌が、繭の外殻にまとわりついた黒い鎖を刈った。
「アリスちゃん、行って!」
シンが端末を旧搬送ラインの制御盤に叩きつけるように接続する。
「草太の存在証明を現実側へ戻す。アリス、手を離すな」
「はい」
アリスは繭へ手を伸ばした。
黒い糸が手首に絡む。名前を食おうとする歯形が、アリスの腕に浮く。
零式人格が、内側で笑った。
――噛ませるかよ。
アリスの手が、草太の手に触れた。
温かかった。
機械人形の感覚センサーは、熱を数値として処理する。草太の手の表面温度、微細な震え、発汗、脈拍。それらすべてがログとして流れ込む。
だが、アリスが最初に認識したのは、数値ではなかった。
ここにいる。
草太は、ここにいる。
「アリス……?」
草太が、かすれた声で言った。
「はい。アリスでございます。草太様を迎えに来ました」
「俺、まだいる?」
「はい。草太様は存在しています」
草太の目に、涙が浮かんだ。
彼は泣きそうになりながら、笑った。
「アリスは、ちゃんとアリスだったよ」
アリスは、一瞬だけ言葉を失った。
ちゃんと。
アリス。
その二つの言葉が、記録核の中で強く結びつく。
アリスは、いつものように答えようとした。
「記録しました」
内側で零式人格が小さく言う。
――そこは、ありがとうって言っとけ。
アリスは、草太の手を握ったまま、少しだけ間を置いた。
「……ありがとうございます」
草太は、また笑った。
シンが叫ぶ。
「固定する。全員、衝撃に備えて」
端末の光が搬送ライン全体へ走る。
草太の名前が、繭の表面に浮かび上がる。草太。草太。草太。その文字を、シンの隔離式が現実側へ引き戻す。カリンが大鎌で黒い外殻を切り裂く。アリスが草太の手を引く。
繭が破れた。
草太の身体が現実へ戻る。
同時に、マッドイーターが咆哮した。
それは声ではない。食われた名前、欠けた登録番号、廃棄機体の残響、館内放送、草太の声、シンの偽名、ALICE-00の空白が混ざった、胃袋の断末魔だった。
カリンが本体へ踏み込む。
「名前を食べる怪物なんて、ほんとに掃除しがいがあるねぇ」
大鎌が巨大な黒い外殻を切り裂く。
シンが隔離式を展開する。
「ここで全部封じたいところだが、相手が悪い。都市怪異コードに違法記録の食害集合体。まったく、誰だこんな悪趣味なものを育てたのは」
「文句は後です」
アリスは草太を背に庇い、コード002〈シールド〉を展開した。食害を完全には防げない。だが、今度は名前を内側から固定している。先ほどより薄くならない。
マッドイーターの身体が崩れていく。
だが、完全には消えなかった。
黒い胃袋の奥に、別の口が開く。
そこに、ALICE-00完全記録の一部があった。
そして、シオン=ノインの断片。
暗い部屋。
眠る誰か。
小さな手。
少女の声。
『おとうさま』
マッドイーターは、それらを抱え込んだまま、旧搬送ラインのさらに奥へ逃げていく。
逃げ際に、声だけが残った。
『名前を呼ばれたものは、甘い』
アリスは顔を上げた。
『次は、呼ばれなかったものを食べよう』
『シオン』
『ノイン』
『おとうさま』
零式人格が沈黙した。
さっきまで怒鳴っていた声が、完全に黙る。
シンが端末を構える。
「ログを取る」
だが、表示された文字は次々に黒く食われた。
SHION。
NO.9。
SAFIEL。
おとうさま。
該当者なし。
LOST。
LOST。
LOST。
シンは歯を食いしばった。
「逃げられた。しかも、嫌なものを持っていった」
「追う?」
カリンが聞く。
大鎌はまだ手の中にある。追えるなら追う、という顔だった。
シンは首を振った。
「今は草太を戻すのが先だ。ここで追えば、全員まとめて胃袋行きだ」
アリスは、旧搬送ラインの奥を見た。
追いたい。
その判断が、一瞬だけ浮かぶ。
ALICE-00完全記録。
シオン=ノイン。
おとうさま。
零式人格の沈黙。
だが、腕の中に草太がいる。
草太の身体は重く、熱があり、呼吸が浅い。存在証明は戻ったが、まだ不安定だ。
アリスは判断を更新する。
「草太様の安全を優先します」
「いい判断だ」
シンが言った。
「珍しく褒めるね」
カリンが言う。
「珍しくではない。僕は評価が正当なだけだ」
「はいはい」
草太は、アリスの腕の中で小さく息をした。
「俺……戻った?」
「はい。現実側へ帰還しています」
「よかった……」
草太の意識はまだ朦朧としていた。だが、その声には、もうさっきまでの空白の恐怖はなかった。
シンは携帯端末を草太の観光パスへかざした。
「仮の存在証明を発行する。これで君は、少なくとも東タワーの中では草太だ」
「少なくともって怖いんですけど」
草太が弱々しく言う。
「完全復元には時間がかかる。だが、君自身が自分の名前を覚えていて、アリスが覚えていて、カリンが覚えている。それで骨は残る」
「骨って言い方、怖いです」
「シンくん、優しい言い方を仕入れてないから」
カリンが肩をすくめる。
「在庫切れでね」
シンは端末に表示された仮証明を確認する。
草太:仮復元。
存在証明:暫定有効。
外部記録:復旧待ち。
認識補助:必要。
「よし。ひとまず、君は君だ」
草太は、胸元の観光パスを見下ろした。
名前欄には、まだ少しにじんだ文字で、草太と表示されている。
彼はそれをしばらく見ていた。
そして、アリスを見た。
「ありがとう、アリス」
「どういたしまして、草太様」
草太は少し笑った。
「やっぱり、機械人形っていうか……アリスはアリスだよ」
アリスは、その言葉を保存した。
アリスはアリス。
草太の声で呼ばれた名前。
外部観測者による自己認識補強。
感情反応、未定義。
保存優先度、最高。
内側で、零式人格が小さく言った。
――……よかったな。
アリスは、その声も消さずに保存した。
廃棄機体搬出路の黒い脈動は、少しずつ収まっていった。壁に浮かんでいた歯形は薄れ、天井から降っていた登録番号の雨も止む。残響たちは壁際で動きを止め、搬送レールの奥へゆっくりと沈んでいく。
事件は、終わったように見えた。
少なくとも、草太は戻った。
西タワーの封鎖も、一部解除へ向かうだろう。東タワーの表層記録食害も、シンが復旧できる。観光客たちは、自分たちが忘れかけた少年のことを、あとから知るかもしれない。あるいは、知らないまま帰るかもしれない。
だが、完全には戻っていない。
シンの名前は、まだ一部しか戻っていない。
東タワーの地下記録は、食われたままの箇所がある。
ALICE-00完全記録の一部は、マッドイーターに奪われた。
シオン=ノイン断片は、アリスの記録核にも残っている。
マッドイーターは、完全には消滅していない。
シンは端末を閉じ、旧搬送ラインの奥を見た。
「事件としては解決に見える。実際には、扉が開いただけだね」
「嫌な言い方」
カリンが言う。
「優しい言い方は在庫切れだと言っただろう」
「仕入れて」
「検討しよう」
「それ、仕入れない返事だよねぇ」
「よくわかっている」
アリスは、二人の掛け合いを聞いていた。
その奥で、別の声が再生される。
『おとうさま』
少女の声。
自分ではない。
ALICE-00でもない。
もっと古い誰かの記録。
アリスは、それをまだ誰にも説明できなかった。
草太が、アリスの名前を呼ぶ。
「アリス」
アリスは草太を見た。
「はい」
「俺、忘れないよ。今日のこと、たぶん怖かったし、変だったし、正直、まだよくわかんないけど……アリスが来てくれたことは、忘れない」
「記録の保持を推奨します」
「うん。そうする」
草太は少しだけ笑う。
「アリスも、忘れないで」
「はい。草太様の記録は保存済みです」
「そういうんじゃなくて」
「では、どのような意味でしょうか」
草太は困ったように笑った。
「うまく言えないけど……覚えてて」
アリスは、一瞬だけ考えた。
記録すること。
覚えること。
同じではない。
けれど、今のアリスには、完全には違うとも言い切れなかった。
「はい」
アリスは答えた。
「覚えています」
その言葉を聞いて、草太は安心したように目を閉じた。
カリンが近づき、アリスの肩を軽く叩く。
「よくできました」
「わたくしは作業報告対象ですか」
「ううん。褒めただけ」
「褒められました」
「そうそう」
シンが横から言う。
「では、帰ろう。地上に戻れば、後処理と請求書と面倒な説明が待っている」
「請求書、今言う?」
「大事なことは忘れないうちに言うべきだ」
カリンは呆れたように笑った。
アリスは草太を支えながら、廃棄機体搬出路を振り返った。
黒い胃袋の気配は薄れている。
だが、奥にまだ何かがいる。
呼ばれなかったもの。
名前をもらえなかったもの。
おとうさま、と呼んだ少女。
草太に名前を呼ばれたアリスの奥で、まだ名前を呼ばれなかった少女の声が、静かに目を覚ました。




