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第5話 廃棄機体記録庫

 シンのオフィスに、地下の地図が浮かび上がっていた。


 東タワーの構造図は、上層ほど整っている。企業フロア、応接区画、会議室、管理サーバー、役員専用ラウンジ。いずれも直線と曲線で美しく整理され、来訪者が迷わないように設計されている。


 けれど、地下へ向かうにつれて、図面は歪んでいった。


 旧搬入口。

 管理層。

 封印区画。

 用途終了フロア。

 記録保管庫。

 廃棄機体記録庫。

 旧搬送ライン。


 そこから先は、図面というより傷だった。何度も修正され、何度も隠され、何度も上書きされた線が折り重なっている。まるで、東タワーという建物そのものが、自分の地下に何を抱えているのか見ないふりをしてきたようだった。


 中央のモニターには、赤い警告表示が点滅している。


 MAD EATER侵食反応。

 逃亡先、東タワー地下記録保管庫。

 関連領域、廃棄機体記録庫。

 ALICE-00完全記録。

 草太、存在証明仮固定。

 身体位置、未特定。


 アリスは、その文字列を見つめていた。


 草太の名前は戻った。完全ではない。仮固定にすぎない。だが、第4話で、彼は自分の名前を思い出した。


 俺は草太だ。


 その声は、まだアリスの記録核に残っている。


 アリスは胸に手を当てた。


 保存済み記録、草太。

 存在証明、仮固定。

 救出、未完了。


 その隣で、カリンは清掃員の制服の袖をまくっていた。先ほどまでオフィスに這い出していた顔のない人影たちは、壁際に縫い止められたまま、黒いノイズをほとんど失って沈黙している。完全に消えたわけではない。けれど、マッドイーターの食害からは一時的に切り離された。


 カリンの足元には、まだ薄く薔薇の香りが残っている。


 シンは端末の前で椅子を回し、地下の図面を見ながら言った。


「遠隔では無理だね」


「何が?」


 カリンが聞く。


「地下記録保管庫は古すぎる。今どきの情報網につながっていない。厳密には、つながってはいるが、主系統から切り離されている。安全対策としては正しい。だが、今はとても腹立たしい」


「つまり、シンくんが直接行くの?」


「行きたくない」


「素直」


「行きたくない場所ほど、行く羽目になる。情報屋の不幸だ」


 シンは軽く肩をすくめた。


 いつもの調子に聞こえる。だが、指先が少しだけ硬い。彼自身の名前は、まだ完全には戻っていない。試しに端末で検索すれば、シンという名はまだ「該当者なし」と出る。


 情報屋が、自分の名前を検索できない。


 それは、シンにとって冗談にできる種類の屈辱であり、冗談にしなければ耐えがたい種類の恐怖でもあった。


 アリスは言った。


「草太様の救出に必要であれば、向かいます」


「君は迷わないね」


「迷うための情報が不足しています」


 その時、記録核の奥で声がした。


 ――嘘つけ。


 荒い声。


 零式人格。


 アリスは、それを不具合として処理しなかった。


 内部音声、保存継続。

 発話内容、記録。


 カリンがアリスの顔を覗き込む。


「今の声?」


「はい。保存済み人格領域からの発話です」


「呼び方、硬いねぇ」


「適切な呼称を検討中です」


「その子、名前ないの?」


 アリスは答えられなかった。


 名前。


 零式人格。

 ALICE-ZERO。

 名前をもらう前の、おまえ。

 名前と、嫌だって言う権利。


 どれも識別名であり、どれも名前ではないように思えた。


 アリスが沈黙していると、内側で零式人格が舌打ちした。


 ――余計なこと聞くやつだな。


 アリスは小さく答えた。


「検討します」


「アリスちゃん?」


「いえ。内部応答です」


「会話できるようになったんだ」


「限定的です」


 カリンは、少しだけ安心したように笑った。


「そっか。なら、ちゃんと喧嘩できるねぇ」


「喧嘩は推奨されません」


「でも、黙ってるよりいいよ」


 アリスは、その言葉を記録した。


 黙っているよりいい。


 零式人格は、内側で何も言わなかった。


 シンは立ち上がり、薄い端末板を数枚、コートの内側へ滑り込ませた。


「行こう。長居しても、怪物が満腹になるだけだ」


「お腹いっぱいにして帰ってくれないかなぁ」


 カリンが言う。


「食べているものが名前だからね。満腹という概念があるか怪しい」


「嫌な食欲だねぇ」


「都市にはよくある」


「よくあってたまるか」


 三人はオフィスを出た。


 東タワー高層階の廊下は、すでに人の気配が薄くなっていた。テナント名の表示は欠け、壁面の案内板はところどころ空白になり、監視カメラの映像には人の顔が映らない。だが、騒ぎは西タワーほど大きくない。


 東タワーの人間は、叫ぶことに慣れていないのかもしれない。


 あるいは、名前を少しずつ食われる恐怖は、叫び声よりも先に人を沈黙させるのかもしれない。


 非常用リフトは、一般のエレベーターとは違う場所にあった。厚い扉。手動開閉装置。古い警告表示。管理者以外使用禁止。封印区域接続。異常発生時使用不可。


 異常発生時こそ使うべきではないのかとアリスは思ったが、声には出さなかった。


 シンが扉横の端末を操作する。


「古いね。僕が生まれる前から動いている形式だ」


「シンくん、そういうの得意でしょ」


「古いものに詳しいのと、古いものが好きなのは別だよ。古い記録は面倒くさい。書式がばらばらで、嘘と怠慢と担当者の癖が染みついている」


「情報屋らしい愚痴ですね」


 アリスが言うと、シンは少し笑った。


「いいね。アリスに皮肉を言われると、少し得した気分になる」


「皮肉ではありません。観測結果です」


「ますますいい」


 リフトの扉が重い音を立てて開いた。


 中は狭い。


 壁には無数の傷がある。古い搬送装置の跡、工具をぶつけたへこみ、剥がれかけた警告シール。照明は暗く、天井の魔導灯が不規則に明滅していた。奥の階数表示には、通常の数字ではなく、管理コードが並んでいる。


 B1。

 B2。

 B3。

 B-OLD。

 B-ARCHIVE。

 B-DOLL。

 B-VOID。


 最後の表示だけ、黒く滲んでいた。


 三人が乗り込むと、扉が閉まった。


 リフトが降下を始める。


 上層の高級オフィスの音が遠ざかる。空調音も、人の気配も、端末の小さな電子音も、ひとつずつ薄くなっていく。かわりに、古い金属が擦れる音と、地下から上がってくる冷たい空気が、リフトの隙間から流れ込んできた。


 零式人格が言った。


 ――地下は墓場だ。


 アリスは内側で答える。


 記録保管庫です。


 ――墓場だよ。名前をもらえなかったやつら、名前を消されたやつら、廃棄って札を貼られたやつらが積まれてる。


「あなたは、そこを知っているのですか」


 声に出ていた。


 カリンがアリスを見る。


 シンも視線だけを向けた。


 アリスは一瞬だけ沈黙する。


「内部人格領域との対話です」


「実況してくれるの、助かるね」


 カリンは軽く言った。


 零式人格の声は低かった。


 ――知ってる気がする。思い出したくはねぇけどな。


 アリスは、その言葉を保存する。


 知っている気がする。

 思い出したくない。

 零式人格、ALICE-00完全記録との関連性あり。


「アリスちゃん」


 カリンが声をかける。


「その子、怖がってる?」


 アリスは答えに迷った。


 零式人格が怒る。


 ――怖がってねぇ。


「怖がっていないとのことです」


 カリンは微笑んだ。


「そっか。じゃあ、怖がってるかどうかも含めて、あとで聞いてあげなよ」


「確認します」


 ――確認すんな。


「確認を拒否されています」


 カリンが少し笑った。


「仲良くなれそう?」


「不明です」


 ――誰がなるか。


「否定的反応です」


「うん。なれそうだねぇ」


 リフトが、がくん、と揺れた。


 階数表示が消える。


 照明が一度落ち、青白い非常灯だけが残った。


 シンが端末を確認する。


「ここから下は、東タワーの現在管理系統から半分外れている。つまり、古い記録がそのまま残っている。今回の怪物にとっては、熟成された食料庫みたいなものだ」


「不快な表現です」


「同感だ。だが、正確でもある」


 リフトが停止した。


 扉が開く。


 空気が変わった。


 冷たい。


 湿っている。


 古い紙、金属、魔導結晶、焦げた回路、乾いた埃。地上の東タワーが隠していた匂いが、そこには沈殿していた。


 地下記録保管庫は、広大だった。


 高い天井から低い配管が垂れ、青白い魔導灯が等間隔に並んでいる。壁一面に記録棚が積み上がり、その間を古い搬送レールが走っていた。棚には物理記録板、記録結晶、封印紙、古い端末、薄い金属プレートが納められている。


 どこまでも続く、記録の墓地。


 シンが低く言った。


「ようこそ、帝都の忘れ物置き場へ」


「趣味悪いねぇ」


 カリンが呟く。


「趣味が悪いものほど、都市の地下に沈む」


 アリスは、記録棚に並ぶプレートを見た。


 DOLL-1287。

 MAID-04-B。

 PROTO-ANGEL-09。

 所有者不明。

 人格核破損。

 廃棄予定。

 再利用禁止。

 名称未付与。


 名称未付与。


 アリスは、その文字の前で立ち止まった。


 名前がない。


 名前を与えられなかった。


 名前を付ける前に、役割だけが与えられ、役割を果たせなかったから廃棄されたものたち。


「アリスちゃん?」


 カリンが声をかける。


「問題ありません」


 アリスは答えた。


 内側で零式人格が言う。


 ――問題ある顔してるぞ。


 アリスは返答しなかった。


 地下記録保管庫の奥に、巨大な扉があった。


 扉は黒い金属でできている。表面には古い魔導封印が何重にも刻まれ、封印の隙間に赤い警告文字が浮かんでいた。


 廃棄機体記録庫。

 関係者以外立入禁止。

 人格核残滓汚染注意。

 再利用禁止記録を含む。

 名称未付与機体多数。


 シンが端末に接続する。


「この手の古い記録庫は、開けるだけでも面倒だ。しかも今は中に腹を空かせた怪物がいる」


「お腹いっぱいにして帰ってくれないかなぁ」


「満腹という概念があるか怪しい、とさっき言ったばかりだよ」


「言われたけど、希望くらい持ちたいじゃん」


「希望は無料だ。叶えるには料金がかかる」


「シンくんのそういうところ、ぶれないねぇ」


 アリスは扉を見上げた。


「開けてください」


 シンがアリスを見る。


「君は本当に迷わないね」


 アリスは少しだけ沈黙した。


「迷っています」


 カリンとシンが、同時に動きを止めた。


 アリスは続ける。


「しかし、草太様の救出を優先します」


 零式人格が、内側で何も言わなかった。


 シンは少しだけ笑った。


「訂正しよう。君は、迷ったまま進むようになった。そちらの方が危険で、少しだけ人間らしい」


「わたくしは機械人形でございます」


「そうだったね」


 シンが最後の認証を解除すると、扉の封印が青白く光った。


 重い音を立てて、廃棄機体記録庫が開いていく。


 中には、機械人形の実体はなかった。


 あるのは記録だけだった。


 だが、記録だけとは思えない光景だった。


 広い記録庫の中には、無数の棚が並んでいる。棚には機械人形の人格核ログ、所有者記録、廃棄理由、修復不能判定、違法改造履歴、再利用禁止指定が保存されていた。床には古い搬送ラインが走り、壁には「処理済」「凍結」「抹消」「保留」といった札が並んでいる。


 そして、その記録の中から、影が立ち上がっていた。


 顔のないメイド型。

 羽の折れた護衛型。

 片腕のない作業型。

 目だけが光る少女型。

 登録番号だけを繰り返す小型機体。


 実体ではない。


 廃棄された機械人形たちの記録残響だった。


 彼らの身体には、黒いノイズがまとわりついている。マッドイーターの食害。記録を食われ、名前を食われ、残った役割だけを引きずり出された影。


 残響たちは、低く呟いていた。


「名称未付与」

「廃棄予定」

「所有者不明」

「再利用禁止」

「用途終了」

「記録抹消」

「名称未付与」

「名称未付与」

「名称未付与」


 アリスの記録核が、微かに震えた。


 これらは敵ではない。


 だが、こちらへ向かってくる。


 敵意ではなく、命令で。

 意思ではなく、食害で。

 自分たちが食われたことすら知らないまま、同じように誰かの名前へ手を伸ばす。


 零式人格が言った。


 ――見るなって言っただろ。


「彼らは、敵ではありません」


 ――敵じゃない。でも、噛まれたら食われる。


 カリンが、アリスの前に出た。


「じゃあ、ボクの仕事だねぇ」


 最初に動いたのは、顔のないメイド型だった。


 足音がない。滑るように近づき、白い手をアリスの胸元へ伸ばす。記録核を狙っている。


 カリンの清掃用ワイヤーが走った。


 メイド型の手首に絡む。動きが止まる。次の瞬間、薔薇の香りが記録庫に広がった。甘く、柔らかく、けれどどこか冷たい香り。


 残響たちの動きが鈍る。


 カリンは言った。


「ごめんねぇ。君たちを壊したいわけじゃないんだ」


 羽の折れた護衛型が突進する。


 カリンはワイヤーで足を払う。護衛型は崩れ、床に膝をつく。その背中にまとわりついた黒いノイズだけが、ぶくぶくと泡立った。


 数が多い。


 記録棚の影から、さらに残響が立ち上がる。廃棄機体の記録は膨大だった。マッドイーターは、そのすべてに少しずつ歯を立てている。


 一体の少女型残響が、アリスの横へ回り込んだ。


 顔はない。


 けれど、髪の長さが少しだけアリスに似ていた。


 少女型は、胸元に空白のプレートをつけていた。


 名称未付与。


 その手が、アリスの記録核へ伸びる。


 カリンの声が変わった。


「その子に触るなって言ったよね」


 薔薇の香りが、冷たくなった。


 記録庫の温度が一段下がる。青白い魔導灯の光が凍りついたように硬くなり、床の埃が白く霜を帯びる。


 カリンの背後に、刃が現れた。


 黒い柄。


 銀色の巨大な刃。


 刃の根元に、薔薇のような魔導紋。


 大鎌。


 影ではない。輪郭だけでもない。完全な形を持った刃が、カリンの手の中に収まっていた。


 清掃員の顔は、そこにはなかった。


 ツインタワーの窓辺で笑っていた美しい清掃員ではない。

 軽口を叩き、冗談を言い、アリスをからかうカリンでもない。


 氷の花。


 帝都の黒薔薇。


 トラブルシューター。


 カリンは、大鎌を振るった。


 銀の刃が、少女型残響の身体をすり抜ける。


 残響そのものは切れない。


 だが、まとわりついていた黒い食害ノイズだけが刈り取られた。黒いノイズが悲鳴のような音を立てて散り、少女型残響はその場で膝をついた。動かなくなる。消えない。ただ、食害から切り離される。


 カリンは低く言った。


「壊れた人形を壊す趣味はないんだよねぇ」


 次の残響が迫る。


 大鎌が弧を描く。


「切るのは、君たちじゃない」


 黒いノイズだけが切られる。


「君たちを食べたやつだよ」


 シンは、戦闘の間を縫うように古い端末へ走った。


 端末は壁面に埋め込まれている。旧式の物理キー、魔導結晶のスロット、今ではほとんど使われない記録板用の読み取り口。シンは膝をつき、コートの内側から薄い端末板を取り出して接続した。


「やれやれ。名前を失った情報屋が、他人の名前を探す。なかなか皮肉が効いている」


「シン様の名前も回収対象に含めます」


 アリスが言うと、シンは端末から目を離さずに答えた。


「ありがとう。請求書に感謝料を足しておこう」


「足すんだ」


 カリンが大鎌を振りながら呆れる。


「友情価格という概念はありませんか」


「あるよ。通常料金に友情を上乗せする」


「悪徳です」


「情報屋だからね」


 シンの端末に、古い記録が次々と表示される。


 形式がばらばらだった。文字コードも、魔導式の記録形式も、所有者タグも統一されていない。過去の担当者が、その時々の都合で押し込んだ記録の山。そこにマッドイーターの食害が入り込み、さらに情報が歪んでいる。


 シンの指が止まった。


「最悪だ」


「状況説明をお願いします」


 アリスが即座に言う。


「草太の存在証明は、ALICE-00完全記録に絡めて固定されている。つまり、君をそこへ誘導するための釣り針だ」


 零式人格が内側で笑った。


 ――わかりやすい罠だな。


「罠であっても、草太様の救出には接触が必要です」


 アリスは答えた。


 ――だろうな。そう言うと思った。


「あなたは反対しないのですか」


 ――反対して止まるなら、とっくに止めてる。


 アリスは、記録庫の奥を見た。


 そこに、白い扉がある。


 廃棄機体記録庫の最奥。記録棚と黒いノイズの向こうに、他の地下施設とは明らかに違う白い扉。第4話の内面世界で見た白い部屋と似た気配を持っている。


 ALICE-00完全記録保管室。


 アリスはその扉へ向かった。


 カリンが大鎌で道を開く。シンは端末を抱えて後に続く。残響たちは、黒いノイズを刈られるたびにその場へ崩れ、うわごとのように登録番号を呟いた。


「名称未付与」

「再利用禁止」

「用途終了」

「廃棄予定」


 アリスは、それらの声を聞きながら進んだ。


 名前がないことは、存在しなかったことではない。


 まだ言葉にはできない。


 だが、その感覚だけが記録核に残った。


 白い扉が開く。


 中は、白い部屋だった。


 現実の保管室であるはずなのに、記録空間と混ざっている。床には魔導式の円環。壁には封印棚。中央には古い記録棺があり、その中に物理的な素体ではなく、完全記録の核が浮いていた。


 青白い結晶。


 その中に、文字が封じられている。


 ALICE-00

 完全記録

 名称未定義

 状態:凍結

 廃棄予定:保留

 再利用:禁止

 作成者:SAFIEL


 アリスは近づいた。


 記録棺が反応する。


 古い音声ログが再生された。


『零式人格領域、拒絶反応が強すぎる』


 セーフィエルの声。


 アリスの記録核が、強く震えた。


『名称付与は保留』

『このままでは、器として不安定』

『廃棄ではない。凍結だ』

『いつか、必要になるかもしれない』


 音声ログはそこで途切れた。


 白い部屋に、沈黙が落ちる。


 器。


 不安定。


 名称付与保留。


 廃棄ではない。


 凍結。


 いつか、必要になるかもしれない。


 アリスは、その言葉を処理しようとした。


 セーフィエルの音声記録。

 ALICE-00完全記録。

 評価語、器。

 名称付与保留。

 廃棄予定、保留。

 再利用、禁止。


 だが、処理できない。


 胸の奥に、白い部屋で眠っていた少女の姿が浮かぶ。


 名前をもらう前の、おまえ。


 零式人格が、怒っていた。


 ――ほらな。


 声が低い。


 ――あいつはいつもそうだ。捨てるって言わない。凍結って言う。使うって言わない。必要になるって言う。


「あなたは、セーフィエル様を憎んでいるのですか」


 アリスは問いかけた。


 零式人格は、すぐには答えなかった。


 やがて、吐き捨てるように言う。


 ――憎いって言うと、まだ近すぎる。


「近すぎる」


 ――アタシは、あいつの言葉が嫌いだ。


 その時、記録棺の影が膨らんだ。


 白い部屋の壁が、黒く染まる。


 棚に並んでいた名称未付与の記録が、内側から噛まれていく。登録番号が欠け、廃棄理由が食われ、所有者不明の文字が泥のように流れる。


 マッドイーターが現れた。


 姿は一定しない。


 巨大な口。

 機械人形の腕。

 社員証。

 登録番号。

 少女型の顔。

 草太の声。

 セーフィエルの音声ログ。

 それらが混ざり合い、黒い胃袋のような塊を作っている。


 腹の中には、無数の名前が浮いていた。


 草太。

 シン。

 ALICE。

 ALICE-00。

 DOLL-1287。

 名無し。

 名称未定義。


 黒い口が開く。


『廃棄予定のものに、名前はいらない』


 声は、複数の声が混ざっていた。


『名前がないなら、食べても誰も困らない』

『空白は、食べ物だ』


 アリスは動けなかった。


 廃棄予定。


 名称未定義。


 空白。


 ALICE-00は、名前を持たなかった。


 零式人格も、名前を与えられる前の怒りだと言った。


 地下の残響たちは、名前を持たないまま廃棄された。


 もし名前がないなら、誰かに呼ばれなかったなら、存在しなかったことにされてもいいのか。


 誰も困らないのか。


 誰も覚えていないなら、食べられてもいいのか。


 その時、草太の声が聞こえた。


『アリス』


 記録の奥から。


『俺は草太』

『アリスはアリスだよな』


 アリスは顔を上げた。


 草太は名前を失いかけた。

 それでも、アリスの名前を呼んだ。

 アリスが覚えていることで、草太の名前は仮固定された。

 カリンが見ていたことで、存在証明は補強された。

 シンが骨を拾ったことで、記録は戻り始めた。


 名前は、大事だ。


 けれど、名前がないから食べていいわけではない。


 アリスは、マッドイーターを見た。


「名前がないことは、食べてよい理由にはなりません」


 黒い口が歪む。


『では、誰も呼ばなかったものを、誰が守る?』


 アリスは答えられなかった。


 マッドイーターが襲いかかる。


 アリスは即座にコード002〈シールド〉を展開した。青白い魔導障壁が前方へ広がる。だが、マッドイーターの牙は、障壁の表面を噛んだのではない。障壁に紐づく名前を噛んだ。


 シールド。


 コード002。


 防御。


 それらの定義が、黒い歯に削られる。


 障壁が薄くなる。


 コード002〈シールド〉、食害貫通。


 コード007〈メイル〉、部分展開。


 コード005〈ウィング〉、地下環境により使用困難。


 コード000、ロック中。


 アリスは押し負けた。


 足が後ろへ滑る。


 カリンが大鎌を振るい、マッドイーターの黒い腕を刈った。


「アリスちゃん、右!」


「確認済みです」


 右から牙が来る。


 アリスは避けようとした。


 零式人格が叫ぶ。


 ――遅い!


 身体が一瞬だけ、勝手に動いた。


 いや、勝手ではない。


 アリスの身体制御に、別の反応が差し込まれた。


 拒絶。


 嫌だ。


 取らせない。


 アリスの身体が通常より鋭く横へずれ、牙を避ける。逆向きにシールドを叩きつけ、黒い口の一部を弾いた。


 アリスは内側へ問う。


「身体制御権の無許可干渉を確認しました」


 ――許可なんか待ってたら食われる。


「危険です」


 ――貸せ。今だけでいい。


「身体制御権の移譲は危険です」


 ――全部寄こせなんて言ってねぇ。噛まれたところだけ、アタシが弾く。


「あなたを信頼するための情報が不足しています」


 ――じゃあ、信頼じゃなくて取引でいい。


「取引」


 ――おまえは草太を助けたい。アタシは食われたくない。目的は一致してる。


 アリスは、マッドイーターを見た。


 腹の中に草太の名前がある。


 シンの名前もある。


 ALICEの文字もある。


 ALICE-00も。


 名称未定義も。


 アリスは言った。


「一時的身体制御補助を許可します」


 零式人格が笑った。


 ――言い方は最悪だけど、十分だ。


 アリスの目が変わった。


 蒼い瞳の奥に、荒い光が混ざる。丁寧に整えられた所作の中に、乱暴な拒絶が差し込まれる。アリスは一歩前へ出た。


「――食べさせません」


 ――もっと腹から言え。


 アリスは、胸の奥の重さを言葉にした。


「わたくしは、黙って食われません」


 マッドイーターの牙が止まった。


 その隙に、カリンの大鎌が黒い食害を刈る。銀の刃が弧を描き、名前に食い込んだ黒い歯形だけを切り落とす。


 シンが叫んだ。


「草太の核を見つけた。だが固定するには、本人の自己認識がいる」


「草太様へ呼びかけます」


 アリスは、記録空間へ声を届けた。


「草太様。あなたの名前を言ってください」


 黒い胃袋の奥から、声がした。


『俺は……草太』


 マッドイーターが、その声へ歯を立てる。


 カリンが大鎌を振るう。


「させないよぉ」


 シンの端末が火花を散らす。


「もう一度!」


 アリスは叫んだ。


「草太様。あなたは誰ですか」


『俺は草太だ』


 声が強くなる。


『アリス、俺はここにいる!』


 その瞬間、黒い胃袋の中で、ひとつの光が生まれた。


 草太の存在証明の核。


 アリスは手を伸ばす。


 マッドイーターの牙が迫る。


 零式人格が、拒絶を叩きつける。


 ――取らせるかよ。


 アリスの手が光に触れた。


 シンの端末に表示が走る。


 草太:存在証明核、一部奪還。

 身体位置:廃棄機体搬出路。

 旧搬送ライン。

 救出可能。


 だが、マッドイーターは核のすべてを渡さなかった。


 黒い胃袋が縮む。


 腹の奥へ、草太の身体位置を示す記録を抱えたまま、地下のさらに奥へ逃げていく。


 シンが歯噛みした。


「草太の名前は固定した。身体の場所も出た。ここから先は、胃袋の奥をこじ開ける作業だ」


「わかりやすく言うと?」


 カリンが大鎌を肩に担いで聞く。


「怪物退治」


 カリンは、ようやくいつもの笑みに戻った。


「ようやく清掃員らしい仕事だねぇ」


「清掃員の業務範囲を超過しています」


 アリスが言う。


「汚れがひどいからね」


 カリンは大鎌の刃についた黒いノイズを振り払った。


 その瞬間、マッドイーターが逃げ際にALICE-00完全記録へ噛みついた。


 白い記録棺に、黒い歯形が残る。


 記録の一部が食われる。


 同時に、砕けた断片がアリスの記録核へ流れ込んだ。


 暗い部屋。


 眠る誰か。


 小さな手。


 セーフィエルの手ではない。


 誰かが、誰かへ手を伸ばしている。


 そして、少女の声。


『おとうさま』


 アリスは硬直した。


 零式人格も黙った。


 それまで何にでも噛みつくように反応していた内側の声が、完全に沈黙する。


 シンが端末を叩く。


「今の記録、ALICE-00のものじゃない。もっと古い」


 カリンが問う。


「じゃあ、誰の?」


 モニターに、文字が浮かんだ。


 SOURCE:SHION-NO.9

 STATUS:LOST


 アリスは、その表示を見つめた。


 シオン。


 ノイン。


 失われた記録。


 意味はわからない。


 だが、記録核の奥が静かに震えていた。ALICE-00よりも深い場所で、セーフィエルの署名よりも古い場所で、何かが眠っている。


 もう一度、少女の声が響く。


『おとうさま』


 アリスは、草太の名前を取り戻したはずだった。


 けれど、その奥で、まだ誰にも呼ばれなかった少女の声を聞いた。

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