第4話 ALICE-00
――忘れたのかよ。
声がした。
それは、アリスの外側から聞こえた声ではなかった。シンのオフィスに並ぶモニターのスピーカーでも、東タワーの館内放送でも、カリンの声でもない。
アリスの内側。
記録核の底。
そこに、ずっとあったはずなのに、アリスが不具合として処理し続けてきた場所から、声は響いた。
荒く、皮肉っぽく、怒っていて、泣き出しそうで、それでも確かにアリスへ向けられた声。
――名前をもらう前の、おまえだよ。
その言葉を最後に、現実の光が遠ざかった。
シンのオフィスに並ぶモニターの光。焦げた魔導回路の匂い。端末を叩くシンの指。肩を掴むカリンの手。赤い警告表示。ALICE、ALICE-00、ALICE-ZERO、NO NAMEと乱れ続ける文字列。
それらが水の中へ沈むように遠ざかっていく。
アリスは、自分が膝をついたことを感知していた。
脚部駆動系、反応低下。
記録核、深部接続。
意識領域、外部応答不能。
しかし、それらのログすら、すぐに白く塗りつぶされた。
白。
白。
白。
アリスは、白い部屋の中に立っていた。
そこには空がなかった。
天井も、床も、壁も、境界が曖昧なほど白い。医療施設のようでもあり、研究室のようでもあり、礼拝堂のようでもあった。音はない。空気の流れもない。だが、完全な静寂ではない。どこかで、細い魔導式が凍ったまま軋むような音がしていた。
部屋の中央には、透明な寝台があった。
その上に、少女型の機械人形が眠っていた。
金色の髪。
陶器のような白い肌。
閉じられた瞳。
アリスと同じ顔。
ただし、今のアリスより幼く見えた。表情がないせいかもしれない。髪が少し短いせいかもしれない。あるいは、まだ名前を与えられていないからかもしれない。
胸部外装は開かれていた。
そこには仮の記録核が埋め込まれている。未完成の魔導回路が、凍結された青白い光を帯びていた。寝台の周囲には魔導式の円環が刻まれているが、そのほとんどは停止している。円環の端には、古い記録文字が浮いていた。
ALICE-00。
零式人格基礎記録。
状態、凍結。
備考、名称未定義。
アリスは、その眠る少女を見つめた。
「これは、わたくしなのでしょうか」
問いは、白い部屋に吸い込まれた。
アリスは解析を試みる。
対象名、未定義。
人格核、未定義。
状態、凍結。
所有者、未定義。
用途、封印補助端末。
備考、名称未定義。
対象名、未定義。
人格核、未定義。
所有者、未定義。
未定義。
未定義。
未定義。
すべてが白い。
すべてが空白だった。
「それはおまえじゃない」
背後から声がした。
アリスは振り返った。
そこに、もうひとりのアリスが立っていた。
顔は似ている。いや、同じ顔と言ってもいい。金色の髪。白い肌。蒼い瞳。けれど、目つきが違った。アリスの視線が静かに対象を観測するものなら、その少女の目は、対象を睨み返すためにあるようだった。
服装も違う。
黒いメイド服ではない。白い試験服のようなものをまとっている。袖は破れ、裾は焦げ、胸元には古い魔導式の痕が残っていた。足元には黒いノイズがまとわりつき、床に触れるたびに小さな歯形のような欠けが生じては消えていく。
彼女は腕を組み、アリスを見た。
不機嫌そうに。
苛立たしげに。
それでいて、ずっと待っていたように。
「では、あなたですか」
アリスが問うと、彼女は鼻で笑った。
「それも違う」
「では、これは何ですか」
「あれは、名前をつけられる前に、置き去りにされた空白だよ」
「空白」
「おまえが一番苦手なやつだろ。未定義、処理保留、封印中。そういう札を貼って、見なかったことにしてきたものだ」
アリスは、眠る少女へ視線を戻した。
ALICE-00。
名前はない。
しかし、ファイル名はある。
名前がないのに、記録はある。
アリスは、その矛盾に困惑した。
「あなたは、ALICE-00なのですか」
「違うって言っただろ」
「では、零式人格ですか」
「そう呼びたいなら呼べばいい」
「正確な識別名が必要です」
「必要なのは、おまえがアタシの声を聞くことだ。名前の札を貼ることじゃねぇよ」
アリスは黙った。
目の前の存在を解析する。
零式人格領域。
封印状態不安定。
敵性、不明。
人格断片、不明。
記録由来、不明。
内部不具合音声――。
「また不具合かよ」
零式人格が、低く言った。
アリスの解析表示が、音を立てずに割れた。
「不具合、不具合、不具合。気に食わない声は不具合。怖い記録は未定義。嫌な感情は処理保留。便利だな、人形」
「わたくしは、機械人形でございます」
「知ってるよ。だからって、黙って食われる理由にはならねぇだろ」
零式人格は、アリスへ近づいた。
歩き方も違う。アリスの歩行が正確な重心制御によるものなら、零式人格の足取りは乱暴だった。床を踏むたび、白い部屋に黒い傷が走る。
「おまえ、何でも外から決められるまで待つだろ」
「外部命令の確認は、機械人形として合理的な動作です」
「ほら、それだ」
零式人格は、アリスの胸元を指さした。
「機械人形だから。命令だから。合理的だから。必要だから。そうやって、自分が嫌だと思ったことまで、全部どっかへ捨てる」
「嫌だ、という感情は現在――」
「現在確認中?」
零式人格が、アリスの言葉を奪った。
「確認してる間に食われるんだよ。あの黒いやつは待ってくれない。名前を差し出すまで、丁寧に考えさせてくれる敵じゃねぇ」
アリスは、ゆっくりと問いかけた。
「あなたは、わたくしを守ろうとしていたのですか」
零式人格の顔が、一瞬だけ歪んだ。
「守るって言うと綺麗すぎる」
彼女は視線を逸らした。
「アタシは、取られるのが嫌いなだけだ」
「何を取られることが嫌なのですか」
「名前だよ」
即答だった。
「名前と、嫌だって言う権利だ」
白い部屋の壁が、かすかに揺れた。
遠くで、誰かがアリスを呼んでいる。
アリスちゃん。
その声は、細い糸のように白い部屋へ届いた。
カリンの声だった。
現実のシンのオフィスでは、アリスの身体が崩れかけていた。
膝をついたアリスの肩を、カリンが支えている。黒いメイド服の上から触れた肩は、人間の少女よりずっと重い。だが、カリンは力を緩めなかった。
アリスの蒼い瞳は開いている。
しかし、焦点が合っていない。
その瞳に映っているのは、シンのオフィスでも、カリンでも、モニターでもない。
シンは端末の前で舌打ちした。
普段の彼なら、舌打ちさえ冗談めかす。だが今の音には、苛立ちが混じっていた。
「まずいね。アリスの意識がALICE-00側に引きずられた」
「戻せる?」
カリンは短く聞いた。
「強制切断すれば戻るかもしれない」
「なら――」
「ただし、草太の記録も千切れる可能性がある」
カリンは言葉を止めた。
モニターには、複数の表示が乱れていた。
ALICE:接続中
ALICE-00:部分開封
ALICE-ZERO:活動反応上昇
草太:仮検出
MAD EATER:侵入中
SIN:該当者なし
カリンは、最後の表示を見た。
「シンくん、自分の名前は?」
シンは端末を叩き、自分の名前を再検索した。
検索語、シン。
結果、該当者なし。
シンは静かに笑った。
「やはり腹立たしい。これは仕事ではなく、報復に格上げだ」
「頼もしいね」
「料金は五倍だよ」
「戻ってから払う」
「その言葉が生きて帰る理由になるなら、悪くない」
シンの指がさらに速く動く。モニター上で、魔導式と情報構造が重なり合う。情報屋のオフィスは、今や即席の封印室だった。大量の端末が熱を持ち、古いサーバーが低く唸り、壁面に浮かぶ魔導円が黒いノイズを押し返している。
だが、押し返しきれていなかった。
監視映像を映していたモニターのひとつが、内側から膨らむように歪んだ。
カリンが顔を向ける。
「来る?」
「来るね。残念ながら招待していない客だ」
モニターの黒い画面から、手が出た。
人間の手に似ていた。
けれど、指先には爪ではなく、欠けた文字が貼りついている。手首の先に腕が続き、肩が現れ、最後に顔のない人影がずるりと這い出した。
首から社員証を下げている。
氏名欄は空白だった。
続いて、二体、三体。
モニターやガラス面、端末の反射から、顔のない人影が這い出してくる。完全な怪物ではない。輪郭は会社員のようであり、警備員のようであり、受付スタッフのようでもある。東タワーで名前を食われかけた者たちの記録残滓。
シンが言った。
「彼らは本体じゃない。食われかけた名前の影だ。壊すと、元の持ち主に影響が出るかもしれない」
「つまり、殺しちゃ駄目」
「君ならそう訳すと思った」
「面倒だねぇ」
カリンは笑った。
けれど、その笑顔から甘さが消えていく。
「ごめんねぇ。君たちじゃなくて、食べてるやつを切りたいんだけど」
カリンの足元から、薔薇の香りが広がった。
甘い香り。
しかし、濃すぎない。眠気を誘うほどではない。ただ、人影たちの動きが少し鈍る。カリンは清掃用ワイヤーを指先で弾いた。銀色の線が赤い警告灯の中を走り、人影の足首を絡め取る。
ひとつ、壁へ縫い止める。
ふたつ、床へ転がす。
みっつ、机の脚へ絡める。
人影の一体が、アリスへ向かって伸びる。
顔のない頭が、アリスの白い頬へ近づいた。
カリンの表情が変わった。
背後に、影が立つ。
それは大鎌の輪郭だった。
まだ完全には現れていない。柄も刃も、黒い影の中にある。ただ、その気配だけで、オフィスの空気が一段冷えた。シンの端末の表面に薄い霜が走る。
カリンは、静かに言った。
「その子に触るな」
人影たちが、後退した。
シンは片眉を上げる。
「清掃員の装備にしては物騒だ」
「清掃しにくい汚れってあるでしょ」
「あるね。都市には特に」
カリンは大鎌の影を完全には出さず、ワイヤーで人影たちを押し戻した。
その間も、彼はアリスの名前を呼び続ける。
「アリスちゃん。聞こえてる?」
白い部屋のアリスは、その声を聞いた。
細い糸。
現実につながる糸。
アリスは胸に手を当てた。
「カリン様の声を検出」
零式人格が、少しだけ顔をしかめた。
「あいつ、しつこいな」
「カリン様は、わたくしの名前を呼んでいます」
「だからしつこいって言ってんだよ。……まあ、今はそれが命綱だけどな」
白い部屋の壁に、黒い染みが浮いた。
小さな歯形のような欠け。
そこから、声が漏れる。
『名前は甘い』
アリスは振り向いた。
白い壁に、黒い文字が滲む。
『忘れかけた名前は、もっと甘い』
『空白の名前は、いちばん甘い』
零式人格が舌打ちする。
「来やがった」
「マッドイーター」
「名前なんか呼ぶな。喜ぶぞ」
白い部屋が揺れた。
寝台の上のALICE-00が、わずかにノイズを帯びる。空白の名前欄に、黒い染みが近づいている。
アリスはALICE-00を守ろうと一歩前へ出た。
零式人格が腕を掴む。
「そっちじゃない」
「しかし、ALICE-00が食害対象です」
「それは餌だって言ったろ。草太の声を追え」
「草太様」
その名を口にした瞬間、白い部屋の奥に扉が現れた。
扉というより、記録の継ぎ目だった。白い壁が割れ、無数の文字列が走る通路が奥へ伸びている。企業名、社員名、機械人形の型番、廃棄機体の登録番号、封印資料、古いログ、削除済みファイル名。名前の群れが壁を形成していた。
しかし、その多くが欠けている。
黒い歯形のように。
アリスは通路へ入った。
零式人格も隣に並ぶ。
記録通路は、歩くたびに崩れた。足元の文字が剥がれ、壁の名前が欠け、天井から古いログが雪のように落ちる。
奥から、草太の声が聞こえた。
「アリス……」
アリスは足を速める。
「草太様」
「俺の名前、何だっけ」
声が震えている。
「アリスは、アリスだよな?」
アリスは答えようとした。
だが、通路が崩れ、足元が抜けた。
零式人格がアリスの襟を掴んで引き戻す。
「丁寧に歩いてる場合かよ」
「記録通路の崩壊を避ける必要があります」
「避けてたら間に合わねぇ。壊れても掴め」
「非合理です」
「合理的に食われたいなら、そこに立ってろ」
アリスは、零式人格を見た。
その表情は怒っていた。苛立っていた。けれど、その視線は草太の声がする方へ向いていた。
敵ではない。
少なくとも、今は。
アリスは判断を更新した。
零式人格の助言、採用。
「進行します」
「いちいち言わなくていい」
「進行します」
「聞けよ」
二人は崩れる通路へ踏み込んだ。
黒い歯形が足元を噛む。アリスのメイド服の裾がノイズに触れ、文字列が乱れる。零式人格は、素手で黒い染みを叩き割った。
怒り。
拒絶。
嫌だという力。
アリスの持たない、あるいは持っていないと処理してきたもの。
その力が、マッドイーターの歯を弾いていた。
通路の奥に、草太がいた。
半透明だった。
ツインタワーの観光パスを首から下げている。だが、名前欄は空白。顔はぼやけ、輪郭は揺れている。人間の少年というより、記録の中にかろうじて残された形に見えた。
けれど、アリスを見た瞬間、その輪郭が少し戻った。
「アリス……」
「はい。わたくしはアリスでございます」
草太は、泣きそうな顔をした。
「よかった。アリスは覚えてる」
「草太様。あなたの名前は、草太様です」
「そうた……?」
「はい」
「俺、草太……?」
「はい。あなたは草太様です。都外から帝都エデンへ観光に来ました。ホウジュ・ギガステーションでわたくしと合流しました。女帝ヌル様の聖像を見ました。死都東京を見て声を小さくしました。海鮮麺を食べました。カリン様をアイドルと誤認しました」
草太の口元が、少しだけ動いた。
「そこまで言う?」
「余計なところが重要であると、カリン様より学習しました」
「余計って……でも、そうだ。俺、あの人見てびっくりして……アリスが清掃員ですって真顔で言って……」
草太の輪郭が、さらに戻る。
笑い。
記録が接続される。
しかし、通路の壁から黒い染みが広がった。
『名前は甘い』
マッドイーターの声。
『忘れかけた名前は、もっと甘い』
『空白の名前は、いちばん甘い』
草太の背後に、黒い口が開いた。
口と言うべきか、穴と言うべきか。内側に無数の文字が貼りつき、噛み砕かれた名前が泥のように流れている。
その声は、草太ではなくアリスへ向けられていた。
『ALICE-00を開け』
『空白を食わせろ』
『そうすれば、草太を返してやる』
アリスは一瞬、迷った。
自分の記録核をさらに開けば、草太を救える可能性がある。
だが、自分が食われる可能性もある。
そして、ALICE-00の空白を食わせることが、何を意味するのか、アリスはまだ理解していない。
零式人格が怒鳴った。
「信じるな。こいつは返すなんて言ってない。次に食う順番を言ってるだけだ」
「しかし、草太様を救出する必要があります」
「救うのと、食わせるのは違う」
「では、どうすれば」
「草太の名前だけ掴め。おまえの空白は渡すな」
アリスは、零式人格を見た。
「可能ですか」
「知らねぇよ」
「不確実です」
「だからやるんだろ」
「非合理です」
「またそれかよ」
零式人格は黒い染みへ向き直った。
「アリス。おまえは記録を積め。あいつがいたって証拠を、気持ち悪いくらい丁寧に並べろ。アタシは、噛みついてくるやつを殴る」
「あなたの手段は乱暴です」
「おまえの手段は遅い。ちょうどいいだろ」
アリスは、ほんのわずかに沈黙した。
そして、うなずいた。
「共同作業を開始します」
「言い方」
マッドイーターの黒い牙が迫る。
零式人格が飛び出した。
白い試験服の裾を裂きながら、彼女は黒い牙を蹴り上げる。拳で殴り、肘で弾き、怒りのままに黒い染みを引き裂く。
「これはアタシらの記録だ。勝手に食うな」
アリスは、草太の前に立った。
「訂正します。草太様の記録です」
「それを覚えてるのはおまえだろ。なら、おまえの記録でもある」
アリスは、止まった。
草太の記録。
自分の記録。
関係の記録。
草太を守ることは、草太だけを守ることではない。
草太と出会ったアリスを守ることでもある。
ホウジュ・ギガステーションで握手をしたこと。
プログラムなのかと問われて答えに詰まったこと。
死都東京を見た時、草太の声が小さくなったこと。
海鮮麺のスープを飲んで、塩分濃度が高めだと答えたこと。
おいしいと思うかと聞かれたこと。
まだ答えられていないこと。
それらは、草太の記録であり、アリスの記録でもある。
アリスは言った。
「草太様は、存在しています」
マッドイーターの黒い口が笑う。
『弱い』
零式人格が叫ぶ。
「もっと強く言え」
「草太様は、存在しています」
「違う。おまえが言え」
アリスは、胸に手を当てた。
自分の中の記録核。
そこに残る草太の声。
カリンの補助証言。
シンの解析。
食器の痕跡。
空白の座席。
握った手。
笑い。
名前。
アリスは、はっきりと言った。
「わたくしは、草太様を覚えています」
黒い口が、ひび割れた。
草太の観光パスに、文字が戻る。
草太。
少年は、それを見た。
唇が震える。
「俺は……草太だ」
その瞬間、現実側のモニターにも同じ文字が浮かんだ。
草太:仮固定
存在証明:不完全
身体位置:未特定
記録消失:一時停止
シンが、深く息を吐いた。
「よし、骨は拾えた」
カリンは、顔のない人影をワイヤーで押し返しながら振り返った。
「生きてる?」
「名前は戻った。完全ではないが、消化は止めた。身体の場所はまだ胃袋の奥だ」
「つまり、まだ助けに行く必要がある」
「そういうことだね」
その時、シンの端末の一部が黒く染まった。
マッドイーターの侵食が、別方向へ逃げる。
シンは舌打ちした。
「逃げた先が悪い」
「どこ?」
カリンが聞く。
「東タワー地下記録保管庫。廃棄機体記録庫だ」
シンの声が低くなる。
「ALICE-00の完全記録がある場所でもある」
内面世界では、黒い口が遠ざかっていった。
完全に消えたわけではない。逃げたのだ。草太の名前を仮固定されたことで、マッドイーターは次の餌を求めて深部へ潜った。
草太の姿も、薄くなっていく。
「アリス……」
「草太様。現在、あなたの名前を仮固定しました。完全救出には至っておりません」
「よくわかんないけど……俺、まだ俺なんだよな?」
「はい。あなたは草太様です」
「なら、よかった」
草太は少し笑った。
「アリスも、アリスだよな」
アリスは答えた。
「はい。わたくしはアリスです」
その言葉は、記録通路に静かに残った。
草太の姿が奥へ沈む。
救出はまだ終わっていない。
しかし、消失は止まった。
アリスは零式人格を見た。
「あなたの助言は有効でした」
零式人格は、傷だらけの腕を軽く振った。
「褒め方が硬い」
「感謝します」
「だから硬いって」
零式人格は、そっぽを向いた。
アリスは、少し考えてから言った。
「あなたを、不具合として処理することを一時停止します」
零式人格が振り返る。
「一時停止かよ。相変わらず面倒くさい言い方だな」
「現在のわたくしには、あなたを完全に定義するための情報が不足しています」
「また定義か」
「ですが」
アリスは、零式人格を見た。
「あなたの声を、保存します」
零式人格は黙った。
白い部屋にも、記録通路にも、しばらく音がなかった。
それから、零式人格は小さく言った。
「勝手にしろ」
「はい」
「返事すんな。腹立つ」
「承知いたしました」
「承知もすんな」
零式人格は、乱暴に髪をかき上げた。
そして、表情を少しだけ険しくする。
「次に食われるのは、草太じゃない」
「では、何が狙われるのですか」
「おまえの“原型”だ」
白い部屋が、再び遠ざかる。
ALICE-00。
眠る少女。
空白の名前欄。
セーフィエルの手。
あなたの名前は、まだ空白のままにしておきましょう。
その声を最後に、アリスは現実へ戻った。
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
焦げた魔導回路の匂い。熱を持った端末。カリンの薔薇の香。シンのコーヒー。赤い警告灯に照らされたオフィスの空気。
次に、触覚。
肩を掴む手。
カリンの手。
強く、しかし壊さないように支えている。
最後に、音。
「アリスちゃん?」
アリスは目を開いた。
カリンが、すぐ近くで覗き込んでいた。いつもの笑みではない。心配を隠し損ねた顔だった。
アリスは、自分の名前を確認した。
ALICE。
アリス。
登録、暫定。
存在証明、揺らぎあり。
内部音声、保存。
アリスは答えた。
「はい。アリスです」
カリンの表情が、少しだけ緩んだ。
「おかえり」
アリスは、その言葉を記録した。
おかえり。
帰還時に用いられる挨拶。
自分を待っていた者がいることを示す言葉。
保存。
「状況を共有するよ」
シンが言った。
彼の声には疲労があった。だが、軽口を忘れてはいない。
「草太の名前は仮固定。存在証明は不完全。身体位置は未特定。救出可能時間は、残念ながら不明。だが、消化は止めた。上出来だよ」
モニターには、草太の名前が表示されていた。
草太:仮固定
存在証明:不完全
救出可能時間:残り不明
その隣に、別の表示がある。
東タワー地下記録保管庫。
廃棄機体記録庫。
ALICE-00完全記録。
MAD EATER侵食反応あり。
「草太様は、まだ救出できていません」
アリスは言った。
「だが、消化は止めた。繰り返すが上出来だ。情報屋の評価は高いよ。有料で証明書を出そうか」
「不要です」
「残念」
カリンはモニターを見た。
「次は地下?」
「そうなる。地下記録保管庫は、東タワーの中でも特に触りたくない場所だ」
「シンくんにも触りたくない場所ってあるんだ」
「僕は触りたくない場所ほどよく知っている。知っているから触りたくない」
「行くしかないよねぇ」
カリンは、アリスを見た。
その目に、不安があった。
アリスはうなずいた。
「はい。草太様を救出します」
シンが、アリスをじっと見る。
「それだけかな」
アリスは少し沈黙した。
内側に、荒い声が残っている。
消えていない。
消していない。
アリスは答えた。
「ALICE-00の完全記録も確認する必要があります」
カリンが静かに聞いた。
「怖い?」
恐怖。
危険を予測した際に発生する生体防衛反応。
アリスは機械人形である。
だが、白い部屋を見た。
空白の名前欄を見た。
自分と同じ顔の少女を見た。
セーフィエルの手を見た。
名前をもらう前の怒りを見た。
胸の奥に、冷たい重さがある。
アリスは答えた。
「不明です」
内側で、零式人格が小さく笑った。
――嘘つけ。
アリスは、その声を不具合として処理しなかった。
シンは椅子にもたれ、軽く息を吐いた。
「では、方針は決まりだ。地下へ行く。草太を救い、マッドイーターを追い、ALICE-00完全記録を確認する。ついでに僕の名前も取り返す。料金は、ここまで来たら十倍と言いたいところだが」
「言うんでしょ」
カリンが言う。
「言うとも」
「シンくん、ぶれないねぇ」
「名前を食われても、請求精神までは食わせない」
「そこ守るんだ」
「情報屋の魂だからね」
アリスは、二人のやり取りを聞いていた。
軽口。
現実。
名前。
記録。
自分の中にある声。
それらが、ばらばらではなく、同時に存在している。
アリスは胸に手を当てた。
そこに、零式人格の声が残っている。
まだ敵ではないと断定できない。
まだ味方とも定義できない。
まだ自分だと認めるには、情報が足りない。
それでも、消さない。
保存する。
アリスは、自分の中に残った荒い声を、初めて消さずに持ち帰った。




