第3話 東タワーの情報屋
風は、刃物に似ていた。
ツインタワー西タワーの外壁に張りついた細いメンテナンスレールの上を、アリスは一歩ずつ進んでいた。足元には、帝都エデンの街がある。だが、地上数百メートルの高さから見下ろす街は、いつもの観光案内で説明する帝都とは違って見えた。
ミナト区の港湾施設。海上に浮かぶ魔導灯台。空中軌道を走る観光トラム。遠くで光るホウジュ区のビル群。さらに遠く、黒い膜のように横たわる死都東京方面の結界。
それらすべてが、足元の遥か下にある。
今のアリスの世界は、幅の狭い金属レールと、外壁に打ち込まれた命綱用フックと、隣にそびえる東タワーだけだった。
西タワーは背後で完全に沈黙している。白い防御シャッターが窓を覆い、館内から漏れる非常灯の赤だけが、隙間から薄くにじんでいた。華やかな観光名所は、巨大な棺のようになっている。
その横で、東タワーは黒く立っていた。
同じツインタワーでありながら、西タワーとは空気が違う。西が観光客に開かれたガラスの塔なら、東は情報と契約と秘密を抱え込む閉じた塔だった。企業ロゴの光は上品に抑えられ、窓には反射防止の魔導膜が貼られ、内部の様子は外からほとんど見えない。
アリスは、左手を外壁の補助レールに添えた。
コード005〈ウィング〉は、背中で短く展開されている。完全な飛行翼ではない。骨組みのような淡い魔導翼が、風の流れを読み、アリスの姿勢をわずかに支えているだけだった。
出力、三十二パーセント。
飛行時間、残り百九秒。
コード007〈メイル〉、脚部補助展開中。
コード002〈シールド〉、即時展開待機。
記録核、負荷継続。
草太の記録、暫定保持。
アリスの名前、暫定保持。
暫定。
その言葉が、胸の奥に冷たく残る。
「アリスちゃん、足元見すぎると逆に落ちるよぉ」
前を行くカリンが、風の中で振り返った。
清掃員の制服のまま、彼はレールの上を軽々と歩いている。腰には清掃用ワイヤー。片手には、窓拭き用の長いポール。もう片方の手は空いている。足場は細く、風は強く、人間なら膝が笑ってもおかしくない高さだった。
だが、カリンは鼻歌でも歌いそうな顔をしていた。
「落下防止には足元確認が有効です」
アリスは答えた。
「高いところ苦手な人の言い訳っぽい」
「苦手かどうかは現在判定不能です」
「じゃあ、判定しながら進もっか」
「合理性は低いものと判断します」
「合理性だけで生きてると、景色を見逃すよぉ」
カリンはそう言って、片足をレールから外し、外壁を蹴った。
身体が一瞬、宙へ浮く。清掃用ワイヤーがしなり、風を切って、カリンは数メートル先のフックへ軽やかに着地した。
アリスはその動作を記録した。
人間の身体能力としては異常値。
清掃員としては不適切。
トラブルシューターとしては有効。
「カリン様。危険行動です」
「大丈夫。落ちてないから」
「落下してからでは遅いものと推定します」
「アリスちゃん、心配してくれてる?」
「同行者の損傷は、作戦遂行に支障をきたします」
「うん。心配してくれてるってことにしとくね」
カリンは笑った。
その笑みは風の中でも柔らかい。だが、アリスの視覚センサーは、彼の視線が常に東タワーの非常ハッチ、外壁カメラ、風向き、足場、ワイヤーの角度を確認していることを捉えていた。
カリンはふざけている。
けれど、ふざけながら生き残る技術を持っている。
アリスは、そこに不思議な安定感を覚えた。
記録核の奥で、草太の声が揺れる。
『アリス……俺、ここにいる……』
アリスは足を止めかけた。
風が身体を押す。ウィングが補正する。足場がわずかに軋む。
カリンが振り返った。
「アリスちゃん、覚えてる?」
合言葉のようになった問いだった。
アリスは胸に手を当てる。
「はい。草太様は存在していました」
「うん。ボクも見た」
カリンの声が、命綱のようにアリスの記録核へ結ばれる。
草太は存在していた。
ホウジュ・ギガステーションで出会った。
帝都を初めて見て、目を輝かせた。
アリスを機械人形だと知って興奮した。
女帝ヌルの聖像を見て、答えが難しいと笑った。
死都東京を見て、声を小さくした。
ツインタワーでカリンを見て、アイドルか何かと尋ねた。
海鮮麺を食べた。
アリスに、おいしいと思うかと聞いた。
エレベーターで、アリスの手を握られて、痛いと言った。
存在していた。
まだ存在している。
アリスは、前へ進んだ。
東タワーの非常ハッチは、外壁の陰に隠れるように設置されていた。観光客が見ることはない。作業員が天候確認をし、複数の安全手順を踏んでから使う非常用の出入口である。
カリンはハッチ横の小型端末を覗き込んだ。
「シンくんが開けてくれるって話だったけど……」
端末画面には、無機質な文字が表示されていた。
作業員名:該当者なし
清掃員登録:該当者なし
臨時作業許可:該当者なし
アリス:該当者なし
カリンは少しだけ眉を上げた。
「ボク、今日ちゃんと出勤してるんだけどなぁ」
「清掃員登録まで食害を受けているものと推定します」
「うわぁ、給料消えたら嫌だなぁ」
「現在、給与情報より生命維持を優先すべき状況です」
「どっちも大事だよぉ。生きててもお給料なかったら悲しいでしょ」
「悲しみの評価は現在困難です」
「あとで教えてあげる」
カリンは清掃用ワイヤーの金具を外し、ハッチの手動解除部へ差し込んだ。普通の作業員が使う手順ではない。金具の先端が小さく変形し、旧式ロックの隙間へ滑り込む。
アリスは、視線だけを向けた。
「不正開錠です」
「緊急避難」
「便利な言葉です」
「気に入ってきた?」
「濫用は推奨されません」
「使いどころを選べば便利だよ。今みたいにね」
ロックが、がこん、と低い音を立てた。
カリンは両手でハッチを押し開けた。隙間から、冷たい空気が流れ出す。西タワーの外壁で感じた海風とは違う。空調管理層の乾いた空気。金属と機械油と、古い魔導回路が発するわずかな焦げ臭さが混じっていた。
「どうぞ、お姫様」
カリンが片手を広げる。
「わたくしは機械人形でございます」
「じゃあ、機械人形のお姫様」
「分類が不正確です」
「可愛いからいいの」
「可愛さは――」
「現在の状況解決に寄与しない?」
「はい」
「でもボクのやる気には寄与する」
「記録済みです」
アリスはハッチをくぐった。
東タワーの内側は、暗かった。
空調管理層は、低い天井と細い通路が続く金属の迷路だった。天井を太い配管が走り、壁面には温度調整用の魔導式が刻まれている。床下からは、タワー全体を循環する空気の音が響いていた。
西タワーのような観光用の演出はない。
照明は最低限。
壁は灰色。
空気は冷たい。
人の声はしない。
アリスは通路の先を見た。
「東タワー内へ侵入しました」
「言い方が完全に犯罪者側だねぇ」
「正規入館手続きが不可能なため、侵入という表現が最も適切です」
「正直でよろしい」
カリンはハッチを閉じ、内側から簡易ロックをかけた。
直後、ハッチの端末にノイズが走る。
アリス:該当者なし。
カリン:該当者なし。
該当者なし。
該当者なし。
カリンは画面を見て、唇だけで笑った。
「こっちでも歓迎されてないみたい」
「敵性干渉は東タワー内部にも拡大しています」
「本命だもんね」
空調管理層を抜けると、東タワーの裏テナント階へ出た。
そこから空気が変わった。
東タワーは、静かに壊れ始めていた。
西タワーの混乱は、叫び声と赤い非常灯と閉じ込められた人々の恐怖だった。だが、東タワーの異常はもっと静かで、もっと薄気味悪かった。
ロビーでは、黒いスーツの男が受付機械人形の前で立ち尽くしていた。
「だから、俺はこの会社の社員だって言ってるだろ。社員証もある。ほら、見ろよ」
男はカードを端末にかざす。
受付機械人形は、穏やかな女性の声で答えた。
「お客様のお名前を確認できません」
「名前って……社員証に書いてあるだろ!」
「お客様のお名前を確認できません」
「ふざけるな! 会議があるんだよ!」
「お客様のお名前を確認できません」
男の顔が、怒りから不安へ変わっていく。
彼の手元の社員証には、顔写真がある。会社名もある。部署名もある。だが、氏名欄だけが空白だった。
アリスは足を止めた。
カリンも、黙ってそれを見た。
ロビーのテナント案内板では、企業名が一瞬ずつ抜け落ちている。
第十四階 ■■■■株式会社
第二十七階 登録なし
第三十二階 該当者なし
第四十一階 ――
第五十五階 情報解析コンサルタント事務所
第五十五階 該当者なし
第五十五階 SIN DATA OFFICE
第五十五階 該当者なし
表示が揺れる。
通路の監視モニターでは、歩く会社員の顔が一瞬ずつぼやけていた。本人たちは気づいていない。だが、映像の中だけ、顔が削られ、名前が薄れ、輪郭が空白になる。
「西タワーより侵食範囲が広いです」
アリスが言った。
「こっちは人よりデータが多いからね。食べ放題ってわけだ」
カリンが苦い顔で返す。
アリスはカリンを見た。
「不快な表現です」
「ボクも言ってて嫌だった」
その時、ロビーの奥から警備員が二人走ってきた。西タワーと同じ制服ではない。東タワーの民間警備会社所属だ。彼らはアリスとカリンを見るなり、警棒型の魔導具に手をかけた。
「お前たち、どこから入った!」
「外壁から」
カリンが素直に答えた。
警備員たちは一瞬止まる。
「外壁?」
「緊急避難で」
「何を言って――」
もう一人の警備員が端末を確認した。
「登録がない。こいつら、入館記録がないぞ」
「入館記録が食われています」
アリスが説明した。
「現在、東タワー全体で存在証明の食害が進行中です。警備員各位は避難誘導と手動記録の作成を優先してください」
「機械人形が何を勝手に――」
警備員が一歩踏み出した瞬間、カリンが動いた。
甘い薔薇の香りが、ほんの少しだけ空気に混じる。
警備員二人の目が、わずかに泳いだ。
「はいはい、落ち着いてねぇ。ボクたち怪しいけど、今それどころじゃないから」
カリンは笑顔のまま、清掃用ワイヤーを軽く振った。ワイヤーの先端が警備員の手首に絡み、警棒を床へ落とす。もう片方の警備員の足元に、ワイパーの柄が滑り込み、体勢を崩す。
二人は倒れた。
怪我はしていない。だが、起き上がる前に、カリンがしゃがんで二人の額を指で軽く弾いた。
「深呼吸して、手動でメモ取って。端末が駄目なら紙。名前が消えてる人を、見たまま書くの。仕事増えちゃったけど、頑張ってねぇ」
警備員たちは、ぼんやりとうなずいた。
香による軽い鎮静と誘導。
アリスはその処理を見ていた。
「カリン様。今の行為は、警備員への魔導干渉に該当します」
「必要だったでしょ?」
「はい。有効でした」
「じゃあ、褒めて」
「有効でした」
「もうちょっと可愛く」
「有効でございました」
「んー、まあいいか」
カリンは立ち上がる。
その時、アリスの記録核に、再び声が届いた。
『アリス……』
遠い。
先ほどより遠い。
アリスは胸を押さえる。
「草太様の音声断片を検出。東タワー上層方向」
「シンくんのところと同じ?」
「近似しています」
「じゃあ、急ごっか」
二人は高層階へ向かった。
東タワーのエレベーターは信用できなかった。館内システムはすでに食害を受けている。階数表示が一瞬ずつ消え、行き先階の選択ボタンにも「該当者なし」と表示される。
カリンは迷わず非常用階段へ向かった。
「五十五階まで階段ですか」
アリスが確認する。
「途中で業者用リフトに乗り換える。動けばね」
「動かない場合は」
「階段」
「カリン様の身体能力であれば可能と推定しますが、一般的には過酷です」
「アリスちゃんは?」
「わたくしの駆動系であれば可能です。ただし、記録核の負荷を考慮すると移動時間短縮が望ましいです」
「じゃあ、走ろっか」
「はい」
非常階段を、二人は駆け上がった。
カリンは軽やかだった。清掃員の制服が階段の風に揺れ、靴音はほとんどしない。アリスは機械人形らしく正確な歩幅で続く。階段の踊り場を通過するたび、壁の非常案内板の文字が消えかけていた。
三十一階、該当者なし。
三十二階、登録なし。
三十三階、空白。
誰の階なのか、何の会社なのか、少しずつ塔が忘れていく。
四十二階で、業者用リフトが生きていた。
ただし、認証端末は壊れている。
カリンがまた金具を取り出す。
アリスは先に言った。
「不正開錠です」
「まだ何もしてないよぉ」
「予測です」
「当たってるけどね」
カリンはリフトを開けた。
業者用リフトは狭く、金属臭が強い。壁には資材搬入用の傷が残り、床には油染みがある。観光客向けの装飾はない。扉が閉まると、外の音が消えた。
リフトが上昇を始める。
沈黙。
金属音。
アリスの記録核に、草太の声。
『アリス……俺の名前……』
アリスは目を閉じた。
閉じる必要はない。視覚センサーを遮断するだけでよい。だが、人間のように目を閉じることで、内部音声へ集中しやすくなるような気がした。
草太。
草太。
草太様。
名前を保存する。
カリンが静かに言った。
「アリスちゃん、覚えてる?」
「はい。草太様は存在していました」
「うん。ボクも見た」
同じ言葉。
同じ確認。
だが、カリンの声にわずかな揺れがあった。
アリスは目を開いた。
「カリン様」
「なぁに?」
「草太様の顔を、鮮明に思い出せますか」
カリンは、少しだけ沈黙した。
それは、ほんの二秒ほどだった。
だが、アリスには長く感じられた。
「……今はまだ」
「今は」
「うん。ちょっと、輪郭が怪しくなってきた」
カリンは笑おうとしたが、笑みは薄かった。
「でも大丈夫。アリスちゃんの隣にいたのは覚えてる。君が助けたいって言ったのも覚えてる」
アリスは、その言葉を保存した。
補助証言。
外部記憶。
草太存在証明補強。
同時に、別の記録も保存した。
カリンの記憶にも侵食が始まっている。
リフトが五十五階で停止した。
扉が開く。
そこは、東タワーの高層階だった。
表向きは、高級企業フロアだった。壁は濃い木目調で、床は静音性の高い絨毯。照明は柔らかく、廊下には本物か幻影かわからない水槽が埋め込まれている。受付には「情報解析コンサルタント事務所」と書かれた小さなプレートがあった。
だが、案内表示の下に、別の文字がちらついている。
SIN DATA OFFICE
該当者なし。
SIN DATA OFFICE
該当者なし。
カリンはプレートを見て笑った。
「シンくん、表向きの名前、まだそんな胡散臭いの使ってるんだ」
「情報解析コンサルタント事務所は、業務内容としては正しい可能性があります」
「正しいけど胡散臭いんだよ」
アリスが扉の前に立つと、扉は勝手に開いた。
中から、コーヒーの匂いと、機械の熱と、膨大な情報の光が溢れてきた。
シンのオフィスは、事務所というより巣だった。
壁一面にモニターが並んでいる。帝都各区の監視映像、交通データ、裏掲示板のログ、企業株価、魔導炉稼働率、匿名取引の暗号文字列、女帝政府の公開発表、天気、死都東京外縁の結界揺らぎ、違法機械人形市場の価格推移。
床には古い端末が積まれ、天井からはケーブルが垂れ、部屋の中央には複数の魔導式が重なり合ったサーバーが鎮座している。その前で、シンは椅子に座っていた。
痩せた青年。整えられているのか乱れているのかわからない髪。目の下に薄い隈。指先には情報端末用の接続リング。片手にはコーヒーカップ。
この異常事態の中で、彼だけはいつも通りの顔をしていた。
「ようこそ、東タワーへ。入場料は命の危険込みで別料金だ」
「もう料金の話?」
カリンが呆れる。
「料金の話ができるうちは、まだ生きているということだよ」
シンはカップを置き、アリスを見た。
「やあ、アリス。ずいぶん派手な観光ガイドになったね」
「シン様。草太様の記録を復元できますか」
「挨拶が省略された。状況の悪さがよくわかる」
「緊急事態です」
「だろうね」
シンは椅子を回し、端末へ向き直った。
「できる、と言いたいところだが、今回は少々胃袋の中が深い」
「胃袋」
「マッドイーターだよ。名前の通り、何かを食べる。昔の記録では肉や物体だったらしいが、今回の相手はもっと趣味が悪い」
シンの指が端末の上を走る。
モニターの一部が切り替わり、東タワー内のデータ構造が立体的に表示された。青い線が正常な記録。赤い染みのような部分が侵食領域。黒い穴が、すでに食われた場所。
黒い穴は、西タワーから東タワーへ伸びていた。
「まずは危険度を共有しよう」
シンは軽く言い、自分の端末に検索語を打ち込んだ。
検索語:シン
通常なら、膨大な偽装情報、裏アカウント、仕事用の複数名義、古い監視カメラの断片、東タワー入館ログが出るはずだったのだろう。
だが、画面にはひとつの文字列だけが表示された。
結果:該当者なし
シンの指が止まった。
カリンも、アリスも、その画面を見た。
「シンくん?」
カリンが声をかける。
シンは、三秒ほど黙った。
それから、静かに言った。
「……なるほど」
「怒ってる?」
「かなり」
口調は穏やかだった。
だが、モニターの光を受けたシンの目は笑っていなかった。
「僕の名前を無断で食べるとは、ずいぶん礼儀知らずな怪物だ」
「シン様の存在証明も侵食されています」
アリスが言うと、シンは肩をすくめた。
「そうらしい。まったく、情報屋から名前を盗むなんて、泥棒が鍵屋に空き巣に入るようなものだ。趣味が悪い」
シンは再び端末を操作した。
「古い魔導犯罪記録と照合する。マッドイーター。都市怪異コード。旧記録では、物体や肉体を喰う異常存在。人間、機械、壁、扉、場合によっては魔導障壁まで食べたらしい」
「旧記録では、ということは」
アリスが問う。
「今回の個体は変質している」
シンは、別の画面を開いた。
そこには、食害されたデータの構造が表示されている。
「見たまえ。肉体は食っていない。物体もほとんど無傷だ。代わりに、名前、顔認識、履歴、所有関係、入館記録、会計履歴、所属情報、証明書、他者の記憶との接続を食べている」
「記録喰い」
「存在証明喰い、と言った方が近い。食われた者は、社会的にも魔導的にも『いなかったこと』に近づく。肉体が残っている間は、まだ戻せる可能性がある。しかし、名前と履歴と記憶が完全に食われれば、本人も自分を保てなくなる」
アリスの胸の奥で、草太の声がさらに遠くなる。
『アリス……俺の、名前……』
「草太様は、まだ残っていますか」
「残っている」
シンは即答した。
「君とカリンが覚えているからね。物理痕跡もある。だが、速度は速い。食われた記録が東タワーの奥へ運ばれている。おそらく、胃袋に相当する記録領域がある」
「覚えていれば勝てる?」
カリンが聞いた。
「覚えているだけでは足りない」
シンは画面を叩く。
「記録を引き戻す場所が必要だ。食われたものを、どこかに再定着させる必要がある。草太という名前を、本人の肉体と世界の記録へ戻す場所がね」
「草太様の存在証明を復元するには」
「食ったものの胃袋を開くしかない」
シンは画面を切り替えた。
東タワー記録保管領域。
違法機械人形取引データベース。
廃棄機体記録庫。
企業秘密保管層。
非公開テナントログ。
封印指定資料断片。
旧式魔導犯罪コード保管庫。
その中で、ひとつのフォルダだけが黒く点滅していた。
ALICE-00
アリスの記録核が、強く反応した。
胸の奥が軋む。視界の端に白いノイズが走る。アリスは瞬きをした。
フォルダの関連タグが開く。
機械人形。
セーフィエル。
試作人格核。
零式基礎記録。
封印補助端末。
廃棄予定。
再利用禁止。
アリスは、その文字を見つめた。
知っている。
知らない。
見たことがない。
けれど、見てはいけないという反応だけが先に来る。
「アリスちゃん?」
カリンが横から声をかける。
「不明です」
アリスは答えた。
シンが、画面越しにアリスを見る。
「それは、知らないという意味かな。知ってはいけないという意味かな」
「シンくん、言い方」
カリンが睨む。
シンは軽く手を上げた。
「情報屋は優しい言い方を売っていないんだ」
「じゃあ今日は仕入れて」
「検討しよう。高くつきそうだ」
「ケチ」
「職業倫理だよ」
アリスの内側で、声がした。
――開けるな。
零式人格の声だった。
これまでのように嘲笑う声ではない。怒ってはいる。だが、今の声には警戒があった。
――それは餌だ。見せるために置いてある。
アリスは心の中で問おうとした。
あなたは、これを知っているのですか。
しかし、問いは形になる前に、モニターが一斉に乱れた。
砂嵐の中から、草太の声が聞こえた。
『アリス……助けて』
アリスの身体が硬直する。
『俺、ここにいる』
『名前、忘れそうなんだ』
『俺の名前、なんだっけ』
「草太様」
アリスは前へ出た。
カリンが腕を掴む。
「待って。本物かわからない」
「本物である可能性があります」
「偽物の可能性もある」
「はい」
「なら――」
モニターの砂嵐が、男の声に変わった。
『草太を返してほしいなら、ALICE-00を開いて』
声は、エレベーターで囁いた謎の男のものだった。
『君の名前の前にあった名前を見せて』
『君が誰の代わりなのか、食べさせて』
シンが端末を叩く。
「通信源が複数に分裂している。館内放送、監視映像、来館者ログ、そしてアリスの記録核へ干渉している。非常に不愉快だ」
カリンはアリスの腕を離さない。
「アリスちゃん、開けちゃ駄目だよ」
「草太様の音声が、本物である可能性があります」
「それはわかる。でも、敵がそう思わせてる」
アリスはモニターを見る。
草太の顔は映らない。
声だけがある。
『アリス……』
遠く、細く、消えそうな声。
アリスは、切り捨てられない。
判定不能は、保護対象を放棄する理由にはならない。
だが、ALICE-00を開くことは危険である。
自分の封印領域。
セーフィエル。
零式人格。
名称未定義。
廃棄予定。
再利用禁止。
情報が揃っていない。
揃っていないからこそ、危険である。
カリンが、突然、こめかみに手を当てた。
「……やば」
「カリン様」
「アリスちゃん。ボク、あの子の顔、ちょっと怪しい」
アリスはカリンを見る。
カリンは唇を噛んでいた。
「草太くんがいたのは覚えてる。アリスちゃんの隣にいた。ボクに見惚れてた。君が助けたいって言った。それは覚えてる。でも、顔が……ぼんやりしてきた」
「カリン様の記憶にも侵食が」
「うん。むかつくね」
カリンの声が冷えた。
「勝手に人の記憶をつまみ食いするなんて、趣味悪すぎ」
シンが言う。
「時間切れが近い。草太の記録は、すでに胃袋に入っている。完全に消化される前に、こちらから引っ掛ける必要がある」
「方法は」
アリスが問う。
シンは一瞬だけ躊躇した。
「ある。だが、推奨しない」
「提示してください」
「ALICE-00を餌にする」
カリンが即座に言った。
「却下」
シンは肩をすくめる。
「僕も却下したい。だが、敵はALICE-00に反応している。つまり、それを開けば敵の胃袋がこちらへ食いつく。その瞬間、草太の記録も一緒に引き戻せる可能性がある」
「アリスちゃんが食われる可能性は?」
「当然ある」
「却下」
カリンの声が強くなる。
アリスは、黙って画面を見ていた。
草太の声が、さらに遠くなる。
『アリ……ス……』
そして、別の場所で、草太は自分の名前を失いかけていた。
そこは、通路だった。
東タワーのどこかのようであり、どこでもない場所だった。床はある。壁もある。非常灯もある。だが、壁には無数の名前が書かれていた。
人の名前。会社名。部屋番号。商品名。機械人形の型番。古いログイン名。消えたテナント。廃棄機体の登録番号。
それらが、少しずつ文字を失っていく。
草太は、自分の観光パスを握りしめていた。
名前欄は空白だった。
「俺の名前……」
思い出せる。
まだ、思い出せる。
そうた。
そう――。
そ――。
文字が、頭の中から落ちる。
恐怖で喉が詰まった。
自分が誰なのかわからなくなる。自分の名前が、手のひらの水みたいにこぼれていく。叫ぼうとしても、何を叫べばいいのかわからない。
だが、ひとつだけ、はっきり残っている名前があった。
「アリス」
声に出す。
その名前だけは、言える。
「アリス……助けて」
暗い通路の奥で、何かが笑った。
草太は、もう一度叫んだ。
「アリス!」
その声が、アリスの記録核へ届いた。
アリスは決断した。
「ALICE-00を完全開封する必要はありません」
アリスの声は静かだった。
カリンが振り向く。
「アリスちゃん」
「外殻情報のみ限定開封します。敵が食いついた瞬間、草太様の記録を引き戻します」
シンは目を細めた。
「自分の封印領域を餌にするつもりかい? あまり賢いとは言えないね」
「より安全な代替案はありますか」
「ない」
「では、実行します」
「アリスちゃん、それ開けたら、君が危ないんでしょ」
カリンの声が、珍しく真っ直ぐだった。
「はい」
「じゃあ、やめようよ」
「草太様の記録は、現在も消失を続けています」
「でも、君の名前も食われるかもしれない」
アリスは、カリンを見た。
カリンの顔は、いつものように甘く笑ってはいなかった。清掃員の顔でも、氷の花の顔でもない。ただ、アリスを見ていた。
外からアリスを見る誰か。
アリスを定義しない誰か。
アリスちゃん、と呼ぶ誰か。
アリスは言った。
「だからこそ、草太様の名前を守る必要があります」
「どういう意味?」
「誰かの名前が消えることを許せば、わたくしは自分の名前も守れません」
カリンは黙った。
シンも黙った。
アリスは続ける。
「草太様を救うために、わたくしの記録を確認します。草太様を忘れないために、必要な範囲で自分を確認します」
カリンは、ゆっくり息を吐いた。
「……わかった」
声は、完全には納得していなかった。
それでも、否定ではなかった。
「やばくなったら、ボクが名前を呼ぶ」
「お願いします」
「アリスちゃん」
「はい」
「今のうちに呼んどいた」
アリスは一瞬だけ沈黙した。
「記録しました」
「うん。何回でも呼ぶから」
シンは椅子を回し、複数の端末を同時に起動した。
「隔離環境を構築する。ALICE-00の外殻情報だけを切り出す。内部までは開かない。敵が食いついた瞬間、草太の記録断片を引きずり出す。理論上は可能だ。現実には、かなりひどい賭けだ」
「成功率は」
アリスが問う。
「聞かない方が健康にいい」
「わたくしは機械人形でございます」
「なら、メンタルに悪い」
「それも現在不明です」
「便利だね、不明」
シンは指を鳴らした。
部屋の明かりが落ちる。
複数のモニターが暗転し、中央の大型画面だけが白く光った。周囲に魔導式の円環が浮かび、隔離用の結界が構築される。情報屋のオフィスは、一時的に小さな封印室になった。
アリスは中央に立つ。
カリンはその横に立ち、アリスの肩に手を置いた。
シンは端末の前で言う。
「開くよ。外殻だけだ。見えたものを全部信じるな。古い記録は、真実とは限らない。記録とは、誰かが残した偏った死体だ」
「表現が不穏です」
「情報屋らしい表現だよ」
「シンくん、優しい言い方」
「……古い記録は、壊れやすい宝石だ」
カリンが微妙な顔をした。
「それもなんか違う」
「努力はした」
アリスは画面を見た。
ALICE-00。
限定開封。
承認。
記録核の奥で、零式人格が低く言った。
――見るな。
アリスは、内側で答えた。
必要な範囲のみ確認します。
――お行儀のいいこと言ってんじゃねぇよ。
声が荒くなる。
――それは、おまえを食うための皿だ。
アリスは画面から目を逸らさなかった。
映像が流れ始めた。
白い部屋だった。
天井も、床も、壁も、白い。人間の病室にも、研究室にも、礼拝堂にも見える。部屋の中央には円形の魔導式が刻まれ、その上に透明な寝台が置かれている。
寝台の上には、少女型の機械人形が眠っていた。
アリスに似ていた。
似ている、というより、同じ顔の原型だった。
陶器のような白い肌。金色の髪。ただし、今のアリスより少し短い。目は閉じている。表情はない。胸部外装は開かれており、仮の記録核が埋め込まれている。身体にはまだ衣服がなく、白い布だけがかけられていた。
未完成。
そういう言葉が、アリスの中に浮かんだ。
映像の端に文字が表示される。
ALICE-00
零式人格基礎記録
作成者:SAFIEL
状態:凍結
備考:名称未定義
セーフィエル。
署名が見えた瞬間、アリスの記録核が熱を持った。
映像の中に、手が映る。
白い指。長い爪。魔導式を刻んだ手袋。顔は映らない。だが、その手をアリスは知っている。
セーフィエルの手。
創造主の手。
母のような手。
恐怖の手。
未定義。
その手が、眠る機械人形の頬に触れた。
声が聞こえる。
『あなたの名前は、まだ空白のままにしておきましょう』
アリスは硬直した。
白い部屋。
眠る少女。
同じ顔。
空白の名前。
ALICE-00。
それは、自分なのか。
自分の前にあったものなのか。
自分の奥にあるものなのか。
セーフィエルは、誰に名前を与えなかったのか。
零式人格が低く言った。
――見るなって言っただろ。
アリスは、目を逸らせなかった。
シンの声が鋭くなる。
「来た」
モニターの白い映像に、黒い染みが広がった。
黒い染みは、映像そのものを食べるように縁から広がる。白い部屋の壁が欠け、眠る少女の輪郭が歪み、セーフィエルの手にノイズが走る。
「閉じるな、まだ閉じるな。草太の記録も一緒に引っかかってる」
シンが叫ぶ。
別のモニターに、文字が浮かんだ。
草太。
アリスは息を止める必要がない。
それでも、胸が止まったように感じた。
草太。
その名前が戻った。
一瞬だけ。
次の瞬間、黒い染みがアリスへ向かって伸びた。
記録核に、牙が触れる。
ALICE
ALICE-00
ALICE-ZERO
NO NAME
視界が崩れる。
身体の感覚が遠くなる。
自分の名前が、画面の文字と一緒に剥がれていく。アリスという五文字が、音ではなく、ただの記号になっていく。誰かが呼んでくれた名前。マナが呼んだ名前。カリンが呼んだ名前。草太が呼んだ名前。それらが、ばらばらにほどけていく。
モニターの中で、謎の声が笑った。
『甘い』
アリスは崩れかけた。
膝が床につく。
カリンが叫ぶ。
「アリスちゃん!」
その声が、まっすぐに届いた。
アリスちゃん。
呼ばれた。
名前を呼ばれた。
アリスは、わずかに顔を上げた。
草太の名前がまだ消えていない。
自分の名前も、まだ完全には消えていない。
だが、記録核の奥で、何かが動いた。
零式人格。
これまで封印の奥から声だけを投げていた存在が、扉の向こうで目を開けるように、はっきりとアリスを見た。
――だから言っただろ。
声は近かった。
――守りたいなら、アタシを使え。
アリスは、内側の暗闇を見た。
そこに、誰かがいる。
不具合ではない。
敵の声でもない。
ノイズではない。
怒っている。
拒んでいる。
けれど、守ろうとしている。
アリスは、初めてその声へ問いかけた。
「あなたは、誰ですか」
内側で、誰かが笑った。
荒く、皮肉っぽく、泣き出しそうな笑いだった。
――忘れたのかよ。
白い部屋の映像が、モニター上で停止している。
ALICE-00。
零式人格基礎記録。
作成者、SAFIEL。
備考、名称未定義。
草太の名前が、一瞬だけ画面の隅に戻り、すぐにまた黒いノイズへ沈む。
内側の声が言った。
――名前をもらう前の、おまえだよ。
アリスは初めて、自分の中にいる声を、不具合ではなく、誰かとして見た。




