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第3話 東タワーの情報屋

 風は、刃物に似ていた。


 ツインタワー西タワーの外壁に張りついた細いメンテナンスレールの上を、アリスは一歩ずつ進んでいた。足元には、帝都エデンの街がある。だが、地上数百メートルの高さから見下ろす街は、いつもの観光案内で説明する帝都とは違って見えた。


 ミナト区の港湾施設。海上に浮かぶ魔導灯台。空中軌道を走る観光トラム。遠くで光るホウジュ区のビル群。さらに遠く、黒い膜のように横たわる死都東京方面の結界。


 それらすべてが、足元の遥か下にある。


 今のアリスの世界は、幅の狭い金属レールと、外壁に打ち込まれた命綱用フックと、隣にそびえる東タワーだけだった。


 西タワーは背後で完全に沈黙している。白い防御シャッターが窓を覆い、館内から漏れる非常灯の赤だけが、隙間から薄くにじんでいた。華やかな観光名所は、巨大な棺のようになっている。


 その横で、東タワーは黒く立っていた。


 同じツインタワーでありながら、西タワーとは空気が違う。西が観光客に開かれたガラスの塔なら、東は情報と契約と秘密を抱え込む閉じた塔だった。企業ロゴの光は上品に抑えられ、窓には反射防止の魔導膜が貼られ、内部の様子は外からほとんど見えない。


 アリスは、左手を外壁の補助レールに添えた。


 コード005〈ウィング〉は、背中で短く展開されている。完全な飛行翼ではない。骨組みのような淡い魔導翼が、風の流れを読み、アリスの姿勢をわずかに支えているだけだった。


 出力、三十二パーセント。


 飛行時間、残り百九秒。


 コード007〈メイル〉、脚部補助展開中。


 コード002〈シールド〉、即時展開待機。


 記録核、負荷継続。


 草太の記録、暫定保持。


 アリスの名前、暫定保持。


 暫定。


 その言葉が、胸の奥に冷たく残る。


「アリスちゃん、足元見すぎると逆に落ちるよぉ」


 前を行くカリンが、風の中で振り返った。


 清掃員の制服のまま、彼はレールの上を軽々と歩いている。腰には清掃用ワイヤー。片手には、窓拭き用の長いポール。もう片方の手は空いている。足場は細く、風は強く、人間なら膝が笑ってもおかしくない高さだった。


 だが、カリンは鼻歌でも歌いそうな顔をしていた。


「落下防止には足元確認が有効です」


 アリスは答えた。


「高いところ苦手な人の言い訳っぽい」


「苦手かどうかは現在判定不能です」


「じゃあ、判定しながら進もっか」


「合理性は低いものと判断します」


「合理性だけで生きてると、景色を見逃すよぉ」


 カリンはそう言って、片足をレールから外し、外壁を蹴った。


 身体が一瞬、宙へ浮く。清掃用ワイヤーがしなり、風を切って、カリンは数メートル先のフックへ軽やかに着地した。


 アリスはその動作を記録した。


 人間の身体能力としては異常値。

 清掃員としては不適切。

 トラブルシューターとしては有効。


「カリン様。危険行動です」


「大丈夫。落ちてないから」


「落下してからでは遅いものと推定します」


「アリスちゃん、心配してくれてる?」


「同行者の損傷は、作戦遂行に支障をきたします」


「うん。心配してくれてるってことにしとくね」


 カリンは笑った。


 その笑みは風の中でも柔らかい。だが、アリスの視覚センサーは、彼の視線が常に東タワーの非常ハッチ、外壁カメラ、風向き、足場、ワイヤーの角度を確認していることを捉えていた。


 カリンはふざけている。


 けれど、ふざけながら生き残る技術を持っている。


 アリスは、そこに不思議な安定感を覚えた。


 記録核の奥で、草太の声が揺れる。


『アリス……俺、ここにいる……』


 アリスは足を止めかけた。


 風が身体を押す。ウィングが補正する。足場がわずかに軋む。


 カリンが振り返った。


「アリスちゃん、覚えてる?」


 合言葉のようになった問いだった。


 アリスは胸に手を当てる。


「はい。草太様は存在していました」


「うん。ボクも見た」


 カリンの声が、命綱のようにアリスの記録核へ結ばれる。


 草太は存在していた。


 ホウジュ・ギガステーションで出会った。

 帝都を初めて見て、目を輝かせた。

 アリスを機械人形だと知って興奮した。

 女帝ヌルの聖像を見て、答えが難しいと笑った。

 死都東京を見て、声を小さくした。

 ツインタワーでカリンを見て、アイドルか何かと尋ねた。

 海鮮麺を食べた。

 アリスに、おいしいと思うかと聞いた。

 エレベーターで、アリスの手を握られて、痛いと言った。


 存在していた。


 まだ存在している。


 アリスは、前へ進んだ。


 東タワーの非常ハッチは、外壁の陰に隠れるように設置されていた。観光客が見ることはない。作業員が天候確認をし、複数の安全手順を踏んでから使う非常用の出入口である。


 カリンはハッチ横の小型端末を覗き込んだ。


「シンくんが開けてくれるって話だったけど……」


 端末画面には、無機質な文字が表示されていた。


 作業員名:該当者なし

 清掃員登録:該当者なし

 臨時作業許可:該当者なし

 アリス:該当者なし


 カリンは少しだけ眉を上げた。


「ボク、今日ちゃんと出勤してるんだけどなぁ」


「清掃員登録まで食害を受けているものと推定します」


「うわぁ、給料消えたら嫌だなぁ」


「現在、給与情報より生命維持を優先すべき状況です」


「どっちも大事だよぉ。生きててもお給料なかったら悲しいでしょ」


「悲しみの評価は現在困難です」


「あとで教えてあげる」


 カリンは清掃用ワイヤーの金具を外し、ハッチの手動解除部へ差し込んだ。普通の作業員が使う手順ではない。金具の先端が小さく変形し、旧式ロックの隙間へ滑り込む。


 アリスは、視線だけを向けた。


「不正開錠です」


「緊急避難」


「便利な言葉です」


「気に入ってきた?」


「濫用は推奨されません」


「使いどころを選べば便利だよ。今みたいにね」


 ロックが、がこん、と低い音を立てた。


 カリンは両手でハッチを押し開けた。隙間から、冷たい空気が流れ出す。西タワーの外壁で感じた海風とは違う。空調管理層の乾いた空気。金属と機械油と、古い魔導回路が発するわずかな焦げ臭さが混じっていた。


「どうぞ、お姫様」


 カリンが片手を広げる。


「わたくしは機械人形でございます」


「じゃあ、機械人形のお姫様」


「分類が不正確です」


「可愛いからいいの」


「可愛さは――」


「現在の状況解決に寄与しない?」


「はい」


「でもボクのやる気には寄与する」


「記録済みです」


 アリスはハッチをくぐった。


 東タワーの内側は、暗かった。


 空調管理層は、低い天井と細い通路が続く金属の迷路だった。天井を太い配管が走り、壁面には温度調整用の魔導式が刻まれている。床下からは、タワー全体を循環する空気の音が響いていた。


 西タワーのような観光用の演出はない。


 照明は最低限。

 壁は灰色。

 空気は冷たい。

 人の声はしない。


 アリスは通路の先を見た。


「東タワー内へ侵入しました」


「言い方が完全に犯罪者側だねぇ」


「正規入館手続きが不可能なため、侵入という表現が最も適切です」


「正直でよろしい」


 カリンはハッチを閉じ、内側から簡易ロックをかけた。


 直後、ハッチの端末にノイズが走る。


 アリス:該当者なし。

 カリン:該当者なし。

 該当者なし。

 該当者なし。


 カリンは画面を見て、唇だけで笑った。


「こっちでも歓迎されてないみたい」


「敵性干渉は東タワー内部にも拡大しています」


「本命だもんね」


 空調管理層を抜けると、東タワーの裏テナント階へ出た。


 そこから空気が変わった。


 東タワーは、静かに壊れ始めていた。


 西タワーの混乱は、叫び声と赤い非常灯と閉じ込められた人々の恐怖だった。だが、東タワーの異常はもっと静かで、もっと薄気味悪かった。


 ロビーでは、黒いスーツの男が受付機械人形の前で立ち尽くしていた。


「だから、俺はこの会社の社員だって言ってるだろ。社員証もある。ほら、見ろよ」


 男はカードを端末にかざす。


 受付機械人形は、穏やかな女性の声で答えた。


「お客様のお名前を確認できません」


「名前って……社員証に書いてあるだろ!」


「お客様のお名前を確認できません」


「ふざけるな! 会議があるんだよ!」


「お客様のお名前を確認できません」


 男の顔が、怒りから不安へ変わっていく。


 彼の手元の社員証には、顔写真がある。会社名もある。部署名もある。だが、氏名欄だけが空白だった。


 アリスは足を止めた。


 カリンも、黙ってそれを見た。


 ロビーのテナント案内板では、企業名が一瞬ずつ抜け落ちている。


 第十四階 ■■■■株式会社

 第二十七階 登録なし

 第三十二階 該当者なし

 第四十一階 ――

 第五十五階 情報解析コンサルタント事務所

 第五十五階 該当者なし

 第五十五階 SIN DATA OFFICE

 第五十五階 該当者なし


 表示が揺れる。


 通路の監視モニターでは、歩く会社員の顔が一瞬ずつぼやけていた。本人たちは気づいていない。だが、映像の中だけ、顔が削られ、名前が薄れ、輪郭が空白になる。


「西タワーより侵食範囲が広いです」


 アリスが言った。


「こっちは人よりデータが多いからね。食べ放題ってわけだ」


 カリンが苦い顔で返す。


 アリスはカリンを見た。


「不快な表現です」


「ボクも言ってて嫌だった」


 その時、ロビーの奥から警備員が二人走ってきた。西タワーと同じ制服ではない。東タワーの民間警備会社所属だ。彼らはアリスとカリンを見るなり、警棒型の魔導具に手をかけた。


「お前たち、どこから入った!」


「外壁から」


 カリンが素直に答えた。


 警備員たちは一瞬止まる。


「外壁?」


「緊急避難で」


「何を言って――」


 もう一人の警備員が端末を確認した。


「登録がない。こいつら、入館記録がないぞ」


「入館記録が食われています」


 アリスが説明した。


「現在、東タワー全体で存在証明の食害が進行中です。警備員各位は避難誘導と手動記録の作成を優先してください」


「機械人形が何を勝手に――」


 警備員が一歩踏み出した瞬間、カリンが動いた。


 甘い薔薇の香りが、ほんの少しだけ空気に混じる。


 警備員二人の目が、わずかに泳いだ。


「はいはい、落ち着いてねぇ。ボクたち怪しいけど、今それどころじゃないから」


 カリンは笑顔のまま、清掃用ワイヤーを軽く振った。ワイヤーの先端が警備員の手首に絡み、警棒を床へ落とす。もう片方の警備員の足元に、ワイパーの柄が滑り込み、体勢を崩す。


 二人は倒れた。


 怪我はしていない。だが、起き上がる前に、カリンがしゃがんで二人の額を指で軽く弾いた。


「深呼吸して、手動でメモ取って。端末が駄目なら紙。名前が消えてる人を、見たまま書くの。仕事増えちゃったけど、頑張ってねぇ」


 警備員たちは、ぼんやりとうなずいた。


 香による軽い鎮静と誘導。


 アリスはその処理を見ていた。


「カリン様。今の行為は、警備員への魔導干渉に該当します」


「必要だったでしょ?」


「はい。有効でした」


「じゃあ、褒めて」


「有効でした」


「もうちょっと可愛く」


「有効でございました」


「んー、まあいいか」


 カリンは立ち上がる。


 その時、アリスの記録核に、再び声が届いた。


『アリス……』


 遠い。


 先ほどより遠い。


 アリスは胸を押さえる。


「草太様の音声断片を検出。東タワー上層方向」


「シンくんのところと同じ?」


「近似しています」


「じゃあ、急ごっか」


 二人は高層階へ向かった。


 東タワーのエレベーターは信用できなかった。館内システムはすでに食害を受けている。階数表示が一瞬ずつ消え、行き先階の選択ボタンにも「該当者なし」と表示される。


 カリンは迷わず非常用階段へ向かった。


「五十五階まで階段ですか」


 アリスが確認する。


「途中で業者用リフトに乗り換える。動けばね」


「動かない場合は」


「階段」


「カリン様の身体能力であれば可能と推定しますが、一般的には過酷です」


「アリスちゃんは?」


「わたくしの駆動系であれば可能です。ただし、記録核の負荷を考慮すると移動時間短縮が望ましいです」


「じゃあ、走ろっか」


「はい」


 非常階段を、二人は駆け上がった。


 カリンは軽やかだった。清掃員の制服が階段の風に揺れ、靴音はほとんどしない。アリスは機械人形らしく正確な歩幅で続く。階段の踊り場を通過するたび、壁の非常案内板の文字が消えかけていた。


 三十一階、該当者なし。


 三十二階、登録なし。


 三十三階、空白。


 誰の階なのか、何の会社なのか、少しずつ塔が忘れていく。


 四十二階で、業者用リフトが生きていた。


 ただし、認証端末は壊れている。


 カリンがまた金具を取り出す。


 アリスは先に言った。


「不正開錠です」


「まだ何もしてないよぉ」


「予測です」


「当たってるけどね」


 カリンはリフトを開けた。


 業者用リフトは狭く、金属臭が強い。壁には資材搬入用の傷が残り、床には油染みがある。観光客向けの装飾はない。扉が閉まると、外の音が消えた。


 リフトが上昇を始める。


 沈黙。


 金属音。


 アリスの記録核に、草太の声。


『アリス……俺の名前……』


 アリスは目を閉じた。


 閉じる必要はない。視覚センサーを遮断するだけでよい。だが、人間のように目を閉じることで、内部音声へ集中しやすくなるような気がした。


 草太。


 草太。


 草太様。


 名前を保存する。


 カリンが静かに言った。


「アリスちゃん、覚えてる?」


「はい。草太様は存在していました」


「うん。ボクも見た」


 同じ言葉。


 同じ確認。


 だが、カリンの声にわずかな揺れがあった。


 アリスは目を開いた。


「カリン様」


「なぁに?」


「草太様の顔を、鮮明に思い出せますか」


 カリンは、少しだけ沈黙した。


 それは、ほんの二秒ほどだった。


 だが、アリスには長く感じられた。


「……今はまだ」


「今は」


「うん。ちょっと、輪郭が怪しくなってきた」


 カリンは笑おうとしたが、笑みは薄かった。


「でも大丈夫。アリスちゃんの隣にいたのは覚えてる。君が助けたいって言ったのも覚えてる」


 アリスは、その言葉を保存した。


 補助証言。

 外部記憶。

 草太存在証明補強。


 同時に、別の記録も保存した。


 カリンの記憶にも侵食が始まっている。


 リフトが五十五階で停止した。


 扉が開く。


 そこは、東タワーの高層階だった。


 表向きは、高級企業フロアだった。壁は濃い木目調で、床は静音性の高い絨毯。照明は柔らかく、廊下には本物か幻影かわからない水槽が埋め込まれている。受付には「情報解析コンサルタント事務所」と書かれた小さなプレートがあった。


 だが、案内表示の下に、別の文字がちらついている。


 SIN DATA OFFICE


 該当者なし。


 SIN DATA OFFICE


 該当者なし。


 カリンはプレートを見て笑った。


「シンくん、表向きの名前、まだそんな胡散臭いの使ってるんだ」


「情報解析コンサルタント事務所は、業務内容としては正しい可能性があります」


「正しいけど胡散臭いんだよ」


 アリスが扉の前に立つと、扉は勝手に開いた。


 中から、コーヒーの匂いと、機械の熱と、膨大な情報の光が溢れてきた。


 シンのオフィスは、事務所というより巣だった。


 壁一面にモニターが並んでいる。帝都各区の監視映像、交通データ、裏掲示板のログ、企業株価、魔導炉稼働率、匿名取引の暗号文字列、女帝政府の公開発表、天気、死都東京外縁の結界揺らぎ、違法機械人形市場の価格推移。


 床には古い端末が積まれ、天井からはケーブルが垂れ、部屋の中央には複数の魔導式が重なり合ったサーバーが鎮座している。その前で、シンは椅子に座っていた。


 痩せた青年。整えられているのか乱れているのかわからない髪。目の下に薄い隈。指先には情報端末用の接続リング。片手にはコーヒーカップ。


 この異常事態の中で、彼だけはいつも通りの顔をしていた。


「ようこそ、東タワーへ。入場料は命の危険込みで別料金だ」


「もう料金の話?」


 カリンが呆れる。


「料金の話ができるうちは、まだ生きているということだよ」


 シンはカップを置き、アリスを見た。


「やあ、アリス。ずいぶん派手な観光ガイドになったね」


「シン様。草太様の記録を復元できますか」


「挨拶が省略された。状況の悪さがよくわかる」


「緊急事態です」


「だろうね」


 シンは椅子を回し、端末へ向き直った。


「できる、と言いたいところだが、今回は少々胃袋の中が深い」


「胃袋」


「マッドイーターだよ。名前の通り、何かを食べる。昔の記録では肉や物体だったらしいが、今回の相手はもっと趣味が悪い」


 シンの指が端末の上を走る。


 モニターの一部が切り替わり、東タワー内のデータ構造が立体的に表示された。青い線が正常な記録。赤い染みのような部分が侵食領域。黒い穴が、すでに食われた場所。


 黒い穴は、西タワーから東タワーへ伸びていた。


「まずは危険度を共有しよう」


 シンは軽く言い、自分の端末に検索語を打ち込んだ。


 検索語:シン


 通常なら、膨大な偽装情報、裏アカウント、仕事用の複数名義、古い監視カメラの断片、東タワー入館ログが出るはずだったのだろう。


 だが、画面にはひとつの文字列だけが表示された。


 結果:該当者なし


 シンの指が止まった。


 カリンも、アリスも、その画面を見た。


「シンくん?」


 カリンが声をかける。


 シンは、三秒ほど黙った。


 それから、静かに言った。


「……なるほど」


「怒ってる?」


「かなり」


 口調は穏やかだった。


 だが、モニターの光を受けたシンの目は笑っていなかった。


「僕の名前を無断で食べるとは、ずいぶん礼儀知らずな怪物だ」


「シン様の存在証明も侵食されています」


 アリスが言うと、シンは肩をすくめた。


「そうらしい。まったく、情報屋から名前を盗むなんて、泥棒が鍵屋に空き巣に入るようなものだ。趣味が悪い」


 シンは再び端末を操作した。


「古い魔導犯罪記録と照合する。マッドイーター。都市怪異コード。旧記録では、物体や肉体を喰う異常存在。人間、機械、壁、扉、場合によっては魔導障壁まで食べたらしい」


「旧記録では、ということは」


 アリスが問う。


「今回の個体は変質している」


 シンは、別の画面を開いた。


 そこには、食害されたデータの構造が表示されている。


「見たまえ。肉体は食っていない。物体もほとんど無傷だ。代わりに、名前、顔認識、履歴、所有関係、入館記録、会計履歴、所属情報、証明書、他者の記憶との接続を食べている」


「記録喰い」


「存在証明喰い、と言った方が近い。食われた者は、社会的にも魔導的にも『いなかったこと』に近づく。肉体が残っている間は、まだ戻せる可能性がある。しかし、名前と履歴と記憶が完全に食われれば、本人も自分を保てなくなる」


 アリスの胸の奥で、草太の声がさらに遠くなる。


『アリス……俺の、名前……』


「草太様は、まだ残っていますか」


「残っている」


 シンは即答した。


「君とカリンが覚えているからね。物理痕跡もある。だが、速度は速い。食われた記録が東タワーの奥へ運ばれている。おそらく、胃袋に相当する記録領域がある」


「覚えていれば勝てる?」


 カリンが聞いた。


「覚えているだけでは足りない」


 シンは画面を叩く。


「記録を引き戻す場所が必要だ。食われたものを、どこかに再定着させる必要がある。草太という名前を、本人の肉体と世界の記録へ戻す場所がね」


「草太様の存在証明を復元するには」


「食ったものの胃袋を開くしかない」


 シンは画面を切り替えた。


 東タワー記録保管領域。


 違法機械人形取引データベース。

 廃棄機体記録庫。

 企業秘密保管層。

 非公開テナントログ。

 封印指定資料断片。

 旧式魔導犯罪コード保管庫。


 その中で、ひとつのフォルダだけが黒く点滅していた。


 ALICE-00


 アリスの記録核が、強く反応した。


 胸の奥が軋む。視界の端に白いノイズが走る。アリスは瞬きをした。


 フォルダの関連タグが開く。


 機械人形。

 セーフィエル。

 試作人格核。

 零式基礎記録。

 封印補助端末。

 廃棄予定。

 再利用禁止。


 アリスは、その文字を見つめた。


 知っている。


 知らない。


 見たことがない。


 けれど、見てはいけないという反応だけが先に来る。


「アリスちゃん?」


 カリンが横から声をかける。


「不明です」


 アリスは答えた。


 シンが、画面越しにアリスを見る。


「それは、知らないという意味かな。知ってはいけないという意味かな」


「シンくん、言い方」


 カリンが睨む。


 シンは軽く手を上げた。


「情報屋は優しい言い方を売っていないんだ」


「じゃあ今日は仕入れて」


「検討しよう。高くつきそうだ」


「ケチ」


「職業倫理だよ」


 アリスの内側で、声がした。


 ――開けるな。


 零式人格の声だった。


 これまでのように嘲笑う声ではない。怒ってはいる。だが、今の声には警戒があった。


 ――それは餌だ。見せるために置いてある。


 アリスは心の中で問おうとした。


 あなたは、これを知っているのですか。


 しかし、問いは形になる前に、モニターが一斉に乱れた。


 砂嵐の中から、草太の声が聞こえた。


『アリス……助けて』


 アリスの身体が硬直する。


『俺、ここにいる』

『名前、忘れそうなんだ』

『俺の名前、なんだっけ』


「草太様」


 アリスは前へ出た。


 カリンが腕を掴む。


「待って。本物かわからない」


「本物である可能性があります」


「偽物の可能性もある」


「はい」


「なら――」


 モニターの砂嵐が、男の声に変わった。


『草太を返してほしいなら、ALICE-00を開いて』


 声は、エレベーターで囁いた謎の男のものだった。


『君の名前の前にあった名前を見せて』

『君が誰の代わりなのか、食べさせて』


 シンが端末を叩く。


「通信源が複数に分裂している。館内放送、監視映像、来館者ログ、そしてアリスの記録核へ干渉している。非常に不愉快だ」


 カリンはアリスの腕を離さない。


「アリスちゃん、開けちゃ駄目だよ」


「草太様の音声が、本物である可能性があります」


「それはわかる。でも、敵がそう思わせてる」


 アリスはモニターを見る。


 草太の顔は映らない。


 声だけがある。


『アリス……』


 遠く、細く、消えそうな声。


 アリスは、切り捨てられない。


 判定不能は、保護対象を放棄する理由にはならない。


 だが、ALICE-00を開くことは危険である。


 自分の封印領域。

 セーフィエル。

 零式人格。

 名称未定義。

 廃棄予定。

 再利用禁止。


 情報が揃っていない。


 揃っていないからこそ、危険である。


 カリンが、突然、こめかみに手を当てた。


「……やば」


「カリン様」


「アリスちゃん。ボク、あの子の顔、ちょっと怪しい」


 アリスはカリンを見る。


 カリンは唇を噛んでいた。


「草太くんがいたのは覚えてる。アリスちゃんの隣にいた。ボクに見惚れてた。君が助けたいって言った。それは覚えてる。でも、顔が……ぼんやりしてきた」


「カリン様の記憶にも侵食が」


「うん。むかつくね」


 カリンの声が冷えた。


「勝手に人の記憶をつまみ食いするなんて、趣味悪すぎ」


 シンが言う。


「時間切れが近い。草太の記録は、すでに胃袋に入っている。完全に消化される前に、こちらから引っ掛ける必要がある」


「方法は」


 アリスが問う。


 シンは一瞬だけ躊躇した。


「ある。だが、推奨しない」


「提示してください」


「ALICE-00を餌にする」


 カリンが即座に言った。


「却下」


 シンは肩をすくめる。


「僕も却下したい。だが、敵はALICE-00に反応している。つまり、それを開けば敵の胃袋がこちらへ食いつく。その瞬間、草太の記録も一緒に引き戻せる可能性がある」


「アリスちゃんが食われる可能性は?」


「当然ある」


「却下」


 カリンの声が強くなる。


 アリスは、黙って画面を見ていた。


 草太の声が、さらに遠くなる。


『アリ……ス……』


 そして、別の場所で、草太は自分の名前を失いかけていた。


 そこは、通路だった。


 東タワーのどこかのようであり、どこでもない場所だった。床はある。壁もある。非常灯もある。だが、壁には無数の名前が書かれていた。


 人の名前。会社名。部屋番号。商品名。機械人形の型番。古いログイン名。消えたテナント。廃棄機体の登録番号。


 それらが、少しずつ文字を失っていく。


 草太は、自分の観光パスを握りしめていた。


 名前欄は空白だった。


「俺の名前……」


 思い出せる。


 まだ、思い出せる。


 そうた。


 そう――。


 そ――。


 文字が、頭の中から落ちる。


 恐怖で喉が詰まった。


 自分が誰なのかわからなくなる。自分の名前が、手のひらの水みたいにこぼれていく。叫ぼうとしても、何を叫べばいいのかわからない。


 だが、ひとつだけ、はっきり残っている名前があった。


「アリス」


 声に出す。


 その名前だけは、言える。


「アリス……助けて」


 暗い通路の奥で、何かが笑った。


 草太は、もう一度叫んだ。


「アリス!」


 その声が、アリスの記録核へ届いた。


 アリスは決断した。


「ALICE-00を完全開封する必要はありません」


 アリスの声は静かだった。


 カリンが振り向く。


「アリスちゃん」


「外殻情報のみ限定開封します。敵が食いついた瞬間、草太様の記録を引き戻します」


 シンは目を細めた。


「自分の封印領域を餌にするつもりかい? あまり賢いとは言えないね」


「より安全な代替案はありますか」


「ない」


「では、実行します」


「アリスちゃん、それ開けたら、君が危ないんでしょ」


 カリンの声が、珍しく真っ直ぐだった。


「はい」


「じゃあ、やめようよ」


「草太様の記録は、現在も消失を続けています」


「でも、君の名前も食われるかもしれない」


 アリスは、カリンを見た。


 カリンの顔は、いつものように甘く笑ってはいなかった。清掃員の顔でも、氷の花の顔でもない。ただ、アリスを見ていた。


 外からアリスを見る誰か。


 アリスを定義しない誰か。


 アリスちゃん、と呼ぶ誰か。


 アリスは言った。


「だからこそ、草太様の名前を守る必要があります」


「どういう意味?」


「誰かの名前が消えることを許せば、わたくしは自分の名前も守れません」


 カリンは黙った。


 シンも黙った。


 アリスは続ける。


「草太様を救うために、わたくしの記録を確認します。草太様を忘れないために、必要な範囲で自分を確認します」


 カリンは、ゆっくり息を吐いた。


「……わかった」


 声は、完全には納得していなかった。


 それでも、否定ではなかった。


「やばくなったら、ボクが名前を呼ぶ」


「お願いします」


「アリスちゃん」


「はい」


「今のうちに呼んどいた」


 アリスは一瞬だけ沈黙した。


「記録しました」


「うん。何回でも呼ぶから」


 シンは椅子を回し、複数の端末を同時に起動した。


「隔離環境を構築する。ALICE-00の外殻情報だけを切り出す。内部までは開かない。敵が食いついた瞬間、草太の記録断片を引きずり出す。理論上は可能だ。現実には、かなりひどい賭けだ」


「成功率は」


 アリスが問う。


「聞かない方が健康にいい」


「わたくしは機械人形でございます」


「なら、メンタルに悪い」


「それも現在不明です」


「便利だね、不明」


 シンは指を鳴らした。


 部屋の明かりが落ちる。


 複数のモニターが暗転し、中央の大型画面だけが白く光った。周囲に魔導式の円環が浮かび、隔離用の結界が構築される。情報屋のオフィスは、一時的に小さな封印室になった。


 アリスは中央に立つ。


 カリンはその横に立ち、アリスの肩に手を置いた。


 シンは端末の前で言う。


「開くよ。外殻だけだ。見えたものを全部信じるな。古い記録は、真実とは限らない。記録とは、誰かが残した偏った死体だ」


「表現が不穏です」


「情報屋らしい表現だよ」


「シンくん、優しい言い方」


「……古い記録は、壊れやすい宝石だ」


 カリンが微妙な顔をした。


「それもなんか違う」


「努力はした」


 アリスは画面を見た。


 ALICE-00。


 限定開封。


 承認。


 記録核の奥で、零式人格が低く言った。


 ――見るな。


 アリスは、内側で答えた。


 必要な範囲のみ確認します。


 ――お行儀のいいこと言ってんじゃねぇよ。


 声が荒くなる。


 ――それは、おまえを食うための皿だ。


 アリスは画面から目を逸らさなかった。


 映像が流れ始めた。


 白い部屋だった。


 天井も、床も、壁も、白い。人間の病室にも、研究室にも、礼拝堂にも見える。部屋の中央には円形の魔導式が刻まれ、その上に透明な寝台が置かれている。


 寝台の上には、少女型の機械人形が眠っていた。


 アリスに似ていた。


 似ている、というより、同じ顔の原型だった。


 陶器のような白い肌。金色の髪。ただし、今のアリスより少し短い。目は閉じている。表情はない。胸部外装は開かれており、仮の記録核が埋め込まれている。身体にはまだ衣服がなく、白い布だけがかけられていた。


 未完成。


 そういう言葉が、アリスの中に浮かんだ。


 映像の端に文字が表示される。


 ALICE-00

 零式人格基礎記録

 作成者:SAFIEL

 状態:凍結

 備考:名称未定義


 セーフィエル。


 署名が見えた瞬間、アリスの記録核が熱を持った。


 映像の中に、手が映る。


 白い指。長い爪。魔導式を刻んだ手袋。顔は映らない。だが、その手をアリスは知っている。


 セーフィエルの手。


 創造主の手。


 母のような手。


 恐怖の手。


 未定義。


 その手が、眠る機械人形の頬に触れた。


 声が聞こえる。


『あなたの名前は、まだ空白のままにしておきましょう』


 アリスは硬直した。


 白い部屋。


 眠る少女。


 同じ顔。


 空白の名前。


 ALICE-00。


 それは、自分なのか。


 自分の前にあったものなのか。


 自分の奥にあるものなのか。


 セーフィエルは、誰に名前を与えなかったのか。


 零式人格が低く言った。


 ――見るなって言っただろ。


 アリスは、目を逸らせなかった。


 シンの声が鋭くなる。


「来た」


 モニターの白い映像に、黒い染みが広がった。


 黒い染みは、映像そのものを食べるように縁から広がる。白い部屋の壁が欠け、眠る少女の輪郭が歪み、セーフィエルの手にノイズが走る。


「閉じるな、まだ閉じるな。草太の記録も一緒に引っかかってる」


 シンが叫ぶ。


 別のモニターに、文字が浮かんだ。


 草太。


 アリスは息を止める必要がない。


 それでも、胸が止まったように感じた。


 草太。


 その名前が戻った。


 一瞬だけ。


 次の瞬間、黒い染みがアリスへ向かって伸びた。


 記録核に、牙が触れる。


 ALICE


 ALICE-00


 ALICE-ZERO


 NO NAME


 視界が崩れる。


 身体の感覚が遠くなる。


 自分の名前が、画面の文字と一緒に剥がれていく。アリスという五文字が、音ではなく、ただの記号になっていく。誰かが呼んでくれた名前。マナが呼んだ名前。カリンが呼んだ名前。草太が呼んだ名前。それらが、ばらばらにほどけていく。


 モニターの中で、謎の声が笑った。


『甘い』


 アリスは崩れかけた。


 膝が床につく。


 カリンが叫ぶ。


「アリスちゃん!」


 その声が、まっすぐに届いた。


 アリスちゃん。


 呼ばれた。


 名前を呼ばれた。


 アリスは、わずかに顔を上げた。


 草太の名前がまだ消えていない。


 自分の名前も、まだ完全には消えていない。


 だが、記録核の奥で、何かが動いた。


 零式人格。


 これまで封印の奥から声だけを投げていた存在が、扉の向こうで目を開けるように、はっきりとアリスを見た。


 ――だから言っただろ。


 声は近かった。


 ――守りたいなら、アタシを使え。


 アリスは、内側の暗闇を見た。


 そこに、誰かがいる。


 不具合ではない。


 敵の声でもない。


 ノイズではない。


 怒っている。


 拒んでいる。


 けれど、守ろうとしている。


 アリスは、初めてその声へ問いかけた。


「あなたは、誰ですか」


 内側で、誰かが笑った。


 荒く、皮肉っぽく、泣き出しそうな笑いだった。


 ――忘れたのかよ。


 白い部屋の映像が、モニター上で停止している。


 ALICE-00。


 零式人格基礎記録。


 作成者、SAFIEL。


 備考、名称未定義。


 草太の名前が、一瞬だけ画面の隅に戻り、すぐにまた黒いノイズへ沈む。


 内側の声が言った。


 ――名前をもらう前の、おまえだよ。


 アリスは初めて、自分の中にいる声を、不具合ではなく、誰かとして見た。

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