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第2話 ツインタワー封鎖

 ツインタワー西タワーから、光が消えていった。


 最初に閉じたのは、外壁だった。ガラスの向こうに広がっていたミナト区の空と海が、上から降りてくる白い防御シャッターによって一枚ずつ断ち切られていく。昼の光が細い線になり、次の瞬間には消えた。透明だった観光名所は、内側から見れば巨大な白い箱になった。


 次に閉じたのは、扉だった。非常階段、連絡通路、従業員用出入口、バックヤードへの自動扉。そこらじゅうで重いロック音が響き、赤いランプが点滅する。観光客たちは、最初は何かの演出だと思った。帝都エデンの観光施設には、少々大げさな安全演出や魔導ショーが珍しくない。だが、館内放送が壊れた声で同じ言葉を繰り返し始めた時、その思い込みは悲鳴に変わった。


『存在証明照合中。存在証明照合中。該当者なし。該当者なし』


 その声は、女の声にも男の声にも聞こえた。やけに近く、やけに遠い。スピーカーから出ているはずなのに、耳の奥で直接鳴っているようだった。


 人々が一斉に端末を確認する。


「圏外……?」

「さっきまで繋がってたのに」

「おい、非常通報も駄目だぞ」

「警備員! これ、何が起きてるの!」

「外に出して! 子どもがいるのよ!」


 警備員たちも青ざめていた。彼らは制服こそ整えていたが、動きには迷いがある。端末に指を滑らせ、腰の通信機へ声を投げ、壁面の非常制御パネルを開けようとしている。しかし、どの画面にも同じ文字列が浮かんでいた。


 存在証明照合中。


 該当者なし。


 該当者なし。


 該当者なし。


 西タワーは、帝都で最も華やかな観光名所のひとつだった。展望台、飲食フロア、劇場、ホテル、魔導体験施設、高級ブランド街。昼間の西タワーには、笑い声と広告と香水と料理の匂いが溢れている。だが今、そのすべてが赤い非常灯に染まり、白いシャッターに囲まれ、出口を失った群衆の呼吸だけが濃くなっていた。


 その中で、アリスは動かなかった。


 黒いメイド服に、観光ガイド用の白いケープ。胸元の臨時ガイド証には、アリス、と表示されている。陶器のように白い顔は、相変わらず無表情だった。けれど、右手は胸元を押さえている。記録核のある位置だった。


 アリスの視覚情報には、観光客の群れが映っている。


 だが、そこに草太はいない。


 つい先ほどまで握っていたはずの手の感触が、触覚ログから薄れていく。手首の温度。脈拍。汗。草太がエレベーター内で不安そうに見上げてきた顔。その顔の目元が、記録の中でぼやけ始めていた。


 アリスは記録核に命令を送る。


 保存。


 再保存。


 冗長記録。


 バックアップ領域確保。


 草太。


 草太。


 草太様。


 外部通信、不能。


 内部保存、継続。


 記録破損、進行中。


 アリスは、ほんのわずかに唇を引き結んだ。


「アリスちゃん」


 隣から、柔らかな声がした。


 カリンだった。


 ほんの少し前まで、彼は五十階の外壁清掃リフトの上にいた。今は非常用メンテナンス通路から合流し、清掃員の制服のままアリスの隣に立っている。黒髪は風で少し乱れ、手袋にはまだ清掃用薬剤の匂いが残っていた。


 だが、その目はもう清掃員のものではなかった。


「聞こえてる?」


「はい」


 アリスは答えた。


「通信状態は不安定ですが、聴覚機能は正常です」


「うん。そういう意味じゃないんだけど、まあいいや」


 カリンは軽く肩をすくめ、赤く点滅する通路を見渡した。


「草太くん、だったよね。さっき、アリスちゃんの隣にいた子」


 アリスの顔が、わずかにカリンへ向いた。


「カリン様は、草太様を記憶しているのですか」


「うん。窓の外から見た。口ぽかーんって開けて、ボクのこと見てた子。ちょっと失礼なくらい見てた」


「記録補助として保存します」


「どうぞぉ。あの子、白っぽいパーカー着てた。観光パスを首から下げてた。髪は少し跳ねてた。アリスちゃんに話しかける時、ちょっと緊張してた。あと、たぶんボクをアイドルか何かと勘違いしてた」


「該当情報を補助記録として登録。草太様の存在証明補強に使用します」


「ボクの美貌が役に立ったねぇ」


「美貌による記録補強効果は、現在のところ検証不能です」


「アリスちゃん、そういうところ可愛いよ」


「可愛さは現在の状況解決に寄与しません」


「寄与してるよ。ボクのやる気に」


 カリンは笑った。


 その軽さは、館内の混乱から浮いているように見えた。だが、アリスはその声の奥にある硬さを検出していた。カリンの呼吸は深い。視線は常に動いている。出口、非常灯、警備員、群衆、監視カメラ、シャッターの駆動部、天井点検口。清掃員の顔をしたまま、彼はこの場を戦場として見ていた。


 だから、アリスは判断した。


 カリンは避難対象ではない。


 少なくとも、通常の市民ではない。


「カリン様。草太様の存在証明は、館内システムより消失しています。物理的消失ではなく、認識および記録の剥奪と推定されます」


「殺してない。いなかったことにしてる」


「はい。より悪質です」


 アリスがそう言うと、カリンはほんの少しだけ目を細めた。


「うん。嫌いなタイプ」


 その声は、甘くなかった。


 アリスは周囲の人間に草太の情報を確認した。


 まず、エレベーターに乗り合わせた観光客の夫婦。二人は顔を見合わせ、困ったように首を振った。


「男の子? そんな子、いたかしら」

「エレベーターは混んでましたけど、メイドさんは覚えてますよ。目立ってましたから」

「でも、男の子は……すみません、見てないです」


 次に、配送ドローンの管理員。彼は壁にぶつかった小型ドローンを抱えながら、首をかしげた。


「同行者登録? 今、端末が全部死んでるからなあ。いや、俺は見てないよ。あんた一人だったんじゃないの?」


 警備員にも確認した。彼は顔面蒼白のまま、手元の端末を見た。


「来館者名簿には、アリス様の臨時ガイド登録はあります。ですが、同行者は……空白ですね」


「空白」


「はい。登録欄そのものはあるんですが、氏名がありません。こんなデータ、見たことがない」


「空白が存在するということは、本来そこに情報があった可能性があります」


「可能性と言われても、今は非常事態で――」


「これは非常事態の一部でございます」


 警備員は返答できなかった。


 アリスは、草太がいたことを確認するため、飲食フロアへ戻ることにした。


 カリンが先に立った。赤い非常灯に照らされた廊下を、彼は迷わず進む。観光客が通る表動線ではなく、清掃員や搬入業者が使う脇通路を選ぶ。閉鎖されたシャッターの隙間、非常用の点検扉、従業員通路へ続く細い階段。カリンはそのすべてを知っていた。


「カリン様」


「なぁに?」


「ツインタワーの構造に詳しすぎます」


「清掃員だからねぇ」


「清掃員の業務範囲を超過しているものと推定されます」


「じゃあ、熱心な清掃員」


「熱心な清掃員は、非常用点検扉の手動解除コードを暗記しているのでしょうか」


「職場愛かな」


「不正アクセスに該当する可能性があります」


「ばれなきゃ職場愛だよ」


「カリン様」


「はいはい。怒らないで、アリスちゃん。今はこっちの方が早いの」


 カリンは工具ポーチから細い金属片を取り出し、点検扉の旧式ロックに差し込んだ。三秒後、扉は小さな音を立てて開いた。


「ほら」


「不正開錠を確認しました」


「緊急避難だよぉ」


「便利な言葉です」


「アリスちゃんも覚えとくといいよ。帝都で生きるには便利な言葉がいくつか必要だから」


「記録します。ただし、使用は慎重に判断します」


「うん。そういう真面目なところ、嫌いじゃない」


 二人は飲食フロアの裏側に出た。


 そこは、先ほどまで草太が感動していた魔導噴水や華やかな店舗とは別世界だった。配管がむき出しになり、搬入用の箱が積まれ、清掃道具や業務用端末が並んでいる。空調の音が大きく、床には台車の跡が残っている。


 表では観光客が悲鳴を上げ、裏では機械人形の作業員が停止していた。


 いや、停止ではない。


 業務指示を待っている。


 アリスは、その機械人形たちの目を見た。旧式の清掃機械人形が三体、壁際に並んでいる。瞳に当たるセンサーは光っているが、命令系統が遮断されているらしい。彼らは人間の混乱に反応しない。ただ、清掃すべき廊下と、清掃してはいけない非常事態の間で命令待ちをしている。


 アリスは一瞬だけ、その姿に自分を重ねそうになった。


 命令待ち。


 不具合処理中。


 未定義。


 ――見てる場合かよ。


 頭の奥で声がした。


 アリスは、無意識に胸を押さえる。


 カリンがちらりと見る。


「聞こえた?」


「問題ありません」


「何が聞こえたかは否定しないんだ」


「……内部不具合音声です」


「ふうん」


 カリンはそれ以上追及しなかった。


 海鮮麺の店の返却口には、食器が残っていた。


 混乱の中で片づけられなかったのだろう。返却口の奥に、大きな器が二つ並んでいる。ひとつはほとんど空。もうひとつは、少しだけスープが残っていた。


 アリスは近づいた。


 片方の器には、アリスが一口だけ飲んだスープの成分が残っている。簡易味覚センサーで検出したものと一致。もう片方の器には、草太が食べた痕跡がある。唾液成分。箸の接触痕。人間の手が持った熱の残留。


 だが、会計端末を確認すると、注文は一名分だった。


 海鮮麺、一杯。


 注文者、アリス。


 同行者、空白。


「二つあるね」


 カリンが言った。


「はい」


 アリスは、器に手をかざした。


「物理痕跡は残存。認識と記録のみが削除されています」


「つまり、消されたのは身体じゃなくて、名前と履歴」


「現時点では、その可能性が高いと判断します」


「殺してないのに、殺すよりたちが悪いねぇ」


「はい。より悪質です」


 アリスは、二つ目の器を見つめた。


 草太はここにいた。


 スープを飲んだ。


 熱いと言った。


 アリスに「おいしいと思いました?」と聞いた。


 その声が、記録の中で少しずつ欠けていく。


 おいしいと思いました?


 おいしい。


 思う。


 アリスさんは?


 アリスは、その問いに答えていなかった。


 回答保留。


 未回答。


 記録欠損の危険。


 アリスは、二つの器を撮影し、成分データ、時間、位置、物理痕跡をすべて自分の記録核に保存した。


 すると、胸の奥が軋んだ。


 記録核負荷、上昇。


 敵性ノイズ、微量混入。


 アリスは奥歯を噛む必要がない。噛む機能はあるが、痛みに耐えるための動作ではない。それでも、なぜか顎に力が入った。


「草太様は存在していました」


 アリスは言った。


 カリンはうなずいた。


「うん。ボクも見た」


「補助証言を再保存します」


「何回でも言ってあげる。草太くんはいた。アリスちゃんと歩いてた。ボクに見惚れてた」


「最後の情報は必要でしょうか」


「必要。人間って、そういう余計なところがいちばん残るんだよ」


「余計なところ」


「そう。何食べたかより、誰に見惚れたかの方が、あとで思い出したりするでしょ」


「理解が困難です」


「今は困難でいいよ」


 カリンは返却口から離れ、従業員通路の奥を指さした。


「防災管理室に行こう。館内カメラと来館者記録が見られる。表の警備員さんたちは今、たぶんパニックで役に立たない」


「防災管理室への入室権限はありますか」


「ないよ」


「では、不正侵入になります」


「緊急避難」


「便利な言葉です」


「覚えるの早いねぇ」


 二人は清掃員用バックヤードへ入った。


 華やかな西タワーの裏側は、狭く、低く、無機質だった。天井は配管だらけで、床には滑り止めの金属板が敷かれている。壁には清掃手順、搬入時間表、従業員用の注意書き、魔導火災時の避難図。観光客の目に触れる装飾はひとつもない。


 清掃用具の棚には、ブラシ、ワイパー、洗剤、魔導防汚剤、ガラス補修材、古いハンドライトが整然と並んでいた。従業員ロッカーのひとつには、カリン、と小さく書かれた名札がある。


 カリンはその前を通り過ぎながら、少しだけ気まずそうに笑った。


「ボクのロッカー、見ないでねぇ。ファンからもらった変なもの入ってるから」


「変なものとは」


「髪の毛入りの封筒とか、手作り人形とか、ボクが窓拭いてる写真とか」


「通報を推奨します」


「したよぉ。三回くらい」


「効果は」


「ないねぇ」


「帝都警察の対応に問題があると判断します」


「まあ、ボクも警察に顔出しにくい仕事してるからねぇ」


「カリン様は清掃員では」


「清掃員だよ。今日のところは」


 カリンは笑い、ロッカーの横にある古い端末を起動した。


 画面には清掃スケジュールが表示される。だが、カリンはそこから別のメニューを開いた。通常業務画面の裏に隠されたメンテナンスモード。さらに古い認証コードを入力する。


 アリスは無言で見ていた。


「カリン様」


「なぁに?」


「やはり、清掃員として不適切な知識を多数保持しているものと推定されます」


「褒めてる?」


「警戒しています」


「アリスちゃん、正直で可愛いねぇ」


「可愛さは現在の状況解決に寄与しません」


「だから、ボクのやる気に寄与してるってば」


 端末の画面が切り替わり、バックヤード奥の防災管理室へ続く扉のロックが解除された。


 カリンは軽く手を振る。


「はい、開いた」


「不正開錠を確認しました」


「緊急避難」


「便利な言葉です」


「そろそろ気に入ってきた?」


「濫用の危険性があります」


「真面目だなぁ」


 二人は防災管理室へ入った。


 室内には、壁一面の監視モニターと、館内制御用の大型端末が並んでいた。通常なら警備員が常駐しているはずだが、今は無人だった。椅子が倒れ、紙コップが転がり、机の上の端末だけが赤い警告を点滅させている。


 モニターには、館内各所の映像が映っていた。


 エントランスホールで混乱する観光客。飲食フロアの裏で停止する機械人形。非常階段の前で扉を叩く人々。外壁シャッターの内側で泣く子ども。警備員の端末に同じ文字が並ぶ様子。


 存在証明照合中。


 該当者なし。


 アリスはメイン端末の前へ立った。


「館内記録へ接続します」


「大丈夫?」


 カリンが聞いた。


「危険性はあります」


「あるんだ」


「はい。敵性干渉が館内システム内部に存在する場合、わたくしの記録核へ逆流する可能性があります」


「じゃあ、やめる?」


「いいえ」


 アリスは即答した。


「草太様の痕跡が消失する前に、記録を確保する必要があります」


 カリンは、少しだけ目を細めた。


「そっか。じゃあ、やろう」


「カリン様は後方警戒をお願いします」


「了解。清掃員らしくね」


「清掃員は後方警戒を行う職業ではございません」


「細かいことはいいの」


 アリスは、端末に手をかざした。


 指先の外装がわずかに開き、細い接続端子が展開される。魔導回路が青白く光り、端末の認証画面へ侵入する。普通のハッキングではない。アリスの記録核を一時的に館内システムへ接続し、失われた来館者ログの矛盾を直接照合する。


 接続開始。


 館内ネットワーク、応答不安定。


 来館者記録、破損。


 監視映像、欠損。


 会計履歴、改竄。


 防災システム、強制封鎖中。


 外部通信、遮断。


 アリスは、草太の名前を検索した。


 草太。


 該当者なし。


 草太様。


 該当者なし。


 都外観光客、男性、十五歳前後、ホウジュ・ギガステーション合流、アリス同行者。


 該当者なし。


 検索結果は空白だった。


 しかし、総来館者数と個別記録数が一致していない。入館ゲートは、ある時刻に二名分の通過を記録している。だが、個別登録はアリス一名分しかない。空白の欄がひとつ残っている。


 アリスは、その空白を選択した。


 黒いノイズが、画面全体に広がった。


 胸の奥が痛んだ。


 痛み、と分類してよいのかは不明。記録核への負荷、魔導回路の過熱、人格領域の同期乱れ。物理的な痛覚とは異なる。だが、人間であればそれを痛みと呼ぶかもしれない。


 アリスは耐えた。


 監視映像を開く。


 ホウジュ・ギガステーションでの合流映像。アリスが立っている。隣には、空白がある。人ひとり分の空間だけが不自然に歪んでいる。周囲の人々はそこを避けて歩いているのに、映像上には誰もいない。


 観光空路の映像。アリスが窓の外を説明している。隣の座席が空白。だが、座席のクッションは沈んでいる。


 海鮮麺の店。アリスの向かいの席が空白。だが、器は浮かんでいるように見える。レンゲが動き、箸が持ち上がり、麺が消える。映像はそれを異常として認識していない。


 エレベーター内。アリスの前に空白がある。アリスの右手が、何もない場所を掴んでいる。


 アリスは、その映像を見つめた。


「草太様は存在していました」


 声に、力が入った。


「入館人数と個別記録の不一致。座席圧力。会計履歴と厨房消費量の矛盾。食器の物理痕跡。監視映像上の空白。わたくしの記録核内に残る音声断片。カリン様の外部記憶」


 アリスは、ひとつずつ積み重ねるように言った。


「草太様は、存在していました」


 その瞬間、壁一面のモニターが一斉に暗転した。


 カリンが振り向く。


「来るよ」


 暗い画面に、アリスの顔が映った。


 観光ガイド証をつけた、黒いメイド服の少女。無表情の顔。金色の髪。蒼い瞳。


 名前欄が表示される。


 ALICE


 文字が乱れる。


 ALICE-00


 さらに乱れる。


 ALICE-ZERO


 次に。


 NO NAME


 アリスの記録核が、内側から掴まれた。


 視界が白く弾ける。警告音が重なる。外部接続を切断しようとしたが、黒いノイズが接続回線に絡みつく。草太の記録を保持している領域に、別の文字列が侵入してくる。


 ALICE。


 ALICE-00。


 セーフィエルの人形。


 マナのメイド。


 誰かの代用品。


 帝都案内人。


 アリスは接続を切ろうとした。


 だが、切れば草太の痕跡も失う。


 保存。


 遮断。


 保存。


 遮断。


 矛盾する命令が、記録核に負荷をかける。


 ――守るって言っただろ。


 零式人格の声が、内側で叫んだ。


 ――取らせるな。


 アリスは、反射的にその声を封じようとした。


 内部不具合音声、遮断。


 零式人格領域、再封印。


 封印式、展開。


 その瞬間、記録核の防御が乱れた。


 敵性ノイズが一段深く入る。


 画面の中のアリスが笑った。


 アリス本人は笑っていない。


 モニターの中のアリスだけが、口角を上げた。


『君は、どれを捨てたいの?』


 謎の男の声だった。


 防災管理室のスピーカーからではない。モニターの中のアリスの口から聞こえたようにも、アリスの記録核の奥で響いたようにも感じられた。


『アリス』

『機械人形アリス』

『アリス零式』

『セーフィエルの人形』

『マナのメイド』

『誰かの代用品』

『帝都案内人』


 ひとつ呼ばれるたびに、アリスの内部で何かが揺れた。


『どれが本当の名前?』


 アリスは声を出そうとした。


 わたくしは――。


『誰が君に名前をくれた? セーフィエル? マナ? それとも、君を見た人間たち?』


 セーフィエル。


 マナ。


 草太。


 カリン。


 シグレ。


 自分。


 どれが。


 誰が。


 名前。


 アリスの指先が震えた。


 カリンが、アリスの肩を掴んだ。


「アリスちゃん」


 その声は、モニターの声よりも近かった。


「聞こえてる?」


「はい。通信状態は正常です」


「違う。ボクの声じゃなくて、君の中の声」


 アリスは、ほんのわずかに首を動かした。


「内部不具合音声です。処理中です」


「それ、本当に不具合?」


 カリンの指が、アリスの肩に少しだけ力を込めた。


 人間の手。


 清掃用手袋越しの圧力。


 温度。


 存在。


「敵の声と、自分の声を一緒に捨てたらダメだよ」


 アリスは答えられなかった。


 自分の声。


 あれは、自分なのか。


 あの荒い声は、アリスを人形と呼び、役割を拒み、セーフィエルを嫌い、命令を嫌い、アリスの中で怒っている。あれを自分と呼ぶのは、危険ではないのか。もしあれが自分なら、今までの自分は何なのか。


 アリスは、かすかに口を開いた。


「現在の最優先事項は、草太様の救出です」


 カリンは、少しだけ苦笑した。


「逃げたね」


「戦術的優先順位の設定でございます」


「うん。今はそれでいいよ」


 カリンは肩から手を離した。


 その瞬間、アリスは接続を強制切断した。端末から指を離し、内部回路を遮断する。モニターの映像が砂嵐に戻る。


 アリスは一歩下がった。


 脚部フレームに微細な震え。


 記録核負荷、危険域手前。


 草太の記録、保持。


 アリスの名前、暫定保持。


 暫定。


「アリスちゃん、大丈夫?」


「問題ありません」


「それ、信用度低いんだよねぇ」


「記録されています」


「じゃあ、改善して」


「努力します」


 カリンは笑い、倒れた椅子を起こして端末の前に座った。


「さて、表の回線は死んでる。警備回線もだめ。女帝政府への非常通報も、おそらく途中で食われてる。こういう時は、古い裏口を使うに限るね」


「裏口」


「清掃業者用のメンテナンス回線。古いし遅いし、セキュリティも雑。でも、雑だからこそ、こういう封鎖から漏れることがある」


「カリン様は、なぜそのような回線を知っているのでしょうか」


「清掃員だからねぇ」


「再度申し上げますが、清掃員として不適切です」


「じゃあ、トラブルシューターだから」


「そちらの説明であれば納得可能です」


「急に受け入れるんだ」


 カリンは端末のカバーを外し、中の古い接続ポートに清掃用具に偽装された小型端末を差し込んだ。画面が一瞬乱れ、暗号化されていない古いメンテナンス用画面が出る。


 カリンは慣れた指つきで通信先を指定した。


「東タワーの情報屋さん、起きてるかなぁ」


 数秒のノイズ。


 次に、軽薄な声が聞こえた。


『やあ、カリン。清掃中に私用通信とは感心しないね。料金は倍だよ』


 シンだった。


 帝都エデンの情報屋。ツインタワー東タワー高層階に拠点を持ち、都市の監視網、裏データ、企業記録、削除された噂まで漁る男。声だけでも、相手をからかっていることがわかる。


 カリンは笑った。


「後で払うから、今すぐ西タワーの来館者記録を見て」


『後で払うと言って本当に払った者を、僕は三人しか知らない』


「ボクを四人目にしてあげるから」


『それは魅力的だ。だが、僕は魅力的な提案ほど信用しない主義でね』


「じゃあ、ツインタワー西タワーが封鎖されてて、来館者の名前が食われてるって言ったら?」


 通信の向こうで、わずかに沈黙があった。


『名前が?』


 アリスが前に出た。


「シン様。草太様の存在証明が館内記録から消失しています」


『……アリスか。君がそう言うなら、比喩ではなさそうだね』


「はい。比喩ではございません」


『草太という来館者の氏名、生体認証、入館履歴、会計記録、監視映像、同行者登録が消失または空白化しています。ただし、物理痕跡は残存しています』


『なるほど。最悪だ』


 シンの声が、そこで初めて真面目になった。


『カリン、今の回線を切るな。遅くて汚いが、逆に生きている。アリス、そちらの端末には直接深く接続しない方がいい。君の記録核は美味しそうだ』


「美味しそう、とは」


『記録の密度が高いという意味だよ。悪食にとってはご馳走だ』


 アリスは胸を押さえた。


「敵は、記録を食べているのでしょうか」


『少し待て。今、東タワー側から西タワーの基幹ログを覗いて……おや』


 シンの声が途切れた。


 ノイズが走る。


 カリンが端末を軽く叩く。


「シンくん?」


『いるよ。面白くないものを見つけた』


「面白くないのに、声が楽しそうだよ」


『僕は面白くないものほど面白がる性格でね。結論から言う。これは外部から消されたんじゃない。内部で食われてる』


「内部?」


『来館者記録照合システムそのものに、食害が発生している。普通の改竄なら、消した痕跡がある。だが、これは違う。データを削除しているんじゃない。データの意味を食べている』


 アリスは画面を見る。


「意味を食べる」


『氏名という文字列、顔という認識、入館したという履歴、誰かと一緒にいたという関係性。それぞれをばらばらに食べている。だから物理痕跡だけが残る。器は残るのに、食べた者がいないことになる。座席は沈むのに、座った者がいないことになる』


「草太様は、まだ完全には消えていません」


『その通り。完全に食われていれば、空白すら残らない。今は消化途中だ』


 消化途中。


 アリスの記録核が、嫌な反応を示した。


 言葉としては理解できる。


 だが、その言葉を草太に適用したくなかった。


『それと、もっと悪い話がある』


 シンが続けた。


『西タワーの食害は目立ちすぎる。観光客、商業フロア、封鎖、館内放送。騒ぎを起こすなら最適だが、得るものは少ない。つまり、これは囮だ』


 カリンは目を細めた。


「本命は東?」


『そう。侵食経路が連絡通路の向こうへ伸びている。東タワーの記録保管領域だ』


「東タワーって、シンくんの庭じゃない」


『僕の庭に勝手に穴を掘る者は嫌いだよ』


 シンの声が低くなる。


『東タワーには、企業記録、裏社会の取引履歴、魔導金融の担保情報、非公開テナントの出入り記録、違法機械人形の所有登録、廃棄記録、試作機の流通データがある。表の観光客一人を食うだけなら、そんな場所へ向かう必要はない』


 アリスの内部で、何かが反応した。


 違法機械人形。


 廃棄記録。


 試作機。


 その単語に、記録核の奥が震える。


 モニターの隅に、文字が浮かんだ。


 ALICE-00


 アリスは、息を止める必要がない。


 それでも、呼吸の真似をしていた胸の動きが止まった。


 シンが気づいた。


『アリス。今、そちらの端末に妙な文字が出た。ALICE-00。君、これに心当たりは?』


 アリスは、画面を見つめた。


 ALICE-00。


 読める。


 意味は不明。


 だが、知らないとは言い切れない。


 記録核の深部で、封印された領域が熱を持つ。


「不明です」


 アリスは答えた。


 その瞬間、内側で声がした。


 ――嘘つき。


 アリスは沈黙した。


 カリンは、その横顔を見ていた。責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ見ていた。


 シンの通信にノイズが走る。


『今の反応を見る限り、不明というより未開封だね。まあいい。東タワー側の遮断ゲートが落ちている。通常の連絡通路は無理だ。内部エレベーターも敵の腹の中だと思った方がいい』


「外壁ルートは?」


 カリンが言った。


 通信の向こうで、シンが笑った気配がした。


『君ならそう言うと思った。西タワー四十八階から東タワー側へ、外壁メンテナンスレールが走っている。通常時は作業用で、観光客はもちろん、一般従業員も使わない。防御シャッターの隙間から出られれば、東タワー外壁の非常ハッチまで行ける』


「風は?」


『強い。今日のミナト区上空は海風がある。普通の清掃員なら死ぬ』


「じゃあ、ボクなら大丈夫だね」


『普通じゃない自覚があるのは良いことだ』


「アリスちゃんは?」


 カリンがアリスを見る。


 アリスは自分の機能を確認した。


 飛行機能、出力制限。


 コード005〈ウィング〉、短時間使用可。


 コード007〈メイル〉、部分展開可。


 コード002〈シールド〉、使用可。


 コード003〈コメット〉、封印中。


 記録核、不安定。


 外壁移動、危険。


 推奨、待機。


 推奨、救援要請。


 外部通信、不能。


 草太の記録、消失進行中。


 アリスは、答えなかった。


 その前に、世界が少しだけ変わった。


 草太は、歩いていた。


 どこを歩いているのか、わからなかった。


 ツインタワーの中であることはわかる。赤い非常灯も、白い壁も、閉じたシャッターも見える。人の声も聞こえる。けれど、誰も草太を見ない。


 最初は、夢だと思った。


 次に、透明人間になったのだと思った。


 だが、透明というのとも違う。肩が人にぶつかる。相手は驚く。だが、草太を見ない。ただ「何かにぶつかった」ような顔をして、周囲を見回す。それだけだった。


「ここにいる!」


 草太は叫んだ。


「俺、ここにいるって!」


 誰も振り向かない。


 泣き出しそうになりながら、草太は人混みの中を走った。エレベーターは止まっている。非常階段は開かない。端末には自分の入館パスが表示されない。首から下げた観光パスには、名前欄だけが空白になっていた。


「なんで……」


 声が震える。


「俺、いるじゃん。ここにいるじゃん」


 誰かの館内放送が、壊れた声で言う。


『該当者なし』


 草太は耳を塞いだ。


 その時、遠くで、アリスの声が聞こえたような気がした。


 草太様。


 草太は顔を上げる。


「アリス!」


 赤い非常灯の向こうで、何かが揺れた。


 草太は、必死に叫んだ。


「アリス! 俺、ここにいる! いるから!」


 声は届かない。


 それでも、草太は呼び続けた。


 アリス。


 アリスさん。


 俺を覚えていて。


 その声は、風のようなノイズになって、アリスの記録核へ届いた。


 防災管理室で、アリスは顔を上げた。


「草太様の音声断片を検出」


 カリンがすぐに反応する。


「場所は?」


「不明。館内記録との照合不能。しかし、東タワー方向へのノイズ偏向を確認」


 シンが言った。


『やはり東か。食われながら運ばれている、あるいは食われた記録の流れが東へ向かっている』


「時間は?」


 カリンが聞く。


『長くはない。存在証明は、食われ切ると復元が難しい。物理痕跡が残っているうちなら、まだ戻せる可能性がある』


 アリスは、端末から手を離した。


「東タワーへ向かいます」


『連絡通路は封鎖中だ』


「外壁メンテナンスルートを使用します」


『君の飛行機能は、今まともに使えるのかい?』


「制限中です」


『なら、危険だ』


「理解しています」


 シンは少しだけ黙った。


『それでも行く理由は?』


 アリスは、胸に手を当てた。


 記録核の奥で、草太の声が薄く揺れている。


 アリス。


 俺、ここにいる。


 アリスは、ゆっくりと言った。


「わたくしは、草太様を記録から消させません」


 カリンが笑った。


「うん。そういう顔、できるじゃん」


「顔」


「今、ちょっと怒ってる顔してる」


「怒りの感情は、現在確認中です」


「いいよ。確認しながら怒れば」


 カリンは、防災管理室の壁際にある非常装備箱を開けた。中から作業用ワイヤー、外壁フック、簡易ハーネスを取り出す。さらに自分の工具ポーチから、清掃用具には見えない黒い金具を取り出し、ワイヤーに取り付けた。


 アリスはそれを見た。


「その部品は、ツインタワー標準清掃装備ではありません」


「私物」


「用途は」


「落ちないため」


「詳細用途は」


「敵がいた時、落とすため」


「危険物と判断します」


「頼りになるでしょ?」


「判断に困ります」


 カリンは笑いながら、アリスにハーネスを渡した。


「アリスちゃん、着けて」


「わたくしの身体構造上、通常の安全ハーネスは適合しない可能性があります」


「じゃあ、着けられるところだけでいい。落ちた時、ボクが掴む目印になる」


「カリン様がわたくしを保持できる可能性は低いと推定します。わたくしの重量は外見より大きいです」


「知ってるよぉ。アリスちゃん、人形だからね」


 その言葉は、なぜか痛くなかった。


 カリンは続けた。


「でも、人形だから重いことと、落としていいことは別でしょ」


 アリスは、少しだけ沈黙した。


「はい」


 短く答えて、ハーネスを装着する。


 シンの声が通信から届く。


『外壁ルートの防御シャッターを一部開ける。十秒が限界だ。敵に気づかれたら閉じられる。急ぎたまえ』


「シンくん、料金は?」


『三倍だ』


「さっき倍って言ったじゃん」


『命綱代が追加された』


「ケチ」


『情報屋とはそういうものだよ』


 カリンは笑い、通信端末を腰に固定した。


 アリスは防災管理室を出る直前、モニターを見た。


 黒い画面に、文字が浮かんでいた。


 MAD EATER


 その文字は、英字でありながら、生き物のように歪んでいた。胃袋の中から浮かび上がる骨のように、白く、ぬめりを帯びている。


 シンの声が、ノイズ混じりに届く。


『待って。今の単語、古い魔導犯罪記録にある。マッドイーター。物質喰い。存在喰い。旧式の都市怪異コードだ。昔の事件では、肉体や物体を――』


 通信が乱れた。


『――だが、これは――記録を――』


 砂嵐。


 次に、別の声が混じった。


『昔は、肉を食べた』


 謎の男の声。


『次は、記録を食べた』


 モニターに、アリスの顔が映る。


 名前欄には、ALICE-ZERO。


『名前は、いちばん甘い』


 カリンが、静かに手袋を締め直した。


 アリスはモニターを見つめた。


 声は言った。


『次は、アリスを食べよう』


 モニターが割れるように乱れた。


 防災管理室の照明が一斉に落ちる。


「行こう」


 カリンが言った。


「ここにいると、食べ放題になりそう」


「同意します」


 二人は非常用メンテナンス通路を走った。


 赤い灯りの中、狭い階段を上り、搬入用通路を抜け、外壁点検ハッチへ向かう。途中、停止した清掃機械人形の横を通り過ぎた。壁の向こうからは、まだ館内放送が聞こえる。


『存在証明照合中。該当者なし。該当者なし』


 アリスは、その声を無視した。


 いや、完全には無視できない。声は記録核へ触れようとする。アリスという名前の端を舐めるように、何度も何度も忍び寄る。


 けれど、今は別の声がある。


 アリス。


 俺、ここにいる。


 その声を、アリスは守った。


 外壁点検ハッチの前で、カリンが立ち止まる。


「高いところ、平気?」


「飛行機能は制限中です」


「聞き方を変えるね。怖い?」


 アリスは、すぐには答えなかった。


 怖い。


 恐怖。


 危険を予測した際に発生する生体防衛反応。心拍上昇、筋緊張、発汗、呼吸変化。機械人形であるアリスには、そのすべては存在しない。模倣は可能だ。データとして理解もしている。


 だが、今、胸の奥にあるこの重さは何か。


 落下への危険予測。


 記録核損傷の可能性。


 草太を失う可能性。


 自分の名前が食われる可能性。


 アリスは答えた。


「不明です」


 カリンは笑った。


「そっか。じゃあ、怖いかどうかも含めて、行ってみよっか」


「はい」


 シンの声が、かすかに戻った。


『三、二、一。開けるよ』


 防御シャッターの一部が、わずかに開いた。


 外の風が、刃のように吹き込んだ。


 昼間のミナト区上空。だが、閉鎖されたタワーの外側に出ると、そこは観光地ではなかった。遥か下には、帝都の街が広がっている。車両の光、空中軌道、港のクレーン、遠くの海、さらに遠くに死都東京の黒い輪郭。


 西タワーの外壁を、細いメンテナンスレールが東タワー方面へ伸びている。人が歩くための道ではない。作業員が命綱をつけ、風速を確認し、天候条件を満たした時だけ使用する外壁作業ルートだ。


 カリンは清掃用ワイヤーを肩にかけ、楽しそうに笑った。


「いい風」


「危険な風速です」


「そうとも言うね」


 アリスはコード005〈ウィング〉の起動準備を行った。


 出力、三十二パーセント。


 短時間展開可能。


 コード007〈メイル〉、脚部補助のみ展開。


 コード002〈シールド〉、即時展開待機。


 記録核、不安定。


 アリスは一歩、外へ踏み出した。


 足元で、メンテナンスレールが微かに軋む。


 カリンが隣に立つ。


「行ける?」


「はい」


「草太くん、覚えてる?」


 アリスは、風の中で答えた。


「はい。草太様は存在していました」


「うん。ボクも見た」


 その言葉が、命綱のようにアリスの記録核へ結ばれた。


 防御シャッターの隙間が、背後で閉じていく。


 西タワーの内側では、名前を食べる声がまだ響いている。東タワーは、隣にそびえるもう一本の黒い影のように沈黙していた。そのどこかに、草太の記録を食べているものがいる。アリス自身の名前を狙うものがいる。


 カリンが先に踏み出した。


 清掃員の制服を風に揺らしながら、細いレールの上を軽やかに進む。その動きは、清掃員ではなく、踊る刃だった。


 アリスも続いた。


 飛行機能は制限中。


 記録核は不安定。


 名前は、暫定保持。


 それでも、アリスは前へ進んだ。


 名前を奪われた少年の声は、風の向こうで、まだアリスを呼んでいた。

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