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第1話 アリス観光ガイド

 修復室の天井には、空がなかった。


 代わりにあるのは、薄青く光る魔導パネルと、そこを流れる無数の診断文字列だった。白い天井材の裏側を、血管のように細い光の線が走っている。光は一定の間隔で脈打ち、室内に据えられた検査台の上へと集まっていた。


 検査台の上に座っているのは、少女だった。


 金色の髪。陶器のように白い肌。黒を基調とした古風なメイド服。蒼い瞳は開いているが、その視線は人間のように揺れない。瞬きの間隔すら正確で、呼吸のために胸が上下することもない。


 けれど、その顔はただの人形と呼ぶにはあまりにも静かで、ただの少女と呼ぶにはあまりにも整いすぎていた。


 アリスは、自分の右手を見下ろしていた。


 手袋を外された指先の関節部に、細い光が走っている。皮膚に見える白い外装の下で、魔導回路が診断用の信号に反応していた。指を一本ずつ曲げる。人差し指、中指、薬指、小指、親指。動作に遅延はない。だが、内部ログには小さな警告が並ぶ。


 右腕駆動系、安定率八十一パーセント。


 肩部魔導関節、微細振動あり。


 戦闘用出力制御、封印中。


 飛行機能、出力制限。


 記録核、部分損傷。


 零式人格領域、封印状態不安定。


 アリスは、最後の項目を見つめた。


 零式人格領域。


 その言葉は、アリスの中に保存されているはずの用語だった。けれど、アリスはその意味を完全には説明できない。魔導回路の構成図には存在する。記録核の深部にも該当領域がある。セーフィエルの古い署名も残っている。


 しかし、それが何なのかと問われれば、アリスは答えられない。


 不明。


 未定義。


 封印中。


 それが、アリスの中で許可されている回答だった。


「はいはい、アリス、目を閉じない。今閉じたら診断ログが一段ズレる」


 検査台の横で、マナが端末を叩いていた。


 凄腕の魔導士、と呼ばれる女である。本人はその呼称について「別に凄腕ってほどじゃないけど、否定すると面倒だから受け取ってる」と言う。だが、その指先は端末の画面だけでなく、空中に浮かぶ魔導式まで同時に操作していた。


 魔導式が幾何学模様を描き、アリスの背後で小さな輪となって回る。


 アリスは瞬きをした。


「マナ様。わたくしは先ほどから一度も目を閉じておりません」


「そう? 閉じそうな雰囲気だった」


「雰囲気による診断は、精度が低いものと判断いたします」


「人間社会ではね、雰囲気って大事なのよ。あと、言い返す元気があるなら大丈夫そうね」


 マナは笑いながら、端末の画面を指ではじいた。いくつもの警告表示が宙へと投げ出され、アリスの周囲に円形に並ぶ。赤、黄、青の警告ランプが、修復室の薄暗い空気の中で無言の判決のように点滅した。


「総合評価。外装はほぼ正常。関節部もまあ許容範囲。人格応答は安定。戦闘機能は、まだ怖いから半分以上封印。飛行機能は低空なら可。ただし、高層ビル間の高速移動はダメ」


「承知いたしました」


「承知しました、じゃなくて、本当にやらないでよ。前にあなた、必要と判断しましたとか言って、修復直後にビル三つ飛び越えたじゃない」


「あの時点では、対象者の救出に最も合理的な経路と判断いたしました」


「合理的でも、あなたの腰部フレームが悲鳴を上げてたの。機械人形も腰を大事にしなさい」


「腰部フレームの保護については、今後の行動指針に追加いたします」


「うん。なんか老人介護みたいな会話になってきたわね」


 マナは肩をすくめた。


 軽口だった。いつも通りの、深刻な空気をわざと崩すための声だった。アリスはそれを理解している。マナは、アリスの前で診断結果をあまり重く言わない。危険な数値が出ても、冗談めかして語る。壊れている、と言わない。失敗している、と言わない。


 それは配慮である。


 アリスは、その配慮を記録していた。


 感謝という反応を返すべきだと判断する。だが、感謝の声はすぐには出なかった。自分の中に浮かんだ言葉が、誰かに用意されたものではないのか、アリスはまだ判断できなかった。


「マナ様」


「なに?」


「わたくしの記録核は、まだ破損しているのでしょうか」


 マナの指が止まった。


 ほんの一瞬だった。人間の観察では見逃す程度の停止。しかし、アリスの視覚センサーはそれを拾った。指先の停止時間、〇・四二秒。マナのまばたき、通常より遅延。呼吸、浅くなる。


「破損って言い方は、あんまり好きじゃないわね」


「では、損傷」


「もっと嫌」


「異常」


「それも嫌」


「では、どのように表現すればよろしいでしょうか」


 マナは困ったように笑い、白衣のポケットから棒つきキャンディを取り出した。包み紙を片手で器用に剥がし、口に入れる。検査中に糖分を取るのは、マナの癖だった。


「そうね。回復途中」


「回復途中」


「そう。あなたは今、回復途中」


「わたくしは機械人形でございます。回復という語は、生体組織の再生、または病状の改善を示すものと認識しております」


「なら、アップデート途中でもいいわよ」


「それは、より不正確です。アップデートとは通常、機能追加または仕様変更を意味します」


「じゃあ、再起動途中」


「再起動は完了しております」


「ほんっと理屈っぽいわね、この子は」


 マナは笑った。


 アリスは、笑わなかった。


 笑うための顔面筋肉は動かせる。笑顔のパターンも保存されている。微笑、営業用微笑、礼儀用微笑、安心を与える微笑、謝罪時の柔らかな表情。どれも再現可能だった。


 しかし、今ここでどの笑顔を選択すべきか、アリスにはわからなかった。


 マナは椅子に腰を落とし、アリスを見上げた。


「アリス。明日、バイト行ってきなさい」


「バイト」


「そう。観光ガイド」


「観光ガイド」


「復唱しなくていいわよ」


「確認です。わたくしの現在の修復工程に、観光ガイド業務は含まれておりません」


「今、含めた」


「マナ様。なぜ観光ガイドが修復作業に該当するのでしょうか」


 アリスは本気で問うた。


 マナはキャンディを口の中で転がし、天井の診断文字列を見上げた。


「街を歩いて、人と喋って、自分が何を感じるか確認するの。機械検査じゃわからない部分のテストよ」


「感情応答テスト、という意味でしょうか」


「まあ、それに近いかな。あと、外部刺激による記録核の安定確認」


「記録核の安定確認であれば、研究室内で模擬刺激を与える方が安全です」


「安全すぎるのよ、ここは」


 マナは、軽く指で修復室を示した。


 整えられた器具。管理された魔力濃度。外部干渉を遮断する結界。壁一面の診断式。ここには、アリスを傷つけるものはほとんどない。異常が起きれば、マナがすぐに止める。零式人格領域が揺れれば、封印式が作動する。


 安全。


 正しい。


 管理されている。


 だからこそ、マナは言った。


「アリス。ここにいたら、あなたはいつまでたっても検査対象のままよ」


「検査対象であることに、問題があるのでしょうか」


「ある」


 マナは、すぐに答えた。


「あなたは検査対象じゃない。患者でもない。兵器でも、封印補助端末でも、セーフィエルの忘れ物でもない」


 その名前が出た瞬間、アリスの内部で小さなノイズが走った。


 セーフィエル。


 設計者。


 創造主。


 母のようなもの。


 恐怖の対象。


 未定義。


「アリスはアリス。だから、街へ出なさい」


 マナは軽く言った。軽く言うために、かなり努力している声だった。


「バイト代も出るし、リハビリにちょうどいいでしょ」


「金銭報酬が発生するのであれば、業務として受諾可能です」


「お金で納得するのね」


「マナ様の研究室は、財政状態に若干の問題を抱えております」


「やめて、急に現実を刺さないで」


「また、前月の魔導触媒費が予算を超過しております」


「やめてってば」


「観光ガイド業務による報酬が修復費に充当可能であれば、合理的です」


「いい子ねえ。心が痛いわ」


 マナは苦笑し、アリスの額に軽く指を当てた。


 人間の体温が、外装越しに伝わる。アリスの温度センサーがそれを記録する。三十六・四度。通常の範囲。接触時間、一・七秒。圧力、弱。


 しかし、その数値だけでは説明できないものが、アリスの中に残った。


「明日の相手は、都外から来る少年。名前は草太。帝都観光は初めて。あなたは案内役。危険な場所には行かない。飛ばない。撃たない。爆破しない」


「爆破しない」


「そこ、復唱して」


「爆破しない」


「よろしい」


 マナは満足そうにうなずいた。


 アリスは検査台から降りた。足先が床に触れる。床材が微かに軋む。人間の少女よりも、アリスの身体は重い。外見は軽やかだが、内部には魔導回路、戦闘用骨格、記録核、防御装甲が詰まっている。


 アリスはメイド服の裾を整えた。


「では、明日、観光ガイド業務を遂行いたします」


「うん。楽しんできなさい」


「楽しむ、ですか」


「そう。楽しむ」


「了解いたしました。楽しむ動作を検索します」


「検索しない。歩いてから考えなさい」


 アリスは沈黙した。


 検索しない。


 歩いてから考える。


 それは、アリスにとって難しい命令だった。命令ではないのかもしれない。助言。提案。願い。いずれにせよ、アリスはそれを適切な場所へ格納できなかった。


 修復室を出る直前、アリスは振り返った。


「マナ様」


「なに?」


「もし、わたくしが何も感じなかった場合、このテストは失敗でしょうか」


 マナは答えなかった。


 ただ、いつものように笑おうとして、少しだけ失敗した顔をした。


「何も感じなかったって判断できるなら、それもひとつの結果よ」


 アリスは、うなずいた。


「承知いたしました」


 扉が開く。廊下の白い光が差し込む。


 その時、アリスの記録核の奥で、聞こえるはずのない声がした。


 ――感じる?


 アリスは足を止めた。


 マナが顔を上げる。


「アリス?」


 声は続いた。


 ――人形が?


 アリスは、胸に手を当てた。


 内部ログには、何も残っていなかった。


 警告もない。外部音声入力もない。魔導干渉もない。


 だから、アリスはそれを不具合として分類した。


「問題ありません」


 そう答えて、アリスは廊下へ出た。


 翌朝、ホウジュ・ギガステーションは、空を持っていた。


 もちろん、本物の空ではない。


 駅舎の天井いっぱいに投影された、魔導光学式の人工空である。今日の空は、観光客向けに少し鮮やかに補正されていた。青は濃く、雲は白く、朝日だけが現実よりも三割ほど神聖に見える。


 帝都エデン、ホウジュ区。


 旧横浜周辺を再編して成立した、帝都屈指の商業区。高層ビル、古い商店街、魔導具市場、女帝信仰の小礼拝所、違法すれすれの骨董店、そしてシグレの小さな雑貨店までが同じ空気の中に混ざっている。


 駅前には、女帝ヌルの小さな聖像が並んでいた。


 白と金の衣をまとった少女の姿。幼くも神々しい顔立ち。片手には光輪、もう片方の手には蛇を模した結界輪。観光土産用の廉価版から、魔導加護つきの高級品まである。売店の機械人形が無表情で呼び込みをしていた。


「女帝ヌル様の旅守りはいかがでしょう。帝都観光、死都方面立入禁止区域観覧、魔導炉見学コースに最適です」


 その横を、アリスは通り過ぎた。


 今日のアリスは、黒いメイド服の上に、観光ガイド用の白いケープを羽織っていた。胸元には、臨時ガイド証。


 帝都観光協会認定案内補助員。


 氏名欄には、アリス、と表示されている。


 アリスはそれを確認した。


 アリス。


 五文字。


 登録正常。


 存在証明、暫定有効。


「暫定」


 小さく呟くと、通行人の少年が振り向いた。


「あ、すみません。ガイドの人ですか?」


 声をかけてきたのは、十五、六歳ほどの少年だった。都外から来た者らしく、服装は帝都の流行から少し外れている。肩から観光バッグを提げ、首には入境許可証と一日観光パス。目だけがやけに輝いていた。


 写真を撮りすぎて端末の容量を早くも圧迫しているタイプだ、とアリスは分類した。


「草太様でございますか」


「はい! えっと、草太です。よろしくお願いします」


 少年は勢いよく頭を下げた。


 アリスも礼を返した。


「本日、帝都の観光案内を担当いたします、機械人形アリスでございます」


 草太は、目を丸くした。


「機械人形?」


「はい」


「本物の?」


「はい」


「え、マジで?」


「マジでございます」


 草太の顔が、一気に輝いた。


「すげえ! 俺、機械人形って初めて見た! いや、外部のニュースとか動画では見たことあるけど、本物ってこんなに人間みたいなんだ。え、触ってもいいですか?」


「観光ガイド業務において、案内員への不用意な接触は推奨されておりません」


「あ、すみません!」


「ですが、握手程度であれば可能です」


「いいんですか?」


「はい」


 アリスは右手を差し出した。


 草太は恐る恐る握った。アリスは握力を人間の少女程度に制限する。温度も外装ヒーターによって自然な範囲へ調整済みだった。


 草太は首をかしげた。


「あったかい」


「観光客に不安感を与えないため、外装温度を調整しております」


「へえ……すごいなあ。ほんとに人間みたいだ」


 人間みたい。


 アリスは、その言葉を記録した。


 誉め言葉として発せられた可能性が高い。草太の表情、声の調子、脈拍の推定値から、悪意は検出されない。だから、アリスは礼を述べるべきだった。


「ありがとうございます」


 そう言ってから、草太が何気なく続けた。


「でも、機械人形ってことは、全部プログラムなんだよな?」


 アリスは、すぐには答えられなかった。


 駅の人工空の下を、観光客の群れが流れていく。魔導広告が音もなく宙を泳ぎ、女帝ヌルの聖像を抱えた少女が母親に手を引かれて歩いていく。駅員型機械人形が、迷子の案内をしている。


 全部プログラム。


 その問いは、論理的には誤りを含む。


 アリスの人格は単純な命令応答プログラムではない。人工人格、学習領域、記録核、魔導式による感情模倣領域、自己判断補助回路を複合した高位構造である。セーフィエル独自の封印式もあり、通常の機械人形とは比較できない。


 説明は可能だった。


 だが、草太が聞きたかったのは、おそらくそういうことではない。


 アリスは、数秒の沈黙ののちに答えた。


「わたくしの応答は、すべて事前に用意されたものではございません」


「へえ。じゃあ、自分で考えてる?」


「そのように設計されております」


「あ、ごめん。なんか変な聞き方した」


「問題ありません。よくある質問と推定されます」


「よくあるんだ」


「はい。類似質問は三百四十七件記録されています」


「結構聞かれてる……」


 草太は気まずそうに頭をかいた。


 アリスは、その反応を見て少し考えた。


 彼は傷つける意図で尋ねたわけではない。ならば、ここで謝罪を引き出すべきではない。観光ガイドの業務は、案内対象者に快適な体験を提供すること。会話の緊張は、適度に緩和する必要がある。


「草太様」


「はい」


「本日の案内では、帝都の主要観光地を巡ります。ホウジュ区よりミナト区へ移動し、観光空路を経由して、ツインタワー西タワーまでご案内いたします」


「あ、はい!」


「途中、死都東京方面の封鎖線が遠方に見える地点を通過いたしますが、写真撮影は許可区域からのみ可能です。禁止区域に侵入した場合、帝都警察およびワルキューレ警備網による拘束対象となります」


「いきなり怖い情報来た!」


「安全な観光には、危険情報の事前共有が必要でございます」


「たしかにそうだけど、ワルキューレに拘束とか、パンフレットに書いてなかったんですが」


「パンフレットは、観光意欲を維持するため、表現を柔らかくしております」


「帝都、商売がうまいなあ」


「はい。帝都エデンは観光都市でもございます」


 アリスは、淡々と歩き出した。


 草太は慌ててその後を追う。


 ホウジュ・ギガステーションの出口を抜けると、街の音が一気に広がった。


 魔導バスの発着音。空中軌道を走る小型トラム。屋台の呼び込み。観光客の歓声。女帝信仰の巡礼団が唱える祈り。路地裏から漏れる魔導具市場の怪しげな音楽。


 帝都エデンは、眠らない街だった。


 魔導炉の光が地脈のように都市の下を流れ、建物の外壁を淡く発光させている。空中には透明な交通標識が浮かび、歩道の脇では小型清掃機械人形がゴミを拾っている。その上を、広告用の白い小竜が飛んでいた。背中に掲げた看板には、こう書かれている。


 本日限定。ミナト区ジェットブーツ試乗会。落下保険込み。


 草太が空を見上げた。


「すごい……ほんとに竜が広告飛ばしてる」


「あれは生体竜ではなく、広告用魔導機獣でございます。噛みません」


「噛むタイプもいるんですか?」


「旧型にはございました」


「観光地の説明として怖すぎる」


「現在は安全基準が改定されております」


 草太は、半分笑い、半分怯えながら端末を構えた。


 アリスは歩調を合わせる。人間の少年の歩幅、興奮による速度変化、写真撮影のための停止間隔。すべて計算し、草太が置いていかれないように調整する。


 ガイド業務は、意外と複雑だった。


「右手に見えますのが、女帝ヌル様の聖像広場でございます。トキオ聖戦後、帝都再編の象徴として建設されました。市民の一部は女帝ヌル様を神、または神に等しい存在として信仰しております」


「本当に神様なんですか?」


「定義によります」


「定義」


「人類の宗教的語彙では、神、天使、堕天使、高次存在、外宇宙生命体など、複数の分類が適用されます。帝都政府の公式表現では、女帝陛下でございます」


「答えが難しい!」


「簡易回答をご希望ですか」


「はい」


「怒らせない方がよい存在でございます」


「すごくわかりやすい!」


 草太は笑った。


 その笑い声は、アリスの記録核に保存された。


 笑い声。


 周波数、記録可能。


 意味、推定可能。


 感情価、陽性。


 だが、その笑い声を聞いたアリス自身に何が発生したのか、アリスは判定できなかった。


 不快ではない。


 危険でもない。


 騒音でもない。


 では、これは何か。


 アリスは小さく首をかしげた。


 ――説明できることと、知ってることは違うんだよ。


 頭の奥で声がした。


 アリスは足を止めかけた。


「アリスさん?」


 草太が覗き込む。


「問題ありません」


「今、ちょっとぼーっとしてませんでした?」


「わたくしは機械人形でございます。ぼーっとする機能は搭載されておりません」


「いや、今のは絶対ぼーっとしてた」


「そのように見えたのであれば、外装表情制御に誤差が生じていた可能性があります」


「全部機能のせいにするの、便利だなあ」


「便利でございます」


 アリスは再び歩き出した。


 観光空路の乗り場は、ホウジュ区の南側にあった。透明なチューブ状の空中路が、ビルの間を縫うように延びている。内部を走る小型ゴンドラは、魔導炉から供給される浮遊力で宙を滑る。


 二人はゴンドラに乗った。


 足元が透明になり、ホウジュ区の街並みが下へ流れていく。草太は窓に貼りつくように外を見た。


「うわ、高っ! すげえ! あれ、海ですか?」


「はい。あちらがミナト区方面、東京湾の再編港湾部でございます」


「じゃあ、あっちは?」


 草太が別方向を指した。


 そこには、都市の輝きとは明らかに異なる領域があった。


 遠い地平の向こうに、黒ずんだドームのようなものが見える。空がそこだけ濁っていた。雲は重く、光は曲がり、まるで世界の一部が古い傷跡になっているようだった。


 草太の声が少し小さくなる。


「あれが、死都東京?」


「はい」


 アリスは答えた。


「旧東京二十三区を中心とする死都領域でございます。トキオ聖戦後、封鎖されています。通常の人間が侵入することはできません」


「中って、どうなってるんですか」


「一般観光案内として許可された説明範囲では、魔気濃度、死者残響、異界干渉、封印災害の複合汚染区域とされています」


「つまり?」


「行ってはいけない場所でございます」


「わかりやすい」


 草太は、しばらく死都の方を見ていた。


 帝都エデンの観光パンフレットでは、死都東京は遠景として美しく加工されている。失われた首都、封じられた過去、女帝の結界に守られた安全な見学対象。だが、実物は美しいだけではなかった。


 暗い。


 遠い。


 見ていると、音が消える。


 アリスの記録核が、微かに震えた。


 死都東京。


 裁きの門。


 タルタロス。


 シオン。


 封印再構成。


 黒い光。


 シグレの声。


 マナの手。


 自分の内部回路を通り抜けた、あの膨大な負荷。


 アリスは胸に手を当てた。


「アリスさん?」


「問題ありません」


「それ、今日二回目です」


「記録されています」


「もしかして、問題ある時ほど問題ありませんって言います?」


「その傾向は否定できません」


「否定できないんだ」


 草太が苦笑した時、ゴンドラはミナト区へ入った。


 海の匂いが、人工空調を通り抜けてわずかに届く。港湾倉庫群の向こうに、高くそびえる二本の塔が見えた。


 ツインタワー。


 西タワーはガラスと光で組まれた商業施設だった。展望台、ホテル、飲食フロア、劇場、ブランド街、魔導体験施設が入っている。観光客にとっての帝都の顔のひとつ。


 東タワーは、外観こそ同じように輝いているが、空気が違う。企業オフィス、情報業者、魔導金融、警備会社、表向き存在しない研究部門、そして裏社会とつながるテナントが混在している。


 アリスは西タワーの説明を行い、東タワーの詳細説明を省略した。


 観光案内の許可範囲外である。


 ゴンドラを降りると、西タワーのエントランスホールはすでに観光客で混雑していた。


 吹き抜けの天井は高く、ガラス張りの外壁から光が降り注いでいる。床には海を模した魔導映像が流れ、歩くたびに足元に小さな波紋が広がった。中央には、女帝ヌルの立像ではなく、ツインタワーの創業者一族と帝都政府の協定碑が飾られている。


 商業施設らしい明るさ。


 観光地らしい華やかさ。


 その裏側に何があるのか、表からは見えない。


「すげえ……」


 草太は、今日何度目かわからない感嘆を漏らした。


「ツインタワー西タワーへようこそ。こちらは帝都エデンを代表する複合商業施設でございます。展望階からはミナト区、ホウジュ区、帝都中央、天候条件が良ければ死都東京外縁結界まで確認可能です」


「結界まで観光資源なんだなあ」


「帝都において、危険物は適切な距離を保てば観光資源となります」


「名言っぽいけど嫌だ」


 その時、ホールの一角がざわめいた。


 観光客たちが、ガラス外壁の方へ集まっている。誰かが端末を構え、誰かが小さく悲鳴を上げ、誰かが「今日もいた!」と喜んでいる。


 草太もそちらを見た。


「何かイベントですか?」


「確認します」


 アリスは視線を向けた。


 高層階の外壁、その外側。


 清掃用リフトの上に、ひとりの清掃員が立っていた。


 風に黒い髪が揺れている。安全ベルトを着け、作業服をまとい、手には窓拭き用のワイパー。していることは、ただの外壁清掃だった。だが、その姿は奇妙なほど絵になっていた。


 細い身体。白い肌。中性的な顔立ち。清掃員の制服を着ているのに、なぜか舞台衣装のように見える。彼は高層階のガラスを拭きながら、内側に集まった客たちへ慣れた様子で手を振った。


 ホールの女性客が騒いだ。


「カリンくんだ!」


「今日、西タワーだったんだ!」


「窓際、窓際!」


 草太は唖然とした。


「あの人、アイドルか何か?」


「カリン様でございます。ツインタワーの清掃員です」


「清掃員!?」


「はい」


「帝都の清掃員ってレベル高すぎない?」


「カリン様は、清掃品質にも定評がございます」


「見るところそこなんだ」


 外のカリンが、アリスに気づいた。


 窓越しに、ひらひらと手を振る。


 アリスは礼儀正しく会釈した。


 カリンは唇だけで、あとでね、と言った。


 アリスは、読唇によってそれを確認した。声は届かない。だが、カリンの表情は明るく、楽しげで、少しだけ悪戯っぽかった。


 草太が目を細める。


「知り合いなんですか?」


「はい。面識がございます」


「アリスさん、交友関係広いなあ」


「交友、でしょうか」


「違うんですか?」


「定義確認が必要です」


「そこから?」


 アリスは考えた。


 カリン。


 清掃員。


 トラブルシューター。


 氷の花。


 シグレの厄介な弟分。


 アリスを「アリスちゃん」と呼ぶ者。


 アリスを機械人形としても、人間としても、代用品としても扱わない者。


 ――アリスちゃんはアリスちゃんでしょ。それ以上でも以下でもないよぉ。


 以前、カリンはそう言った。


 その言葉も記録されている。


 だが、その時、アリスが何を感じたのかは、やはり未分類のままだった。


「カリン様は、カリン様でございます」


「説明になってるようでなってない……」


 草太は首をかしげたが、すぐに館内案内板へ目を移した。


「昼、どこで食べるんですか?」


「草太様の予算に応じて最適候補を提示いたします」


「できれば安いところで」


「現在位置から半径三百メートル以内で、最安値は地下二階の魔導牛丼店です」


「せっかくツインタワーに来て牛丼かあ」


「予算条件を優先した結果でございます」


「じゃあ、観光っぽくて安いところ」


「条件が矛盾しています」


「帝都の技術でなんとかならないんですか」


「帝都の技術でも、観光地価格は下げられません」


「現実が厳しい!」


 アリスは館内案内図を表示し、飲食フロアへ向かった。


 西タワーの飲食フロアは、十二階から十五階までを占めていた。吹き抜けを囲むようにレストランが並び、中央の空間には小型魔導噴水が浮いている。水は下へ落ちず、球体のままゆっくり回り、その中を小さな光の魚が泳いでいた。


 草太は、また端末を構えた。


「これ、食べ物屋ですよね? テーマパークじゃなくて?」


「ツインタワー西タワーでは、飲食行為にも視覚的付加価値を提供しています」


「要するに映えるってことか」


「はい。映えます」


「アリスさん、そういう言葉も使うんだ」


「観光ガイド用語辞書に登録されています」


「なんか急にありがたみがなくなった」


 アリスは、候補店を三つ提示した。


 第一候補、魔導炉焼きチキン専門店。価格帯、中。炎の演出あり。煙少なめ。


 第二候補、女帝認定スイーツカフェ。価格帯、高。女性客多め。予約推奨。


 第三候補、ミナト区海鮮麺。価格帯、低から中。回転率高。観光感あり。


「第三候補が最適です」


「じゃあ、それで!」


「ただし、現在待ち時間は二十三分です」


「許容範囲です」


「承知いたしました」


 二人は海鮮麺の店へ向かった。


 店頭の電子メニューには、魔導水槽から直送された魚介の映像が流れている。草太が列に並びながらメニューを見ていると、表示が一瞬だけ乱れた。


 帝都海鮮麺。


 その文字が、ほんの一瞬、別の文字に変わった。


 帝都■■麺。


 名前■■■■。


 該当者なし。


 アリスの視覚センサーがそれを捉えた。


 時間にして〇・一六秒。


 すぐに表示は元へ戻る。


「草太様」


「はい?」


「先ほど、電子メニューの文字化けを確認しましたか」


「え? してないです。どこですか?」


「現在は復旧しています」


「帝都でもバグるんですね」


「魔導表示板の一時的な同期ズレであれば、稀に発生します」


 アリスはそう説明した。


 自分自身にも説明した。


 だが、内部ログを確認すると、記録が欠けていた。


 アリスの視覚センサーは、表示の乱れを捉えた。けれど、文字化けした内容が正確に保存されていない。該当部分だけ、黒く塗りつぶされたようなノイズになっている。


 記録失敗。


 原因不明。


「アリスさん?」


「問題ありません」


「三回目です」


「記録されています」


 草太は少し笑ったが、その直後、店員が不思議そうな顔をした。


「お客様、何名様ですか?」


 草太が手を上げる。


「二名です」


 店員は、アリスを見た。


 次に、草太を見た。


 そして、またアリスを見た。


「ええと……二名様、ですよね?」


「はい」


「失礼しました。さっき、一名様かと」


 草太が苦笑する。


「存在感薄いのかな、俺」


「その可能性は低いと判断します」


「アリスさん、そこは気休めでも否定してください」


「否定いたしました」


「もう少し感情を込めて」


「草太様の存在感は、薄くございません」


「なんか業務連絡っぽい」


 アリスは、店員を観察した。


 店員は忙しさで混乱しているだけかもしれない。だが、その目の動きには一瞬、本当に草太を認識していなかったような空白があった。


 アリスは草太の入館記録を照会した。


 観光パス、有効。


 入館履歴、あり。


 同行者登録、あり。


 顔認証ログ、あり。


 問題なし。


 問題は、ない。


 はずだった。


 食事は、草太にとっては楽しいものだった。


 大きな器に盛られた海鮮麺は、帝都らしく派手だった。スープの上に小さな炎の輪が浮かび、箸を近づけると火が消える。魚介は新鮮で、麺は魔導加熱によって最後まで冷めない。


 草太は夢中で食べ、アリスは向かいに座ってそれを見ていた。


「アリスさんは食べないんですか?」


「わたくしは通常の食事を必要としません」


「味はわかるんですか?」


「簡易味覚センサーは搭載されています」


「じゃあ、一口どうです?」


「必要性がありません」


「必要性じゃなくて、経験として」


 経験。


 アリスは、その単語を検索した。


 経験。直接見聞きし、行動し、感じることによって得られる知識。


 感じること。


 マナの声が記録から再生される。


 街を歩いて、人と喋って、自分が何を感じるか確認するの。


 アリスは、草太の差し出したレンゲを見た。


「では、一口のみ試行いたします」


「はい、どうぞ」


 アリスはレンゲを受け取り、スープを口に含んだ。


 温度、六十二度。塩分濃度、やや高め。魚介由来の旨味成分、複数検出。香辛料、少量。油分、表層に浮遊。人間にとっては適温。アリスの機能には影響なし。


 味覚情報は保存された。


 だが、それ以上の反応は、やはり分類できなかった。


「どうです?」


「塩分濃度が高めでございます」


「そういう食レポじゃなくて!」


「では、観光客向け表現に変換します。海の旨味が口いっぱいに広がる、ミナト区ならではの一杯でございます」


「急にパンフレット!」


「観光ガイド用語辞書に登録されています」


「アリスさん自身は?」


 草太は、何気なく聞いた。


「おいしいと思いました?」


 アリスは答えようとした。


 その瞬間、店の奥の監視カメラが、じじ、と小さく音を立てた。


 アリスの視界の端で、カメラのレンズに砂嵐のようなノイズが走る。周囲の客は気づいていない。店員も気にしていない。だが、アリスには見えた。


 監視カメラの中で、草太の顔だけが一瞬ぼやけた。


 アリスは立ち上がった。


「アリスさん?」


「草太様。食事を中断します」


「え、なんで?」


「館内システムに微細な異常を確認しました」


「システム異常?」


「避難経路確認のため、移動します」


「まだ麺が残ってるんですけど」


「緊急時には食事より退避が優先されます」


「いや、そんな緊急なんですか!?」


「現時点では不明です」


「不明で麺を捨てるのつらい!」


 草太は未練を残しつつ、アリスに引かれるように席を立った。


 会計端末へ向かうと、草太の観光パスが一瞬読み取られなかった。


 未登録。


 次の瞬間、有効。


 アリスは、その表示を見逃さなかった。


「草太様。観光パスを確認します」


「はい」


 草太が首から下げたパスを差し出す。


 アリスはスキャンした。


 氏名、草太。


 入境許可、あり。


 同行者、アリス。


 ツインタワー入館記録、あり。


 問題なし。


 問題なし。


 問題なし。


 何度確認しても、表示は正常だった。


 それが、逆に不自然だった。


 異常が消える速度が速すぎる。


 まるで、誰かがアリスに見られた直後に修正しているようだった。


「移動します」


「どこへ?」


「連絡通路方面です。館内全体の通信状態を確認します」


「観光は?」


「一時中断でございます」


「帝都観光、思ったよりスリリングだなあ」


「通常の観光コースには含まれておりません」


 二人はエレベーターホールへ向かった。


 昼食時を過ぎたばかりのエレベーターホールは混雑していた。観光客、会社員、買い物客、警備員、機械人形、配送ドローン。複数の階へ向かう人々が、光のラインに従って並んでいる。


 アリスは非常階段の利用を検討したが、観光客を伴っての移動速度、草太の体力、現在位置、通信状態、周囲の混雑度を計算し、エレベーター利用を選択した。


 扉が開く。


 人々が乗り込む。


 アリスと草太も入る。


 満員に近い。


 アリスは草太を壁際に立たせ、自分がその前に立つ。保護対象を壁と自分の間に置く。戦闘機能は制限中。だが、最低限の防御姿勢は取れる。


 扉が閉まった。


 エレベーターが上昇する。


 十二階。


 十三階。


 十四階。


 その時、照明が一瞬だけ落ちた。


 完全な暗闇ではない。非常灯が点いたわけでもない。ただ、光の質が変わった。人工照明の白さが薄れ、古い映像のような灰色が混じる。


 エレベーターの表示が乱れた。


 十五階。


 ■■階。


 未登録。


 該当者なし。


 草太が小さく声を上げる。


「今、止まった?」


「一時的な停止を確認」


 アリスは内部通信を起動する。


 館内ネットワーク接続。


 応答なし。


 再接続。


 応答なし。


 緊急通信。


 応答遅延。


 背後で、誰かが笑った。


 人混みの中だった。


 誰の声か、すぐには特定できない。男性。年齢不詳。呼吸音、心拍音、衣擦れ、複数の雑音に紛れている。


 アリスの聴覚センサーが方向を絞ろうとした瞬間、声が耳元に届いた。


「後ろを向かない方がいい」


 アリスは動きを止めた。


 声は近い。


 だが、背後に立つ人間の誰から発せられているのか特定できない。


「ここにいる全員の名前を、今から少しずつ食べる」


 アリスは、即座に戦闘モードへ移行しようとした。


 コード000、限定解除準備。


 戦闘機能、制限中。


 解除申請。


 マナ承認なし。


 周囲、一般市民多数。


 武装展開、不適切。


 狭所。


 保護対象、草太。


 過剰火力、不可。


 アリスの指が、わずかに動いた。


 草太が不安そうに見上げる。


「アリスさん?」


「お静かに」


 声は続いた。


「君は機械だから喰えないと思っていた。でも、記録核なら別だ」


 アリスの胸の奥で、何かが鳴った。


 金属音ではない。


 警告音でもない。


 もっと深い場所、記録核の底を爪で引っかかれたような感覚だった。


 ――そいつ、触らせるな。


 零式人格の声が、今までで最もはっきり聞こえた。


 アリスは、反射的に草太の手を掴んだ。


「痛っ」


「失礼しました。保護行動です」


「何が――」


 エレベーターが、がくん、と揺れた。


 人々が悲鳴を上げる。誰かの鞄が落ちる。配送ドローンが壁にぶつかり、小さな火花を散らす。照明が赤く点滅し、館内放送が割れた音で流れ始めた。


『存在証明照合中。存在証明照合中』


 声は、女の声にも男の声にも聞こえた。館内放送の合成音声が壊れ、いくつもの音が重なっている。


『該当者なし。該当者なし』


 草太の手の感触が、薄くなった。


 いや、物理的には掴んでいる。アリスの触覚センサーは圧力を検出している。手首の骨格、皮膚温、脈拍、汗。すべてある。


 だが、視覚情報の中で、草太の輪郭が揺れた。


 顔だけが、ぼやける。


 アリスは即座に内部記録を照合した。


 草太。


 都外から来た少年。


 観光客。


 ホウジュ・ギガステーションで合流。


 海鮮麺を食べた。


 女帝聖像を見た。


 死都東京を見た。


 カリンを見た。


 草太。


 草太。


 草――。


 記録の一部に、黒いノイズが入った。


 アリスは、それを抑え込むように記録核へ負荷をかける。


 保存。


 再保存。


 冗長記録。


 外部バックアップ。


 通信不能。


 ローカル保存。


 草太の声が震えた。


「アリスさん? なんか、変です。俺、ちゃんとここにいますよね?」


「はい。草太様は、ここにいます」


 アリスは答えた。


 答えた瞬間、自分の声が少しだけ遅れて聞こえた。


 まるで、誰かに真似されたように。


「ここにいます」


 背後の男の声が、優しく囁いた。


「そう。今はね」


 アリスは振り返ろうとした。


 だが、その時、エレベーターの扉が開いた。


 十六階。


 人々が我先にと降り始める。


 混乱。悲鳴。怒号。端末の着信音。警備員の誘導。誰かの泣き声。誰かの「停電か?」という声。誰かの「これ魔導テロじゃないの?」という声。


 アリスは草太の手を掴んだまま、外へ出ようとした。


 しかし、押し出される人波の中で、草太の手が一瞬だけ軽くなった。


 アリスは握力を上げる。


 危険。


 人体損傷の可能性。


 握力調整。


 そのわずかな制御の隙間で、草太の手が消えた。


 物理的に引き抜かれたのではない。


 手の感触だけが、最初からなかったように途切れた。


「草太様」


 アリスは振り向いた。


 そこには、人がいた。


 大勢の人がいた。


 だが、草太はいなかった。


「草太様」


 アリスは視覚センサーを拡張した。


 熱源探知。


 顔認識。


 入館ログ照合。


 観光パス追跡。


 同行者登録。


 草太。


 検索。


 該当者なし。


 アリスの内部に、冷たい空白が走った。


 該当者なし。


 そんなはずはない。


 先ほどまで、草太はいた。


 声もあった。体温もあった。食事の記録もある。会話の記録もある。握手もした。質問もした。笑った。


 笑い声。


 笑い声のログを開く。


 音声データ、破損。


 該当者なし。


「草太様」


 アリスの声は、少しだけ大きくなった。


 周囲の客が振り向く。


「何? 誰か探してる?」


「お連れ様ですか?」


「子ども?」


 誰も草太を覚えていない。


 アリスは、さらに大きな声で言った。


「草太様。応答してください」


 その時、ノイズ混じりの声が、記録核の奥で聞こえた。


『アリス、ここにいる! 俺、ここにいるって!』


 アリスは、そちらへ向かって手を伸ばした。


 だが、そこには誰もいなかった。


 館内放送が再び流れる。


『存在証明照合中。存在証明照合中。該当者なし。該当者なし』


 西タワー全体が震えた。


 外壁に沿って、重い金属音が響く。


 ガラスの向こうで、白い防御シャッターが上から降り始めた。展望窓が一枚ずつ閉じられ、外光が遮断されていく。非常階段のランプが赤く点滅し、扉のロック音が連続して響いた。連絡通路のゲートが、遠くで閉まる。


 誰かが叫んだ。


「閉じ込められた!」


 別の客が端末を振る。


「通信が圏外になってる!」


「警備員! 何が起きてるの!」


 警備員たちも混乱していた。館内システムの操作端末を叩くが、画面には同じ文字列が流れ続けている。


 存在証明照合中。


 該当者なし。


 アリスは、草太の痕跡を追った。


 視覚では見えない。


 聴覚にも声はない。


 だが、記録核の奥に細い糸のようなノイズが残っている。草太の声。草太の笑い。草太が海鮮麺を食べた時の熱源。彼が女帝聖像を見上げた角度。死都東京を見て声を小さくした、その沈黙。


 アリスは、それらを手繰る。


 記録とは、過去を保存するもの。


 ならば、記録が残っている限り、草太は完全には消えていない。


 アリスは走り出した。


 メイド服の裾が翻る。観光客の悲鳴を避け、人混みをすり抜ける。身体能力を人間域から少しだけ上げる。制限内。戦闘機能ではない。避難補助行動。


 連絡通路方面。


 草太のノイズは、そちらへ向かっている。


 外壁の向こうでは、カリンが異常に気づいていた。


 清掃用リフトは、五十階付近で緊急停止していた。安全装置が作動し、ワイヤーが固定され、リフトの操作盤には赤い警告が点滅している。


 外壁シャッターが次々と下りる様子を、カリンは風の中で見ていた。


 黒髪が横に流れ、清掃員の制服が高層の風を受ける。足元には帝都の街。遠くには海。さらに遠くには死都東京の黒い影。


 無線が騒がしい。


『カリンくん、大丈夫!? そっち止まってる!?』


『非常停止よ! 動かないで!』


『館内、何か起きてる! シャッター閉まってるわ!』


 カリンは清掃用ワイパーを片手で回し、軽く肩をすくめた。


「うん、見えてるよぉ。ちょっとトラブルみたいだから、ボク、先に降りるねぇ」


『降りるって、ここ五十階よ!?』


「大丈夫大丈夫。落ちるのは慣れてるから」


『慣れちゃダメ!』


 同僚の悲鳴を聞きながら、カリンは無線の音量を下げた。


 顔から、笑みが消えた。


 いや、唇にはまだ笑みが残っている。だが、目が変わった。さっきまで客に手を振っていた柔らかな清掃員の目ではない。窓の内側で起きている混乱、閉じていく防御シャッター、非常導線の遮断、そして連絡通路方面へ走る黒いメイド服の少女を見て、カリンは状況を切り替えた。


 清掃員。


 終了。


 トラブルシューター。


 起動。


「アリスちゃん、そっちか」


 カリンは安全ベルトを外した。


 腰につけた清掃用ワイヤーを手に取り、固定具を変更する。普通の清掃員が使う動作ではなかった。手首の返し、重心の移動、足場の選び方。すべてが軽く、速く、慣れている。


 リフトの端に足をかける。


 五十階の風が、頬を打つ。


 カリンは笑った。


「今日の特別手当、ちゃんと出るかなぁ」


 次の瞬間、外壁を蹴った。


 清掃用ワイヤーが弧を描き、カリンの身体がガラスの壁面を横切る。下から見上げる者がいれば、落下したように見えただろう。だが、カリンは落ちていない。ワイヤーの張力を使い、壁面を蹴り、閉じかけのメンテナンス用ハッチへ向かって飛ぶ。


 白い防御シャッターが下りる寸前、カリンはその隙間に指をかけた。


 ぎりぎりで身体を滑り込ませる。


 清掃員の靴が、非常用メンテナンス通路の床を踏んだ。


 通路内は暗かった。


 非常灯が赤く点滅している。


 カリンは手袋をはめ直した。


 その仕草は、清掃前の準備にも、殺しの前の儀式にも見えた。


 アリスは連絡通路付近まで来ていた。


 そこは西タワーと東タワーをつなぐ広い空中通路の入口だった。普段なら透明な壁から海と街が見える観光スポットであり、写真撮影の名所でもある。だが、今は防御シャッターと隔壁が下り、通路は白い壁に塞がれていた。


 警備員が開放を試みているが、制御端末は応答しない。


 観光客たちは不安と恐怖でざわめいている。泣き出す子ども。通話できない端末を何度も振る者。警備員に詰め寄る者。床に座り込む者。


 アリスは壁際に立ち、目を閉じた。


 正確には、視覚センサーを一時的に遮断し、記録核のノイズへ集中した。


 草太の声。


 ここにいる。


 ここにいるって。


 どこに。


 どこにいるのですか、草太様。


 ――見えないから、いないってことにされるんだよ。


 零式人格の声がした。


 アリスは、内側で答える。


 不具合音声。応答不要。


 ――不具合で済ませるな。


 声が荒くなる。


 ――取られてる。名前を。顔を。おまえが握ってた手を。


 アリスは胸を押さえた。


 その時、頭上の点検口が開いた。


 軽い音とともに、誰かが降りてくる。


 黒髪が揺れた。


 清掃員の制服を着たカリンが、何食わぬ顔で非常通路から着地した。


「アリスちゃん」


 アリスは振り向いた。


「カリン様」


「何が起きてるの?」


 カリンは軽い声で聞いた。だが、その目は笑っていない。


 アリスは即座に報告した。


「草太様が記録上から消失しました。物理的消失ではなく、認識および存在証明の剥奪と推定されます」


 カリンは、一瞬だけ眉を上げた。


「草太様って、さっき一緒にいた男の子?」


「はい」


「ボク、見たよ。アリスちゃんの隣で、口開けてこっち見てた子」


 アリスは、わずかに反応した。


「カリン様は、草太様を記憶しているのですか」


「うん。ちょっとぼんやりしてるけどね。外から見てたから、館内システムにあんまり巻き込まれてないのかも」


「貴重な証言です。記録補強に使用します」


「どうぞぉ」


 カリンは軽く手を振った後、周囲を見た。


 泣く客。混乱する警備員。閉じた隔壁。赤い非常灯。壊れた館内放送。


『存在証明照合中。該当者なし。該当者なし』


 カリンの笑顔が消えた。


「へぇ。嫌なタイプの敵だね」


「カリン様。避難を推奨します」


 アリスは言った。


 カリンは首を傾げた。


「ボク、避難する側に見える?」


 アリスは数秒沈黙した。


 カリンの外見は清掃員である。表向きは民間作業員であり、保護対象に分類すべきである。だが、彼の重心、視線、指の動き、周囲の確認速度、非常導線の把握、敵意を隠している時の魔力の流れは、一般人のものではない。


 アリスは答えた。


「見えません」


 カリンは満足そうに笑った。


「よろしい」


「ただし、カリン様は現在、清掃員の装備しか保持していないものと推定されます」


「清掃員の装備って便利だよぉ。ワイヤー、薬剤、長い棒、洗剤、滑車、刃物っぽいスクレーパー。ほら、だいたい何でもできる」


「通常の清掃用途から逸脱しています」


「使い方の問題だよねぇ」


 カリンは、腰の工具ポーチを軽く叩いた。


 その仕草は軽い。だが、アリスのセンサーはポーチ内に通常清掃器具とは異なる魔導反応を検出した。


 異空間収納の微細反応。


 武装展開準備。


 大鎌。


 アリスは指摘しなかった。


 カリンも説明しなかった。


 その時、通路の全モニターが同時に点いた。


 観光案内用の画面。店舗広告の画面。避難誘導表示。警備端末。電子看板。すべてが、一斉に砂嵐を映した。


 人々が悲鳴を上げる。


 砂嵐の中に、顔が浮かんだ。


 草太だった。


 だが、顔は不安定だった。目元がぼやけ、口元がノイズに欠ける。名前欄が表示される場所には、何もない。


 氏名。


 空白。


 入館記録。


 空白。


 同行者。


 空白。


 草太の口が動いた。


 音は出ない。


 だが、アリスの記録核には声が届いた。


『アリス、俺、ここに――』


 映像が途切れた。


 次に、画面いっぱいにアリスの顔が映った。


 アリスは、自分の顔を見上げた。


 金色の髪。蒼い瞳。白い肌。黒いメイド服。観光ガイド証。無表情。


 名前欄に、文字が表示される。


 ALICE


 その文字が揺れる。


 ALICE-00


 次に。


 ALICE-ZERO


 次に。


 NO NAME


 アリスの記録核が、激しく震えた。


 視界にノイズが走る。足元の床が一瞬遠くなる。周囲の音が遅れる。カリンの声が水の中から聞こえるように歪む。


 NO NAME。


 名前なし。


 アリスは胸に手を当てた。


 自分の名前を確認する。


 アリス。


 アリス。


 アリス。


 記録が揺れる。


 マナの声。


 アリスはアリス。


 カリンの声。


 アリスちゃんはアリスちゃんでしょ。


 草太の声。


 アリスさん。


 セーフィエルの声。


 あなたは失敗作じゃない。けれど、あの子でもない。


 そして、頭の奥で、零式人格が笑った。


 ――アリスって名前、守れる?


 アリスは答えられなかった。


 口を開く。言葉が出ない。


 わたくしは、機械人形でございます。


 違う。


 わたくしは、セーフィエルに作られました。


 違う。


 わたくしは、マナ様に保護されています。


 違う。


 わたくしは、観光ガイドです。


 違う。


 わたくしは――。


 その先が出ない。


 カリンが一歩前へ出た。


 彼はアリスの背後に立ち、モニターを見上げたまま、手袋をゆっくり引き上げた。


 甘い薔薇の香りが、ほんの少しだけ漂った。


「アリスちゃん」


 声は柔らかかった。


 けれど、その奥に冷たい刃があった。


「名前、取られそうになってる?」


 アリスは胸に手を当てたまま、わずかにうなずいた。


「そのように、推定されます」


「そっか」


 カリンは笑った。


 窓清掃をしていた時と同じ笑顔だった。


 けれど、もう清掃員の顔ではなかった。


「じゃあ、これ、清掃員の仕事じゃないね」


 彼の背後で、空間がわずかに歪んだ。


 まだ大鎌は現れない。


 だが、何か大きな刃物の気配だけが、赤い非常灯の中に影を落とした。


 館内放送が、壊れた声で繰り返す。


『存在証明照合中。存在証明照合中。該当者なし。該当者なし』


 防御シャッターが完全に閉じた。


 外の光が消える。


 ツインタワー西タワーは、帝都で最も華やかな観光名所から、名前を奪われる密室へと変わった。

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