8 わかれ。
【2026年9月4日金曜日】
翌朝、レイナは朝食を作らなかった。
ユウヤはおれやじいさんと同時に目覚め、おれたちのカリカリと水を出し、トイレを掃除して、新聞を取り込んでテーブルの上にきちんと揃え、身支度をして、自分でトーストを焼いて食べた。それからベッドの母親にいってきますと言った。
昨日とは全然違う朝だが、初めてではないようだ。
「こころ、いってきまーす」
おれはレイナの代わりに、玄関まで見送った。
レイナは昼過ぎに電話で起きた。
『玲奈。起きてたか?』
店長の声だ。
「あー……なに」
『昨夜はお疲れ様。今夜は休んでいいよ』
「はあ?金曜だぞ?」
『そうなんだが……実はな。マスコミが殺到しそうなんだ。取材依頼がアホみたいに来てて。それで、今夜は休業することになった』
「マジか。ま、あーしは助かるわ。ちょっと疲れた」
『だよな。それで……今夜なんだが、千秋の通夜がある』
「……おい。それを先に言えよ」
『お父さんが釧路からいらしてる。昨日ご遺体を引き取って今夜通夜、明日告別式だそうだ。中央霊堂。俺も行くよ』
「店からはあんただけ?」
『マスコミがうるさそうでな。会社からは俺だけだ。遥にも声はかけたんだが、お客と同伴の約束があるって』
「同伴?おい——」
『ああ。おまえも知ってるあの年寄りだ。心配ない』
レイナは少しの間、何も言わなかった。
『大丈夫だって。たぶん遥の方が強いから』
「アホか?」
『……冗談だ。タクシーで施設まで迎えに行って、大通ビッセで鮨食って、うちが休みならまたタクシーで送るだけだと言ってた。人がたくさんいるし心配ない』
「わかった。あーしからもラインしとく。葬式……なんか早いような気がすんだけど、それもマスコミのせい?」
『あー……お父さんがな。あまり長くはこっちに居られないみたいだ』
「……そう。わかった。何時?」
『18時……迎え、17時半でいいか?』
「いやいい。自分で行く。ありがと店長」
レイナは普通に通話を終えた。それから、窓辺に座っていたおれを撫でた。頭から背中へ。2回。
撫でながら、レイナは窓の外を見ていた。
今日も雨だった。
「ただいま……え?誰か死んだの?」
ユウヤが帰ってきた時、ベッドにはレイナの喪服があった。
じいさんが起きてベッドに前足をかけ、喪服の匂いを嗅いだ。それから、おもむろにベッドに上がり、喪服の上に座った。
「ユメ!毛がつく!」
じいさんはレイナを見てから、ドサッと横になり、それから仰向けに転がった。喪服の上で。
「あーもう!」
「お葬式?母さん休み?」
おれは窓辺に座っていた。レイナがじいさんを持ち上げた。ユウヤの瞳が輝きを増した。
「ぼくも行きたい!だめ?」
「……葬式だぞ?」
「ぼくも黒い服?ごはんは?」
レイナはため息をついてじいさんをクッションにおろした。ユウヤとおれを交互に見る。
「……まあいいか。何が食いたい?」
「えっとねー……ハンバーグ!」
レイナは、喪服ではない黒いパンツスーツに着替え、ユウヤを助手席に乗せてハスラーで出掛けた。おれはリュックに入れられて、ユウヤに抱えられている。じいさんは留守番。喪服を毛だらけにした罰というわけではないだろう。
レイナは雨の中、ハスラーを丁寧に走らせた。ユウヤを乗せてるからか、いつも丁寧なのかはわからない。運転には慣れてるみたいだ。
アルファードとは違い、路面のちょっとした継ぎ目とかでもガタガタ跳ねる。レイナはそれをわかっていて、揺れを最少限に抑える運転をしていた。
バシャバシャ雨水を跳ねる音、他の車の走行音。フロントガラスで間欠ワイパーが動き、おれはそれに飛びかかりたいのに出来ないので少しイライラしていた。
ハスラーは豊平川の左岸堤防を北上した。そのまま行けばあのトンネルがある7条大橋だったが、レイナは9条で堤防を降り、ノースシティホテルを横目に西へ向かう。
金曜の夕方、雨で交通量は多く、信号のたびに止まる。電車通りのひとつ手前の交差点でも、信号待ちで停車した。
ここを右に行けばあいつとおれの家があるのに。
リュックはしっかり閉められていた。ハスラーは直進した。
電車通りを越え、石山通りを右折する。まだ日は沈んでないが、雨だから薄暗い。他の車もヘッドライトをつけている。
「……ドンキー?ドンキー行くの?ぼくエッグバーグディッシュ!」
ユウヤも道を知ってるらしい。よく来るのか。
「ドンキーよりうまいハンバーグ食わせてやる」
「うそ?!ドンキーよりうまいハンバーグ?!」
ユウヤはずっとはしゃいでいる。どこに行く気か知らないがおれには関係ないことだ。猫だから。どうせ車に置いていかれるに決まってる。
家を出る前に夕飯はもらえなかった。じいさんにはやったのに。腹が減った。
レイナはびっくりドンキーを通り過ぎ、3条通りを左折した。ごちゃごちゃとマンションや店が並び、ガードレールのない歩道も人通りが多い。すぐにウインカーを上げ、白い建物の、狭い駐車場に入って停まった。
レイナが車を降り、助手席側にまわって外からドアを開け、ユウヤの膝からおれ入りリュックを持ち上げる。ユウヤは自分でシートベルトを外して降りた。レイナがドアを閉め、ピッとドアをロックした。
おれは車外なのに。リュックごと、レイナの手にぶら下げられてる。
「このお店?手作りハンバーグって書いてある!おいしそう!」
ユウヤが先に立って店のドアを開け、カランカラン、と鐘が鳴った。
「いらっしゃい……あら?玲奈ちゃん!」
奥から、低くしゃがれた声。レイナが会釈した。
「こんばんは。ご無沙汰です」
「まあまあ!雄也ちゃんね?大きくなって!」
髪が薄紫の婆さんがカウンターにいた。
「それ、ユメちゃん?出してあげて?」
「あー、ユメは留守番してます。この子は新しい子」
リュックがゴトっとカウンターに置かれて、ファスナーが開けられた。出ていいのだろうか。頭だけ出してみる。
「えー!可愛いシャム猫ちゃん!青いおめめ!綺麗ねー!なんだか不思議な青ね!」
よく喋る婆さんだ。薄い色付きの眼鏡をかけていて化粧が濃い。骨ばった指がおれの顎の下を撫でた。撫で方がプロだ。
「座って座って!雄也ちゃん、届くかしら?」
ユウヤはキョトンとしていたが、レイナに促されてカウンターのスツールに少し手間取りながら、なんとか腰掛けた。水の入ったコップが2つとおしぼり、袋入りのウェットティッシュではなく本物のおしぼりが2つ。それから、水の入ったプラスチックの青い小皿が出てきた。おれの前に。
「玲奈ちゃん、さすがねー!全然変わらない。まだまだイケイケね!」
「もうおばさんですけどね」
「なーに言ってるの!なににする?ハンバーグ?」
レイナは煮込みハンバーグを2つ注文した。
「はい!こころちゃん、召し上がれ!」
婆さんは最初におれに小さなハンバーグを出してきた。白いきれいな皿に乗せて。
びっくりしながら匂いを嗅いだら、魚の匂いがした。ウエットフードをハンバーグの形に固めてあるらしい。うまい。がっついた。
おれより、ユウヤが大喜びだ。
「すごーい!ここ、ネコもお客さんなの?!」
「そうよー。大事なお客さん。お姉さんは猫ちゃんが大好きなのよぉ」
「お姉さんってだれ?」
「あら。さすが玲奈ちゃんの子ね!」
「おばさん、母さんの友だちなの?」
「雄也。京子ママは母さんのお師匠様なんだぞ」
「……お師匠様?母さんの?!」
「仕事を教えてくれた先生」
「先生!すごい!じゃあ母さんみたいにきれいだったの?昔は」
「昔は。雄也ちゃん!あんた、気に入ったわ!いい度胸じゃない?」
「すみません、ママ」
「いいのよぉ。子どもは素直でなくっちゃ。玲奈ちゃんだって生意気だったじゃない?昔は」
煮込みハンバーグは相当美味かったらしい。ユウヤはまるでおれみたいに、皿を舐めそうな勢いで完食した。
「——そうか。千秋ちゃんは可哀想に……あたしもお通夜、行こうかしら」
「きっと喜びます」
「あの子、可愛かったわね……いっつもあんたの後ろをついて歩いて。あんたたち、ほんとの姉妹みたいだって、よく言われてたのよ……それにしても、怖いわねぇ。あたしの頃もストーカーとかいたけど、く……あー、雄也ちゃん?アイスクリーム食べる?」
その後、婆さんは本当に通夜に行く気になった。一緒に。
「お店は?いいんですか?」
「いいのよぉ。最近は夜はだぁれも来ないの。ランチは大忙しだけどね。今じゃすっかり定食屋って感じ?あんたたちが来なかったらもう閉めようと思ってたの。着替えてくるから車で待ってて?」
喪服の婆さんを後ろに乗せて、ハスラーは西屯田通りから6条通りを左折し、斎場に向かった。雨はまだ止まない。
斎場、中央霊堂は南6西8。6条通りに面した、葬儀場らしくない無機質な建物だった。立体駐車場の、青くて四角い塔がやたらと目立つ。周辺にはタクシーが異常に多い。
「あー……やっぱりマスコミだらけだ」
レイナは斎場の向かいのパチンコ屋の駐車場にハスラーを入れた。
「玲奈ちゃん。あたし一人で行ってくるわね」
「……ママ?」
「ここで待ってなさい。マスコミのやつら……あんたが顔出したらやつらの餌食よ。任せなさい。こころちゃんが……お別れ言いに来たよって、話してきてあげる。千秋ちゃんに」
婆さんは返事を待たずに車を降り、傘を差して一人で道路を渡って行った。シャキッと背筋を伸ばし、しっかりした足取りで。
「行っちゃった。いいの?母さん」
「うん……京子ママなら安心。助かる」
レイナはユウヤからおれに視線を落とした。透明ドーム越しに、おれを見つめる。
「大丈夫。千秋には伝わる……きっと。なんて、猫にはわかんないか」
通夜や告別式のことはもちろんわかる。そして、そこにはあいつはいないことも。あるのはあいつの身体だけだ。
あいつ。
名前は、チアキ。




