7 ハルカ。
「ただいまー!!」
ユウヤが勢いよく帰って来た。ガチャン、ドタドタ、ゴソゴソ。いきなりうるさい。
「おかえりー」
レイナはキッチンから声だけ。夕食の準備が忙しいらしい。
バン!とランドセルが机の上に置かれた。ユウヤは別の何かを持って、キッチンへ行く。
「母さん!」
野菜を洗ってるレイナの横から、持っている物を突き出す。牛乳瓶?牛乳じゃなく、白い花が挿してある。
「あ?」
「いつもありがとう母さん!」
「は?」
「ダリアだよ!花言葉は、感謝!」
レイナは怪訝な顔のまま牛乳瓶を受け取った。
「雄也。そういうのは自分から言わないの。説明しちゃだめ。女は理屈より雰囲気」
「えー……だって……」
「牛乳瓶て。ちゃんと洗ったか?せめて色紙とかで包んで渡せ」
言いながら、レイナの目が笑い始める。ユウヤは俯いて気づかない。
「……嬉しくないんだ……」
レイナが吹き出した。
「あははっ!うそうそ。ありがとう雄也!すごく嬉しいぞ?」
「母さん!ひどくない?」
「ごめん。カワイイなー雄也」
ユウヤの髪がまたくしゃくしゃにされた。
白いダリアは、シンクの蛇口の脇に飾られた。牛乳瓶に挿したまま。
ユウヤの機嫌は速攻で治り、その後は夕食後までずっと喋りづくめだった。今日学校で何があったか。誰と遊んだか。何を教わったか。
「——先生が、突然プレゼントするのはすごくいいことだって。お母さん泣いちゃうかもよ?とか言うからさ……みんなで花壇から花詰んで。花言葉も教えてもらった」
「その先生に言っとけ。うちの母さんなめんなって」
「だよね!母さん最強!」
ユウヤはレイナしか見てない。おれのことなどもう忘れてる。子どもめ。超能力を試すチャンスすらない。魚も食えなかった。何度かテーブルに飛び乗ろうとして、その度にレイナに阻止された。
サンマを焼いてる時にじいさんも顔を出したが、すかさずウエットフードが出された。サンマの匂いを嗅ぎながら晩飯を喰った。
2人は仲良く後片付けをして、その後レイナは鏡台、ユウヤは風呂の後、宿題。
レイナは今夜も仕事だ。チャンスはその時だ。
糞をしていると、レイナが寝室から出て来た。メイクを済ませ、吊り目の恐い女に戻っている。
「宿題終わったらすぐ寝ろよ。昨夜遅かったんだから」
「……はーい」
勉強机に向かうユウヤを、レイナは少しの間見つめていた。それからおれのトイレを掃除して紙砂を流した後、あのリュックの透明ドームを開けた。
「じゃあ行くぞ」
……は?行くぞ?
リュックの中に入れられた。
レイナの背中で、透明ドーム越しにユウヤに見送られて、おれたちはマンションを出た。雨だ。傘を差し、レイナはスタスタと中の島駅まで歩き、地下鉄に乗る。
地下鉄は慣れているわけではないが、それよりレイナに腹が立っていた。好き勝手しやがって。おれをなんだと思っているのか。あいつなら、外出する時は前の日から教えてくれたのに。
しかし、反抗する隙もない。リュックはしっかりとファスナーが閉じられ、脱出不可能だ。昨日みたいに抱っこなら、爪を使えば逃げられたのに。
「玲奈さんおはようござ……あれ?猫ですか?」
「家に置いとくと部屋めちゃくちゃにされるんだ。こん中に閉じ込めとくから」
「おっはよーございまーす!わあ!こころちゃんもおはよー!」
「新しいキャリー買ったからな。テストしなきゃなんねーからしかたねーんだ」
「ん?誰もダメなんて……いやいいんじゃないですか?千秋さんも——」
「遥。おしゃべりは客としろ」
「えー?なんか怒ってます?」
「怒ってねえ」
レイナはなぜか機嫌が悪い。怒りたいのはこっちなんだが。いくつかある丸椅子のひとつのうち、クッションがちょっと破けているやつをわざわざ引っ張り出し、そこにリュックごと降ろされた。
ハルカが透明ドームをコツコツ叩く。こいつがうざいのは同意だったが、それより、ハルカがおれをじいっと見つめた。チャンス。
ハルカの垂れ目。黒い瞳。明るい茶色の虹彩……。
何も起きない。瞳を丸くしてハルカの虹彩を凝視する。
瞳孔の黒とその周りの茶色の変わり目が、妙にくっきり分かれている。
「カワイイ〜!目がまんまる〜!」
「猫がじっと見るのはケンカ相手だけだ」
「えー?そんなぁ。遥が可愛いから見惚れてるんですよー?今日は新しいカラコン!どうですかぁ?」
ハルカがレイナに向かって目をぱちぱちさせた。
「はい注目!」
店長が入って来た。
「みなさんおはようございまーす。朝礼始めまーす。はい起立」
女たちがぶつぶつ言いながら立ったが、レイナは座ったまま。タバコも消さない。
「まず……昨日は、悲しい事件がありました。みなさんも辛いでしょうが、お客様の前では笑顔で!よろしくお願いしまーす」
店長はレイナに何も言わない。いつもこうなのか。
「お客様から質問されたら、知らないで通してくださいね。しつこく聞かれたら黒服呼んで。いいですね?」
何人かが気のない返事。
「店長ー。遥、千秋さんと仲良しだったしー、知ってるお客さんも多いしー。絶対聞かれちゃいますけど?」
「あー、まあ、臨機応変にね?遥もプロなんだから」
「はーい。つまり、うまくやれってことですね?りょーかーい」
「えー、売り上げですが。今週もトップは玲奈。みなさん負けないように!今夜は雨ですが、張り切っていきましょう!……あと、玲奈と遥は事務室来て」
店長の後から、レイナとハルカが出て行った。おれも連れて行って欲しかったがどうにもならない。女たちはだらだらしている。まだ客が来るには早いのか。
「……そのリップ、どこの?……」
「……ねー知ってる?クチサキマ……」
「……ネットで見た。1週間で5人だっけ?こっわ……」
「……カレピがこういうの好きでさー……」
「……千秋さんさー。口裂き魔にやられたみたいよ?」
耳とヒゲが同時に反応した。口裂き魔。
「……犯人捕まってるよね?」
「……なんかさー、イホードラッグ?そのドラッグでおかしくなるってハナシ。イホーってなに?」
「……昨日飲み過ぎたー。誰かミラグレ持ってない?……」
「……3人とも記憶喪失なんだって。ヤバくね?」
「……都市伝説じゃね?……」
「……千秋ちゃんがもういないのって、なんか不思議……」
「……皆勤賞とか取ってたもんねあの人……」
「4名様ご来店です。玲奈さんご指名。ヘルプ、遥さんとあと2人、お願いします」
黒服が呼びに来た。
「はーい。玲奈さんばっかり」
長い夜になりそうだ。
それからは慌しかった。レイナが戻らず何度か寝落ちした。ハルカはちょこちょこ戻って来た。
「もー、今日はみんなあの話しかしないよー。つかれるー」
「玲奈さんぶっ続け。大丈夫かな。大丈夫か、あのひとは」
「まーしゃーないよね?ウワサの店だもん」
こいつらはあいつの友だちじゃない。ただの同僚。そんなものか。
「ねー!来た来た!」
ハルカが駆け込んできた。
「マスコミ!週刊誌!ブンシュンだって!」
「マジ?!いきなりメジャー来た」
「えーつきたーい!遥ちゃんつくの?」
「本指は玲奈さんだけど遥も呼ばれそう!芸能界きた!」
ハルカもか。レイナは……今はここにはいない。
あいつは……あいつも、殺されなかったらこうだったのだろうか?それもわからない。
でも、それでも。
たとえミーハーだろうと、それでも……あいつに、ここにいて欲しかった。
あいつは、前の日も出勤していた。ヒマな時間はこの部屋でお喋りしてたんだろうか。この店ではレイナの次に古いと言ってた。もしかしたらこの部屋は、あいつが家以外では1番長く過ごした場所かも知れない。
タバコの煙で黄ばんだ壁、クッションが破けた丸椅子。いろんなものが混ざり合った不快な匂い。
それでも、あいつが居た場所。
「玲奈おつかれ。今日はすごかったな!大入りバック期待していいぞ!」
結局レイナは一度も休憩もせず、閉店まで接客してた。
「キャー!玲奈さん、ご飯行きません?ラーメンラーメン!」
「あーあたしも行きたーい!玲奈さんの奢りとか?」
名前のわからない女たちが玲奈を取り巻く。
レイナは何も言わない。疲れてるようでも、怒ってるようでもなかった。立ったままタバコに火をつける。ハルカが離れて見ている。珍しく無言で。
「玲奈さん!何が食べたいですかあ?」
無表情で煙を吐き出し、また深く吸う。半分くらい吸って揉み消した。
「行きましょ、玲奈さん!あたし、玲奈さんについていきまーす!」
「ごめん。あーしは帰る」
おれごとリュックを引っ掴むと、レイナは足早に店を出た。歩きながらリュックを背負い、おれは後ろ向きになる。ハルカが小走りで追ってくる。
雨はまだ降り続いていた。
高橋のアルファードに乗ろうとして、レイナはハルカを振り返った。後ろ向きだから顔は見えない。
「遥。あの子らに謝っといてくんない?すごく疲れてるからとかなんとか」
「……玲奈さん……そんな。謝らなくたっていいと思います。だって玲奈さん、ほんとに——」
「うるさい。あんたも帰れ」
「はい、帰ります。送迎で。途中まで一緒に。遥も疲れたから、送迎で寝ちゃおかな」
「……。勝手にしろ」
アルファードは静かに走り出した。中の島まで、雨の音しか聴こえなかった。




