6 みれる。
背中に、レイナの手。
スマホの中のあいつは、笑顔のまま固まっていた。それも、ホーム画面に切り替わる。
スマホから離れて、そのままテーブルの上で座り、レイナを見た。
「他にはねーよ。降りろ」
レイナは低い声で言うと、スマホをテーブルに伏せた。コーヒーカップを持ってキッチンに行く。
テーブルの上にはスマホと新聞。細かい文字は読めない。
「ワァーゥ」
レイナは振り返りもしない。カップを洗って片付けて、スマホを持って寝室に行く。寝室のカーテンは閉まっていて薄暗い。ベッドの軋み。やっぱりまた寝るのか。
ドアは開いていた。
テーブルからソファの背もたれに飛び移る。レースのカーテンを頭で避けて、窓の外を見た。隣の青い三角屋根。丸い衛星アンテナ。
空は、雲に覆われて灰色だ。
『——このトンネルの中で、犯人は千秋さんを殺害しました。犯人は——』
ビクッと身体が震えた。寝室から男の声がして、途中で切れた。レイナがまたスマホを見ている。
『昨夜、札幌市中央区で、また殺人事件がありました』
女の声。別の動画だ。
『被害者は飲食店勤務の20代女性です。警察は、女性を襲っていた男を現行犯逮捕しました。男は30歳、東京都の会社員で、容疑は否認しているとのことです』
……否認だと?
(ズッ、ズズッ)
あいつに覆い被さり、ナイフで。
どういうことだ。あの状況で、否認もくそもあるものか。
スマホの振動する音がして、ニュースの音声は切れた。振動音は長く鳴り続け、少し間を置いてレイナの舌打ち。
それっきり静かになった。電話らしいが、出たりかけ直したりする気はないようだ。
物音がして、レイナが寝室から出てきた。リビングを出て、トイレに直行する。
いや、浴室だった。シャワーの音。起きるのか。出かけるのだろうか?朝っぱらから?
寝室で、またスマホが振動している。
薄暗い中、ベッドの上にスマホの明かり。飛び乗る。枕の横で、ブーブー鳴動している。画面を見た。
電話番号。下3桁は、110。警察だ。
シャワーの音が止まった。電話も。レイナの足音。バスタオルで髪を拭きながら寝室に戻ってきた。一瞬、顔を見合わせる。
「マーゥ」
警察にかけ直せ。なにかわかったのかも。
レイナは返事しない。あいつだったら何か答えてくれたのに。
「アォン」
じいさんが横になったまま目だけ開き、おれを見て鳴いた。アホめ、と言われた気がした。
レイナはおれたちをそれぞれチラ見しながら、裸で寝室を横切ってカーテンを開け、鏡台に座ってドライヤーを出した。
おれはダッシュで寝室から出た。
ドライヤーは嫌いだ。あの音が。
じいさんものそのそと出てきた。
テーブルの下で、じいさんが近づいてきた。尻尾を立てて、匂いを嗅ぎながら。おれもじいさんの匂いを嗅ぐ。古い匂い。
お互いの顔から首、肩や背中、腰を嗅ぎ回る。じいさんの方がでかいので、先にけつの匂いを嗅がれた。遅れておれも嗅ぐ。
見た目通りの老猫。別に病気とかはないようだ。
じいさんの長い尻尾がパタパタ動いた。本能的にその動きに集中してしまう。前足が出た。
じいさんが消えた。
そう思うほど俊敏に飛び退いて、ちょっとだけ離れた。まだそんなに動けるのか。
だがじいさんはその場でバタンと横になる。
「アォン」
睨まれた。
レイナが寝室から出てきた。ブラとパンツ。スマホをテーブルに置く。おれたちを見て、少しだけ口角を上げた。プラスチックのスコップみたいな物でおれのトイレを掃除し、固まった紙砂を人間トイレに持って行って流す。
レイナが戻ってきたのと同時に、またスマホが振動した。テーブルの上なのでゴトゴトと音がうるさい。
「ちっ」
また舌打ちして、スマホを操作する。
『——もしもし?浅井さん?浅井るみさんですか?中央署の野崎です』
スマホのスピーカーが喋った。昨日の刑事の声だ。
「あーしは玲奈だ。本名出すなら切るぞ」
『……。わかりました、では玲奈さん。昨日の続きで、お話をお聞きしたいんですが——』
「なんだよ。答えられることなら答えてやる」
『あーいや、電話では……署にいらしていただけますか?』
「あ?なんそれ。あーし逮捕されんの?」
『いやいや。お話がしたいだけで……千秋さんの事件で。もしお忙しいようでしたら、私が伺いますが?』
レイナは黙った。考えている。
『……玲奈さん?いかがですか?』
「……わーった。今から行ってやんよ。10時過ぎるけど」
『ありがとうございます。お待ちしております。受付で野崎に呼ばれたと——』
レイナは途中で電話を切った。
よし。警察に行っていろいろ話を聞けば、何かわかるはずだ。
どうして、あいつが。
なぜ、あんなことを。
レイナが化粧したり服を着たりしてる間、おれはリビングのドアの前でじっと待っていた。おとなしく、エジプトの座り方で。
じいさんが起き上がり、ゆっくり歩き出した。寝室のドアでおれを振り返る。
「アォン」
それだけ言って、寝室に消えた。
入れ替わりにレイナが出てくる。スウェットとデニム。ラフな格好。スマホとタバコをトートバッグに入れる。
ケージはどこだ?まさかおれもトートバッグか?
レイナが玄関へ。おれもついて行き——
バタン。目の前でリビングのドアが閉まった。
置いて行かれた。
それからは、わざと乱暴にドアに飛びついて開けたり、玄関に出てこのドアにも飛びついたが開けられなかったり、人間トイレや浴室の匂いチェックをし、リビングを走り回って怒りと苛立ちを紛らわせた。
寝室の窓も覗いてみた。マンションの裏らしい。広い駐車場に面していて景色は悪くない。内窓をガリガリやって開ける。内窓と外窓の間はスペースがあり、雲の切れ間から陽が差して暖かかった。外窓越しに真下を見る。通路を挟んで物置が並んでいて、あの上になら降りられるかも……などと考えながら外を眺めているうちに寝てしまった。
喉が渇いて、目が覚めた。日差しが少し西寄りだ。もう午後か。レイナはまだ帰って来ない。
一旦水を飲みに行く。それから毛繕いをしていると、テーブルの端から少しだけ覗いている小さな三角が気になった。飛び乗る。
新聞だった。ちょいちょいやってテーブルから落とす。この高さから部屋を見回すと、ユウヤの勉強机がちょうどいい高さに見えた。テーブルを降り、勉強机に飛び乗る。ペン立てをちょいちょいやって落とす。理由はない。
机の隣には本棚。天井近くまで高さがある。体を伸ばすとガラス戸の取手に前足が届いたので、ガリガリやったら開いた。てっぺんまでよじ登れそうだ。左前足の爪を棚に引っ掛けて、それから左後ろ足を——
ガチャン!と音がした。玄関。レイナか。本棚登攀に夢中で足音を聞き逃した。この体勢はあまり見られたくない。机に戻ろうとした。
左前足が棚から離れない。爪が引っかかって抜けない。リビングのドアが開いた。
「……こらッ!」
焦った。だが爪は外れない。左後ろ足で踏ん張ろうとして、折り紙かなんかの小箱が落ち、青や黄色のクリップが散乱した。耳が伏せた。
「あーもう!」
レイナがドカドカ近づいてきて、おれの体を掴む。
「ワァアァーッ!」
やめろ!爪が折れる!
レイナが左前足を持ち上げて爪を外してくれた。
「ばか猫ッ!部屋がめちゃくちゃだ!」
抱き上げられ、尻をペシっと叩かれた。
「フゥアァーッ!」
おれにも言い分がある。置いて行くからだ。
だがレイナはそれ以上叩いたりはしなかった。ソファに放り出されたが、ぶん投げられたとかじゃない。リビングの入り口に戻り、トートバッグと薄茶色のリュックみたいな物を手に取り、リュックをおれの隣に置いた。
「おみやげ買ってきてやったのに。ばか猫」
薄茶色のリュック。硬い。プラスチックかなんかだ。ドーム状の大きな窓みたいのがある。レイナはそれをパカっと半分に割るように開き、中から食材とかが入ってるレジ袋を取り出してキッチンへ。それから戻ってきて新聞を拾い、散乱したペン類やクリップを片付け始めた。
好奇心にかられて、割れたリュックの中を覗き込んで匂いを嗅ぐ。美味そうな魚の残り香。底に薄手のクッションがひいてある。中に入ってみる。ちょうどいい狭さだ。横はスリットがあり、息苦しさはない。だがレイナはおみやげと言った。魚か?あのレジ袋に——
「フフン!」
レイナが鼻で笑った。
「気に入ったか?ばか猫」
どういうことか。これがおれの部屋?悪くはないが。
リュックが閉められた。ジーッとファスナーでぐるっと。そして部屋ごと持ち上げられ、レイナが部屋を背負った。
「おまえ軽過ぎ!このリュックのほうが重いんじゃね?」
さっき鬼のように怒っていたのに、もう笑ってる。変なやつ。
レイナの背中から、透明ドーム越しに景色が動く。上下左右、窓、壁、天井、早く、ゆっくり。レイナが足踏みしたり腰を捻ったり、屈伸運動したりしてる。笑いながら。変過ぎる。
最初はひどく揺さぶられたが、すぐに慣れてバランスの取り方もわかった。それから、ソファに降ろされ透明ドームが開いた。
顔だけ出す。目の前にレイナのニヤけた顔。
切れ長の眼。焦げ茶色の瞳。黒と茶色の……虹彩
リュック。青いの。薄茶色の。
値札。透明ドーム。内側からの景色。
棚。キャットタワー。檻みたいなケージ。
刑事。写真。
男。横顔。正面。
眼鏡。黒髪。光のない瞳。
またか。昨日と同じだ。レイナと目が合うと、突然頭の中に映像や
刑事。声。話。
否認。記憶がない。
酒。ドラッグ。カルト。
これはなんだ?!理解はできるが整理ができない、いろんな画像、声、音が
刑事。ストライプのネクタイ。話。
ススキノ。3人。同じ。ドラッグ。
映像が、始まりと同じく唐突に消えた。
レイナが立ち上がって視線が外れたからか。レイナは何も感じていないようだ。
これは……レイナが今日警察で、見た、聞いたことなんだろうか?刑事の顔は昨日のやつと同じなのに、ネクタイが違った。それがなんでおれの頭の中に?レイナと目が合っただけで?
超能力か?レイナは気づいていない。猫の超能力なのか?それとも、おれとレイナだけの現象?
リュックから出る。もう一度レイナの目を見てみたかった。確かめたい。
「マァーウ」
こっち見ろ。
無視。レイナはレジ袋を持ってキッチンに行った。ダッシュで追いかけ、シンクに飛び乗る。
「サンマ狙ってんのか?だーめ」
即座に捕まり、床に降ろされた。
ちくしょう。力では勝てそうにない。
これならどうだ。レイナの足元に纏わりつき、頭を擦り付ける。
「飯はまだ早い」
脚で押し除けられた。
「うざ。雄也にやれ。もう帰ってくるから」
ユウヤか。子どもになら勝てるだろうか?
……いや。勝ち負けの話じゃなかった。




