5 シッポ。
【2026年9月3日木曜日】
夜明け前。
カーテンの隙間から漏れる微かな明るさを感じて、起きることにした。
ここがどこかは、ちゃんとわかってる。というか、それほど深くは眠れなかった。寝落ちしても、ちょっとした物音で目が覚めた。外の音はほとんど聞こえなかったが、ユウヤの寝返り、レイナの寝息の変化。寝言とかいびきとかじゃなくてもだ。
熟睡はできなかったが、もう眠気はなくなっていた。じっとしていたので疲労は回復したようだ。あと、腹が減った。
起き上がり、伸びをする。レイナもユウヤも、まだ寝てる。部屋を見回す。
じいさんは起きていた。やはり伸びをしてクッションを降り、水を飲む。おれのことは全く無視して、またクッションに戻ると横になった。また寝るらしい。
おれも喉が渇いた。レイナの手足を避けながらベッドを降りる。おれの皿はリビングか。部屋を出て水を飲み、少し毛繕いしてトイレへ。
おれのトイレは屋根付きじゃなかったが、砂はあいつの時と同じ紙砂だ。人間のトイレに流せるやつ。おれにとっては、いつも綺麗にしといてくれるならなんでもいいが。それが人間の仕事だ。
昨夜のパニック、この家への恐怖や不安はひと寝入りしたら無くなっていた。ここに住むことを受け入れたわけじゃない。まだ匂いを嗅いでなかった場所をチェックする。椅子。机。ユウヤの匂い。デカいTV。本棚。
キッチン。シンクに飛び乗る。きれいに片付いてる。部屋全体がきれいだ。隅々まで掃除されてる。あいつも掃除はこまめにしていたが、物が多かった。散らかってた。それに慣れていたので、この部屋は物足りない感じがした。
リビングから玄関に出るドアは閉まっている。あいつは開けっ放しだった。だらしなかったんじゃなく、おれのせいだ。たいていのドアは、ドアノブに飛びつけば開けられる。それをやるとドアに傷がつく。賃貸だから傷はまずいと思ったんだろう。
ここのドアも、何度か練習すれば開けられそうだ。後でやってみよう。
カーテンの隙間が明るくなってきた。奥の部屋から物音。足音。ユウヤが起きてきた。皿を持っている。
「——こころ!」
隠れようか一瞬迷ったが、もういいか。
「おはよう!こころ」
ユウヤはキッチンに行き、背伸びしてシンクの上の棚を開け、袋を取り出した。カリカリだ。
「待っててね、こころ。これはユメのだから」
袋に手を突っ込んでひと摑み取り出すと、持っていた皿に開けて部屋に戻って行く。あいつがいつもくれていたのとは少し違う匂いがした。
すぐまたキッチンに行って、今度は新品の、まだ封を切っていない袋を引っ張り出した。あいつのと同じ色の袋だ。おれの朝飯。ハサミで袋を切る。袋ごとおれの皿に持ってきて、ひと摑み。それからおれを見てニッコリ笑った。
「特別サービスだよ!」
もうひと摑み、皿に出す。
「こら」
レイナも起きてきた。
「母さん!おはよう。だめ?たくさん食べるんじゃない?若いから」
レイナは黙ってユウヤの頭をくしゃくしゃ撫でた。ユウヤがケラケラ笑う。
「おはよう。顔洗ってこい」
玄関でカタン!と音がした。
「新聞だ。母さん座ってて!」
レイナがフッと笑い、ユウヤはリビングから玄関に行った。ドアを開け放って。おれは朝飯を中断して見ていた。脱出できると思ったわけじゃない。レイナがカーテンを開けた。
ユウヤが新聞を持って戻って来た。2部。
「はい母さん!コーヒー飲む?」
「いいから。早く顔洗え」
「はーい」
毎朝こうなのだろうか。ユウヤがはしゃいでいるようにも見える。おれがいるからか?レイナが早起きなのはユウヤのためだろう。学校に行くはずだ。そのあとまた昼くらいまで寝るのか。あいつと同じだ。
レイナはキッチンに行き、自分でコーヒーを淹れ始めた。ドリップ式のやつ。
ユウヤが顔を拭きながらキッチンに行った。
「朝ごはん、なにがいい?」
「あーしが作る」
「ほんと!?やったー!ベーコンエッグがいい!」
今時の家庭はこんな感じなんだろうか?子どもを育てた記憶はないからわからない。
「こころ、全部食べた!」
そりゃ出されたもんは喰うけど。この家ではこうやっていちいち報告されるのか?ユウヤのテンションが高くてうるさい。
その後もユウヤはハイテンションだった。おれのせいではないかもしれない。朝飯を食ってる間も、ひと口ごとに大袈裟においしいと騒いでレイナの料理を褒める。
「母さん。今日学校休んじゃだめ?」
「はあ?具合悪いの?」
「……違うけどさ」
「ほんとに大丈夫か?」
「うん……ごめんなさい。なんでもない!」
レイナが手をユウヤの額に当てた。
「……熱はない。ずる休みはダメ!」
わかった。レイナに甘えているのだ。昨夜は早かったが、普段は夜中、または朝まで帰ってこない母親。父親の影はない。親とすれ違いの生活。寂しいのか。
「こころ!行ってきまーす!」
ランドセルをしょったユウヤと、Tシャツに着替えたレイナが、リビングを出た。おれの目の前でリビングのドアが閉められる。
レイナは出がけにタバコを持って行った。そういえばこの部屋はタバコの匂いがしないし灰皿らしい物も見当たらない。ユウヤを見送りがてら、外で吸ってくるのか。
ガチャン、と、玄関の鍵を開ける音。リビングのドアのすりガラスが明るくなり、一瞬外の匂いがして、足音、またガチャン。
だがすぐに、すりガラスがまた明るくなった。玄関が開く音はしなかったし、2人の足音は遠ざかって行った。玄関の照明か?
違う。透けているのではない。光。
突然リビングのドアが輝き出した。昨日のフラッシュライトより眩しく。
目を細めて後ずさる。
逆光の中の黒い影。
「ゥワーゥ」
寝室のドアがゆっくり開いて、じいさんが顔を出した。光を見ている。平然と。
影。シルエット。人の身体のような……髪?耳?尻尾がある。長い尻尾が目立つ。その先端だけパタパタ動いている。髪じゃなく耳なら、猫みたいだ。だが、とにかく眩しい。横目でじいさんを見ると、尻を下ろし前足を揃えて、光に向かってエジプト神話の猫みたいに座り、目を閉じた。
じいさんにもあれが見えている。眩しくて目を閉じた。おれも。
金色。目を閉じたら、頭の中が金色でいっぱいになった。
金色の猫。全身が金色の毛に覆われた大きな猫。いや、人だ。体型は人間。濃い茶色の髪、耳、手足……尻尾。
そして、巨大な眼。
デカ目女。
死んだ時におれを猫に生まれ変わらせた、あのでかい目の女。顔の半分以上が目だ。吊り目。金色の眼。
瞳は黒いが、X字の金色の星がある。そのXが——瞳から溢れ出した。
XXXXXXXX失敗XXXXXXXXXXXXXXだめだXXXXXXFAILEDXXXXXXXXXXdefecitXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXαποτυχίαXXXXXXXXXXXXנִכשָׁלXXXXXXXXX
(あーうまくいかない!ちくしょう……おい、猫ども!私はシッポ——)
いきなり全部消えた。目を開けると同時に、リビングのドアが開いた。
「ん?なんだおまえら?」
レイナがきょとんとして言った。
「お出迎え?変なの」
タバコの匂い。やっぱり外で吸ってきた。
いやそれよりも今のはなんだ。光。金色のデカ目猫女。シッポ。尻尾がどうした?
じいさんがエジプト神話座りのままあくびすると、ゆっくり部屋に戻っていった。けつの穴を見せて。おれと同じものを見たのだ。おれがおかしくなったわけじゃない。
神話。神?まさか、猫界の神様なのか?あの口の悪いデカ目女が?
そうだとして、何しに来た?尻尾がどうかしたのか?
おれの尻尾が短いことについてなら、大きなお世話だ。
なんなのか、さっぱりわからない。
じいさんは知ってるんだろうか。
猫同士は、コミュニケーションは取れるが言葉で会話できるわけじゃない。おれは人間の言葉を知ってるが、発音できない。口内や舌の構造的に不可能。じいさんも同じだ。
あとさっきの声。カン高い、聞いたことのない声。神の声だとしても、ありがたみもくそもない。
(おまえの飼い主死んだわ。元気ィ?!)
(じゃあ帰る。またね!)
昨日、同じように頭の中に響いた声。
あいつの声。
またあいつの声が聞きたい。今朝目が覚めてから今までの数時間で、何度思い出しただろう……あいつの——
『こころー!』
あいつの声。頭の中じゃない、この耳に確かに聴こえた。声のした方を見る。
『——このお姉さんは、レイナさんだよ!仲良くしてね、こころ!』
『おーなつこい。チアキがかわいがってるからだなー』
レイナがテーブルに肘をついてスマホを見ていた。テーブルに飛び乗り、スマホに近づく。
『こちゃん!よろしく〜』
『えー、こちゃんてなに〜。レイナさんがそんな呼び方、ウケる〜』
スマホとレイナの間に割り込み、画面を見た。
あいつ。笑ってるあいつ。
おれを抱き上げ、顎を頭に擦りつけて。
スマホの動画なのはわかってる。
おれは、スマホに頭を擦り付けた。
何度も、何度も。




