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4 ユウヤ。

「お疲れ様でしたぁ!こころちゃんばいばーい!」

 ハルカは陽気に手を振り、高橋のアルファードで走り去った。おれはレイナの肩に乗って、彼女のマンションに入った。

 レイナは両手にひとつずつ大きなレジ袋を下げていて、おれは捕まえられているわけじゃなかった。逃げようと思えば簡単に逃げられる。

 だが、今は疲れていた。眠気がまた襲ってきていた。

 

 昨日までの平穏な日常。この時間はあいつが仕事に行き、おれは真っ暗な部屋で熟睡してる頃だ。夜中にあいつが帰ってくる足音で目覚め、ひとしきりじゃれあい、あいつがシャワーを浴びるのを待って、一緒に寝る。

 夜明け頃にあいつを起こし、朝飯を貰い、少し遊んだり運動したりして、また寝る。

 昼前くらいにあいつが起きるまでの数時間が、1日で1番安らげる時間。あいつがいない夜が、1番静かな時間だった。

 もう二度とない時間。


 レイナのマンションはデカかった。自動ドアを入ると広めのエントランス。奥のほうに内玄関。レイナはボタンをいくつか押した。暗証番号かなんかだろうかと思ったら、声がした。

「はーい」

「ママ」

 レイナが短く返事すると、ピッと音がして内玄関の自動ドアが開く。

 ……ママ?

 

 エレベーター。階数のボタンは15まであるが、レイナは3を押した。

 エレベーターを降りると、柔らかいカーペットが敷かれた廊下。1番奥のドアが少しだけ開いていたがすぐ閉じた。レイナがそのドアの前まで歩いて行って立ち止まった。ほぼ同時に、ドアの向こうでカチャカチャ音がしてドアが開く。自動ドアなのか?レイナが荷物を床におろし、両手でおれの身体を掴んだ。

「おかえり!母さん」

 子どもだ。

 あの子ども。少年。小学生か。

 ユウヤ。 

 

「こら。開けちゃダメだろ?悪いヤツだったらどうすんだよ」

「シャムネコだ!ちっさ!かわいい!」

「待て。まずこれ。持ってって」

 子どもがレジ袋を持つ。

「——ユメは?ちゃんと閉じ込めた?」

「うん!電話で言われた通りやった。大丈夫じゃない?ずっと寝たままだよ?」


 情報過多だ。

 ママ。子ども。初めての場所。匂い。猫の匂い。古い匂い。ユメ。寝たまま。

 レイナが中に入り、ドアが閉まった。出口が閉ざされた。

 しまった。車から降りた時に逃げていれば。

「いきなりだと驚くから。まず家に慣らす」

「そっか。さっすが母さん!」

 

 レイナの手がおれを持ち上げようとする。嫌だ。恐い。何が恐いかわからないが恐い。

「痛ててて……ちょっと、爪出すなって!」

 おれか。気づいたらレイナの肩に爪を立ててた。無理矢理引き剥がされる。全身が強張る。暴れたいのに動けない。

「母さんだいじょぶ?」

「大丈夫」

 床に降ろされた。

 

 どうしたらいいかわからず、とりあえず床の匂いを嗅いだ。猫の匂い。

 初めての家、しかも他猫の縄張り。パニック寸前だ。ひたすら匂いを嗅ぎ続ける。床。ラグ。フローリング。壁。

「雄也。トイレセット。買ってきたヤツ」

「はい!なんか楽しいね!」

 人間たちはドタドタしてるが、それどころじゃない。ほんとにパニックを起こしそうだ。落ち着け。まず匂いを嗅げ。他にできることなどない。

 

 死にものぐるいでそこら中の匂いを嗅ぐ。頭を擦り付けてマーキングしたかったが、他猫の縄張りをむやみに荒らしていいのか。戦争になったらめんどうだ。

 あいつに誓った。もうケンカはしないと。

 落ち着くんだ。よく考えてみろ。他猫の姿はどこにもない。さっき、閉じ込めたと言ってた。あの扉の向こうか。他猫がいなければ、差し迫った危険はないはずだ。落ち着け。


 ふっと、暗くなった。影。背後から光が遮られた。反射的に振り返る。

 一瞬びっくりして固まる。

 子ども。

 ずっとおれの後をついてきてたのか。ニコニコしてる。

「母さん、こいつなんて名前?」

「こころ」

「こころ!かわいい!こころー!」

 

 指が、顔の前に突き出された。ビクッと身じろぎする。耳が伏せた。

 指先がゆっくりと近づいてきた。逃げたかったが、身体は逆に指先に近づく。匂いを嗅ぐ。

 レイナと似た匂い。親子だからか。少し甘い。レイナが甘くないんだ。母親だったとは。

 

 子どもの指先が鼻にくっついてすぐ離れた。

「鼻乾いてる。具合悪いのかな」

「緊張してんだろ。いっちょまえに」

「こころー」

 また指が、そおっと近づいてきた。顎に。子どもの指の背が顎の下を撫でる。

 気持ちいい。すーっと、恐怖や不安が和らいでいく。

「雄也だよ。よろしくね」


「雄也。えらいぞ」

「えー?なに?」

「洗い物」

 レイナが何か持って近づいてきた。水の匂い。

「いつもじゃん」

 レイナの手が、ユウヤの髪をくしゃくしゃにした。

「いつも、だから。えらいぞ」

 

 丸い銀色の容器。皿か。壁際の床に布を敷いて、皿を2つ置いた。ひとつに、水が入っている。

「おまえのご飯はここ。水飲め」

「ごはんは?缶開ける?」

「いやもう食わせたから」

「こころー!トイレはここだよー」

 いろんなことが一度に起こり過ぎる。ここに住めというのか。嫌だ。家に帰りたい。

 

 改めて周囲を見回す。

 あいつの部屋より広い。背の高いダイニングテーブル。金属の椅子が2つ。机。本棚。ソファ。

 窓。


 ソファの背もたれに駆け登った。カーテンの隙間に頭を突っ込む。ガラス窓。真っ暗だが、建物の屋根の斜面が見えた。そのままカーテンとガラスの間に隠れる。ここから脱出できるかも。

 ザーっとカーテンが開けられた。

「雄也、閉めて。少しほっときな。今は探検タイムだから。今日はもう寝ろ」

「えー。まだいいでしょ?探検タイムかー」

「だめ。早く寝ろ」

「……はーい」

 カーテンが閉められた。落ち着く。


 隣の家は一軒家のようだ。下は角度的に見えない。3階か。この高さは未経験だ。隣までの距離は——

「こころと寝てもいい?」

「今夜はほっとけって。慣れたらな」

 ドアが開く音。すぐ閉まったが、一瞬匂いが変わった。古い猫の匂い。他猫の部屋か。

 また別のドアの音、匂い。トイレだ。人間のトイレの匂い。

 カーテンの端から顔を出す。2人ともいない。ソファから床に降りる。

 水の匂いに惹かれて、皿が置かれた壁際に行く。喉が渇いていた。ピチャピチャと、たくさん舐める。

 身体が濡れたが、まだ毛繕いするほどの余裕はなかった。もうひとつの、空っぽの皿の匂いを嗅ぐ。新しい。洗われたばかり。


 トイレを流す音。布の音。トイレで服を脱いでいるらしい。その後、また水の音。湯沸かし器の音。シャワーか。あいつと同じだ。レイナがシャワーを浴びてるのか。


 カチャッと、ドアの音。風呂場ではなく、部屋の中から。

 素早く、ソファの下に隠れる。

「こころー?どこ?」

 ユウヤが戻ってきた。ギュっとソファが沈む。カーテンが開いて、すぐ閉まった。

 ギュギュッ。

「見つけた!」

 ユウヤが頭を横にして、ソファの下を覗き込んだ。

「探検だね。がんばれ!」

 じっと見られる。

「いいよ。邪魔しないから。でもここはなにもないよ?」

 わかってる。邪魔しないと言うなら、どっか行ってくれ。


 しばらく、そのまま睨み合う。と言ってもユウヤの顔はよく見えなかった。逆光だ。

「じゃー寝よーかなー」

 見え透いた嘘だ。子どもめ。騙されるもんか。

 ユウヤは立つとソファから離れたが、足は見える。こちらを向いている。息を潜めて待つ。

 10秒くらいで、ユウヤの足が動き出した。所詮子どもだ。離れていき、またドアの音。開いたが、閉まる音がしない。隠れて待ち伏せか。お見通しだ。子どもだからすぐに飽きるだろう。もう眠いはず——


 ——いや、眠いのはおれだった。一瞬寝てしまった。シャワーの音が止まって意識を取り戻した。足音。スリッパ。レイナの足。

「雄也!寝ろって!」

「だって——」

「だってじゃない!」

「ごめんなさい!おやすみなさい!」

 ドアが閉まり、またすぐ開いた。

「こころはソファの下だよ」

 ドアが閉まる。足音。パタン。また新しい匂い。冷蔵庫か。コップ。ペットボトル。飲み物。酒の匂いはしない。バサバサ、体を拭いてる。白いタオルが見えた。屈んで脚を拭きかけ、途中で動きが止まる。

 顔。裸のまま這いつくばって覗き込んできた。

「そこで寝んのか?まあ好きにしろ」

 レイナが立ち上がって、また体を拭く。それから離れて行った。冷蔵庫の開閉音、水の音。流しか。キュッと、たぶん蛇口を閉める音。スリッパの足音。

 他猫の部屋のドア。

 明かりが消された。

 ドアが閉まる音はしなかった。


 動かず、様子を見る。というか聴く。

 衣ずれの音。

「まだ起きてる」

「だって……眠れないよー」

「あーしらが寝ないと、ずっとあそこから出てこないぞ?」

「……ずっと?」

「うん。かわいそうだろ?」

「……こころ、捨てられてたの?」

「いいや。飼い主……お母さんが、ちょっと」

「……死んじゃったの?」

「……うん」

「そっか……うちで飼う?」

「うん。だから、早く寝ろ」

「わかった。おやすみなさい」

「おやすみ」

 軋む音。ベッドか。

 

「……母さん?」

「もう。なに?」

「……母さんは、死なないでね」

「ばーか。おやすみ」


 おれの眠気も限界だった。うとうとして——


 ——匂いと、微かな足音。気配。

 耳が立ち、ひげが前を向く。

 猫。

 起きて、部屋から出てきた。静かに、ゆっくり。おれも、音を立てずにソファの縁ギリギリまで這う。おれの短く丸まった尻尾がピクピク動く。


 大柄な猫だ。長く細い尻尾。全くこちらを気にせずゆっくりと歩いて、おれ用の皿やトイレをチェックしている。床や壁も。

 急に、振り向いてこっちを見た。

 目が合う。金色に光っている。

 今気づいたのではなく、最初からおれの居場所をわかっていた。そういう眼で、じっとおれを見つめる。鋭い眼光。

 ケンカをする気はないが、逃げる気もなかった。

 睨み返す。凝視ではなく、ゆっくり瞬きしながら。

 老猫。じいさんだ。片耳の先が少し欠けている。大柄というか、少し太り気味。灰色で、黒い模様。長毛ではない。

 じいさんも瞬きした。ゆっくり。

 そして、ぷいっと横を向いて、部屋に戻って行く。ゆっくり。尻尾を真っ直ぐ立てて、けつの穴を見せて。

 おれはソファの下から這い出た。

 距離を置いてじいさんを追う。

 じいさんは振り返らず、部屋に入った。


 ドアの前で立ち止まる。レイナたちの寝息が聴こえる。デカいベッド。あいつのベッドの倍はある。ベッドから少し離れた隅に猫トイレがある。ケージみたいな屋根があるやつ。その手前に大きなクッション。さらに手前に、皿が2つ。

 じいさんは少し水を舐めると、クッションに乗ってドサッと寝転んだ。こちらに腹を向けて。そのまま動かなくなる。寝た。


 暗闇の中で部屋をうろつく。大きな鏡台。壁にクローゼットらしい扉。ベッドの下は塞がっていて入れない。ベッドは窓のある壁際にくっついている。


 人間2人とじいさん猫の寝息が、一定のリズムで部屋を支配していた。再び、強い眠気。

 安心できる場所はまだないが、せめて安全だと思える場所で寝たい。

 ここでは、ひとつしか思いつかない。


 おれはベッドに飛び乗った。窓際にレイナが右向きに寝ている。背中に、ユウヤがくっついている。

 おれは壁に沿って、レイナを踏まないよう気をつけて歩き、レイナの顔のすぐ横に香箱座りした。

 

 レイナの寝顔。化粧を落として目を閉じていれば、優しい顔に見える。

 

 その顔を見ているうちに、意識が薄れていった。

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