3 はしる。
札幌中央署の前でタクシーを捕まえ、おれたちはアルファードを置いてきたところまで戻ることになった。創成川通りを南下する。7条大橋付近はまだパトカーがいて、トンネルの北側出口がある側道は通行止め。
「なんかあったんですかねー」
タクシーの運転手が言った。
「なんにもないですよね……」
ハルカが答えた。
「え?……でも警察がいますからねー」
「違くて……こっち側ってなんにもないなーって。創成川通りの東側。千秋さん、なんであのトンネルに……」
誰も返事をしなかった。
「交差点渡ったところでいいです」
アルファードのそばでタクシーが停まる。黄色い規制線はトンネルの入り口に張られていて、パトカーや警察車両が数台。トンネルの中から光が漏れている。警官が1人、こちらを見ていた。ハルカと高橋が降り、レイナが料金を払う。
「玲奈さんすみません」
「いいから。経費で落とすし」
スマホで決済するため、片手がおれから離れる。ドアは開いている。
迷わず、おれは飛び出した。
「こちゃん!」
パトカーの下を潜り、警官の足元を駆け抜けてトンネルへ。レイナたちは警官に止められた。
「猫が!捕まえて!」
そうはいくか。
トンネルの中は明るく照らされていた。投光器。直視しないよう、視線を低くして走る。黒い小さなおもちゃみたいな標識を避けながら疾走する。
乾きかけた血。匂い。あいつの体臭。血の匂い。ミルクの匂い。
フラッシュ。
トンネルの真ん中あたりに数人の人影があり、地面を指差したり写真を撮ったりして歩き回っている。その足元の間に、横たわるもの。
あいつ。
横たわったまま、動かないあいつ。
眠ってるような横顔。
見慣れた、あいつの寝顔。
激しい違和感。
口が耳まで切り裂かれて。
首に、黒く深い傷。
茶色く汚れたブラウスの胸。
腹のあたりは真っ黒だった。
「こらっ!」
人影が伸ばす手をかいくぐり、壁際へ。もう一度あいつの顔を見ようとして、人間たちの足の隙間から、北側の奥の壁際にいる動物に気づいた。
警察犬か?いや、狐だ。小型のキタキツネ。
狐はすぐに走り去った。人間たちは狐には構わず、おれににじりよって来る。これ以上あいつに近寄るのは無理そうだった。横っ飛びに壁際を逆戻りする。おれを捕まえようとした男が壁にぶつかる。
「あーっ!」
すぐにトンネルを飛び出し、橋に上がる階段の前を跳ぶように走る。
「こちゃんっ!」
レイナが叫びながら追いかけてくる。左は行き止まり、向かいはマンションの駐車場入り口。入ったら出られないかも。右に直角に向きを変え、通りの方へ突っ走る。ハルカと高橋の横をすり抜けた。
あいつの匂い。血じゃない、香水の花のような香り。そして、甘いミルクの匂い。走りながら、その2つの匂いが混じり合っておれを導く。
車が多い通りを渡らずに左へ。南西へ。ところどに水たまりがあり、街灯や建物の明かりを反射している。避けながら歩道を走る。人の足では追いつけない速さで。
だが、そこで急停止した。ミルクの匂いが消えた。あいつの匂いはまだある。ローソンの向かい。
「こころーッ!」
振り返るとレイナが走ってくる。遅れて、ハルカと高橋も。
考える。
捕まったら追跡は終わりだ。でもおれだけでどうする?
走るのをやめると、あいつの顔が浮かんだ。眠ってる横顔。もう、その目は開かない。
「こころッ!」
レイナ。普段より吊り目だ。怖い。
また走る。あいつの匂いを追って。レイナに追われて。
途中何度か立ち止まって匂いを確かめ、交差点を突っ切る。匂いはまだはっきりわかる。あいつの匂い。優しい匂い。安心する匂い。
大好きだった匂い。
2つめの交差点で、車が途切れず足止めされた。レイナに追いつかれる。
「……てめえ……ハァ……ハァ……どこ行く気だ!」
「ンゥー」
地面を嗅ぎ、匂いに集中する。それからレイナを振り返る。鼻腔が広がり口が開き、薄目になった。
「……おい……今それかよ……ハァ……ハァ……匂いか?千秋の匂いか?」
車が途切れた。走り出す。
大きな建物。ホテルだ。匂いは、このホテルの中に続いている。玄関の前で止まり、レイナを見る。
「ォウォー」
「……ここ?ノースシティホテル……福鮨」
レイナは深くため息をつき、息を整えた。
「ばか猫……最初から、ここに来るつもりだったんだよ!」
一瞬固まった隙に、捕まった。あきらめて、大人しく抱き上げられる。レイナはおれをショルダーバッグのストラップみたいに、剥き出しの肩に担いだ。
後ろ向き。ハルカと高橋は来ない。
自動ドアの開く音。レイナがホテルに入る。
生魚の匂い。腹が減った。
「お客様——」
ホテルマンが足早に近づいてくる。
「福鮨ってどこ?」
「お客様。ペットはお断りしております」
「気にすんな。こいつは——」
「ンナァーッ!」
放せ。福鮨はあそこだ。
「おとなしくしてろばか猫」
レイナは周囲を見回し、看板を見つけて福鮨へ向かった。
「困ります、お客様……」
無視して、のれんをくぐる。
「らっしゃいっ!」
「あーすみません。ちょっと聞きたいことがあって」
「はい?警察ならもう……猫?!何だ?猫は勘弁して——」
「すく帰るからさ」
言いながらカウンターに座る。
「……お茶、くんない?」
「……警察じゃないんなら注文しな。猫は——」
「だいじょぶ。この子、賢いから。相手してくんないなら、この子を放すよ?」
「シャーッ!」
鮨屋ではなくレイナに文句があるのだが、鮨屋がビクッとして後ずさった。それから、レイナにお茶が出された。
「その2人、どこに座ってた?」
「……そこだよ」
結局、レイナはお好みで6貫握りを喰い、おれにも中トロの切れ端とかをくれた。レイナの隣、カウンターの一番端の椅子に降ろされ、カウンターに前足を掛けて腹を満たす。
この椅子。あいつの匂いはしない。レイナが座ってる椅子が、あいつの椅子。
この椅子の匂いはごちゃごちゃだ。おれの鼻でも嗅ぎ分けられない。ミルクの匂いはしない。
「——普通の男だった、てこと?」
「ああ。眼鏡してたってくらいしか覚えてないんだよ。スーツはきちっと着てた。酒は結構飲んでたな。千秋ちゃんはいつもの——」
「待て。千秋、知ってるの?よく来てたの?」
「ああ。同伴はいつもここって言って。ほんとかどうかは知らんが」
「帰りは?」
「普通に、男がカードで払った。タクシー呼ぼうとしたら、千秋ちゃんが歩きたいって。酔っちゃったからとか言ってたな。ウーロン茶だけど」
電話でそんな話をしてた。客の前では酔ったフリするんだって。あいつの匂いは酒臭くはなかった。
「その男。千秋を殺したんだけど」
鮨屋がひゅっと息を呑んだ。
「……え?……ころ——」
「まあいいや。いくら?」
「……は……8000円です……」
「ID使える?」
「……はい……」
レイナは支払い、レシートをしまいながら席を立った。
「鮨は旨かった。ごちそうさま」
「……あ……あの、千秋ちゃんは……」
「あとはニュースで見な」
「ゥニャー」
おれたちは店を出た。そのまま、しつこいホテルマンも無視して外へ。
アルファードが停まっていた。電動スライドドアが開く。奥にハルカ。
レイナがおれをアルファードに放り込んだ。
「ちょっと電話するから」
ドアが閉まる。
「こころちゃん……危ないから走っちゃだめですよ?轢かれちゃうかと思った〜」
ハルカがおれの頭に手を伸ばした。
「シャーッ!」
猫パンチ。触るな。
スライドドアが開いて、レイナが乗った。
「こころちゃん、ご機嫌ななめですねー」
「そお?飯食ったから眠いのかも。10時か。あーしも今夜は帰る」
「遥も帰ろっかなー。もう仕事する気ゼロです。よかったら、こころちゃんは遥が——」
「いや。あんた猫飼ったことないだろ?」
「玲奈さんはあるんですか?」
「今も2匹いるから。デカいのと普通のと」
「えー?!初めて聞きましたー」
「……そりゃ、言ってないからな」
アルファードは9条大橋を渡り、中の島通りを右折した。
「中の島駅のとこ左行って。サツドラあるから」
「白石中の島通りですね」
高橋はスムーズな運転でアルファードを走らせる。揺れが心地よく、眠気が増す。
「玲奈さーん。警察で、金子さんのこと言っちゃったんですけど……まずかったですかね?」
「言っちゃったんならしゃーない。あの人、別に悪さしてるわけじゃないからいいよ」
「後藤さん……あんなことする人だなんて……怖くて……明日から、お客さんみんな怖くなっちゃう」
「あんたはそんなタマじゃねーだろ。ぶりっ子は店だけにしとけ」
「あっははー……ですよねー」
車はサツドラに着いた。
「あーしんちすぐ近くだから。ここでいいよ。おつかれ」
高橋が運転席のスイッチでスライドドアを開ける。
「玲奈さん、お待ちします。マンションまでお送りします」
「いいってば。すぐ——」
「いいえ。ご存知ですよね?こういう事件……千秋さんで3人目かも」
「……え?」
驚いたのはハルカとおれだった。眠気が一気に覚めた。
レイナは黙って車を降りた。
おれをシートに置いて。




