2 レイナ。
「下がって!危険ですから下がって!」
制服警官がレイナの前に立ちはだかった。
「あなたはケガはないですか?知り合いなら見ない方が……」
レイナはすぐには動かなかった。呆然としているのではなく、警官の背後を見据えていた。おれを抱く胸は震えているが、手はしっかりとおれを捕まえていた。
「下がって」
警官が一歩踏み出した。レイナはくるっと向きを変え、早足でトンネル出口へ向かう。
「お知り合いなら、お話を聴かなければなりません」
「玲奈!」
店長が人たがりの前に立っている。
「お連れの方?」
「キャ……従業員です。私は店長です。何があったんですか?」
「みなさん、お話を聞かせてください。ここではなんですから、警察署で。あちらへ」
他にも数人の警官が、人だかりを規制し始めていた。三角コーンや黄色いテープを用意している。
おれはレイナに抱かれたまま、店長とともにアルファードのところへ戻った。
「店長!玲奈さん!……」
ハルカが、スライドドアが開いたままのアルファードの中から顔を出した。降りてこようとして警官に気づき、固まる。
「みなさんお仲間?ご同行願います。運転手さんも」
アルファードの後ろに、回転灯をつけた濃い灰色のワンボックスが停まった。警察の車。
おれたちは全員、そのワンボックスに乗せられた。アルファードをどうするのかは、知ったことではない。
10分後、おれたちは中央署に連れて来られた。誰も一言も喋らなかった。ハルカさえ。
「猫は……あなたの飼い猫ですか?」
私服の刑事が聞いた。
レイナは答えず、おれを強く抱きしめた。苦しかった。タバコ臭い。
「まあいいでしょう。これから、みなさんにお話を聴きます。猫を放さないで」
全員、それぞれ別の個室に案内された。取り調べ室か。
「少し待ってて」
私服刑事はレイナとおれと、女性警官1人を残して部屋を出て行った。ドアをしっかりと閉めて。
20分くらいか。ただ時間が過ぎていった。レイナはじっと座って、おれを抱きしめていた。レイナの胸は柔らかく、胸元が開いていて暖かくて、こんな時なのに眠くなった。もう震えは感じなかった。
目を閉じて思い出す。
トンネル。何が起きていたのか。
血。あいつの血なのは間違いない。匂いでわかった。
大量の血。あいつは影に覆われて、動かなかった。
血。黒い血。赤い色は見えない。
黒い血。
光。フラッシュライトに反射した、黒く汚れたナイフ。
ズッ、ズズッという音。すぐにはわからなかったが、ナイフの音だ。
刺す音。切り裂く音。何を。
『お前の飼い主死んだわ!』
あの声。あいつの声。どういうことか。
ふーっと、レイナが息を吐いた。見上げる。
仕事用の派手めなメイク。色黒、目の周りや唇はさらに濃く、キラキラしているが涙とかではなく、そういうメイク。面長、ストレートの黒髪、彫りが深い野生的な顔。
目が合った。
自分の瞳孔が丸く、大きくなるのを感じた。
レイナの、切れ長で大きな眼、茶色と黒い模様が混ざり合った、複雑な……虹彩
憤怒。悲痛。喪失。悪夢。ナイフ。痛い。悲しい。辛い。
誰が。酷い。誰だ。許さない。酷い。
千秋。なぜ。どうして。
『お前の飼い主死んだわ!』
あの時と同じ。
一度眼をしっかり閉じて、また開く。
レイナの瞳。虹彩
光。フラッシュライト。光。店の照明。火。小さな炎。ライターの火。グラス。ボトル。酒。琥珀色。
笑い声。千秋。笑い声。
たくさんの感情、イメージ、音や匂い、光が頭の中に溢れた。全てが同時に、一瞬に。
恐い。雄也。心配。
涙。血。赤い血。真っ赤な血。
笑顔。
千秋の笑顔。少年の笑顔。雄也。
イメージの洪水に、目を逸らした。耳が勝手に後ろに伏せた。
ガチャリとドアが開いて、刑事が戻ってきた。
「お待たせしました。あなたは——」
「千秋は?!死んだの?」
レイナの指がおれの腹に食い込んだ。痛い。身を捩る。
「千秋……女性の名前ですな。源氏名?」
指が緩んだ。逃げることもできたが、レイナの腕の中に留まる。
「被害者の女性は……亡くなりました。鋭利な刃物で刺された。苦しくはなかったと思います」
「そんなこと!おめーにわかるか!」
「すみません。どうか落ち着いて。詳しいことはまだこれからですし、私はお伝えできることは少ない。今はどうか質問に答えていただきたい。少しでも早く真相を突き止めるためです。いいですか?」
レイナが下を向き、おれを見た。目を合わせないよう気をつけて、頭をレイナの手に擦り付ける。
「……この子は、千秋の猫なんだ。子どもみたいに可愛がってた」
「あなた方は、なぜあそこに?」
「わかんねー。いや……千秋を探してた。連絡取れなかったから。ありえねーんだ」
「なるほど。千秋さんというのはあなたの同僚ですね?本名は?」
「千秋。本名だよ」
「……あなたの本名は?」
「関係ねーだろ」
「そうはいかない。これは殺人事件の捜査です。別にあなたのことを知りたいわけじゃない。捜査に必要なんです」
「……るみ。浅井るみ」
「おいくつですか?」
「32」
「お住まいは?」
「……中の島。おい。ほんとに関係あんのか?」
「決まりなんでね。まあ後で書いていただくということでいいでしょう。被害者の女性とは?」
「同僚だって言っただろ」
「お店の外では?あるでしょう。遊びに行ったこととか」
「だったらなんだよ!千秋は……」
レイナが言葉を詰まらせた。
「お友達だったんですね?すみません、私も仕事なので……あなたを疑ってるわけじゃない。どうかご協力ください。犯人が憎いですか?」
「ったりめーだろ!どこのどいつがこんな……なんで千秋が……」
「それを調べてます。あなた方は千秋さんを探していた。あの現場に行った理由は?」
「あそこに行ったわけじゃねー。通りがかっただけ。福鮨に行く途中」
「福鮨。そこに千秋さんがいるはずだった?」
「同伴。その店かどうかは知らねー。探してたっつったろ?」
「なぜ、福鮨に?ススキノからはちょっと離れてますね?」
レイナが刑事を睨んだ。
「よく知ってるじゃねーか。ハルカから聞いたんだろ」
刑事もレイナをじっと見た。少しだけ目尻が下がった。
「後藤。金子。この2つの名前のことを教えてくれますか?」
「……守秘義務。職業上の理由で言えません」
刑事が微笑み、ネクタイをいじった。馬の絵が描かれたネクタイ。
「厳密には貴女方のお仕事に守秘義務はありませんが、口の固い方のようだ。お客さんのことは口外しないと。貴女はこのお仕事は長いんですね」
レイナは答えない。
「……まあいいでしょう。お聞きしたいことはまだまだありますが、今夜はあなたも大変ショックを受けてらっしゃる。連絡先を書類に書いてくださったら、お帰りになって結構です」
レイナが席を立った。女性警官がドアを開ける。
「あー、もうひとつ!」
刑事がスッと立ち、レイナを制止した。
「千秋さんと最後に会ったのは?」
「昨日店で。あーしがアフター行く前」
「連絡は?電話とか、ライン」
「今日。店来ねーからラインしたけど未読」
「そのライン、見せていただけますか?」
「ちっ」
軽く舌打ちして、レイナはスマホを見せた。
「ありがとうございます。では、今夜はゆっくりお休みなさい」
レイナはもう一度、これみよがしに舌打ちした。
女性警官に付き添われて、部屋を出た。運転手がいた。
「高橋さん。もう終わったの?」
高橋は頷き、自販機を促した。
「何か……飲みますか?」
「ありがと。あーしが買う。コーヒーでいい?」
高橋に手渡された。ぎこちなく掴まれる。レイナは缶コーヒーを2本、ペットボトルのお茶を2本買った。それからおれを見た。
「おまえは……水だろ?」
また飲み物とおれが交換され、自販機の隣の冷水器の細い蛇口の前に持ち上げられた。言われてみれば喉がカラカラだ。流れ落ちる水を、舌でピチャピチャ飲んだ。冷たかった。
「私はアルファードを取りに行きますが、玲奈さんは……タクシー呼びますか?」
「玲奈さん……」
ハルカが、女性警官と一緒に出て来た。ボロボロの泣き顔。高橋がペットボトルを渡す。
「千秋ちゃんが……う、うう……」
「泣くな。おまえが泣いたってしょーがねー」
「……でも……そんな……」
「店長は?」
「まだ……かかるみたいです」
「店長は私がアルファードで迎えに来ます」
「玲奈さん……こころちゃんは?どうしたら……」
レイナがおれの両脇から手を入れて顔の高さまで持ち上げた。両前足を突き出し、身体がだらんと伸びた情けない格好でレイナと向き合う。耳を伏せて目を細めた。離してほしい。顔や胸が水浸しだ。毛繕いしたいし、まだ知りたいことが山ほどある。
「ヮアーゥ」
「おまえ、どうする?家に帰っても、もう……あーしんち来るか?」
「ンナァ」
嫌だ。
家に帰りたい。
あいつの家に。




