1 あいつ。
【2026年9月2日水曜日 札幌、ススキノ】
おれは猫だった。雑種の。シャム猫もどき。
一昨年の冬、街角の雪山の上に、ダンボール箱に入れて捨てられた。生後2週間で。
おれは人間だった。
一昨年の冬に死んだらしい。何歳?仕事は?家族は?思い出せない。なぜ死んだのかも思い出せない。ただ人間だったということ以外、思い出せない。
あれは夢じゃなかった。一昨年の冬。あいつが病院に連れて行ってくれなかったら、ダンボール箱の中で死んでいただろう。あいつは、飯も寝床も世話してくれた。要するにペットとして飼ってくれたわけだ。ありがたかったが、その代償としてタマを取られた。死んだ方がマシだと思ったが、どうにもならなかった。
それでも、あいつはおれの命を助けてくれた。タマのことはともかく、感謝している。美味いキャットフードを喰わせてくれたし、爪とぎやキャットタワーも買ってくれた。ふわふわの専用ハウスは趣味じゃなかったが、それが梱包されていた箱は気に入った。おもちゃもたくさん買ってきた。あの頃はあいつの手のひらに乗れるくらい小さくて、新しい住まいを探検中に引き出しの中に入って出られなくなった時は、本気で心配して探してくれた。
脱走し、近所のボス猫とケンカして帰った時は、また病院に連れて行かれた。あいつは泣いていた。大したケガじゃなかったし、おれよりボス猫の方がひどいぞと教えてやりたかったが、ケンカはもうやめとこうと誓った。
毎朝まだ眠いのに、腹減ったと騒ぐおれにニコニコしながら朝飯をくれた。夕飯も毎日決まった時間に出してくれたし、それを1日たりとも欠かすことはなかった。旅行も外泊も、帰省すらしなかった。
冷めたチーズフォンデュの鍋をひっくり返してチーズまみれになった時は怒られた。風呂に入れられてシャワーでチーズを洗い流しながら、あいつは笑ってた。
寒い日はくっついて、あいつの布団に潜り込んで寝た。暖かかった。暑い日も、寝てるあいつの頭のすぐ横で寝た。あいつと一緒に暮らしてる間、寒いと思ったことはなかった。今日まで。
今日はとても寒い。まだ夏なのに。
(猫!)
それは突然、頭の中に飛び込んできた。
(おまえの飼い主死んだわ。元気ィ?!)
(……あ?……なんだこれ?)
突然声と言葉が頭の中に溢れた。声はあいつのだ。
使役。監視。憑依。死。あいつ。死。死。死。
(じゃあ帰る。またね!)
(おいちょっと待——)
消えた。
なにがなんだかわからない。
ひとつだけ、はっきりわかったのは。
死。
それだけだ。
あいつが死んだ?なぜ?どこで?
今日あいつは、いつも通りに仕事に行った。夕方、店に。
ニュークラのキャスト、それがあいつの仕事だった。つまりホステスのことだ。ああいう仕事にはいろんな呼び方がある。
「ねーえー。聞いて?今日の客さー……」
あいつはおれに、よく話をした。仕事の話、恋愛の話、音楽や映画の話。おれはニャーとかンーとか、そんな返事しかできなかったが、あいつは喜んでた。あと電話。おれと話してる時と寝てる時以外は、ひたすら誰かと電話してた。電話で笑ったり泣いたり、怒ったり。いろんな話をしていた。
子猫の時、あいつの店に連れていかれたこともあった。ケージに入れられて、病院に行った帰りに。待機室で散々おもちゃにされた。あいつの同僚の女たち。黒服の男たち。
あそこに行けばなにかわかるかも知れない。
行くしかない。
なにがどうなってるのか知りたい。
あいつがどうして死んだのか。いや、ほんとに死んだのか?
それを確かめたい。
玄関は施錠されてる。開け方はわかるが、鍵の高さまでジャンプし、落ちる前に鍵を開けるのはさすがに難しい。それよりも窓だ。
以前脱走した時と同じ。
窓ガラスに映るおれは、一昨年の貧弱な子猫じゃない。
体格は小柄だが、あいつはとにかく良くしてくれた。栄養たっぷりの飯、暖かい寝床。たくさん遊んでくれたし、キャットタワーの登り降りもいいトレーニングになった。週一でしてくれたブラッシングはとても気持ちよかったし、ソファで爪研ぎしても怒らず、専用の爪研ぎもいつも新しいのを買ってきてくれた。
ベージュで顔と耳と手足、短く丸まった尻尾は濃い茶色、青い目。典型的なシャム猫だが目は丸く、耳がやたらとでかい。尻尾は短くてカギ状に曲がっている。黒っぽい毛のせいで、小さなポンポンみたいに丸く見える。医者には雑種だと言われた。だが雑種でも、毛はいつも艶々しているし、爪は常に鋭利な刃だ。あいつのおかげで。
窓の外は夜だが、ここはススキノの外れだ。ネオンが明るい。
まず内窓をガリガリやって開ける。
外窓は鍵がかかってるが、余裕で届く。ガリガリやって、半回転させるだけだ。それから窓自体もガリガリやって開ける。
網戸越しに入ってくる湿った空気と騒音。車の音。この辺は夜の方が賑やかだった。
網戸は、おれの視覚だと青い半紙みたいだ。ぼやけて、細い網目までは見えない。おれの目が悪いのか、猫はみんなそうなのかはわからない。とにかく、網戸も開ける。窓より軽いし、爪が引っかかるので楽勝だ。
ここは2階。向かいは駐車場。窓の桟から下を見下ろす。狭い舗装路。真下に路駐してる車。カップルがふらふら歩いている。通り過ぎ、暫く待って他に人影がないのを確かめると、おれは車の屋根に飛び降りた。
ボンという音。屋根からボンネットに降りたが、気配を感じて振り返る。車内で、男と女が驚きの表情で見ていた。一瞬固まり、それからダッシュで逃げた。
背後で車のドアの音がした。とりあえず隠れる。ゴミステーションの影に。
「あーくそ!屋根へこんだ!」
「なにあれネコちゃん?!かわい〜!捕まえて!」
ごめんだ。屋根を弁償する気もない。
「あのやろう、どこ行きやがった!」
じっとして、少し観察する。知らない声だ。
「ネコちゃ〜ん。チチチチチ……ねーなんか食べ物持ってない?」
「ポテチならある」
ポテチは好きだが、今はポテチなんかに釣られるものか。
それから気づいた。あの2階の窓に上がるのは無理だ。もう家に帰れない。
あいつがいないのに帰るのは無意味だが、寝床がなくなった。キャットタワーもおもちゃも全部。仕方ない。
つまり野良猫になったわけか。飯はどうすればいい?ネズミ?
……どこにいるのかわからない。見つければ捕まえることはできるだろう。だが……喰えるだろうか?生きたネズミを?
腹は減ってない。というかネズミのことを考えたら食欲がなくなった。
まあなんとかなるだろう……家を出る前に、もう一度あいつの匂いを嗅いでおけばよかった。
建物の影を歩き出す。じめじめしたアスファルト。雨が止んだばかりのようだ。
いつも窓から、あいつが歩いて行くのを見ていた。こっちだ。
匂い。
あいつの匂いはもちろんわかる。みずみずしいフローラルな香水。あいつの体臭。近くにいれば姿が見えなくてもどこにいるかわかる。あとおれが擦り付けたマークもある。だが……あいつはおしっこ振り撒きながら歩いたりはしないから、外で、匂いであいつを探すのは無理。
記憶。
南5西4。それがあいつの店の住所だ。電話で言ってたのを憶えてる。ここは南8西6。つまり北東に向かえばいい。簡単だ。方位は人間だった時より正確にわかる。感じる。
建物の隙間を抜けて、まず西4丁目まで来た。駅前通りには出ない。車が多いからだ。車のヘッドライトは危ないから直視しないよう気をつけないと。猫は避けてくれない車も多い。
車と人目を避けながら10分。5条通りまで来た。たくさんの人、車、ビル。どのビルかは覚えている。
自動ドア。酔客たちの足元を縫ってビルに入った。
「猫だ」
「この辺、けっこういるよ。いいから〜、早くお店行こ?」
「俺、猫好きなんだよね」
「じゃあじゃあ、猫耳コスしてあげよっか?」
酔っ払いたちがエレベーターを待っている。おれも一緒に待つ。
あいつの店は7階だ。
エレベーターが来た。乗り込む。
「この猫どこ行く気だ?」
「いいじゃん猫なんか。ほっとこ」
そう言いながら、女が3階のボタンを押した。
違う。7階だ。
「ナァ〜」
7を押せ。と言っても通じるはずもなかった。
3階で、2人は降りて行った。エレベーターの中に取り残される。自分で押すしかない。ボタンとの距離を測り、ジャンプした。
ピッっと音がしたが、明かりが点いたのは……4。失敗だ。エレベーターが動いて、すぐに4階で止まり、ドアが開く。誰もいない。
もう一度、7に狙いを定めて床を蹴ろうとした瞬間、ガクンとエレベーターが動きまた失敗した。下がって行く。1階……ふりだしだ。
ドアが開き、男達が数人、ドヤドヤと乗って来た。すぐにはおれに気づかない。
「何階だっけ?」
「8階です」
「お?猫だ!おまえは何階行くの?」
「ナァ〜」
「先輩。野良猫ですよ?紛れ込んだんじゃないですかね」
追い出されるのは嫌だ。ここは武器を使おう。
先輩、と呼ばれた男の足に頭を擦り付ける。
「お〜?この猫、ひとなつっこいな!」
抱き上げられる。
「このビルで飼われてるんすかね?」
先輩はおれを胸の高さまで抱き上げ、顎の下を撫でた。大人しく撫でられるフリをしながら、横目で7のボタンの位置を確認すると、後ろ足で蹴った。
「あーこいつ!」
エレベーターが止まる。7階だ。ドアが開く。先輩の胸を蹴り飛ばし、外へ飛び出した。
見覚えのある廊下。突き当たりに、あいつの店。ドアが開いた。
黒服が1人、スマホを耳にあてながら出てきた。知らない顔だ。ドアの横に立ち、何かイライラしている。
「……ちっ」
舌打ちして、店に戻っていく。後を追って、ドアの影に滑り込む。
「ダメです。やっぱり出ませんねー、千秋」
チアキ。あいつの名前。
「なんかあったんですかね。千秋が連絡無しなんて」
「んー。同伴の客、どんな奴だ?」
店長だ。前に来た時も店長だった。
「玲奈の枝だったはずです」
「玲奈に聞いてみるか」
あいつは店にいないのか。なぜ。
店内は閑散としていた。客は1組だけ。店長を追う。キャストの待機室。前にも来た。
タバコと、いろんな香水がごちゃ混ぜの悪臭。入り口の下から覗く。女の脚が数本。キャストたちがだらしなくソファに座っている。
「玲奈!ちょっと」
「なんだよ」
ケバい女たちのなかでもひときわ派手な女が、顔も上げず、タバコを咥えたまま返事した。
レイナ。あいつの友だちだ。家に来たこともある。
「千秋のことで。ちょっと来て」
レイナが立ち上がって待機室から出てきた。長身。元々背が高いが、ヒールのせいで店長よりもデカい。
「あーしもラインしてるけどさ。返事来ないよ」
店長は黙ってレイナを事務室に連れて行く。おれもついていく。
「あれ?ねこ——」
待機室から声がする。誰かが気づいたようだが無視する。ドタドタ、数人が立つ音。
いきなり、後ろから捕まった。抱き上げられる。
「こころちゃん!どうしたのー?こんなとこ来て」
こころ……おれの名前だ。あいつが付けた名前。命名の際には相談はされたが、残念ながらおれの意見は聞き入れられなかった。まだ子猫だった頃、おれの顔の焦茶部分の形がハート形に見えたらしい。
この女はハルカ。あいつの友だち。後ろ頭に頬を擦り付けてきた。きつい柑橘系の香水。やめてくれ。化粧がつく。
店長とレイナは事務室に入り、ドアを閉めた。ちぇっ。ハルカのせいだ。身をよじって逃げようとするが、脇を両手で掴まれて逃げられない。
「遥さん!お客様がいらっしゃるから……」
「はいはーい。怒られちゃったぁ。行こ?こころちゃん」
待機室に連れていかれる。嫌だ。臭い。
「えー!猫!かわいー!」
女たちに囲まれた。逃げ場がない。前もこうだった。終わった。このあとは散々いじくりまわされるのだ。
「どうちたの?ねこちゃん。ご主人様探しに来たんでちゅか?」
やめろ。キモい。おれはもう子猫じゃない。
「千秋ちゃん、どうしたのかな。猫が来たってことは、家には居ないってことだよね?」
「今日、同伴だって言ってた。まだ客と飯喰ってんじゃね」
「どんな客?玲奈さんの客の枝だっけ?」
「あたしもヘルプでついたことあるよ。つまんなそうなリーマン」
「あーだから玲奈さん呼ばれたのか。あの太客のー」
女たちが急に口を閉ざした。
レイナが無言で戻ってきた。
「……あの……玲奈さん?」
ハルカが、おれの頭をぐいぐい押すように擦りながら言った。ハルカは撫でているつもりなんだろうが、うざい。
「千秋ちゃん、なにかあったんですか?」
「ああ?知らねーよ」
「この子……来ちゃってますけど」
「あ?こ……こころ?」
レイナがおれを睨んだ。
切れ長の眼。茶色い瞳。目力が異様に強い。おれの瞳孔が、無意識に丸く広がった。
レイナは目を逸らし、タバコに火をつけた。ひと息、深く吸って紫煙を吐き出す。それから、まだ長いタバコを揉み消した。
「遥。その子と一緒に来い」
「え?」
レイナは低い声で、唸るように言った。
「千秋を探しに行く」
ハルカに抱かれて、ビルを出た。レイナは大股でビルの前に止まっていた黒いアルファードに近づく。ハルカは小走りで後を追っかけるが、背が低く動きも鈍い。
放せ。自分で歩ける。その方が早いのに。
アルファードのスライドドアが開き、レイナが乗り込んだ。ハルカも遅れて続く。後ろから店長も来て、助手席に乗ると運転手に言った。
「高橋さん。千秋の家、行ってください」
「千秋さん……送迎乗ったことないです。家、どこですか?」
「あーそうか。えっと……」
「南8西6です!Zeppの前、真っ直ぐ行ってください!」
ハルカはなんだかはしゃいでいる。アルファードが動き出した。
「……あの。お店、いいんですかー?遥はどーせヒマだからいいですけどぉ」
誰もハルカに返事をしない。
車は駅前通りを南にゆっくり進んだ。この時間は混んでいる。一条ごとに信号に引っかかる。
「玲奈。千秋の客のことは知らないんだな?」
「知らねーよ。枝なんかいちいち覚えてるわけねーだろ」
「遥、ついたことありまーす!すっごく真面目そうなお客さん。ニュークラ初めてだって言ってました。ゴトウさん……だったかな?東京の人。研修かなんかで来たって」
「若い?いくつくらい?」
「確か……30歳!わたしと10コ違いだーって言ってたから覚えてます!」
「30……研修で来て、同伴?ずいぶん力あるな。千秋にハマったのかな」
「千秋は色恋やらねーよ」
「わかってるが、客がどう思うかは関係ないからな。時々、ヤバい奴いるし」
ヤバい奴。ゴトウという名前には聞き覚えがない。あいつはよく電話で、レイナやハルカと恋愛話をしていたが、最近はあまり聞かなかった。男を家に連れて来たこともない。
「店長。千秋の家より、同伴先の店だろ。こ……猫がここにいるんだから、家には居ない」
「その猫は千秋の飼い猫なのか?」
「同伴先……たぶんお鮨とかですかね?」
ハルカの手は、まだおれの頭を擦っている。いい加減禿げそうだ。頭を振って噛みつく。甘噛みだが。ハンドクリームかなんかの、変な味がした。
レイナのスマホが振動した。
「福鮨だって」
「福鮨?」
「金子からライン。たぶんそこだって」
かねこ。この名前は聞いたことがある。レイナの太客。あいつが電話で話してた。
「ノースシティホテルの福鮨ですかね?」
運転手がウインカーをあげる。
「金子さんは上客だ。失礼なこと言ってないよね?」
「ああ?あーしの客だぞ?」
「いや……そうだよな。もちろん。わかってる」
店長は、レイナには弱いようだ。というかレイナが強い。スタッフも含めて、店で一番の古株。よく家に来たし、泊まっていったこともある。夜ふけに突然来て叩き起こされたこともあった。あいつはレイナのことを、姉のように慕っていた。
車は7条通りを左折し、東へ向かう。サイレンが聞こえる。救急車じゃなくパトカーだ。ススキノでは珍しくはないが……。
創成川通りに繋がる大きな通りとの交差点で一時停止。ここを右折するようだ。北の方からサイレンが聞こえる。近い。運転手が周囲を見回す。
「なんかあったんですかね」
運転手が前方を指さした。通りを渡った先に人だかり。店長が身を乗り出す。
「あそこは行き止まりだよな。マンションしかないはずだけど」
「なんか写真撮ってる人いますね……あれ?まさか千秋ちゃんと関係ないですよね……」
「千秋があんなとこ通るわけ——」
「いや、わからんぞ。行ってみよう」
運転手がウインカーを戻し、交差点を直進した。車内は空気が変わっていた。おれの毛が少しだけ逆立ち、ヒゲが勝手に前に向く。ざらざらした何かを感じる。
通りを渡ると、すぐに進めなくなった。店長が助手席のウインドウを開けた。
「すみません、なにかあったんですか?」
店長が近くの人に声をかけるが、返事よりも先におれの嗅覚がそれを捉えた。
強い、金属の匂い。車や機械じゃない。嗅いだことがない匂い。ざらざら感が一気に高まる。
店長がドアを開けた。
「痛いっ!」
ハルカの悲鳴。おれが太腿に爪を立てて蹴ったからだ。右後部座席のハルカの膝の上から、センターコンソールをすり抜け、店長の体を踏みつけて、おれは車外に飛び出した。
「こちゃんっ!」
レイナが叫んで、それからピーッ、ピーッという電子音、スライドドアが開く音。それらを全部置き去りにして、おれは人だかりの足元に突っ込んだ。
人だかりといっても数人。その先にトンネルがある。四角くて狭い、小さな歩行者トンネル。雨水の匂い。強い金属の匂い。初めて嗅ぐ、甘いミルクのような匂い。
そして、あいつの香水の匂い。
大きな水たまりを飛び越えてトンネルへ。
数メートル先。
奥から、眩しい光。直視してしまい、何も見えなくなって身体が固まる。瞳孔が細まる。
「やめろ!動くな!」
男の叫び声。
「刃物を捨てろ!」
光の中に、ぼんやりとした影。
座って、何かしている影。
血。
トンネルに血の匂いが充満している。
ズッ、ズズッという音。音がするたび、血の匂いが強くなる。
動けない。身体が反応しない。
背後に足音。そしてまた光。
「捨てろ!刃物を捨てろ!」
前後から、強力なフラッシュライト。
光の中の影がめちゃくちゃにぶれ、少しずつ灰色に。明暗。黒と灰色。白。反射する白。
男。座っている、スーツ、いやシャツの男。眼鏡。黒く汚れている。顔も、シャツも。白く反射しているのは……ナイフ。大きなナイフ。汚れたナイフ。
あいつはいない。
いないのに、匂いがする。あいつの匂い。おれの知ってる匂いが。
男の傍らに、横たわっている人間の体。
横顔。あいつ。違う。口が大き過ぎる。あいつじゃない。耳まで裂けた口。流れ落ちる血。
今、影は、大きな汚れたナイフで、腹になにかしている。
光の奥から、そして背後からおれを追い越して、数人の男が影に覆い被さっていく。光が乱れ飛ぶ。叫び声。どたどたと揉み合う音。
血の匂い。
あいつの匂い。
ミルクの匂い。
突然背後から胴を掴まれ、持ち上げられた。
「こちゃん……嘘……千秋?……」
レイナがおれを抱き上げた。
小刻みに、震えが伝わってきた。




