14 わかる。
【2026年9月12日土曜日】
「花恋が怪我?顔を?」
『そう言ってた。昨夜何があった?』
「……ちょっと待ってろ」
昼頃、店長からの電話でレイナが起きた。ベッドから出て、リビングにくる。
おれはダイニングテーブルの上に座り、ユウヤがピザトーストをかじるのを見ていた。チーズのいい匂い。前足を片方、ユウヤというかピザトーストの方にちょいちょい、くれ!とやってたら、いきなり後ろから抱き上げられ、寝室に連れて行かれた。レイナが後ろ手にドアを閉める。
「……それで?ケガってどんな?」
『聞いても言わないんだよ。しばらく出れないと言ってたからひどいのかもな。なんか喋りにくそうだったし……あー物理的にな?誰かいるとかではないと……昨夜何があったんだ』
スピーカーから店長の声が聞こえる。ユウヤには聞かせたくない、だがおれには聞かせたいのか?なぜ猫に。
「いや何もねえよ。あーしが殴ったってか?んなわけねーだろ」
『いやいやいや。そんなことは言ってない』
「明け方……4時くらいまで花恋ちで飲んでた。遥が潰れた。あーしは飲んでねー」
『……男は?』
「いねーよ。あーしら3人だけだ。ただの……女子会だ」
『そうか……わかった。悪かったな、朝から』
「もう昼だ。……あーしから電話してみるわ」
レイナは電話を切ってすぐにかけ直した。
『……姐さん゙。お゙はっ゙す……』
「店長から聞いた。どうした」
『い゙や゙……な゙ん゙でも゙な゙い゙っ゙す。ちょ゙っ゙とぶつけちゃ゙っ゙て。大丈夫っ゙すから゙』
「大丈夫な声じゃねーだろ。家にいるんだな?今から行く」
レイナは返事を待たずに電話を切ると、シャワーを浴び、鏡台に座ったが何もせずすぐに立ち、バタバタと着替え始める。
「……どうしたの?母さん」
「友だちが怪我した」
「ケガ?!交通事故?」
「違う。ユウヤは心配しなくていい。近くだからちょっと行ってくるけど、留守番してろ」
レイナはスウェット上下というラフな格好でリビングにいくと、リュックを床に出して透明ドームを開けた。おれも行くのか。リュックに飛び込む。
「こころも連れてくの?なんで?」
ちょっと困った顔をして、レイナは言った。
「……こころも、友だちだから。ユウヤは家に居ろ。インターホン鳴っても返事するな。電話するから、それまで絶対外に出るな。わかった?」
「え……うん。いっつもちゃんとやってるよ」
レイナがユウヤの髪をくしゃくしゃにした。
「えらいぞ」
ハスラーで、今朝歩いてきた道を戻る。公園は今は、小さい子どもを連れた母親の集会所になっている。迂回し、カレンのマンションの前に路駐した。
リュックのファスナーが開いた。レイナがおれを抱き上げ、肩に抱く。
「念のためだ」
そう言って、インターホンを鳴らした。
「あーしだ」
『姐さん゙……あ゙の゙……』
「あーしもスッピンだ。気にすんな」
カレンの顔は酷いことになっていた。
左目は青黒く腫れ、ほとんど開けられない。鼻が曲がり、口元が切れている。
「病院はどうした」
「い゙や゙……こん゙な゙ん゙で病院行っ゙たら゙チクられ゙る゙ん゙で」
「しゃーねえだろ?!そんな——」
「だめ゙っ゙す、病院は」
カレンは項垂れながら、上目使いにレイナを見つめた。レイナはカレンを座らせ、傷を見ながら低い声で呻いた。
「……誰にやられた……殴られた。男か?」
「……その゙……」
カレンは目を逸らした。
「……遥っす」
ハルカがカレンを……まさか。ハルカもか。
「……いつ?」
「……姐さん゙が帰っ゙て……遥は爆睡してて……あ゙たしも゙雑魚寝してま゙した……ここで。で……い゙きな゙り゙ぶん゙殴ら゙れ゙て。起きたら゙、遥が……上に゙乗っ゙かっ゙てて……何発も゙……すごい゙力で……な゙に゙がな゙ん゙だか、わ゙かん゙な゙くて……」
嗚咽。震えて、涙が溢れた。
「……そん゙で……首絞め゙ら゙れ゙て……殺され゙る゙ん゙だな゙っ゙て……そしたら゙、遥が。笑っ゙て。くっくって」
言葉を詰まらせた。深く息を吸う。
「今は殺さな゙い゙っ゙て……それ゙から゙、出てい゙きま゙した。でも゙、あ゙れ゙……」
「遥じゃなかった?そうなんだな?」
「姐さん゙……姐さん゙の゙時と、お゙ん゙な゙じっす……目が。緑でじだ」
レイナがスマホを出して操作する。
「姐さん゙、サツに゙は——」
カレンに頷きながら、電話をかける。
『もしもし』
男の声。
「ローズガーデンの玲奈です。センセ、今大丈夫?」
『あー……少々お待ちくださいますかな?』
小走りの足音。重厚そうなドアの開閉音。ギィッという音。
『——玲奈!いやー玲奈が電話くれるなんて!嬉しいなあ!』
「センセ。あーしの言うことなんでも聞くって言ってたよね?店の子がちょっとケガしちゃって。今から病院連れてくからよろしく」
「姐さん゙……すみ゙ま゙せん゙」
「いいから行くぞ。準備しろ。たぶん入院だ」
カレンは涙を拭いながら頷き、大きなヴィトンのバッグを広げて、そこで固まった。バッグの中をじっと見ている。おれはバッグに近づき、匂いを嗅いだ。バッグの中を覗く。空っぽだ。顔を上げる。
「ンナァン」
レイナの口角がほんの少し上がった。
「あ゙の゙……姐さん゙。あ゙たし……隠してたことがあ゙る゙っ゙す……」
「え?」
「……ナ゙イ゙フ……あ゙の゙ナ゙イ゙フ。実はあ゙たし……本当に゙隠してて」
「……は?」
「あ゙、店で姐さん゙が……落とした後っ゙す。あ゙たし……な゙ん゙でかわ゙かん゙な゙い゙ん゙すけど……拾っ゙ちゃ゙っ゙たん゙すよ゙……な゙ん゙でだろ゙……それ゙を゙、この゙バッ゙グに゙隠したん゙す」
レイナがおれを見た。バッグの中に収まり、顔だけ出していたおれを。目が笑った。なんだ?ここはちょうどいい狭さで安心するんだが?
「花恋……今、そのナイフはどこだ」
「……はい゙、それ゙が……無くな゙っ゙たん゙すよ゙……その゙日の゙うちに゙。病院っ゙す。送迎車。あ゙たし、姐さん゙と車降り゙た時に゙これ゙置い゙てっ゙たん゙す。で、家に゙帰っ゙て来て見たら゙な゙かっ゙た。たぶん゙高橋さん゙が——」
「わかった、そこまで。とにかく今は病院だ。ナイフのことは……あーしに任せろ」
カレンはレイナの目を見て頷いた。
「はい゙……あ゙と……遥の゙ことな゙ん゙すけど……誰に゙も゙言わ゙な゙い゙でほしい゙っ゙す」
「言わねーよ」
「あ゙の゙……べ、別に゙、遥を゙庇うとかじゃ゙な゙い゙っ゙す!あ゙ん゙な゙や゙つに゙ボコボコに゙され゙たな゙ん゙て、恥っ゙すから゙!」
レイナはタバコを振り出して微笑んだ。
「わかってるって」
警察への通報は行われなかったようだ。
カレンを病院に残し、おれたちはハスラーで中の島へ戻った。
レイナは包帯ぐるぐるの右手をハンドルに添え、左手のみで慎重に運転していた。
「こちゃん。おまえ、高橋さんと一緒に車に居たよな」
レイナが突然喋り出した。運転中だから前を見てるけど、おれに話しかけているのは間違いない。
「なにやってたんだよ、高橋さんも憑依されたんだろ?狐野郎に……使えねー相棒だ」
「ンナア?」
そんなこと言われても。あの時おれはリュックの中だったし。
「……狐憑き……高橋さんも、後藤も、花恋の客も、その前の犯人も、全部あの狐野郎だ。あーしも……そして遥も」
「ァオン」
タクシー運転手もだ。あの時おまえはタバコ吸いに行ってたんだが?
「みんな……何も覚えてない。自分が何をしたのか、覚えてねーんだ。わかるか?それが……どういうことか」
「……ワアン」
わかる。自分が自分でなくなる。何か別のものになる。おれも、猫になる前の人生を何も覚えていない。
人間だった時。おそらく2年前まで、おれはなんだったのか。
人間としての記憶はある。日本語がわかるし、大きな文字なら読める。目で見るものが何で、どういうものなのかもわかる。札幌の地理にもかなり詳しい。
それくらいだ。おれが覚えているのは。家族はいたのか、何年生きていたのかもわからない。
おれがなんだったのか、なにをしていたのかを推測したりはできるかも知れない。だが、それが当たってるかどうかは知る術はない。
あのデカ目女に聞けばわかるのか?猫の神様に、人間のことがわかるのか。
おれは人間だったが、今はなんなのか。
ただの猫なのか。
それすら、わからない。
「こちゃん……こちゃんが喋れればいいのになー。これじゃあ、あーしは猫に愚痴る寂しい女みたいじゃねーか」
そう言って、レイナはまた微笑んだ。
おれが喋ることができれば。
レイナに言いたいことが山ほどある。文句ばっかりじゃない。なのに、それを伝える手段がない。どうすればいいのか。
今のおれがなんなのかはどうでもいい。
チアキを殺したやつが……狐野郎がすぐ近くまで来てる。おれたちをつけ狙ってる。
狐野郎。
狐野郎が憎い。チアキを傷つけ、引き裂いて殺した狐野郎。
ぶち殺したい。チアキが感じた恐怖を、苦しみを、狐野郎に刻みつけてやりたい。
チアキの未来、幸せ、全部奪った狐野郎。
憎い。殺したい。傷つけたい。苦しめ——
いや、待て。
皮膚を切り、肉を裂いた牙。
肌に喰い込んだ鉤爪。
血。口の中に溢れた血。
レイナの血、肌、皮膚、肉だ。
だがあの時は、狐野郎だった。
レイナは大ケガして今も包帯ぐるぐる。
狐野郎は……タクシーの時、最後におれをバカにするように天井で振られた人差し指。右手だった。手首には狐の毛が生え揃い、傷などなかった。それでも。
『きゃぁァアアーッッ!!』
あの悲鳴はレイナの声だったけど、狐野郎があげた悲鳴だ。
おれには出来た。
狐野郎を傷つけ、苦しめ、悲鳴をあげさせることが。
もう一度出来るはずだ。
レイナにも、それを伝えることが出来れば。
ハスラーが駐車場に入り、おれはリュックの中ではなくレイナの肩に抱かれてマンションに入った。レイナのマンション。広いエントランス。大きなソファ。
そこに、ハルカが座っていた。




