13 チアキ。
【2026年9月12日土曜日未明】
狐憑き。
その言葉が、ずっと頭の中に居座っていた。あの金色の獣、あの緑の炎と一緒に。
「おつかれさまー」「ラーメンラーメン!」
「アフターめんどくせー」「おつかれー」
タバコと化粧の匂いが染みついた古い待機室で、おれはレイナを待っていた。破けた丸椅子に置かれたリュックの中で。
「玲奈さぁん。手、だいじょぶですかぁ?」
「姐さん!こころちゃんはあたしが!」
「おまえらうざい。大丈夫だから」
「送迎乗る人ー。確認します」
「店長ー。遥たちは今日はパスでーす!」
「あ?遥と、花恋?……え、玲奈もか?」
「あーしは——」
「姐さん!さっき約束したじゃないっすか!」
レイナはフッと煙を吐いた。
「いやあれはアフターずらすため——」
「玲奈さぁん!遥、ずっと心配してたんですぅ。だいじょぶかなって……泣きそう」
「へたな嘘泣きは——」
「そうだよな?玲奈は送迎で帰れ。手、痛むだろ?大丈夫か?」
「大丈夫っすか?姐さん!タバコはやめといた方が——」
「——うるせえ!」
レイナはがっくり首を垂れ、深くため息をついてタバコを揉み消した。
「大丈夫か大丈夫かって、それしか言えねーのかよ……わかった、行くって」
おれ入りリュックを引っ掴み、大股で店を出る。カレンと、遅れて小走りのハルカが追っかけてきた。ニコニコしながら。
3人とおれはタクシーでススキノを離れた。
「——あたしんち、狭いけどいいっすか?いいっすね!」
「どっか、コンビニ寄りましょー!女子会女子会!」
レイナはまたため息。
「すぐ帰るからな」
「もー、玲奈さん?ツンデレー!」
「ツンデレじゃねえ!」
タクシーは9条大橋を渡って平岸街道に入った。運転手が助手席のカレンに聞いた。
「コンビニ寄りますか?この辺、ありそうでないんですよねー」
「あーもう2時っすね。セイコマ閉まってるっすね。白石中の島通りまで出てもらえますか?ファミマあるんで」
「アークスの向かいのですね?承知しました」
白石中の島通りの交差点。右に曲がればレイナの家はすぐなのに、タクシーは左折する。交通量は少なく、すぐにコンビニに着いた。
「ファミチキ食べたーい!」
「姐さん、何買ってきますか!酒っすか!ビールっすか!」
「あーしも行く。酒はいらねえ」
「あ、そうでした。ケガに触るっすね」
レイナはおれをリアシートに置いてタクシーを降りた。外でタバコに火をつける。
いいけど。早く帰りたい。眠——
——コクンとなって、目を開けた。レイナがいない。コンビニに入ったのか。この位置からだと店内は見えない。
運転手があくびをした。
突然、眩しい光。ヘッドライト——違う。金色の——
おれはリュックの中で飛び退った。毛が逆立つ。光が消える。
運転手が振り返った。
緑色の炎。
ミルクの匂い。
「猫。然るべき檻よの」
また光。運転手が一瞬、狐になった。それはすぐに浮き上がり、タクシーの屋根に消えていく。頭、体……最後に、右手だけ天井に残り、人差し指を立てて左右に振りながら消えていった。
運転手はまだおれを見ていたが、その眼にはもう炎はなく虚ろだ。
それから顔が困惑に歪み、首を傾げながら前を向いた。
狐。
狐憑き。
タクシーの自動ドアが開いた。運転手ではなく、外からレイナが開けて、シートに座った。
ミルクの匂いは消え、代わりにレイナの匂い。メンソールのタバコと香水。無性に、頭を擦り付けたかった。だができない。
透明ドームの中だから。
「——これ!見ましたぁ?ブンシュン!」
「あーネット記事?まだ見てない。姐さんは?」
「……。興味ねえ」
「——ススキノ口裂き魔。犯人は覚えていないと供述。殺人と違法ドラッグの関係は。先月末、札幌——」
「……読まなくていい」
「——風俗店の個室で、女性従業員が惨殺され、居合わせた客の男が逮捕された——」
「……遥——」
「——その2日後、今度はラブホテルでバラバラにされた女性の遺体が発見された。いずれも犯人は逮捕されたが——」
「はーるかー!姐さんが——」
「——ラブホテルの事件では、凶器は見つかっていない。そして今月2日——」
おれはレイナの膝の上でウトウトしていたが、そこから先は聞きたくなかった。起きて部屋を見回す。ごちゃごちゃと乱雑でカラーボックスがいくつもあり、写真立てや卓上鏡はゴテゴテに飾り付けられ、低いガラステーブルの下にひかれたラグは豹柄。カラーボックスのひとつには、ラメがギラギラの半ヘルメットまであった。
変な匂いがする。低いカラーボックスの上に何かある。飛び乗った。
「あーっ!」
カレンが叫んだ。
そこにあったのは、火だった。火のついたアロマキャンドル。びっくりして向きを変えたら、後ろ足に火がついた。
「こちゃんッ!」
焦って飛び降りたと思ったらレイナに捕まった。レイナは素早い動きでおれを抱えてキッチンに走り、シンクでおれの足をズブ濡れにした。
火傷はしていなかった。ちょっと毛が焦げたけど。
「……ばか猫!」
カレンの部屋で女たちは元気に喋り続け、おれはリュックの中で寝落ちした。夢は見なかった。
「遥ー。酒は?」
「酎ハイなくなった。買って来て、花恋」
「……いや呼び捨て?遥ハタチだよね?あたし26なんだけど」
「あら?ローズでは遥の方が先輩ですことよ?ねえ、玲奈さん!」
「どうでもいい……」
「いいえ!遥、初めての後輩ちゃんなんです。花恋?遥さんとお呼び!」
「遥、飲み過ぎだ……帰るぞ」
「えー?まだいいじゃないですかー。玲奈しゃーん!えへへー。遥、玲奈しゃんだいしゅきー!」
「あーあ。相当酔ってるっすね……遥、水飲め」
「んー……寝る。おやしゅみなしゃい……」
「……え?ちょっとちょっと!」
「よし。あとはよろしく」
「ええ?いや、姐さん——」
レイナはカレンを振り切り、おれ入りリュックを左肩だけ背負って部屋を出た。
東の地平線が明るくなり始めている。空はまだ濃い青だった。少し寒い。
来た時は気づかなかったが、カレンのマンションの向かいは公園だった。街灯と公園内の常夜灯で、割と明るい。広大とかではないが高い松の木にぐるりと囲まれて、ちょっとした丘のような起伏もある、ミニチュアの自然公園。ブランコなどの遊具もある。
レイナは、その公園を斜めに突っ切り始めた。早足で。公園内の歩道は舗装されていて、丘を迂回してヒールの音が響く。西側はテニスコートで、その傍をカツカツ歩いて行く。
すぐに反対側の松の並木、その向こうは道路と住宅街。
視界の隅に動くものがあった。匂いも。
猫だ。小柄の黒っぽい猫が道路から松の木の間を抜けて芝の上を走って行き、ベンチの下に入った。見ると、ベンチは他にいくつかあり、そこに点々と猫がいた。見える限りで5、6匹。常夜灯の下でばらばらに座って、それぞれ好き勝手な方を向いている。ハチワレ、雉が3匹、白いブチ、それと黒猫。毛繕いしていたり、ただ座っていたりしている。この辺の猫たちの集会場なのか。
レイナは猫には気づかず、松の木の間から道路に出た。
その時、また光が来た。
最初は星かと思った。丘の上に、小さな光る点。それがどんどん大きくなって行く。流れ星とかではないのはすぐにわかった。
あの光。ついさっきタクシーで見た眩しい光。毛が逆立つ。
とりあえず周りに人はいない。さっきの猫たちのベンチは松の木でもう見えない。レイナは歩き続けている。
だが立ち止まった。そして振り向いた。
「……なにこれ……」
レイナが振り向いたのでおれは影の中に入った。レイナにも光が見えているのか?
「フゥアーーァゥ……」
見せろ。光を見せろ。
レイナはゆっくりと公園に戻り始めた。
「ィウーアッ!」
行くな!狐、狐がいる、狐の化け物が!
松の木の陰で、レイナは止まった。
「……こちゃん?どうした?」
リュックが下ろされ、歩道に置かれる。光に横向きに。
透明ドームとリュックの横のスリットから光が差し込む。スリットか。ちょうどいい。隙間からなら光が弱まる。
丘のてっぺんが光っていた。その真ん中に、ぼやけた人影。シルエット。
カチャッと音がして、透明ドームが開いた。レイナの左手がおれの腹を掬い上げてリュックから出すと、そのまま光の方に向けられた。
眩しくない。真正面からじゃないからか。車のヘッドライトと同じか。
顔が見える。
巨大な目。
金色で、真ん丸な黒い瞳。
X字の星。金色の——
XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX
金色のXが飛び散って広がった。
そこに……映像が映し出される。
灰色になった。一面、灰色。ざらざらしている。
白い線。途切れ途切れの白線——道路か?アスファルトの道路?
急にその道路が下の方に消えて——
城?城みたいな建物。ネオンがついている。記号みたいな何か。ぼやけてはっきりとは見えない。
車が数台。白黒のツートン。パトカーだ。屋根に回転灯。光って回転している。警官が数人。白いワゴン。回転灯。
映像が変わった。
さっきのとは別の四角い建物。男。若い男が出てきた。落ち着きなく周りを見回しながら。怯えているようだ。手に何か——
ギラリと反射した。ナイフだ。バカでかいナイフ。
あのナイフに似てる。
駆け出した。映像が揺れる。男を追っている。
角で建物にへばりつくように止まり、手を見た。手に持ったナイフを。
ビクッと跳ねるように、男がナイフを投げ捨てた。映像は男ではなくナイフの方へ——
横から何かが飛び出した。
黄色、いや茶色——狐。
小型のキタキツネ。あの狐だ。
トンネルにいたキタキツネ。
ナイフに近づき、匂いを嗅いで咥えた。走り去る。
映像が変わり——
「——千秋ッ!」
レイナが叫んだ。
チアキ。
生きて、動いて、歩いてる。
白いブラウス。男と並んで、夜道を歩いてる。
チアキが何かを指差した。映像がそちらに向いた。
狐だ。キタキツネ。ナイフは咥えてないが、同じやつ。
チアキが歩き出して——
「ィウアァッ!」
行くな!
だめだ、だめだ行くな!
チアキが止まった。振り返った。おれの声が聞こえたのか?行っちゃだめだ——
いや、違う。
振り返ったチアキが見ているのは、あの男。黒髪、スーツ、顔は見えない。
男はチアキから少し離れて、ぼーっと突っ立っている……待て。そこは——
トンネルから駆け出して鮨屋まで走ったあの日。ローソンの向かい。
ミルクの匂い。ミルクの匂いが消えた場所。
光。
金色。
金色の獣。
あの狐。狐の化け物。
レイナに重なったあの化け物が、スーツの男に。
光が消え、化け物の姿も消えた。
男が歩き出す。
チアキに向かって。
無意識に、おれはレイナの胸を蹴った。チアキのところに行くために。
脇腹が強く押さえつけられた。レイナの左手で。
身を捩る。放せ。行かせろ!
暴れる。チアキ。チアキが殺される!
化け物に、狐の化け物に殺される!
行かせろ!放せ!行かせてくれ!
レイナの右手が、包帯ぐるぐるの右手がおれの眼前に。まるで目隠しするように。
暴れる。レイナの腕の中で。
痛いくらい強く、レイナがおれを抱き締める。
苦しい。動けない。
レイナがしゃがみ込んだ。
腕だけでなく、顎でおれを押さえ込む。チアキがよくやってたみたいに。顔は丘の方に向けて、全身でおれを包むように。
「……こちゃん……おまえ……」
しばらく、そのまま動けなかった。
「痛ッ!」
レイナが右手を放した。おれの頭が手首を押してしまった。
光がない。X字のスクリーンもない。
目も、シルエットも何もない。
チアキもいない。
丘。ベンチ。
そして猫たち。
ばらばらに、あちこちに向かって歩き去って行く猫たち。ハチワレが一瞬こちらを見たが、そのままどこかへ行ってしまった。
「……痛えな……」
レイナは顔を顰めて包帯ぐるぐるの手首を見て、それからおれを睨んだ。おれも睨み返す。街灯が逆光になって瞳は見えない。だが、目で何か光った。
涙か?
フッと、レイナが笑った。
「こちゃん……ありがと」
「ンナァ?」
「とぼけんな。もう全部わかった」
右手の人差し指が、おれの頬を撫でた。
「ペットか」
ペット?そりゃそうかもしれないが、なんで今そんなことを笑いながら言う?さっぱりわからない。
レイナの指の関節が、おれの横面をくりくりした。こんな時だが少し気持ち良くなって、無意識に喉がなった。
「……ゴロロロ……ゴロロロロロ……」
レイナは頷いた。
「——許さねえ……狐野郎」




