12 きつね。
震えが、止まらない。
寒いからではなく、恐い。
血だらけだ。血の味がする。
牙に、爪に、肉の感触が残っている。
音が恐い。
サイレンの音。怒鳴り声。走り回る人間たちの足音。
逃げたい。隠れたい。ここからいなくなりたい。誰にも見つかりたくない——
それができる場所はひとつしか思いつかない。
おれはそこに隠れて、震えていた。
——足音。
少し引き摺るような音。
震えが止まる。
近づいてくる。
影が光を遮った。
ふぅっと、息を吐く音。
「……汚ねー顔……あーしの血か。後で拭いてやる」
レイナが、透明ドームを閉めた。
「帰るぞ」
高橋のアルファードは、中の島ではなく北東に向かった。北1条から北光線。
「勤医協病院ですか。遠いですね」
「高橋さん、ごめんね。救急車の人が、この時間だとそこか宮の沢しかやってないって」
「いいえ、私は全然構いません。玲奈さんが……」
「あーしは大丈夫!ちょっと飼い猫に噛まれただけだし?痛み止め効いてるし。全然へっちゃら。ちゃ〜ら〜へっちゃら〜!ね?店長?」
「姐さん……無理してんのバレバレっすよ」
「は?無理じゃねーし」
「営業モードだよな?玲奈。変な気を使うな」
「おまえら。あーしがケガした弱みにつけこみやがって!治ったら覚えてろよ?」
「さすが姐さん」「さすが玲奈」
「高橋さん?今、あんたまで笑ったよね?!」
「……いや、すみません。つい」
「もう。てかなんでおまえらついてくんだよ。店は!」
「いやいや。客は全部帰っちゃったし、今夜はもう閉めるから。心配するな。しばらく休め。手が治った頃には、ローズも復活してるから」
「そっすよー。店はあたしが仕切るっす!姐さんがシャバに戻ったらもち……あれ?ローズってローズガーデンっすか?え?あたしはどうなるんすか?!」
「セレナだっけ?戻れば?」
「そんな!冷たくないっすかそれ?あたしを見捨てるんすか?!」
「あの刑事……どうなってるんだ?なんか腑抜けみたいになって」
「そうそう、ぼけーっとして……っていや!あたしの話は?」
人間たちは楽しそうだ。レイナも。なんで笑えるのか。カレンも、さっきはあんなに脅えていたのに、おれを膝に乗せたレイナの隣でゲラゲラ笑ってる。
けだものがリュックの中だから、透明ドームが閉まってるから、もう安心してるのか。確かにおれはここに閉じ込められてるし、出れるとしても出る気はない。いやそもそも、レイナに……人間に噛みつくつもりなんてこれっぽっちもなかった。おれがあんな酷いことをするなんて、想像したこともなかった。
だが、あの金色の獣は違う。
狐の化け物。人殺しの化け物。
千秋を……殺した化け物。
あれは……レイナに——
——なった?操った、と言うのか?うまく言葉にできない。猫だから?でもおれは見た。
緑の炎。レイナの眼。
顔も体も声もレイナだった。だがあの眼、あの緑の炎。そしてミルクの匂い。
飛びついてしがみついた時、噛みついた時、レイナからもあのミルクの匂いがした。間違いようがないほど強烈に。
ミルクの匂い。
デカいナイフ。
トンネルの時と同じ。
チアキが殺された時と同じ。
恐い。今はレイナ、元に戻ったレイナの膝の上だから震えはしない。でも、恐い。ものすごく恐い。
ミルク。ナイフ。
狐。
狐もトンネルと同じ。
いや、トンネルにいたのは小さいキタキツネだったけど。
『——おまえは——』
レイナの声だった。
緑の炎の眼で、レイナが叫んだ。
『——使役獣か!』
おれに言ったのか?シエキジュウってなんだ?使役獣……なんで漢字までわかる?
(猫!)
チアキの声だった。
(おまえの飼い主死んだわ!元気ィ?!)
小さい"ィ"や、?や!も聞こえた。チアキの声で。
頭の中に。
猫だから?
「こいつは……連れてけないか」
アルファードがバカでかいビルの駐車場に入ると、レイナがつぶやいた。
「人の病院っすからねー。猫は無理っす。わかんねーけど」
「私が見てますから大丈夫です。車から離れませんから」
「高橋さん。どのくらいかかるか——」
「待つのも仕事ですので。お気遣いなく」
「ありがとう。じゃあ」
レイナは車を降りた。
おれを車内に残して。
店長とカレンもレイナについていった。カレンはヴィトンかなんかのデカいバッグをシートに置いて。リュックは左向きに助手席後ろのシートに置かれたので、透明ドームの窓枠、アルファードのウインドウの枠が重なって、ビルの壁しか見えない。
レイナの膝から下ろされた瞬間から、急に寒気を感じた。微かに、震えが戻ってくる。口の中には、まだ血の味が残っている。
3人の足音がビルの中に消えると、高橋もエンジンを止めて車から降りたようだ。
ピッ、カタンと音がして、車がロックされた。それから足音。遠ざかって行く。
高橋がどこに行くのか知らないが、とても静かになった。
暗くはない。ビルの明かり、駐車場の街灯。時々、通りかかる車のヘッドライトで明るくなる。
まだチアキの家に居た時、チアキが仕事に出かけた後も静かだった。こんなふうに——
足音。高橋が戻ってきた。背後で、ピッピーッと右の電動スライドドアが開く音。ゴソゴソと何かしている。
……タバコの匂い。レイナのメンソールよりだいぶキツい。
シュッ、シュッという音がして、別の匂いが充満した。ファブリーズか。
高橋はスライドドアを閉め、運転席に戻った。また別の車のヘッドライトがアルファードを照らした。
それからはまた静かになった。
高橋が運転席に座っているのはわかるが、左腕しか見えない。スマホを触っている。時々咳払いをしたり、短く唸ったり。それ以外はひと言も喋らない。静かなのはありがたかった。
眠くはなかった。狐の化け物がまだ近くにいるような気がして目が冴える。高橋のスマホの明かりがチラチラするのを、じっと見ていた。
どのくらいたったか。
やっと、少し眠くなって——
ピー、ガタッ、ピッピッピッ……。
目の前の電動スライドドアが開いた。
「姐さん!どうぞ!」
カレンの大声。
レイナの右手は包帯でぐるぐる巻きになってた。骨まで折ってしまったのか?
もう今夜は眠れそうにない。
狐の化け物のせいじゃない。
【9月11日金曜日】
「猫ちゃんには罪はないのよぉ〜」
京子ママが、猫用カツオハンバーグを白い皿で出してくれた。カツオブシがトッピングされている。おれはカウンターに前足をかけ、がっついた。
「玲奈ちゃんには前に話したことあったわよねぇ。わたしも昔、やられたのよ?ガブッと」
ペシペシと音がしてハンバーグから顔を上げると、京子ママが自分の筋ばった首を叩いていた。レイナは黒い鉄板の上のナポリタンを左手で器用にフォークに巻いて、口に運んだ。
「ええーっ!く、首筋っすか!それもうホラーっすよ!」
カレンが大袈裟に驚いた。
今日はレイナ仕事復帰の初日だった。
あの日は病院から帰宅後、夜中に手首が倍ぐらいの太さまで腫れあがり、熱も出て、ユウヤが泣きながら救急車呼ぶと言い張って大騒ぎになった。その間、おれはリュックの中でうずくまっていた。ファスナーは開いていたけど。
あれから丸3日。腫れも熱もすぐに引き、治療のための通院も昨日で終わったものの、まだ右手では家事も運転もできない。それなのに、今日は店に出ると言う。ローズガーデン復活の日だからだ、と。
「ムサシでしたっけ」
「そうそう!ムサちゃん。近所のボス猫でね?まあケンカばかりして傷の絶えない子で。自分だけじゃなくってママもいっつも傷だらけ!おっかない猫ちゃんだった」
「おっかない猫ちゃんっすか」
「そうなのよぉ!あのね、リビングで、テーブルでお食事してて、椅子に座ってるでしょ?普通、足はテーブルの下じゃない?」
「え?……そうっすね」
「ところが!ムサちゃんがいると、足を下ろせなくって、椅子の上に抱えてなきゃなんないの!テーブルの下だと、ムサちゃんが飛びかかってくるから!」
「……それは……超ヤバいっすね。何の罰ゲームっすか」
「ムサちゃんはね?じゃれてるだけなのよぉ。でもいきなりくるからびっくりするじゃない?そしたらあの子もびっくりして、本気でガブッ!」
「本気で……首の時もっすか?」
カレンは自分の首をさすりながら、身を乗り出して唾を呑んだ。箸の先にさっきからずっと刺さりっぱなしの煮込みハンバーグがちょこちょこ動き、飛びつきたくなった。
「ほほほほほ!首の時は飛びかかってきたんじゃないの。こう、肩に抱っこするでしょ?ムサちゃんも肩抱っこは好きだったんだけど、その時はたまたま……ちょっと、角度がお気に召さなかったとか、なんかかしらね?突然わたしの首に噛みついた」
「いやこっわ!怖過ぎますって!」
「まあね。さすがのわたしも死ぬかと思って泣いちゃったけど、我慢してじっとしてたら放してくれたわ!優しい子なのぉ!」
「優しい子……奥が深いっすね、猫道って……」
「花恋ちゃんは?猫ちゃん嫌い?」
「……いや……カワイイし……大好きなつもりだったんすけど……その……」
チラリと横目でおれを見た。
「怖くなっちゃった?大丈夫よぉ!噛みつかれてもじっとしてれば、すぐ放してくれるからぁ!」
「そ……そっすか……噛みつかれても、じっと……」
カレンがレイナの、包帯ぐるぐるの右手首を見た。
「……姐さん……あたし、姐さんは猫道極めてらっしゃると思ってたんすが……」
京子ママに視線を戻す。
「……上には上がいるんすね……」
「そりゃそうよ!わたしの方が年寄りなんだからぁ!」
「いやいや!そういう意味じゃ……」
「いいのよぉ。玲奈ちゃんなんてまだまだ小娘よね?」
京子ママがレイナに、長いまつ毛のバサっという音が聞こえそうなウインクをした。
「小娘っすか!ウケる!ねえ、姐さ……あれ?」
レイナの顔が険しくなっている。
「……え?姐さん?……あ!痛いっすか!手首!大丈夫っすか!!」
「花恋……」
「なんすか!救急車呼びますか!」
「……少し黙れ。いや……あーしの質問に答えろ」
「え?」
「あの時……あーしは暴れたのか?」
「え……いや、暴れたっつーか……」
「こいつに噛まれた時、あーしは何をした?」
「……いや……そ、そりゃ、誰だってパニクりますって!すげー血ィ出たし」
「血。それも変だ。医者が言ってた。大量出血したおかげで、菌が洗い流されたって」
「良かったじゃない。そうよねー、猫ちゃんってお口の中に——」
「あーしが暴れたから。暴れたから牙が手首を切り裂いた。暴れてなければ血はそんなに出ない。なんでだ?なんであーしは暴れた?じっとしてればいいってことは、あーしはわかってるんだ……知ってんだよ。あーしだって、猫に噛まれんのは初めてじゃねえ」
「姐さん?」「玲奈ちゃん?」
「変なんだよ……覚えてねーんだ。こいつがあーしに噛みついたのも、暴れたのも……それが……それが、手首のケガなんかよりずっと……ずっと恐いんだよ……」
カレンも京子ママも息を呑んでいた。
「ネエサン——」
カレンが裏返った自分の声にびっくりして喉を押さえた。
「——姐……さん。あの……アレ。アレのことも、もしかして覚えてないんすか?」
「……は?アレ?」
「姐さんあの時……ナ……ナイフで……ナイフを、こころちゃんに……振り下ろしたんす」
「……ナイフ?あーしが?……そんなわけねえ!あーしはナイフなんか……」
「ノザキが……ノザキが持ってたんす。あたし、見ました。ノザキの懐から——」
「ノザキ?刑事の懐にあるもんが、どうして——」
「……姐さんが……ノザキの懐から、取ったんす……」
「……は?……嘘だろ?……あーしが?」
「覚えてないん……すね……」
カレンはふーうっと大きなため息をついた。
「そう言えばあの客も、何も覚えてないらしいっす……2件目の、女をバラバラにしたあたしの客」
「待て……後藤。後藤もだ……ノザキが言ってた……どういうことだ……いったい……何が起きてるんだ?」
レイナとカレンはお互いを不安な眼差しで見つめ合った。
京子ママは、そんな2人を交互に見て、そしてぼそっと呟いた。
「……狐につままれたって顔ね——」
「……キツネ?」
「ええ。そのお話、まるで——」
2人が京子ママを見た。
おれは思い出していた。金色の獣を。
京子ママが言った。
「——狐憑き、みたいね」




