11 にげる。
【2026年9月6日日曜日】
レイナは丸一日、パジャマで過ごした。
寝たきりだったわけじゃない。朝はおれたちと一緒に起きたし、ユウヤのために目玉焼きも焼いた。ベッドには戻らず、洗濯機を回して掃除機をかけた。その間、おれとじいさんはユウヤの子守り。猫じゃらしや毛の生えた小さいボールで遊んでやった。
天気は良かったので、ユウヤは近所の子どもたちと、向かいの公園に遊びに行った。レイナはダイニングテーブルでスマホを見ていた。じいさんは寝た。
チアキの顔が見れるかも知れないと思ってテーブルに飛び乗り、スマホを覗く。数字だらけ。
「人んちの家計簿を覗くな」
手で払われてテーブルから下ろされた。
レイナはスマホを置くと伸びをし、リビングの床でストレッチを始めた。パジャマのまま。
「——痛てっ!」
途中で腰を押さえてやめる。おれはなにもしてない。
「ちっ……歳だな……」
ストレッチは終了した。静かになったので、おれも寝た。
ユウヤが帰ってきてレイナが昼飯を作り、午後はみんなで昼寝。夕方、2人は順番に風呂に入り、夕飯は映画かなんかを観ながらデリバリー。そして、早寝。
のんびりした、いい休日だった。
平穏な休日。
【2026年9月7日月曜日】
ユウヤは学校へ。レイナも二度寝せず、早々にシャワーに行った。出掛けるのか。
寝室で化粧をして、スーツを着て出てくる。
「もしもし。……はい。そうです。……はい。今日これから、見学って出来ますか?」
どこかに電話している。
「——はい。じゃあ、10時ごろ伺います。……浅井と申します。……はい。よろしくお願いします」
電話を切った。それから、リュックを持ってきて透明ドームを開けた。
「こちゃん。入れ」
ハスラーで、南の方へ走る。
堤防をつきあたりまで行って右折、豊平川を渡って石山通りへ。
どこへ行く気だ?このまま行くと……定山渓?電話で見学と言ってたが、紅葉にはまだ早いはずだが。なんでおれを連れて来た?おれには赤い色は見えないし。
レイナは藤野で国道を外れ、マンションかなんかの大きな建物が並ぶ一画で車を停めた。新しいマンションの横に、プレハブみたいな四角い小屋がある。
プレハブの陰に、痩せたキタキツネがいた。リュックの中で一瞬緊張したが、キタキツネは車の音に驚いたのか、すぐに逃げてしまった。
入り口に立っているスーツの男がお辞儀をした。
「浅井様ですね?お待ちしてました。こちらです」
男がプレハブのドアを開けた。プレハブには不釣り合いな、立派なドア。モデルルームか。
「猫ちゃんも、どうぞ。お入りになったらドアは閉めますから、出してあげてください」
モデルルームの中でリュックから出された。
とりあえず嗅いだ。また他猫の匂い。勘弁してくれ。耳を伏せる。
「あははー、いろんな猫ちゃんが見に来てますからねー」
中にはひと通り家具がある。平凡な家具。
壁に、見覚えのある物があった。キャットタワーだ。チアキが買ってくれたのよりデカい。壁にくっついてるみたいだ。
嗅ぐ。複数の他猫の匂いはするが、強くはない。特に誰かの縄張りではないようだ。天井まで行けそう。行くしかない。
とりあえず一段目に飛び乗り、嗅ぐ。柱に縄が巻いてある。爪を研げというのか。今朝研いだばかりだから十分鋭いが、いいだろう。研いでやる。
とても研ぎやすかった。バリバリ研ぐ。
一段一段匂いを確かめながら、最上段まで登った。
そこで終わりじゃなかった。天井近くに、歩ける棚みたいのがある。壁沿いに続いている。嗅ぎながら歩く。
「——このキャットウォークは——ええ。最近は——」
レイナが男と話している。というか男の話を頷きながら聞いている。
「——シニア猫ですか?もちろん心配ありません。奥の部屋には——」
壁沿いの棚は、部屋をぐるっと一周できた。しっかりしていて、狭くてちょうどいい。くるっと逆向きになり、歩いて来た道を走ってみる。
「こちゃん?落ちるぞ?」
レイナが余計な心配をしたので、わざと飛び降りてやった。この高さならなんともないし、フローリングも見た目より柔らかい。
「あははー。元気な猫ちゃん」
奥にドアがある。人間用の普通のドアに、小さな猫用ドア。顔で押すだけで軽く開く。便利だが、つまらない。
しばらく、飽きずに隅々まで探索した。匂いは上書きしといた。
この家なら、住んでやってもいい。
「こちゃん。楽しかったか?」
帰りの車内ではウトウトしていたが、レイナがやたらと話しかけて来た。いつもよりほんの少し明るい声で。
レイナは途中でコンビニに寄り、買って来たおにぎりをひとつ、コンビニの駐車場で食べた。おれにはまぐろチュールをくれた。そして帰宅。おれはトイレを済ませてソファで毛繕いし、寝てしまった。
ユウヤが帰って来て目を覚ます。ユウヤが風呂、レイナがシャワー。夕飯はレイナが生姜焼きを作り、そして……出勤。
リュックで背負われ、また地下鉄でススキノへ。駅にも地上にも、もう人が溢れている。
レイナはスタスタと数分歩き、途中コンビニでタバコを買って新しい店のビルの近くまで来て、急に立ち止まった。交差点とかではない。おれはリュックで後ろ向きなので、なぜ止まったのかわからない。
「玲奈だけど。ビルの前にパトカー停まってる」
レイナが電話で話し始めた。透明ドーム越しに、カレンが歩いてくるのが見える。
「姐さん!おはっす……え?パンダ?」
レイナは振り向いたが、電話を続けた。
「——野崎……知ってる。……花恋?今来た。ここにいる。……あっそ。わかった」
レイナが電話を切ると、すかさずカレンが話しかけた。
「あのデカ……はぁ……もうこの店まで来たんすか」
「あんたに用があるみたい。とりあえず上がって来いって」
「玲奈、花恋。おはよう」
エレベーターを降りると、店長の声がした。まだ後ろ向きなので顔は見えない。
「真っ直ぐ待機室行って。警察の方はVIPルームで待ってもらってる」
「あたしに用なんすよね。追っ払って来ます」
店長が止めようとしたが、カレンは手荒に振り切って店に入っていった。レイナは入り口のすぐ脇の厚手のカーテンをくぐり、カウンターの裏手になる細い通路を通って待機室に入った。
「おはようございます、玲奈さん」
名前を知らない女が数人、挨拶する。
「おはよー!」
リュックがメイク用カウンターに下ろされた。透明ドーム越しにレイナがおれを見て、にっこりと微笑んだ。今日はやけに機嫌がいい。ちょっと怖い。
「ねえ。この子、放してもいい?」
「えー!もちろんです!」
「きゃー!触ってもいいですか?」
リュックが開いたが、出たくはなかった。
「ん?どした?……あー、疲れたか?好きにしろ」
「ニアゥ!」
違う。疲れたわけじゃない。あの女たちだ。ハルカは休みらしいが、ハルカみたいのが何人も——
「玲奈さん。店長がお呼びです」
黒服の声。待て。
「ちっ」
レイナが待機室を出て行く。待ってくれ。これを閉めてから——
「ニャンコー!」「肉球ぷにりたーい!」「猫ってポテチ食う?」「チチチチチ」
耳を伏せる。終わった。
女たちの顔が近づいてきた。
「マーーーウゥ……」
手が伸びてくる。
「シャーッ!」
「え、怒ってるー。カワイイ!」
スマホのフラッシュが光った。大嫌いだ。
「フゥゥゥー……」
猫パンチを放つ。牽制のジャブ。
女たちが少し引いた。
リュックの中で背が張り付くほど後退していたが、その体勢から瞬時に外に跳躍する。女たちがびっくりして散った。飛び降りた床は部屋の奥。テーブルに飛び乗る。革製のバッグが邪魔だ。
飛び降りて室内を疾走する。後ろ足に何か引っかかり、バッグが追っかけてくる。
「あたしのクロエ!」
立ち止まり振り返る。行手を阻む女たちの背後に出口のドア。閉まっている。飛びつけば開けられるか?
やるしかない。
1人が正面からにじり寄って来た。別の女は横方向から来る。その後方で、ポテチの袋がガサガサいってる。
距離を測る。ポテチではなく、ドアとの。
伏せて腰は上げ、左右に振ってタイミングを取り——
その時、ガチャリとドアが開いた。
「団体の——」
ダッシュ。ドアから入って来た黒服の足元に飛び込み、すり抜けた。
細い通路に出た。そのまま速度を緩めず、カーテンに走る。追手の気配はない。
カーテンの手前で止まる。たくさんの足。男たちの革靴がドカドカ通過していく。
慌てず、その足元に紛れて店内に侵入した。気づかれない。
と思ったが甘かった。
「おい、猫がいるぞ?」
速攻で気づかれた。目の前の足の男が屈んで手を伸ばしてくる。
「フアーッ!」
猫パンチ。右フックがヒットした。その隙に横のソファの陰に跳ぶ。
「凶暴だ!気をつけろ!」
「あー……お客様……」
「そっちに行ったぞ!」
「……大丈夫ですから……お席に……」
「誰か捕まえろ!」
ソファに座っていた男の脚にぶつかった。
「こら!猫ちゃーん」
男が想定以上の素早さでおれを捕まえた。この野郎、できる。
床に押さえつけられ、ひっくり返る。
「猫ちゃん。捕まえたぞぉ〜……おわっ!」
猫キック連続蹴り。マシンガンキック。
自由になり、身を翻してテーブルの下を走り抜ける。男がテーブルにぶつかってグラスかなんかが転がり落ちた。
今や店内の客も嬢も黒服も、全員がおれを捕まえようと立ち上がっていた。四方八方から追いつめられる。
捕まってなるものか。迫り来る人間たちの足元の向こうに……ドア。店の玄関とは逆方向、店の1番奥。
そのドアが開こうとしていた。
他に逃げ道はなかった。腹を擦りそうな低姿勢で、人間たちの足元を縫うようにすり抜けた。ドアが開いて誰か出てくる。その足もかわして、おれはドアの奥に突入した。
金色。金色の獣。
空中に、金色の獣がいた。
こないだ見た猫の神様か?
光がない。目を開けられないほど眩しかったあの光はなく、その姿がはっきりと見えた。
金色の獣毛。人間のような体。太い尻尾。大きな三角の耳。そして、目。
あの巨大な目じゃない。
糸目だが、小さな緑色の光が見える。前に突き出た口吻。黒い鼻、白いひげ袋。
狐。
バカでかい狐だ。
そして、甘いミルクの匂い。
その狐の化け物のすぐ下にボックス席があり、レイナとカレンが座っている。2人とも、目の前の化け物に気づいていない。見えていない。テーブルを挟んでレイナの向いにはあの刑事。ノザキ。レイナは険しい表情でノザキを見ていたが、おれの突入に気づいてこっちに顔を向けた。ゆっくり。
ノザキの表情は虚ろ。無だ。口が半開きになり、目は何も見ていない。
狐は、レイナを見ていた。黒い糸目の中の小さな緑の輝きが、レイナを凝視していた。
「え?こちゃん——」
レイナの口がゆっくり動き、言葉を発した。
「——どうし」
狐が、開いたレイナの口に頭から飛び込んで消えた。
……そう、見えた。何が起きた?レイナが狐を……レイナの
レイナの唇が動き
「——おまえは——」
レイナの声、いつものレイナの声。
その瞳に、初めて見る緑の炎
「——使役獣か!」
レイナが跳び上がるように立ち上がり、テーブルを越えてノザキの胸ぐらを掴んだ。ノザキは全く抵抗もせず、呆然としている。レイナがノザキを引き寄せた。そして——
レイナの右手が、ノザキの懐から何かを取り出した。
店のダウンライトの暗い明かりでも、それはギラリと光った。
ナイフ。大きなナイフ。黒く汚れたナイフ。
あのナイフだ。チアキを切り裂いたナイフ。強いミルクの匂い。
(ズッ、ズズッ)
フラッシュライト。トンネル。黒い影。チアキ。白い反射。黒い汚れ。チアキ。反射。ナイフ。チアキ。血の匂い。
脳裏に鮮明に蘇った光景、その中で光るナイフと同じものを今、レイナが逆手に握っている。
その手が頭上に振り上げられ、首だけがゆっくりとこちらに回った。
瞳の中の緑の炎が、レイナの切れ長の目から燃え広がる。
体も向きを変え、一歩踏み出した。
こっちに来る。
おれを見据えて。
ナイフがおれに向かって振り下ろされる。おれの眼が、その鈍い輝きを追う。後ろ足の筋肉が弾け、跳躍する。
レイナの右手。
ナイフ。
切先を空中でかわす。
レイナの二の腕。おれの両前足が抱きつく。さっき研ぎ澄ましたばかりの鉤爪が、柔らかい皮膚に喰い込む。
スローモーション。全てスローだった。振り下ろされた腕にしがみつき、細い手首に——
噛みつけ
牙が皮膚を破り肉を裂く。
血。血の味、肉の味。
「きゃぁァアアーッッ!!」
悲鳴。レイナの悲鳴。
だめだ。レイナだ。レイナの右手。ナイフ。血。
やめろ!レイナの手だ!おれを優しく撫でたナイフレイナナイフ噛み切れ!
コツッと、牙の先端に骨が当たる感触。
ナイフが落ち、深い絨毯に音もなく転がる。
レイナの腕が振り回される。おれごと。
鉤爪と牙が手首を放さない。
胸から下が宙をきる。振り飛ばされそうだが、牙は深く喰い込み、外れない。黒い血が飛び散り、レイナの左手がおれの首に。頭を後ろから鷲掴みにされ、そして——
レイナの身体が金色になった。
狐。さっきの化け物。
狐の化け物がレイナと重なって、浮き出て来た。
それが浮き上がった。
レイナから。
右手だけが重なったまま。右手だけが離れない。おれの口、おれの牙が、レイナの右手、化け物の金色の手を繋ぎ止めている。
光。
天井に小さな光、いやどんどん大きくなって、化け物の太い尻尾が、そして両脚が吸い上げられる。右手はまだおれの牙が喰らい付いているが……あの光。眩しい光。化け物は逆立ちになり、足から光に吸い込まれていく。
化け物の手がおれの口を、スーッと通り抜けていく。甘ったるいミルクの匂い、吐き気。
おれの牙から、化け物の手だけが逃げた。
逆光の中、緑の炎がおれを見て——消えた。
レイナが倒れた。目から光が消えて虚ろになり、ひゅぅっと息をしておれの頭を放し、膝をついて、突っ伏した。おれの口に血が溢れた。
息ができない。血で溺れる。
口を開き、牙を抜いた。さらに血が溢れた。
「……ね……姐さんッ!」
カレンが絶叫し、おれは飛び退いた。
「救急車ッ!誰か!救急車だッ!」
店長の声がした。
血で咽せてゲホゲホと咳き込む。血を吐く。レイナの血を。
カレンがレイナの傍らに跪く。すぐ脇に、禍々しいナイフの刃。
レイナが仰向けにされ、ナイフは見えなくなった。レイナの右手を押さえながらおれを見る、カレンの脅えた目。
「……けだもの……」
口から涎混じりの血が滴った。
おれは、何をしたのか。
何も考えられず、体が動いた。
おれは逃げた——悪夢のようなこの場から。




