10 琥珀の子ら
『ἰδοὺ
καὶ
ἐπισκέψασθε』
見よ。改めて。
その御言葉に、天使たちは震撼した。
ルシフェルの誘いに耳をかさずに天に残ったものたちにとっては数万年振りの、そしてその後に生まれた若い新天使たちにとっては初めての、神の声だった。
ミカエル。
神の如き、との名を持つ天の将軍は、姿を現さない神に代わって天を統べていた。無垢な幼な子のような顔で、古の天使たちをその光の下に傅かせていた。
神の声を、ミカエルは自身の言葉に変えて天使たちに授けた。
『今、改めて地上を見よ。迷妄の歩みを正し、導かねばならない』
アルムエル。
神の賢さを名とする新天使は、その卓越した知力をもって使命に励んだ。進化とともに複雑化する地上の人間たちの営みを仔細に分析し、深く探究した。
アルムエルはその賢さ故、万物の事象に興味を示したが、特に魅せられ造詣を深めていったのは犯罪学だった。地上ではなぜ犯罪が起きるのか。人間たちはどのように犯罪を思考し、他人を害してまでそれを実践してしまうのか。不満や怒り、傲慢や欲望か。あるいは人間たち特有の、嫉妬や劣情によるものなのか。アルムエルは人間たちの犯罪に一意専心した。
だが、罪を犯すのは人間だけではない。
ルシフェルの反乱が罪だったかどうかは、誰にもわからないことだった。天に残った者たちの中にも、報われずとも意義を求める天使は少なからず、また新たに創造された者たちは皆、自由でありたいと望んだ。疑問や不満は、吐き出されることなく蓄積されていった。
そして、アヴィエルがいた。
赤い大蛇が地上を支配し、神に成り代わって真の神を僭称し、それをほとんど実現しかけたことは、まだ若い新天使たちにとっての毒となった。同時にその罰、ジェイエルによって構築された天使の檻が血清となり、第二、第三のアヴィエルを抑止していた。
新天使たちのほとんどは、ルシフェルのように豪胆ではなく、アヴィエルのように傲慢でもなかった。罰は恐ろしい。神に刃向かうのも、闇に閉じ込められるのも御免だ。
だが。ちょっと悪戯するくらいなら?
些細な悪戯も、度重なれば見過ごすわけにはいかない。ミカエルは新天使たちを高覧し、アルムエルの頭脳に注目した。
『その怜悧な賢さで考察し、地上で悪戯をする者たちを調べよ。その者たちが悪行に及んだ理由を探り、抑止策を具申せよ』
ミカエルはその賢さに使命を授けた。
ミカエルはさらに、悪戯者を見つけ、捕らえ、綻びを繕う針となりうる爪を見分けた。
『その鋭利な爪で捕獲し、地上で悪戯をする者たちを懲らしめよ。その者たちが痛みを感じ、二度と悪戯を繰り返さなくなるよう懲罰せよ』
ミカエルはその爪に使命を授けた。
神の爪。その鋭利な名を持つ新天使。
シッポレル。
【2026年9月2日 札幌、7条大橋歩行者トンネル シッポレル】
バカでかいナイフが、私の口に突っ込まれた。そして内側からほっぺたを……。
もう死んでるんだから、痛くも痒くもないけどさ。指でイーッて口広げた時みたいな感じ?
首か。最初に首をグサっとやられて、そのショックかなんかで心臓が止まったのか。あと、1、2分かなー。
天使が、死んで空っぽになった人体じゃなくって、まだ生きている人間の体に強引に転生つーか憑依して意識を乗っ取り、人間たちをからかって遊ぶ悪戯。人間たちからは「悪魔憑き!」とか呼ばれてる、そんなくだらない遊びをしてるやつをちょっと懲らしめろ。それが、ミカエル坊やの命令。
ちょっと懲らしめろ。
簡単に言ってくれちゃってさ。地上に今、人間が何人いるか知ってんのか?坊やが来てた頃よりだいぶ増えてるんですけど?
そりゃ私は鼻が効くし、目も耳もいい。なによりピカピカに研いだ爪がある。だけど捕まえるにはまず相手を見つけなきゃ。憑依は転生とは違って出入り自由だしすぐ逃げちゃうんだから。見つけたと思ったらいなくなっちゃう。現行犯でとっ捕まえるしかない。
とりあえず網でも張るかって、ペットをたくさん作っていろんなところに配備した。だけど私のペットは……猫。自由気ままで命令なんか聞かない猫。主人の私も猫だから、気持ちわかっちゃうのがまた。
あとは観測係に頭下げるしかないしな……めっちゃめんどいんですけど。
今回は偶然、超ラッキーだった。
野良猫は保健所送りっていうキビシイ世の中で、私のペットは全部飼い猫。その飼い主の観測も一応お願いしてたんだけど、なんと、その1人が悪戯者に襲われてるぞって連絡が!超絶ラッキー。まだ温かいうちに!
あれなら蘇生無理だから閉じ込められたりはしなさそう。転生して受肉すれば悪戯者を捕まえられるかも?やってみっか。
私のボディにナイフを振るう悪戯者。瞳に燃える緑の炎。楽しんでやがるな?変態め。こいつは、殺した後に遺体を切り刻む趣味がある。キモいけど……現行犯だ。捕まえた!……と思ったんだけど。
動けない。捕まえようにも、爪どころか指先ひとつピクともしない。あれ?転生って、死体を思うままに動かせるんじゃないの?
目も霞むし音も匂いも微か。
待って?これもしかして、アヴィった?閉じ込められてもう二度と……。
いや、そんなはずはない。確かに、転生するのは初体験だし?誰だって初めてはあるじゃん?何事も経験じゃん!
反対側のほっぺも切り裂かれた。右の頬の次は左ってか?なんにしてもこのボディはもうダメだ。生き返る望みはない。
それでいいんだ。でないとほんとにアヴィっちゃうんだから。入るのは私の自由だけど、出る時は自由じゃない。ボディが死ななきゃ出れないのに自殺もできないらしいし、閉じ込められて自由じゃなくなるなんて絶対嫌だ。私のことは私が決める。
なのに今、爪を出すこともできないなんて。私の爪なら捕まえられるはずなのに。坊やがそう言ってた。
どうすりゃいいんだこれ?
やべ。
やっぱり転生なんてするんじゃなかった。簡単だと思ってなんも考えてなかった。もうだめだ。私がこのボディから出ちゃう〜。
あ、そうだ!手伝ってもらうか!コミュニオ。このボディの飼い猫も私の使役獣だ。頼めば手伝ってくれるはず。初体験!
(猫!)
リンク繋がった?テス、テス……この映像は、部屋ん中か?薄暗い。ついでに、私というご主人様のことや、ペットのお務め、悪戯者のことも全部まとめてロクツィオ。
(おまえの飼い主死んだわ。元気ィ?!)
(……あ?……なんだこれ?)
ん?猫には難し過ぎたか?まあ私も、猫と話すのは初めてだし。いきなりたくさん送り過ぎ?もうちょいわかりやすく——
あら?トンネルの天井に光る穴。もう帰る時間か。
(じゃあ帰る。またね!)
天井から光が差し、私の金色ツヤツヤの実体が浮き上がる。最後に黄金の尻尾が血塗れのボディから放れて——え?あれ?……狐?
光に吸い込まれる寸前、私は見た。
狐。トンネルの壁際に座って、死体と悪戯者をじっと見つめているキタキツネ。ただの狐じゃない。
アルムエルのペット。
【アルムエル】
見たな?シッポレル。
その目で、我の所業を。
この、敢えての不利を己に課しての挑戦は、見事な成功を収めた。前回のような、作品としての芸術性はない。だが、数多の候補地から最適な舞台を選別する際の高揚感、いつ露見するかという緊張感、限られた時間の中で正確に事を為した満足感。
我が手に残る、肉を切り裂く感触、我が身も沸る新鮮な血の匂い、命を奪う全能感。
天から観察していた時には得られなかった、素晴らしい興奮、快楽。
蟲螻たちは予想より早く気づいた。我の体に彼奴等の手がかかったが、構わぬ。愚かな蟲螻どもが触れられるのは傀儡のみ。蟲螻は蟲螻にしか触れられぬ。
あの利器だけは、手放すには惜しい。素晴らしい切れ味。あの利器があれば爪など不要だ。また次も嗜むとしよう。
今はひとまず、我は天に戻った。シッポレルと同じく、光に吸い上げられて。あの短慮な猫女と違うのは、我は己の意志によって戻ったということだ。自由自在に。
さて。
あの猫女はどうするつもりか。我を告発するというなら、ちと構ってやるか。猫女の知略がいかほどか、これもまた、興味をそそられる。
【シッポレル、アルムエル】
2人の体毛の色はよく似ていた。シッポレルの短く、きめ細かで柔らかな猫毛。アルムエルの長めで腰のある、荒々しい獣毛。ともに、天の琥珀の空にもよく似た金色だった。
今2人はその琥珀の空の下で向き合い、睨み合っていた。
シッポレルは人間の少女の顔をしていた。肌はゴールデンブラウン、腰まであるロングウェーブの髪はダークブラウン。小さめの猫耳、鉤爪と肉球がある手足や、尻尾の先も同色。それ以外は全身、金色の毛に覆われていた。その尻尾は細く長く美しく、彼女の後ろで踊っていた。
だが何より目立つのは巨大な眼だ。人間の少女の顔に、その半分以上を占める猫の眼。黒く縁取られ、虹彩は金色に輝き、黒い瞳孔に金色のX字の星が光る。
アルムエルは、二足歩行の狐だ。首から下は人型と言えるが、獣毛に覆われている。手足も人の形で、鉤爪や肉球はなかった。頭部は狐そのままで、目もただの黒い太線のような糸目。瞳の色も隠されている。大きな三角の耳の内側、顔の下半分から胸にかけてと、太くてふさふさした尻尾の先は白い。どこからどう見ても、二足歩行の狐だった。
半人半獣というより、ほぼ獣。金色の獣。そんな2人の天使が、天の野原で対峙していた。天使だが、その背に翼はない。
彼らはルシフェルの堕天後に創造された新天使、まだ若かった。数万年生きている古の天使たちと比べれば、まだ子どもだった。彼らによく似た狼の頭を持つ古の天使、ガブリエルの背には立派な翼がある。彼らにも、これから生えてくるのかもしれなかった。
『……あのさ、アルムエル。あんたさっき、地上……札幌にいたよね?』
トンネルの壁際にいた狐の映像を添付して、シッポレルはロクツィオを送った。
『あんたのペットだろ?この狐』
『ペット。使役獣のことか?札幌と言ったな。あの地は野生のキタキツネがそこら中徘徊している。知らんな』
『とぼけんなよ。あの狐は、私を襲った男を……悪戯者を、じいっと見てた』
『……よかろう。左様、確かに我は狐を使う。おぬしも多数の猫を放っておろう。狐は我の使役獣に相違ない。観察していたのだよ、悪戯者を』
『いや、ふざけんなって。あんたがその悪戯者だろ?わかんだよ、私には。私のボディに感じたあんたの熱。吐く息の匂い。目ん玉の奥の光。全部、あんただってわかんだよ』
『おぬしこそ戯言を申すな。仮におぬしのぬかす通りだとしたら、熱も息も目の光も、全て傀儡の物。我のものではない』
『え……そうなの?……いや、そんなの知るかよ!とにかく私にはわかったんだ!理屈じゃねーんだよ!』
アルムエルはため息を吐き、やれやれと両手を開いた。
『シッポレル……神の爪よ。おぬしはその爪と、目と耳と鼻を使っておれば良い。貧弱な頭など使うな』
シッポレルはその長い髪を振り乱して叫んだ。
『な……なんだとこの……狐野郎!私のこのゴージャスなブルネットが見えねーのか!』
『髪のことではない……。どうするというのだ?ミカエル様に具申するか?そのくらいなら付き合ってやっても良い。我もミカエル様に報告があるのでな。ついでだ』
『グシ……あーうぜえ!ちょっと難しい言葉を知ってるからって、得意になってんじゃねえ!ミカエルなんかどうでもいいんだよ!私はやりたいようにやる!引っ掻くぞ!』
くっくっ、と、アルムエルが笑った。その糸目が僅かに開き、瞳の中で小さな緑の炎が揺らめいた。アルムエルはくるっと背を向けると、ふさふさの尻尾を振りながら歩き出した。笑いのみを残して。
『狐野郎!……あーちくしょう!』
シッポレルは追わずに、その場にすとんと尻を落とした。胡座をかいて。
追えない。狐野郎の言う通りだ。私はバカだし舌っ足らずだから、私の言うことなんか誰も信じてくれない。現行犯じゃなきゃだめだ。
でも、わかった。あのトンネルで私の口を裂いたのは、アルムエルに間違いない。狐がいたからというだけじゃない。
私にはわかる。なんでかわからないけど、わかるんだ。
このままじゃ、いけない。
【アルムエル】
あの目。巨大な黄金の目。
あの猫女は知能が足りない。だが、それを補って余りある、あの眼力。
猫は眼で睨み殺す。獲物を。
シッポレルは、己の真の武器を理解しておらぬ。
あやつはなぜ、あの蟲螻に転生したのか。
アヴィエル事件は、我らにとって教訓、学ぶべき歴史となっておる。仮にそうではなくとも、いつ放免されるかもわからない檻に自ら望んで囚われるなど、浅慮の極み。
あの蟲螻の女に、己が魂を預ける価値があったというのか?
我にとってはあの女は、たまたまそこにあった木石に過ぎぬ……遅れて現れたあの猫も、もしやシッポレルの使役獣であったのだろうか?
我が獲物か。狐狩りの獲物。
次のゲームが楽しみだ。




