第7話 肉眼とレンズの不一致
「浅比さん、もう少し寄れる?」
私が尋ねると、浅比は黙ってカメラを動かした。
ハンディカメラの液晶モニターの中で、黒い輪郭が少しずつ大きくなる。
肉眼では、やはり何も見えないままだ。
窓から午後の光が入り、ソラの部屋を普通に照らしている。だというのに、画面の中だけがおかしい。
壁の一部が暗い。まるでそこだけ、光の届き方が違っているようだ。
「これ……人なの?」
ソラが震える声で訊いた。
「落ち着いて、ソラさん。……ただの光の反射よ。部屋の影が一ヶ所に重なって、人の形に見えているだけだわ」
私は自分自身に言い聞かせるように、早口で理由をまくしたてた。きっと目の錯覚だ。室内の照明の角度が作り出した偶然のイタズラに過ぎない。脳が勝手にそれを人間だと解釈しただけなのだ。そう理屈を固めなければ、この場から逃げ出してしまいそうだった。
「……先生、その理屈は無理があります。光の屈折なら画面上にだけこんな影ができたりはしないですよ」
浅比の冷静な答え。それを聞いたソラはパニックに陥りかけた。
「じゃ、じゃあ何なの、これ……!?」
目の前でソラが怯えてくれているおかげで私は辛うじて平静を保つことができていた。なんとか彼女を落ち着かせようと、その肩を抱くように強く掴む。
「ソラさん、大丈夫。そう見えるだけだから」
「ほ、本当に幽霊か何かなんじゃ……」
もはや私は震える彼女をただただ励ますことしかできなかった。それ以上何も言えないままカメラの画面を見続ける。
見れば見るほど、輪郭は人間に似ていた。だが、人間だと言い切れるほどにはっきりしていない。
頭がある。肩がある。腕のようなものもある。それだけだ。目や鼻など顔のようなものは何もない。
「さ、さっきより近づいてきてる気がするんだけど……」
ソラが小さな声で言った。
私は画面の中の位置を確かめようとする。けれど、さっき見た場所そのものが、もう曖昧に感じられた。
「比較できないわ。……気のせい、だと思う」
「でも、近くにはいます」
浅比が言った。その声には、迷いがない。
「どうして分かるの?」
「分かるわけじゃないです。ただ……見えますから」
それだけだ。説明になっていない。
私は、少し苛立った。
「見えるから、というだけでは根拠にならないでしょう」
浅比は答えなかった。
カメラを持ったまま、部屋の中をゆっくり見回す。
その時、黒い輪郭が消えた。
「……あ」
ソラが声を漏らした。
「消えた?」
私は画面に顔を近づけた。本当にいない。映っているのはただの壁だけだ。
浅比が一旦カメラを止める。モニターを見ながら、少しだけ首を傾げた。
「さっきまで、いましたよね」
「ええ」
「じゃあ……」
浅比が振り返った。
「どこへ行ったんでしょう」
言葉だけならば呑気だが、とても冗談になどは聞こえなかった。
私は部屋を見回した。当然、誰もいない。
他の部屋に移動した可能性はあるが、あれは肉眼では見えないのだ。そうなったら探しようがない。
ゆっくりと視線を上げた、その瞬間だった。部屋にあるテレビの黒い画面に、何かが映った。
私は反射的に振り返る。
電源の入っていない液晶画面。
そこには、私とソラと浅比が映っている。
そして、その後ろに。
背の高い人影が立っていた。
近い。
私の肩すれすれのところに、黒い頭部の輪郭がある。
私は息を止めた。
振り返る。
誰もいない。
もう一度テレビを見る。
まだそこにいる。
今度は浅比も気づいた。
「……先生。見えました?」
「ええ」
声が震えた。
「いますね」
浅比はカメラを持ち上げ、背後に向けた。だが、ハンディカメラのモニターには、今度は何も映っていない。
「え――」
彼女が小さく声を漏らした。先ほどまではカメラでなら確認できたはずだ。
テレビの画面にはいまだに影が映っている。
肉眼ではやはり見えない。
意味が分からなかった。混乱すると同時に妙な寒気を覚えた。
「……浅比さん。カメラで、テレビを撮って」
「はい」
浅比がレンズを向ける。
ハンディカメラに映るテレビ画面には、当然、私たちがいる。
だが。そこには、あの黒い人影は映っていなかった。
「……なんで」
私の声が、かすれた。
ハンディカメラのモニター越しにテレビ画面を見ても何もない。
だが、肉眼でテレビ画面を見れば、そこにいる。
どこに、どういう理屈で存在しているのかまるで分からなかった。
どうやってそこに立っているのかすら分からない、その黒い人影は。
背後から私たちをじっと見つめ続けていた。




