第6話 画面の向こうからのSOS
旧・神明トンネル音声記録抄の反響が、ようやく落ち着き始めた頃だった。
担当編集者の佐久間から、次の取材の話が来た。
「今回は、ちょっと変わった案件でね」
神保町の編集部でそう言いながら、佐久間はスマートフォンを私の前に滑らせた。
画面には、若い女性が笑顔で映っている。金髪。濃いメイク。背景にはリングライトや妙に派手な壁紙が移り込んでいた。
「名前はソラ。オカルト系の配信者。呪いの儀式を検証してみました、とか。心霊スポットに突撃してみました、だとか。その手の動画で登録者を伸ばしている子なんだが……かなり参ってるみたいでね」
私は眉をひそめた。インフルエンサーだとか、そういう輩にはどうにも苦手意識がある。
これもどうせ便乗商法の一種だろう。私と浅比は、旧・神明トンネルの件で少しばかり話題になった。それに乗っかって今度は自分が注目を浴びようとしているのではないか。
しかし、隣の浅比は何も言わず、バッグからハンディカメラを取り出していた。
「聞くだけ、聞いてみましょう」
彼女は短くそう言うだけだった。
都内のカフェで引き合わされたソラという女性は、佐久間に見せられた写真の通りの人物だった。だが、派手な金髪や濃いメイクとは裏腹に、目元に深いクマを刻み、怯えたように肩をすくめていた。歳は二十代前半らしいが、妙に疲れて見える。
「最初は……ただの演出だったんです」
ソラは絞り出すような声で明かした。心霊スポットでの配信や自宅での一人検証企画で、隠し糸で物を動かしたり、あらかじめ用意した効果音を流すなどして再生数を稼いでいたという。若者を中心に人気を集め、YouTubeのチャンネル登録者はつい先日には十万人を突破したのだそうだ。
しかし、ここ数週間、仕掛けてもいない『演出』が画面に映り込むようになったらしい。
どうにも胡散臭い、というのが第一印象だ。
ネット配信のことなどに疎い私は、隣の浅比に小声で尋ねた。
「……ねえ。そもそもの話だけど、チャンネル登録者十万人ってすごいの?」
「すごいと思いますよ。個人ではチャンネル登録者一万人を達成するのも大変だって聞きますから。個人レベルでは十分にすごくて、大手に比べるとまだまだってところじゃないでしょうか」
向かいに座るソラが小さく手を上げる。
「……あの。聞こえてます」
「すみません」
私は、頭を下げた。
「それで、具体的にはどんな異変が?」
「……黒い影が、映るんです。まるで人みたいな。私、怖くて」
ソラの声が震える。
だが、私は冷ややかな視線を隠そうともせず、小声で浅比に言った。
「……やっぱりただの売名行為なんじゃないの。どうせヤラセのネタが尽きて視聴者の関心を引きつけようとしてるんでしょ」
本人が実際に体験したことを語っているならば、まだまともに取り合う気にもなった。だが、作り物の心霊現象で人を騙してきた配信者の言うことなど信用できるとは思えない。
しかし、そのような相手であっても浅比は冷静だ。
「先生。判断するのは実際に見てからの方がいいですよ」
向かいに座るソラが小さく手を上げる。
「……あの。だから、聞こえてます」
「すみません」
頭を下げる私の横で、浅比は黙ってハンディカメラのレンズのチェックを始めている。
「とりあえず、お部屋を見せてもらってもいいですか」
浅比の淡々とした一言で、私たちはソラの暮らす都内のマンションへ向かうことになった。
◇
ソラの部屋は、築浅の2LDKのマンションだった。私のワンルームの六畳間に比べると随分立派だ。配信者という商売は稼げるのだろうか。少し羨ましい。
だが、その室内はお世辞にも整っているとは言いがたかった。床には服や機材が散らばり、机の上には化粧品とコンビニの空き容器が出しっぱなしになっている。元々片付けが苦手なのか、それとも精神的によほど追い詰められているのか。
ただ、これだけ見ればどこにでもある若い女性の一人暮らしの部屋としか言えない。
「黒い影が見えるって言ってましたけど、どんな風にですか?」
私が聞くと、ソラは小さく頷いた。
「夜に配信すると、たまに……画面の隅がおかしくなるんです」
「おかしくなる?」
ソラは自分のノートパソコンを開き、直近の配信アーカイブを再生した。
画面の中で、彼女自身が大げさに驚いている。床の下から音がしただの、鏡が動いただの。私は呆れながら見ていた。
ところが、浅比が動画を止めた。
「ここですね」
画面の右端。白い壁のところに、黒く太い縦線が一本入っていた。人間の肩から首にかけての輪郭にも見える。
「……これ?」
私が画面を拡大すると、輪郭は崩れてノイズに戻った。
「画面上にノイズが走ってるだけじゃない?」
「かもしれません」
浅比はそれ以上言わなかった。
そして、ハンディカメラを持ったまま、部屋の奥へ歩いていく。
私はその背中を追った。
浅比がカメラを向ける。
ハンディカメラの小さな液晶画面の中に、部屋が映る。
壁。鏡。机。ソラ。
それから、部屋の隅。
「……ああ。いますね」
浅比が小さく呟く。
そこに――黒いものがあった。
人の形をしているようにも見えたし、濃い影のようにも見えた。
私は肉眼で、その場所を見た。
何もない。
もう一度カメラのモニターを見る。
まだ、そこにいる。
「……浅比さん」
「はい」
「それ、画面上にしか見えないの?」
「そうみたいです」
浅比は静かに答えた。
その言い方が、妙に気になった。
「……あなた、平然としてるけど怖くないの?」
「怖いですよ」
意外な返事だった。
浅比は画面から目を離そうとしない。
「だから、見てます」
「見てますって……」
これも、彼女が言っていた『撮っていれば確認できる』『レンズ越しなら怖くない』というやつなのだろうか。私にはまるで理解できなかった。
その時だ。
モニターの隅にいた黒い輪郭が、ほんの少しだけ揺れた。
私たちは誰も動いていない。
カメラも固定している。
それでも、その部分が映像の中だけで、ほんの少しこちらへ近づいたように見えた。
ソラが息を呑んだ。
私は反射的に画面から目を逸らした。
もう一度見る勇気が、すぐには出なかった。
私は自分に言い聞かせるように言う。
「……今、動いたわよね。確認してみましょう」
今度の私は、旧・神明トンネルの時ほど楽観的ではなかった。
けれど、これでまた原稿が書けると、そう思っていた。
この現象にも、きっと何か理屈がある。心の奥でまだそう信じていたのだ。




