第5話 重なるフェイクとリアル
三日後。
私の書いた『旧・神明トンネル音声記録抄』は、思っていた以上の反響を呼んでいた。
掲示板。SNS。動画配信者。
そこかしこで話題になっている。
『この波形、本物じゃないか?』
『専門家でも作るの難しいだろ』
『逆に全部仕込んだなら作者すごい』
私はコメントを読みながら、複雑な気分になった。
自信作だった新刊の『夜啼き沼』はほとんど読まれることがなかった。感想を聞かせてくれたのもたった一人。浅比だけだ。
だというのに、作中でろくに伏線も張らず説明もしていないものの方が怖いと言われている。
佐久間から電話が来た。
「真宵ちゃん、やったよ! これ、正式に連載にしよう!」
家族でもない男から下の名前にちゃん付けで呼ばれたのは正直不快だったが、それよりも驚きが勝った。
「……連載、ですか?」
「月一で取材。現地の映像と音声を集めて、今回と同じ形式で書く」
私は窓の外を見た。
「……分かりました」
断る理由はなかった。
いや。本当は、一つ気がかりなことがあった。少しだけ気になっていたのだ。
あのファイル。あの笑い声。トンネルの最後の映像に映っていた人影。
結局何だったのだろう。私たちには、何も分かっていない。
――数日後、私は連載の初回打ち合わせのため、神保町の静かな喫茶店で浅比と向かい合っていた。
浅比はいつものように大きめのジャケットを羽織り、アイスコーヒーのグラスに挿されたストローを無表情で弄んでいる。
「浅比さん。連載化が決まったわ。これからもよろしくね」
「……おめでとうございます。佐久間さんから聞きました」
浅比の声は相変わらず低く、冷めていた。私は印刷してきた『旧・神明トンネル音声記録抄』の最終稿をテーブルに広げ、浅比に見せた。
「次回作の構成の参考にするために、今回の文章をもう一度確認してほしいの。あなたの撮影ログと突き合わせて、何か不自然な点がないか」
浅比は無言で紙を繰り、ある一行の文章の上でぴたりと指を止めた。
「……先生。ここ、私が見たものと違います」
彼女が指したのは、トンネル内でカメラの画面に映った『壁面の歪み』についての記述だった。
「私が出したログでは、波打ったのは壁の右側です。でも先生の文章では『左側の壁面が口のように歪んだ』って書かれてます。それに、現場で聞こえた笑い声のタイムスタンプも、実際より二秒早く記述されてます」
「ああ、そこね」
私はコーヒーを一口飲み、当然のように答えた。
「文章としてのテンポや、読者の緊張感を高めるために少し順序や配置を調整したのよ。その方が流れがいいし、物語として恐怖の波を作りやすいから」
浅比は黙った。
「……でも、記録ですよね」
その言葉に、私は少しだけ苛立つ。
「これは、あくまでも小説だから。別に実話ってわけじゃないのよ」
「分かっています」
「だったら、多少の再構成くらい――」
「そういうことじゃないです」
浅比は静かに言った。
「記録と小説は、別ですよね」
私は答えなかった。
浅比は原稿を閉じる。
「先生が書くなら、書けばいいです」
「……浅比さん」
「でも、私が撮ったものまで、それと同じだったことにはしないでください」
その言葉だけを残して、浅比は帰っていった。
私はしばらく一人で座っていた。
記録。小説。事実。虚構。
境目は、私が思っていたよりずっと曖昧だった。
テーブルの下で拳を強く握り締める。
部分的とはいえ、私は実話と偽って創作を世に出してしまった。あれほど嫌っていたモキュメンタリーと同じことを自分でやってしまったのだ。
◇
――その夜。浅比奈々は自宅で、パソコンの前に座っていた。
部屋は暗い。
画面上に開かれているのは、あの夜、旧・神明トンネルの出口で最後に撮影した数秒間の映像データだ。
荒いままの映像は雨宮にも送ったが、加工すればもっと鮮明にできるかもしれない。そう思い、試してみることにしたのだ。
動画編集ソフトを立ち上げ、画面の隅――赤外線ライトの光が届くギリギリだった暗闇を、極限まで拡大する。コントラストを上げ、ノイズ除去のフィルターをかけた。
問題の箇所。
出口へ向かう二人。そして、その後ろ。人影。
浅比は映像を停止した。
さらに拡大する。
影の輪郭が少しずつ見えてくる。
長い黒髪。細い肩。立ち姿。
浅比は言葉を失った。
似ている。あまりにも似ている。
その影は――雨宮真宵に見えた。
だが、映像の中の雨宮は、自分の隣にいる。同じ時間に。同じ方向へ歩いている。
彼女が、二人いる。
浅比は画面を見つめた。
そして、再生を止める。
静止画になったはずの画面。
なのに。
影の顔だけが、ほんのわずかに動いた気がした。
浅比はパソコンの電源を切った。
暗闇の中で息を整える。
これは見せられない。
雨宮には。
見せれば、あの人はきっと書く。
そして、書いたものを誰かが読む。読んだ人の頭の中に、また何かが残る。
それは、たぶんあまり良くないことだ。
そこまで考えて、浅比はスマートフォンを見る。
雨宮からメッセージが来ていた。
『今日はごめんなさい。私が悪かったです。今後はあなたの許可がない限りは勝手に脚色したり事実をねじ曲げたりはしません』
微かに笑みが浮かぶ。
「分かりました」
そう返す。もっと気の利いた返事ができたようにも思うが、そういう言葉を考えるのは得意ではなかった。
少し悩んでから、続けてメッセージを送る。
「敬語はやめてください。私の方が年下なので」
雨宮からすぐに返信が来る。
『了解。次、どこへ行く?』
浅比はしばらく画面を見つめた。
逃げたかった。けれど、ここで自分が離れたら、雨宮は一人で行ってしまうだろう。
浅比は返信を打つ。
「どこでもいいです」
送信。
スマートフォンを伏せる。
その直後。
部屋の隅に置いてあったハンディカメラが、カチリと小さな音を立てた。
電源は切ってある。
録画ランプも点いていない。
それでもレンズだけが、暗い部屋の中で浅比の方を向いていた。
(『第1章 旧・神明トンネル音声記録抄』・完/『第2章 オカルト系配信者ソラチャンネル事件』へ続く)




