第4話 虚構の構築
自宅に戻った私はすぐにパソコンを立ち上げた。
浅比から送られてきた音声を再生する。
『フフッ……あはっ』
真夜中の静まり返った部屋に、笑い声が響く。 何度聞き直しても、自分の声だ。
だが、この音声を録音した瞬間に笑っていた記憶などない。トンネルの壁に向かっていたあの時、私の口は固く結ばれていたはずなのだ。
私はキーボードに手を置き、いつものように小説の執筆を試みた。
「その夜、旧・神明トンネルの不気味な暗がりの中で、私は自分の笑い声を聞いた。目に見えない何かが、私の微かな息遣いを模倣し――」
そこまで打って、手が止まった。
違う。
この書き方では、あの場所の感じが消える。
文章を読んだ瞬間、読者は作者が創作した怪談だと思うだろう。
私は文書を全て消去した。
しばらく考えた。
それから、新しいファイルを作る。
物語を書かない。
記録を並べる。
音声データ。
タイムスタンプ。
撮影ログ。
取材メモ。
聞こえたもの。
聞こえなかったもの。
説明できなかったもの。
私は、あえて順番を入れ替えた。
一つ一つの資料は、ほとんど意味を持たない。
けれど、それらを並べていくと、読者の頭の中で一つの出来事になる。
これなら書ける。
いや。これなら、書かなかった部分まで読者が怖がってくれる。
作業に没頭していると、いつの間にか時刻は午前二時を過ぎていた。
もう深夜だが、このまま一息に書き上げてしまおうか。
そう思った時、ファイル一覧に見慣れない名前を見つけた。
『REC_2312.wav』
私は眉を寄せた。
作成時刻は、二十三時十二分。
車に乗って、あの廃トンネルから何キロも離れた国道を走っていた時間だ。
レコーダーの電源も浅比が切っていたはずだ。
ファイルを再生する。
ざあっ、という重く湿ったホワイトノイズ。 風の音も、車のエンジン音もない。まるで、閉ざされた暗闇の中で録音したかのような音だ。
何もない。
十秒。
二十秒。
それから。
『……せん……せい』
低く、歪んだ女性の声。トンネルで聞いたのと同じだ。
私は停止ボタンを押した。指先が冷たくなっていた。
ファイルを削除する。ゴミ箱を空にし、データを完全に消し去った。
「……ただのファイルエラー」
声に出した。
「音声のバグに決まってる」
荒い息を整え、その夜は逃げるようにしてベッドに潜り込んだ。
◇
翌朝。眩しい日光で目が覚めた私は、真っ先にパソコンの画面を確認した。
デスクトップの隅にある『ゴミ箱』のアイコン。
その横に、消したはずのファイルがあった。
私はしばらく動けなかった。
躊躇した末、スマートフォンを取り出し、浅比に電話をかける。
「……はい、浅比です」
数回のコールの後、浅比が出た。低血圧なのだろうか。いかにも気怠そうな声だ。
「どうしました、先生」
「浅比さん。昨日のデータのことなんだけど」
私は説明した。
電話の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
「……先生」
「なに?」
「私のカメラにもありました」
「え?」
「帰る途中の時間に、一分だけ真っ暗な映像があります」
「何が映ってるの?」
「何も」
浅比の返事は平坦だった。
「でも、音が入ってます」
「どんな?」
「とん、とん、って。叩くような音です」
私は返事ができなかった。
しばらくして、浅比が言った。
「先生」
「……ええ」
「これ、本当に小説にするんですか」
私は画面を見た。削除したはずのファイルが、まだそこにある。
「するわ」
「どうして?」
「分からないから」
自分でも意外な答えだった。
「分からないままだから、書くの。書かないと、私たちが何に巻き込まれたのかすら分からなくなる」
電話の向こうで、浅比が小さく息を吐いた。
「……分かりました」
浅比はそれだけ言うと、静かに通話を切った。
◇
夕方。原稿を投稿する。
タイトルは、旧・神明トンネル音声記録抄とした。
注意書きには、取材資料を再構成した作品であることだけを記す。
投稿ボタンを押した。
閲覧数はゼロ。
私は椅子に座ったまま、画面を見ていた。
しばらくして更新する。
12。
もう一度。
84。
さらに更新。
150。
320。
数字は増えていった。
私はその画面を見ながら、妙な感覚に襲われた。
読まれている。
自分の書いた文字が、誰かの頭の中に入っていってしまう。
胃の奥が重くなるようだった。
今まで小説を発表した時には感じたことのない嫌な感覚だ。
その時。
背後から、微かな音がした。
トン。
私は振り返った。
何もない。
ただ、パソコンの画面の中で閲覧数だけが増え続けていた。




