第3話 再生ボタンとノイズ
レコーダーの波形が真っ赤に跳ね上がり、警告音が静寂を切り裂いた。機械で処理できる最大音量を超えたことを示しているのだ。
だが、私たちの耳には、その警告音以外には何も聞こえてこない。
原因を確かめるべきか。それとも、ここで引き返すべきか。
私が判断を下せずにいると浅比が先に口を開いた。
「……奥に行ってみましょう」
浅比の声は震えていたが、その瞳はしっかりと暗がりを見据えていた。彼女は迷うことなく、ハンディカメラを構えたまま一歩を踏み出す。
「ちょっと、浅比さん……!」
引き止める間もなく、浅比は闇の中へと進んでいく。私はパニックになりかけた頭を必死に叩き起こし、彼女の後を追うしかなかった。一人でここに置き去りにされる方が、よほど嫌だ。
冷たい空気の中を歩きながら、私は必死に脳内で理屈を構築し始めた。
旧トンネルの放物線状の天井。湿度の変化。風圧。遠くのバイパスを走るトラックの排気音が、トンネル特有の構造で集音され、声のように変化して聞こえただけだ。
人間は無意味な音の中に意味のある単語を探してしまう。そう、ただの音響学的な錯覚だ。
私は懐中電灯の光で壁面を照らし、網目状のヒビが入ったコンクリートを注視した。
隣で浅比は無言のまま、ファインダー越しにカメラを回し続けている。
「……あ」
突然、浅比が足を止めた。 カメラを構えたまま固まっている。
「どうしたの?」
「……今、画面が揺れました」
浅比は録音ボタンを押し、液晶モニターを私に見せるように傾けた。肉眼で見つめる壁面は、相変わらず黒カビの生えた無機質なコンクリートの固まりだ。何の異状もない。
しかし、浅比が今撮影した数秒間の映像を再生すると、異変は一目瞭然だった。
画面の中央、懐中電灯の光が当たっている壁面が、一瞬だけまるで水面に落とした波紋のように、くにゃりと波打っている。
「……カメラのフォーカスエラーとか。それか、手ブレ補正の誤作動じゃない?」
「確認します。一コマずつ送りますね」
浅比が小さなダイヤルを操作し、コマ送り再生をする。一コマ、二コマ。そして、画面が歪んだまさにその一フレームで、浅比の指が止まった。
「……ここですね」
息を飲んだ。歪んだコンクリートの亀裂と影が組み合わさり、人間の口のような形になっていた。ただのシミュラクラ現象と言ってしまえばそれまでだ。だが、その口の輪郭はあまりにも歪で、まるで壁の裏側から何かが大きく口を開けて叫んでいるかのように見えた。
「圧縮ノイズよ」
私は自分に言い聞かせるように言葉を吐き出した。
「暗所の補正でこういうブロックノイズが出ることがあるって聞いた覚えがある」
浅比は私の言葉に肯定も否定もしなかった。ただ、レンズの前を丁寧に布で拭うと、淡々と言った。
「じゃあ、もう一度同じ場所を撮ってみます」
浅比は再び録音ボタンを押し、カメラを壁に向けた。
静かなトンネル。微かな風の音。私たちの呼吸音。
その時。
『フフッ……』
私は顔を上げた。
『……あはっ』
笑い声。
私の声だった。思わず口元を押さえる。
私は笑ってなどいない。
浅比も動かなかった。
二人とも録音機を見る。波形が震えていた。
「……確認してみます」
浅比が時間を戻し、再生する。
『フフッ……あはっ』
やはり自分の声だ。間違えようがない。
「どうして……」
私は呟いた。
浅比が波形を拡大する。
そして、何も言わず画面を指した。
笑い声の位置。
私が息を呑んだ音の、ほんの少し後ろにある。
私の息遣いの音を追うように、後から重なっている。
「……私の真似をした?」
浅比は答えなかった。
私はもう一度画面を見た。必死に理屈を探そうとしたが、何も思いつかない。
まるで意味が分からなかった。
そして――それと同時に、別の感情が湧き上がっていた。
書ける。これなら、書ける。
そう思った。
今まで敬遠してきた形式が、初めて分かった気がした。
怪しい現象を説明するのではない。
説明できないまま、記録だけを残す。
その方が、読者はずっと怖がる。
「浅比さん」
「はい」
「これ、使える」
浅比は私を見た。
「……何がですか」
「今の音。カメラに映った映像も。これ、小説のネタになるよ」
「……帰りますよ」
「でも、奥へ行けばもっと――」
「帰ります」
浅比は今度こそはっきり言った。
彼女はカメラを下ろし、私の腕を強く掴んだ。その手は冷たく、小さく震えている。
私は彼女の手の震えを感じながらようやく気づいた。
彼女も怯えている。
レンズ越しなら怖くないとは言っていたが、決して平気なわけではないのだ。
むしろ怖いからこそ、カメラを握り続けているのだろう。
「……分かった」
私は頷いた。
二人で引き返すと、急いで出口へ向かう。
坑口を抜ける直前、浅比が一度カメラを振り返らせた。
その瞬間、彼女の動きがわずかに止まる。
「浅比さん?」
「……先生。車に戻るまで絶対に振り返らないでください」
浅比の顔から、血の気が引いていた。彼女は素早くモニターを閉じ、カメラを抱え込むようにして早足で歩き出す。
私も自然と早歩きになった。
トンネルを出ても、私たちは一度も後ろを振り返らなかった。
フェンスの裂け目をくぐり、車に戻ると、浅比はすぐにドアを閉めた。エンジンをかける。
私は助手席のシートに背を預け、息を吐いた。
「浅比さん、何があったの?」
「……もう一人いました」
浅比は前を向いたままだった。
「もう一人? カメラに何が映ってたの?」
「見ない方がいいです」
「見なきゃ書けないでしょう。そういう趣旨の取材なんだから」
「それでしたら後で――」
その時だ。
ドン、という音がした。車が小さく揺れる。横の方だ。何か重いものがぶつかったような衝撃。
浅比が焦りを滲ませた声を発する。
「ここを離れましょう」
私は強く頷いた。
浅比が車を走らせる。
トンネルが完全に見えなくなった頃、浅比がハンディカメラを差し出してきた。
出口で最後に撮影した映像だ。モニターの暗い画面の奥。何かが映っている。
外に出ようと急ぐ私と浅比の、すぐ後ろ。人影が一つ。
私たちを追うようにして歩いていた。




