第2話 レンズ越しの相棒
夜の国道から外れ、街灯の途切れた山道へと入っていく。浅比が運転する古い軽SUVのヘッドライトが、鬱蒼と茂る雑木林と、ひび割れたアスファルトを白く浮かび上がらせていた。
車内のエアコンの音と、時折跳ねる小石の音だけが響く。
助手席の窓の外、底のない闇を見つめながら、私は問いかけた。
「ねえ、浅比さん」
「はい」
「どうしてこんな仕事を引き受けたの?」
「生活のためですよ。仕事なので」
「そうじゃなくて。怖いの苦手なんですよね?」
「はい。ですから、撮っていれば――」
「撮っていれば確認できるって。それ、前も聞きましたけど、どういう意味なんですか?」
初めて会った時に浅比が言った言葉がずっと気になっていたのだ。確認できる、とはどういうことなのか。
浅比は少し考えるような素振りをする。
「レンズ越しならあまり怖くないんです」
私は彼女を見た。
「怖くない?」
「肉眼だと、見たものをその場で信じるしかないじゃないですか」
浅比は前を見たまま続けた。
「自分が錯覚を起こしているだけなのか、本当にそこに何かいるのか、判断がつきません。……でも、映像なら後で客観的に確認できます。『ただの影だった』とか『光の反射だった』って」
「つまり、記録を重視するってことですね」
「そうです」
私は少し笑った。
「私の場合は浅比さんとは逆ですね」
「逆、とは?」
「記録そのものより、どうしてそう見えたのかを知りたい。カメラで拡大してノイズだと証明したところで、人間がその瞬間に恐ろしいと感じた理由が消えるわけじゃないですし」
「小説家の先生らしいですね」
相変わらず、低く平坦な声だ。
「雨宮先生って何歳ですか?」
浅比が、急にそんなことを聞いてきた。視線はわずかにこちらを向いている。
「二十八歳ですが」
戸惑いながらそう答える。
「てっきりタメくらいかと思ってました。私、二十四です」
タメ――同い年ということだ。
確かに私は実際の年齢よりも幼く見られることが多い。まともな社会経験も積まずに作家になったのもあってか子供っぽく見えるのかもしれない。
部屋の中でばかり仕事をしているから肌も青白い。髪も伸ばしっぱなしで染めたりもせず、濃い目のメイクをすることもない。そうした影響もあるのだろう。
だが、知り合って間もない女にまで実年齢より下に見られていたのは少しショックだった。
文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、それより先に浅比があっけらかんとした口調で続けた。
「先生、敬語なんて使わなくていいですよ。私の方が年下なんで」
いきなり年齢のことなんて聞いてきたと思ったが、そんなことを気にしていたのか。
変な女だと思う。少なくとも知り合いの作家にはあまりいないタイプだ。
どんな表情をして言っているのか気になり一瞬だけ横目でそちらを見たが、彼女は変わらず仏頂面をしていた。視線が重なりそうで重ならない。
「じゃあ、あなたもその『先生』っていうの止めていいよ」
本人の許可も出たので敬語はさっさとやめることにした。少しだけ肩の荷が降りたような気がする。
「私、先生なんて呼ばれるほど偉くないから。売れてないし」
「先生は先生ですから。それに面白かったですよ、本」
自作のことを褒められるとどうにも、むずがゆくて強く言い返せなくなってしまう。私は曖昧に言葉を濁した。
「別にいいけどさ……。それなら、あなたのことはなんて呼べばいい?」
「何でもいいですよ。浅比でも、奈々ちゃんでも」
冗談なのか本気なのか分からず苦笑してしまう。
「知り合ったばかりの人を下の名前で呼ぶのはちょっと……」
「仲の良い友達はだいたい奈々ちゃんって呼びますよ」
「私、仲の良い友達じゃないからな」
「じゃあ、仲良くなったら奈々ちゃんって呼んでください」
浅比はハンドルを握り直して前を見ると、それきりまた何も言わなくなってしまった。
変な女だと思う。どうせ今回限りの縁だろうが、上手くやっていける気がしない。
そこからさらに十五分ほど山道を登ると、道路は唐突に行き止まりになり、その先に古いコンクリートの坑口がぽっかりと口を開けていた。
旧・神明トンネル。
昭和初期に掘られ、新しいバイパスが開通してからは完全に放置された廃トンネルだ。坑口の周囲には警告のフェンスが張り巡らされているが、一部が大きく破れている。私も浅比も、身体はさほど大きくない。通ろうと思えば、通り抜けられそうだ。
車を降りると、湿り気を含んだ冷たい空気が肌にまとわりつく。鼻をつくのは、濡れたコンクリートと土の匂いだ。
浅比はすぐに機材を取り出し始めた。
三脚。指向性マイク。録音機。ハンディカメラ。
手際がいい。
フェンスを裂け目をくぐり、トンネルの入口に近づく。
懐中電灯の光を頼りに、トンネルの壁面や標識を観察した。 壁面のコンクリートには、長年の湿気でびっしりと黒カビが生え、落書きの跡がいくつも残されている。
だが、それだけだった。
「……思ったより普通」
「そうですか?」
「殺人とか事故とか、そういう記録もないみたいだし」
下調べはしたが、かつてここで大きな交通事故があったという記録も、殺人が起きたという明確な資料もない。ネットの噂も、ほとんどが雰囲気が不気味だからという理由で作られた尾ひれだろう。歴史や人間模様といった、私が小説の土台にするような重みはここには見当たらなかった。
「噂になるような場所って、だいたいそんなものですよ」
浅比が素っ気ない口調で言う。
それきり私たちは黙って暗闇を見つめ続けた。
三十分ほど待ったが、やはり何も起きない。
風がトンネルの奥から吹き抜けるだけだ。
「やっぱりただの噂ね」
私が吐き捨てるように言うと、浅比はヘッドホンに手を当てたまま、足元に置いた録音機のモニターをじっと見つめていた。
「……浅比さん?」
浅比は返事をしなかった。ヘッドホンを片耳だけ浮かせ、録音機を見ている。
「どうしたの?」
「……これ」
画面には音声波形が並んでいた。その下の方に、妙に規則正しい山がある。一定の間隔。小さな振幅。
「何かの音が鳴ってる?」
「たぶん。でも、まだなんとも言えません」
耳をすませても、私には何も聞こえない。トンネル内は静まり返っている。
「風の振動じゃないの?」
「風なら波形が不規則に揺れます。これは……一定のピッチで刻まれてます。音量はすごく小さいですけど」
「聞こえないわ」
「私も、肉眼……とは言わないか。肉耳では何も聞こえません」
「肉耳って。何その日本語。変な言葉を勝手に作らないでよ」
「そういうのいいですから。これ聞いてください」
浅比はイヤホンを差し出した。
私は眉をひそめながらも、イヤホンを受け取り、左耳に装着した。 最初に聞こえてきたのは、ざあっという不快なホワイトノイズだった。その奥で、微かに低い音が響いている。
――トン。――トン。――トン。
「この低い音ね」
「はい」
しばらく聞いていると、その間に別の音が混ざった。
ノイズの隙間から、一瞬だけ、呟きのような低い音が鼓膜を揺らす。
『……ま……よ……』
真宵、と。私の名を呼んだように聞こえた。
慌ててイヤホンを外す。
「浅比さん。今、何か言った?」
「いえ、私は何も」
「……名前みたいに聞こえた」
浅比は少しだけこちらを見る。
「そう聞こえたんですか?」
「そんな気がしただけ。ただの聞き間違いだと思う」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
無意味なノイズの中から、自分が知っている言葉を勝手に認識してしまうことなど、珍しくもない。パレイドリア現象、というやつだ。
疲れも溜まっている。きっとそのせいだろう。
「そろそろ帰りましょうか」
私は立ち上がった。
その瞬間だった。
『……あ、さひ』
今度は、イヤホンからではなかった。
トンネルの奥。暗闇から、女の声がした。
小さく、しわがれた、しかしはっきりと通る女性の声だ。
私は動けなくなった。
隣を見ると浅比も止まっていた。二人とも、あの声を聞いたのだ。それだけは確かだった。
「……声が、トンネルに反響したんですかね」
浅比はハンディカメラをしっかりと構え直し、声のした闇へとレンズを向けた。
「先生。今のもう一回、言ってもらえますか」
浅比はファインダーから目を離さないまま、そう問いかけてきた。 私の声だと勘違いしているのだ。
「ち、違う」
「先生?」
「私は何も言ってない」
喉が震える。
「今の、私じゃないわ」
その直後。足元の録音機が、突然激しく点滅した。
さっきまで小さかった波形が、一気に画面いっぱいまで跳ね上がる。
警告音が鳴った。
浅比が私を見る。
「……どうします、先生」
その声には、初めてはっきりした怯えがあった。




