第1話 過去の遺物
神保町にある小さな出版社の会議室には、古いエアコンの低い唸りが途切れずに響いていた。
向かいに座る佐久間誠は、私の担当編集者だ。彼は、紙コップのコーヒーを一口すすり、それから机の上の本を指先で軽く叩いた。
「雨宮さん。文章は本当に上手いんだよ。調べ方も丁寧だし、土地の由来や、そこに生きた人間の感情を拾うのも巧い」
私は黙っていた。
佐久間が指しているのは、先月出した私の新刊だ。書名は『夜啼き沼』という。半年以上かけて執筆した渾身の一作だった。だが――。
「でも、売れないんだよね」
佐久間の妙にあっさりとした口調に腹が立った。だが、何も言い返すことができない。事実だからだ。
「初版三千部。実売は半分以下。これじゃあ重版はなしだな」
それも分かっていたことだった。報告は受けている。
私は二十八歳。雨宮真宵というペンネームで怪談作家としてデビューして四年になる。
泉鏡花や岡本綺堂を読み、古い怪談の持つ静かな怖さに惹かれてきた。初期のJホラーも好きで、学生時代にはかなりの量を読み漁ったものだ。
好きが高じてホラー小説家になった。大声を出して驚かせるような仕掛けより、土地の記憶や、説明しきれない因縁が少しずつ染み出してくる話が書きたい。そう思い、デビューしてからはひたすらそんな作品を書き続けてきた。
だが、それは今の読者には受けないらしい。
「最近、ネットで流行ってるだろう? 拾ったSDカードだとか、誰かの配信アーカイブだとか。いわゆるモキュメンタリー風ホラー」
「……あれですか」
私は眼鏡のブリッジを押し上げた。
あの手のホラー小説はあまり好きではない。
意味ありげに断片的な資料やら証言やらを並べたから何だというのだろう。怖いなら怖いなりに、そこには因果があって然るべきなのだ。
それに、あの手のものは作者の完全なる創作であっても実話である風を装う。
本当に語り手が体験した話ならば良い。むしろそういう都市伝説や怪奇譚の類は私も好きだ。
だが、作り話だというのに実話であるという但し書きを付け、それによって読者を怖がらせようというその魂胆が私はどうにも気に食わなかった。
創作は創作。記録は記録だ。その区別はするべきだろう。
私は軽蔑するような目つきを隠そうともせず、わざとらしくため息を吐いた。
「ああいうのは私には何が怖いのか、よく分かりません」
徹底的にこき下ろしたくなる気持ちを必死に堪え、それだけ言った。この場で罵詈雑言を吐き散らして自分の立場を悪くしても得することなど何もない。
だが、佐久間はまたしてもあっさりした口調で言う。
「別に怖くなくていいんだよ」
予想外の返答に思わず片眉が上がる。
「怖くなくてもいい……?」
「なんとなく怖い気がするだけでいいの。これは、本物かもしれない。そう思わせるだけで成立するんだよ。あとは読者が勝手に考察したり怖がったりしてくれるんだからさ」
佐久間は笑った。
「今はそういうリアリティが強いんだ。君は逆に、全部に理由をつけたがるだろ?」
図星だった。私は答えなかった。
「一度、本当に現場を見てみないか」
「現場?」
何の現場だよ、と思った。私が書いているのはドキュメンタリーや社会派小説ではない。ホラーなのだ。まさか心霊スポットにでも行けというのだろうか。
だが、そのまさかだった。
佐久間が差し出した資料には、旧・神明トンネルという題字が書かれていた。
「隣の県にある廃トンネル。昔から女の泣き声が聞こえるとか、録音すると妙な音が入るとか、そういう噂がある」
「……そのトンネルを取材するんですか?」
「そう。それで君の文章で、小説にする」
「何も起きなかったらどうするんです。というか、こんなの十中八九、何も起きないですよ」
「それでもいい。起きなかったことも含めて、本物っぽく書いてくれれば構わないから」
私は資料を見つめた。作家として、こんな仕事に乗るのは屈辱だった。けれど、断れば次がない。
「……分かりました」
資料を閉じる。
「やります」
「助かるよ」
佐久間が笑った。
「原稿はいきなり雑誌とか単行本じゃなくてさ、まずは小説投稿サイトに掲載してもらって読者の反響を見よう。読者からの反応も込みで編集会議に上げるから」
「小説投稿サイト、ですか」
無性に悲しくなった。私の小説は本にする価値もないと言われた気がしたからだ。
しかし、落ち目の作家に与えられた選択肢など、最初からゼロに等しい。これにも、ただ小さく頷くしかない。
「ああ、それと。一人、同行者を紹介しておくよ。映像や音声を記録してもらうカメラマンだ」
佐久間がスマホで短く連絡を入れると、会議室のドアが控えめに開く。
入ってきたのは、小柄な若い女性だった。
短い黒髪。膝上のショートパンツ。その上に大きすぎるジャケット。首から、使い込まれたハンディカメラを下げている。
「浅比奈々《なな》ちゃん。映像制作のフリー。撮影と録音は彼女に任せる」
「……浅比です。よろしくお願いします」
挨拶の声は低く、淡々としていた。感情の起伏が感じられないガラス玉のような瞳が、私を一瞬だけ見つめる。
「浅比さんは、怪奇現象や都市伝説に興味がおありなんですか?」
私が尋ねると、彼女は首を小さく横に振った。
「いえ、特に。仕事として頼まれたので。必要なら撮ります。それだけです」
熱意も恐怖心も窺えない素っ気ない返答に、私は拍子抜けした。もっとオカルト好きの癖の強い人が来るのかと思っていたからだ。
浅比はふと思い出したように口を開く。
「あ。でも、先生の本は読みました。『夜啼き沼』。あれは面白かったです」
面食らった。新刊が発売されてからというもの良い評価などもらったことがない。これが初めてだ。
「……ど、どの辺りが」
思わずそう聞いてしまった。
浅比はしばらく視線を彷徨わせてから口を開く。
「私、怖がりでホラー映画とかダメなんです。ジャンプスケアって言うんでしたっけ。急に大きい音を出して驚かさせてくるようなのが苦手で。けど、先生の小説はじわじわ怖い系なのでいけました。良かったです」
「ど、どうも」
お礼を言う場面でもないような気はしたのだが、なぜかそう言ってしまった。
「でも、浅比さん。怖がりなのによくこんな仕事を受ける気になりましたね」
そこが意外だった。
「撮っていれば確認できますから」
それだけ言って、浅比は首から下げたカメラを軽く持ち上げた。その仕草がまるで、お守りでも持つようだった。
――撮っていれば確認できる。
今の言葉はどういう意味なのだろう。
気になりはしたのだが、佐久間がスケジュールの話を始めてしまったのでそれ以上は何も聞くことができなかった。
◇
その夜、私は自宅で旧・神明トンネルについて調べた。
出てくるのは、安っぽい検証動画や、似たような体験談ばかりだった。
どれも信用できない。そう思って検索結果を閉じかけたとき、一つの古い個人ブログが目に入った。
更新は十年以上前で止まっている。
『神明トンネルの奥について』
記事は短かった。
友人と二人で行ったこと。奥へ進むほど耳鳴りが酷くなったこと。最後に、暗闇の中から自分の名前を呼ばれたこと。
ありがちな話だった。
私はスクロールを続けた。
ページの一番下に、一枚だけ写真があった。どうやらトンネルの内部らしい。ほとんど真っ黒だ。
「……何も写ってないじゃない」
そう呟いて、閉じようとした。
けれど、その寸前で手が止まった。
真っ暗な中に、わずかに色の違う部分がある。ほんの少しだけ薄い。
人の頭と肩のように見えた。
そう見えた途端、私は写真から目を逸らせなくなった。
そこに何かがいるように見える。妙に気味が悪かった。
私は無意識に眼鏡を押し上げた。
「……くだらない」
ブラウザを閉じ、時計を見る。
午前二時。そのまま眠ることにした。
◇
翌朝。スマートフォンの振動で目を覚ました。
浅比からだ。
「明日の夜九時で大丈夫ですか。車、出します」
「はい。お願いします」
短いやり取りだった。
通話を切り、私は顔を洗いに行こうとして、パソコンの前で足を止めた。
モニターが点いている。
昨夜、確かに閉じたはずのブラウザ。
その画面には、あのブログが開かれていた。
スクロール位置は一番下。真っ黒なトンネルの写真が表示されている。
私は何も言わず、その画面を見つめた。
写真の中の薄い黒は、昨夜より少しだけ大きくなっているように見えた。
ただの気のせいだ。私は小さく頭を振ってパソコンを閉じた。




