第30話 暗闇の執筆
取材と依頼者への報告を終え、私たちは家に戻った。
家と言っても東京のマンションではない。あそこは契約自体は続けているが、今ではほとんど寄り付くことはない。
今の私の居場所は、蛇塚村だ。
記録祭祀所のさらに奥。山肌へと直接穿たれた横穴から入った場所。かつて村人たちが、何かを祀っていたという天然の洞窟。
蛇、と呼ばれる場所だ。
入口は暗い。饐えた臭いがする。
それでも私は慣れた動きで洞穴に入った。
湿った土。濡れた岩。天井から落ちる水滴。
浅比の声がした。
「おかえりなさい、先生」
「おかえりは変でしょ。一緒に帰ってきたんだから」
「別にいいじゃないですか」
そう言って笑い合う。
「先生、コーヒー淹れます?」
「お願い、奈々ちゃん」
しばらくして割れたカップを手渡される。中には汚水が注がれていた。
一口飲む。口の中がじゃりじゃりとざらつき、腐ったような味がした。
私は微笑む。
「うん、やっぱり奈々ちゃんの淹れてくれるコーヒーが一番美味しい」
「そう言ってもらえてよかったです。……先生、今日の晩ご飯はどうします?」
「どうしよう。奈々ちゃんは何か食べたいものはある?」
「何がいいですかね。……そうだ、ハンバーグはどうですか」
「いいね。じゃあ、一緒に作ろうか」
村の廃屋で見つけてきた欠けた皿や朽ちた箸が食卓に並ぶ。皿の上に盛られているのは泥や枯葉、虫の死骸だ。
「ハンバーグって久しぶりに作ったけど焼き加減が難しいわね。ちゃんとできてるか自信ないな」
「上手く焼けてそうですよ。もっと自信持ってください、先生」
泥の塊のようなものを口に含み、飲み込む。胸の奥から酸っぱいものがこみ上げてきたが、なんとか堪えた。
「本当だ、美味しい」
「ほら、言ったじゃないですか。先生が作ったにしては上出来ですよ」
「相変わらず一言多いな、あんたは」
私は、彼女を小突く。
「食器も新しいのを買いに行ってよかったですね。それだけでも気分が上がります」
「だね。買い物、付き合ってくれてありがとう」
私は、浅比に笑いかける。
何も分からなかったことにする。
何も見なかったことにする。
何も聞かなかったことにする。
私は、ここにいる。
そして、浅比もいる。
それだけで十分だった。
私は、とても幸せだ。
夕飯を終えると、私は仕事に取り掛かることにした。
小さな祭壇の前に腰掛ける。ここにいると頭の中に次々と文章が浮かんできた。
まるで脳内に直接文章を流し込まれているようで気持ちが悪い。だが、やらなければいけないことだ。
そばにノートパソコンと取材用ノートを並べる。
頭の中に浮かんだ文章をそのまま記していった。
天渓館や東雲のマンションで撮った映像。私や浅比、地元の老人、そして東雲の発言。夜中に旅館の部屋に現れた瞳。東雲のマンションに横たわる死体。
それらが記録として形になっていく。モキュメンタリー風のホラー作品。
原稿はあっという間に出来上がった。あとは編集部に送るだけの状態だ。
その時。
「……先生」
すぐそばで女の声がした。
「本当にそれでいいんですか」
平坦な声。いつもの彼女の声だ。
「……浅比さん」
私は、肩を震わせた。
「分かってる。全部分かってるよ。でも、自分でもどうにもならないんだよ。それに、これを続けてる限りは浅比さんには会えるんだから、それでいいの!」
「……先生がいいなら、いいですけど」
それきり女の声は聞こえなくなる。
涙が溢れた。
ごめんなさい、浅比さん。
あなたがせっかく守ってくれたのに、私はこんなことになってしまいました。
もう自分でもどうにもなりません。
編集部へのクレームによると、私の作品を読んだ人の周りでは小説と同じことが起きているそうです。
それも、たぶん私のせいです。
なんとかしてあげたいけれど、私にもどうすることもできません。
たくさんの人に迷惑をかけてごめんなさい。
私は、このままずっとあの浅比と一緒に取材を続けるのでしょう。
そして、この暗闇の中で文章を書き続けるのです。
でも、もう抜け出す術はありません。
だったら。
だったら、せめて私にできることだけでも。
私は、震える手でキーボードを叩く。
必死に文章を書き換える。
これは、実話ではありません。
だから、もしあなたがこの文章を読んだとしても、あなたの身の回りでは何も起きま――。
その時、足音が聞こえた。
指先が痙攣する。酷い耳鳴りがした。
視線を向けると、背の高い男がいた。顔はない。
もう分かっている。
あれだ。
かみさま。
「……どうしたんですか、先生。泣かないでください」
浅比によく似た声がする。
その声で話しかけないでくれと思う。だが、言葉にはならない。
それは、地べたに突っ伏したままの私の隣へ座る。そして、私を優しく抱きしめた。
「大丈夫ですよ、先生。何も怖いことはありませんから」
浅比だ。浅比がそばにいる。
私の心は幸福感で満ちていった。
「うん。ありがとう、奈々ちゃん……」
私は、それの体を抱きしめ返した。
それが、私に微笑みかける。
「先生、次はどこに行きます?」
そうだ。早く次の取材に行かなければ。そうすれば浅比はずっと私のそばにいてくれる。
そう思うだけでもう何も怖くはない。
私は暗闇の中でノートをめくり、ペンを強く握った。
(『これは実話ではありません』 完)




