第29話 終わらない取材
神保町にある小さな出版社の会議室には、古いエアコンの唸りが途切れずに響いていた。
向かいに座る佐久間誠は、紙コップのコーヒーを一口すすり、それから資料を差し出した。
「今回の依頼者はライターの東雲遼介くん。長野の山奥にある温泉地に取材に行ってから身の回りで奇妙なことが起きるようになったんだって」
資料をめくる。その東雲という男の取材先は、長野県のある地方。かつて『隠し湯』と呼ばれた古い湯治場の風俗だったようだ。
「真宵先生、こういうの好きでしょ?」
確かに好奇心が疼いたが、佐久間の見透かしたような言い方は癇に障った。
「……まあ、嫌いではないですが」
「宿泊費はうちで持つからさ。旅行がてら行ってきてよ。真宵先生のモキュメンタリー風ホラーが売れてるおかげでうちもそれくらいの予算は出せるんだ」
「それはどうも」
浅比と一緒に温泉旅行。それは悪くないかもしれない。
「それにしても真宵先生。よく連載を続けてくれる気になったよね。前はもう連載やめるってあんなに頑固に言い張ってたのに」
「色々ありまして」
「まあ、うちとしてはありがたいからいいんだけどさ。単行本の売り上げも好調だし」
そう言って佐久間はわずかに表情を曇らせる。
「ただ、最近なんだかおかしなクレームが来るんだよね」
「クレーム?」
出版物に対してクレームというのは妙な表現だ。感想だとか悪評をそうは言うまい。
落丁や誤植があったというなら分かるが、それは出版社の問題だ。由々しき事態ではあるけれど、作者の私に言われてもどうしようもない。
「何なんですか、クレームって」
彼は手元のタブレット端末に視線を落とす。
「一件や二件じゃないんだよね。内容はバラバラなんだけど、共通してるのは――」
佐久間が顔を上げた。
「小説に書かれているのと同じことが自分の身の回りで起きたって」
「何ですか、それ。馬鹿馬鹿しい」
反射的にそう言ってしまった。
佐久間は大袈裟に笑う。
「だよねぇ。まあ、それだけ真宵先生の小説が怖かったってことなんだろうね。ほら、あるだろ。ホラー映画を見た後で背後に視線を感じる、みたいな」
「そうですね」
「真宵先生のところは別になんともないんだろ?」
「至って平穏そのものです。おかげさまで金銭的にも余裕が出始めていますよ」
私は紙コップのぬるくなったコーヒーを口にし、顔をしかめた。
「……このコーヒー、なんか変な味がしません?」
佐久間は笑う。
「安物だからでしょ。うちの編集長はケチだから応接用のコーヒーになんかお金をかけてくれないんだよ。それにしても真宵先生、コーヒーの味なんて分かるようになったんだね」
「普段から奈々ちゃんが淹れてくれるコーヒーを飲んでるからですかね」
「そうだ、奈々ちゃんといえば」
佐久間の声が低くなる。
「……最近、あの子と連絡取れてる?」
思いがけない言葉だった。呆けたような顔で彼を見つめてしまう。
「普通に取れてますけど。……メッセージでもよくやり取りしてますし、昨日も会いましたよ」
「だったらいいんだけどさ。編集部にも一度連絡を寄越すように真宵先生からも言っておいてくれるかな?」
「分かりました」
妙な違和感はあったが、私はそれ以上何も言わなかった。渡された資料を手に、出版社を後にした。
◇
古い旅館というものは、不思議と時間の感覚が曖昧になる。
畳の匂い。軋む床板。昼間でも薄暗い廊下。そこにいるだけで、現実から少しずつ切り離されていくような感覚がある。
「先生。そういう場所、好きそうですよね」
運転席で浅比が言った。
「好きと取材しやすいは別でしょ」
私はそう答えて、窓の外を見る。
長野県の山奥。
私たちが向かっているのは天渓館という温泉旅館だった。古い湯治場を改装して営業している一軒宿だ。
依頼者の東雲が取材のために泊まった宿というのがそこだったらしい。
佐久間から渡された資料によれば、この宿には妙な噂があるという。天井裏の小さな鏡についての噂だ。
昔の湯治宿では、壁や天井裏に鏡を仕込むことがあったという。相手に気づかれることなく鏡の奥から室内を覗くためだ。そうやって女中や見廻り役が客室を監視していたらしい。
現代でいうマジックミラーのようなものだろう。長野県のその地域ではそういった鏡のことを『覗き鏡』と呼んでいたそうだ。
それ自体は、おかしい話ではない。過去にそういう風習があったのだとしても不自然ではないだろう。
問題は天渓館の『覗き鏡』だった。
宿の建て替えから外れた一室にだけ、今もその鏡が残っているという。
噂では、夜になるとその鏡に人の目が映るのだそうだ。
「あり得そうなのは宿の人間が実際に部屋の中を覗いていたって線だけど。奈々ちゃんはどう思う?」
私はメモを見ながら言った。
「実際に見てみないことにはなんとも言えませんね」
「あなたらしい答え」
「でも、こういうのなんか嫌ですね」
浅比が言う。
「何が嫌なの?」
「ちょっと悲しいじゃないですか。役目を終えたものがその後もずっと残り続けてるのって」
私は鼻で笑った。
「道具は道具でしょう。問題は、それを何のために残したかよ」
「先生、そういうところですよ」
「何が?」
「何でも意味から入るところ」
私は笑う。
旅館に着き、宿帳を記入していると若女将に声をかけられた。
「二名様でのご宿泊とお伺いしておりますが、お連れ様は何時頃にお着きですか?」
私は隣に立つ浅比と顔を見合わせた。
「……いや。いますけど、連れ」
「失礼しました」
若女将は慌てた。
私は、それ以上は何も言わなかった。最近、妙にこういうことが多い。
先日、二人でファミレスに行った時も彼女の分だけ料理が運ばれてこなかった。いったい何なのだろう。
部屋に案内される。
入った瞬間、私は足を止めた。
天井が妙に低く感じる。
実際に低いわけではないようだ。ただ、一部分だけ天井板がわずかに浮いている。そのせいで違和感が生じているのだろう。
細い隙間だ。
その奥に、黒い円形のものが見えた。
「……例の鏡ですかね」
浅比も気づいたようだ。
ハンディカメラを向ける。モニターにもしっかりとその細い隙間が映っていた。
噂では、夜になるとあそこに人の目が映るという。
「勝手に天井裏に上がるわけにもいかないし、今の時点だとなんとも言えないわね」
二人で温泉に浸かっている間もあの鏡のことを意識していまい、どうにも気が休まらなかった。
夜。布団に入ってからも、私は『覗き鏡』のことを考え続けていた。
しばらくして天井裏から音がした。
小さな衣擦れ。
木が軋む音。
それから、人が呼吸するような音。
私は目を開けた。
隣では浅比が寝ている。
「……奈々ちゃん」
「起きてます」
即答だった。
「気づいてるでしょ」
「はい」
浅比は布団の中から手を伸ばし、ハンディカメラを構えた。
「撮るの?」
「こういう時のために私がいるんじゃないですか」
天井へカメラを向ける。モニターを見ながら、浅比が黙った。
「どうしたの、奈々ちゃん」
「……先生。これ、見てください」
私は彼女の方に体を近づけた。そして、ハンディカメラのモニターを見る。
薄暗い部屋。壁。障子。私たちの影。
映っているのはそれだけだ。
天井には何もない。
ただ、画面の端に黒い点があった。
「ノイズか何かじゃない?」
「そう思ったんですけど」
浅比が画面を拡大する。
黒い点が、少しずつ形を持った。
丸い。
その周りに、白いものがある。
「……目?」
小声で言う。
浅比は答えなかった。
次の瞬間、天井裏から音がした。
――カサ。
誰かが、こちらを向いたような音だった。
私は反射的に天井を見る。
そして、見てしまった。
天井の隙間から、こちらを覗いている瞳を。
片目だけ。
見開かれている。
瞬きもしない。
「奈々ちゃん」
「見えてます」
冷静な返事だった。
「……従業員か、他の宿泊客かしら」
「それは、分かりません」
浅比は天井にカメラを向け続けている。
「でも、私のカメラにもしっかり映ってはいるので……あ」
彼女が小さく呟く。
私はもう一度天井を見た。
目は、消えていた。
その夜、結局私たちは一睡もすることができなかった。
翌日。天渓館を出る間際に、私は若女将に聞いてみた。
「天井の鏡……あれは昔からあるものですか?」
女将は一瞬、口をつぐみ、それから言った。
「はい。ただの飾りのようなもので、もう何十年も使っておりません」
その嘘がはっきり分かるほど、女将の顔は強張っていた。
宿からの帰り道、私たちは地元の人に聞き込みをした。
そして、二十年前のある事件に行き着いた。
宿泊中の男性客が『覗き鏡』の噂を聞き、面白半分で天井裏に登った。しかし、そこで心不全を起こし、死後一晩、誰にも気づかれなかった。
暑い夏の盛りだったという。遺体は、天井裏から漂う異臭でようやく発見された。
それが、まさに私たちの泊まった部屋だった。
「気味が悪いのはね」
地元の老人がぽつりと漏らした言葉を思い出す。
「死体のそばにあった『覗き鏡』には、男の死に顔が映ってなかったんだそうな」
私は最後に、宿の構造図を元に、あの覗き鏡の位置を調べた。
天井裏から覗き込むには、外から梯子をかけて屋根裏に登らねばならないようだ。ところが——。
「奈々ちゃん、これ」
私は資料を指し示す。
屋根裏に登るための箇所は既に封鎖されていた。十年前に耐震補強がなされた際、屋根裏に至る梯子は撤去され、空間は閉じられていたのだ。
「これじゃあ、登れませんね」
つまり、今は誰も、あの鏡を覗くことはできない。
だが、私の記憶には、はっきりと残っていた。天井の鏡に映っていた、誰かの目が。
ならば、あの瞳は――。
私は思い至る。
「あれは、何かを覗いているわけじゃあなかったんだ。二十年前のあの日、あの場所には死体があった。天井裏に横たわった死体の顔が、そばにあった鏡に映り込んだ。それが、私たちや東雲さんが泊まった時、あの場所に立ち現れた。旅館のあの空間のせいか、鏡のせいか、それとも私たちの感覚が狂ってしまったのか。それは分からないけれど――」
浅比がため息を吐いた。
「先生、考えすぎです」
「でも」
彼女は平坦な声で言う。
「いいですか。今、分かっているのは『覗き鏡』がある場所に行くための梯子は既に封鎖されていて、誰もあの鏡を覗くことはできないということ。そして、二十年前にあの場所で死亡事故があったということ。それだけです。それ以外は全て先生の想像です」
私は小さく頭を振る。また冷静さを欠いていた。
「……奈々ちゃんの言う通りね」
「はい」
「依頼者には分かっている事実だけを伝えましょうか」
「それがいいと思います」
東京に戻ってから、私たちは依頼者の東雲のもとを訪れた。
都内のマンション。
女だけで男の自宅に上がるのは気が引けたが、こちらは二人だ。最悪は何かあっても数に任せてなんとかしよう。そう思った。
依頼者の東雲遼介というのはやつれた男だった。
三十代半ばと聞いていたが、疲れ切った見た目のせいでもっと年上にしか見えない。身なりも小汚く、常に何かに怯えているようだった。
許可を得て、カメラを回させてもらう。
私は、天渓館について調べたことを東雲に伝えた。
「……というわけで、確かに鏡はありましたが、今はもう誰もあの鏡を覗くことはできないんです。ですから、現状では夜中に感じた視線もただの気のせい、としか申し上げられません」
東雲は妙に冷静な口調で言った。
「気のせいなわけがない。じゃあ、あれは何なんですか。私は天渓館から帰ってからずっと視線を感じているんですよ」
「東雲さん、そう言われましても」
その時だった。
「先生」
浅比の声がした。
「何?」
「……これじゃないですか、視線」
ハンディカメラを示す。私は、浅比の肩越しにモニターを見た。
画角は天井の方を向いている。
東雲のマンションにはロフトがある。
そこに――中年の男が横たわっていた。
カメラを通して視線が合う。
思わず悲鳴を漏らしそうになった。
画面を見つめる。
――いや、あれは。あの男は、こちらを見ているわけではない。
死体だ。
ただ、こちらを向いている。
その目だけが見開かれていた。
東雲は私たちの様子に気づき、薄く微笑んだ。
「あなたも見ましたか」
私は、もう一度そちらに視線を向ける。
見開かれた死体の目は、やはり何も見てはいなかった。ただ、そこに横たわっている。
「ずっとあそこにいるんですよ。消えないんです。なんであそこにいるんでしょうね。死亡事故って二十年の話でしょう。私の家で死んだわけでもない。おかしいですよね。私は、ただあの宿に泊まっただけなんですよ」
東雲が身を乗り出す。
「あなた。……あれ、なんとかできます?」
私は首を振った。
「……すみません。私たちは取材をしているだけで、霊能者でも宗教者でもありませんので」
東雲は髭だらけの顔で笑った。
「そうですか。……取材、ありがとうございました。約束通り記事にはしていただいて構いませんので」
私たちは、東雲のマンションを辞した。
部屋を出た瞬間、中から大きな音が聞こえてきたが、私も浅比も振り返らなかった。




