第28話 浅比奈々
それから数日。
驚くほど何も起きなかった。
妙な音が聞こえることもない。突然、物が落ちたりもしない。家の前に人影が立つこともない。
今度こそ平穏が戻ってきたのだ。そう思った。
私は気持ちを切り替えて普通に仕事をしていた。
編集部に連絡をし、改めて連載を終了したいと伝えた。
担当編集の佐久間は渋ったが、最後には受け入れてくれた。
「次は、普通の怪談を書こうと思っています」
そう言うと。
「それなら最初からそう言ってよ」
と笑われた。
私は電話を切って少しだけ泣いた。
怖かったからではない。
たぶんやっと元の自分に戻れると思ったからだ。
◇
浅比とは、その後も時々会った。
あの夜の電話のせいで彼女の身に何かあったのではないかと案じていた。だが、そういうわけでもなかったようだ。
とんだ取り越し苦労だった。
彼女は定期的にメッセージを送ってくるし、私の家にもやってきた。
壊れたカメラはまだ新しくしていないらしい。
母親のことも、無理に調べてはいないようだ。
蛇塚村にも、もう行かない。
私たちはそれでいいと思っていた。
ある夜、浅比が帰ったあと。
私は一人で机に向かった。
新しい原稿を書く。
タイトルは決めない。
主人公も決めない。
ただ一行。
『夜になると、誰もいない部屋から紙をめくる音がする。』
私はそこで手を止めた。
以前ならここから意味を作った。
誰が紙をめくっているのか。なぜ。いつから。どこへ続いているのか。
でも、今は、続けない。
あくまでもリハビリのようなものだ。
今はこの一行だけでいい。
私はパソコンを閉じた。
部屋の明かりを消す。
ベッドへ向かう。
その途中で、机の方から音がした。
紙をめくるような音。
私は振り返った。
パソコンは閉じている。
ノートも閉じている。
それでも紙を一枚めくる音がした。
もう一度。
私は動かなかった。
そのままベッドに入る。
目を閉じる。
聞かなかったことにする。
◇
翌朝。私は机へ向かった。
パソコンを開く。
昨日の文章は、そのまま残っていた。
『夜になると、誰もいない部屋から紙をめくる音がする。』
私は読み返す。
少しだけ笑う。
「……ありきたりね」
そう言って、続きを書こうとした。
ふと気付く。画面の下に、見覚えのない文章が一行増えていた。
『その夜、女は紙をめくらなかった。』
私は手を止めた。
自分が書いたのか。昨日、無意識にキーボードを打ったのか。別のファイルから誤ってコピーしたのか。
可能性はいくつも考えられる。
私は変更履歴を確認しようとしてやめた。
削除もしなかった。
ただ、その一文を見つめる。
不思議と怖くなかった。
少なくとも以前ほどではない。
私はその下に、新しい文章を一行だけ書いた。
『女は、その文字をそのままにしておくことにした。』
保存する。
パソコンを閉じる。
窓を開ける。
朝の街の音が入ってくる。
電車。車。人の話し声。
どこにでもある生活の音。
私はそれを聞きながら、しばらく立っていた。
その時、インターホンが鳴った。
出てみると警察だった。
二人組。年配の男性と若い女性の警察官。
浅比のことをあれこれと聞かれた。
何か胸を衝くようなことを言われた気がするが、はっきりとは覚えていない。
◇
その夜。浅比からメッセージが来た。
『昨日の夜、変な音がしました』
私は少し考えた。それから。
『私のところも』
と返した。すぐに返信が来る。
『聞かなかったことにします』
私は笑った。
『私もそうする』
そこでスマートフォンを置いた。
部屋は静かだった。
机のパソコンには、今日書いた原稿がある。
一行だけ。
それ以上は何も書いていない。
私は電気を消した。
布団に入る。目を閉じる。
しばらくして。どこかから紙をめくる音がした。
一枚。
もう一枚。
私は目を開けなかった。
その音が自分の机からなのか。隣の部屋からなのか。それとも眠りかけた自分の頭の中からなのか。分からなかった。
分からなくてもいい。私はそう思った。
ただ暗闇の中でもう一枚、紙をめくる音がした。
そして、その次のページには誰のものか分からない文字で一行だけ文章が書かれていた。
『浅比奈々という女はもういない。』
私はその文字を見ようとはしなかった。
それでもなぜかそこに何が書かれているのかを、知っている気がした。
――そうか。彼女はもういないのか。
私はベッドの上で、声を出して泣いた。
分かっていた。ずっと分かっていた。
けれど、見なかったことにしたのだ。
彼女の身に何かが起きたのだろう。
あの電話があった時か。それとも、連絡が取れなかった一週間の間か。それは分からない。
いずれにせよ彼女はもうこの世にはいないのだ。
私はうずくまるようにして涙を流した。
こんなことならばもっと彼女と色々なことをしておけばよかった。
私の家の食器を一緒に買いに行く約束も果たせなかった。
あいつが私の部屋に置いていったコーヒーメーカーの使い方ももう二度と分からない。
彼女のことを『奈々ちゃん』と呼んであげればよかった。そうすれば浅比は喜んでくれただろうか。
手のひらで目元を拭う。
スマートフォンを見る。
――浅比がもういないのだとすれば。
私がつい先ほどまでやり取りしていたのは何なのだろう。
この数日の間、私が会っていた彼女は何だったのだろう。
もしかすると私が事実を理解することを拒んでいたから、彼女が現れたのだろうか。
ならば、私が事実を受け入れてしまったら彼女はもう二度と会いに来てくれないのか。
それは、嫌だ。
「会いたいよ、浅比さん……」
スマートフォンを手に取る。
分からなかったことにしよう。
見なかったことにしよう。
聞かなかったことにしよう。
私は、いつものようにメッセージアプリを開いた。
過去の送信履歴が目につく。
『今日はごめんなさい。私が悪かったです。今後はあなたの許可がない限りは勝手に脚色したり事実をねじ曲げたりはしません』
最初の取材の後に、私が彼女に送ったものだった。
スマートフォンを握り締めながら嗚咽を漏らした。
「……私、あなたに尊敬してもらるような人間でいたかった。でも、無理だ」
震える手で電話をかける。繋がる。
「……もしもし。浅比さん。また取材に行かない?」
『どこにですか?』
「どこでもいいわ」
『じゃあ、迎えに行きますね』
インターホンが鳴る。
私は立ち上がった。きっと浅比だ。
玄関の外から小さな音が聞こえる。
――トン。
ドアを指先で叩くような音。
――トン。
もう一度。
――トン。
そんなに急かさなくたっていいのに。早く出てあげよう。
私は玄関に駆け寄る。
急いで鍵を外した。
「浅比さん……!」
ドアを開ける。
そこには、背の高い男が立っていた。頭があるべき場所は白い空洞のようになっている。
男は、手に持ったカメラのような形の器具を私の顔に押し当ててきた。
鈍い痛みが走る。
涙が流れた。
私の意識は、そこで途切れた。
(『最終章 記録:浅比奈々・24歳女性』・完/『後日談 天渓館に伝わる覗き鏡についての記録』へ続く)




