第27話 終わる日常
朝。パソコンの電源ランプは消えていた。
私は机に近づいた。
パソコンを起動し、画面を開く。
何もない。
昨夜のことを確認しようとしてやめた。
確認すれば、また何かを始めてしまう。そう思った。
私はそのままパソコンの電源を切ると、朝食を作った。
◇
その日から、小さなことが続いた。
玄関に置いた靴の向きが変わる。
閉めたはずのカーテンが少し開いている。
本棚から一冊だけ本が落ちる。
時計が、たまに数分遅れる。
どれも『よくあること』と言える程度だった。気のせいで済ませることができる程度。
だから私は、記録しなかった。何かあっても気にしないことにした。
それでも夜になると聞こえる。
――ズ、ズズ……ズズズ……。
低い音。
部屋のどこかから響いてくる。
私は何も調べない。
ただ、布団に入る。
音が消えるまで待つ。
そのやり方に、少しずつ慣れてきた。
大丈夫。大丈夫なはずだ。
心の中で自分にそう言い聞かせる。
これ以上、何も起きないはずだ。
何も――起きないでほしい。
◇
一週間ほど経った。
浅比から連絡がない。あの日、私の家から帰って以来、一度もだ。
珍しい。いつもなら、何もない日でも一言くらいはメッセージを送ってくる。
私は電話をかけようとしてやめた。
忙しいのかもしれない。そう思った。
彼女は彼女で仕事があるのだろう。そう考え、気にしないことにした。
夜になり、スマートフォンが鳴った。
浅比からだった。
「もしもし?」
返事がない。
「浅比さん?」
しばらくして小さな息の音。
『……先生』
私は背筋が伸びた。何か様子がおかしい。
「どうしたの?」
『今、どこですか?』
「家だけど」
『本当ですか?』
「ええ」
電話の向こうで、浅比が黙る。
『……私、今、先生の部屋の近くまで来てます』
私は動けなかった。
「……何。部屋の近くって?」
『先生の部屋がある階。ドアが見えるところまで来たんですけど』
「どうしてそのまま家まで来ないの?」
『……先生の部屋の前に、私が立ってるんです』
「あなたが? どういうこと?」
『ですから、私じゃない私がいるんです』
思い出す。数日前に枕元で聞こえた声。浅比の声を真似て私の名を呼んだ。
ただ名前を呼ぶだけの現象だと思っていたが、そうではないのか。
あれは、声だけでなく姿まで真似るのか。
蛇塚村で見たあれ。背が高い男性の姿。白く空洞のような頭。カメラに似た道具を手に持っている。かつて村で祀られていた、名前を呼んではいけないもの。
浅比の震える声が電話越しに響いた。
『先生、私ずっと言えなかったんですけど。旧・神明トンネルを出る時に追いかけてきた人影があったじゃないですか』
「……ええ」
『あれ、先生の姿をしてました』
私は押し黙った。
玄関を見る。鍵は掛けている。
その鍵を開けない限りは勝手に部屋の中に入ってくることなどできない。
できない、はずだ。しかし、それだけで本当に安心と言えるのだろうか。
『今、インターホンを押そうとしてます……』
その音が部屋の中で鳴った。
――ピンポーン。
私は立ち上がった。
「……聞こえた」
『それ、私じゃないです』
私は玄関を見つめた。
スマートフォンの向こうでは、浅比が息を殺している。
『先生』
「何?」
『ドア、開けないでください』
私は答えなかった。
その時。玄関の外から。
――トン。
小さな音。
誰かがドアを指先で叩いた。
――トン。
もう一度。
浅比の声が震える。
『私じゃありません』
「分かってる」
――トン。
三度目。
その音を聞いた瞬間、私は思い出した。
蛇塚村の記録。
三回、戸を叩かれたら返事をしてはいけない。
私は息を止めた。
胸の鼓動が早くなる。
決して玄関へは行かない。そう決めた
「浅比さん」
『はい』
「お願い。まだ電話、切らないで」
『分かりました』
二人で沈黙した。
外の気配はしばらくすると消えた。
数分後。浅比が言った。
『私からも見えなくなりました。どこかに行ったんですかね』
「……よかった」
『私も今日はこのまま帰ります』
「平気? 危なくない?」
『分かりませんが、エレベーターは使わないで非常階段から降りることにします』
「そう」
『先生』
「なに?」
『今のこと、記録しないでくださいね』
私は少ししてから答える。
「……分かった」
私は玄関の前に座り込んだ。
体が震えている。
でも、今までとは少し違った。
理由を探さなくても。
何がいたのか分からなくても。
私は、ここにいる。
そして、浅比もいる。
それだけで十分だった。
何日かして落ち着いたらまた浅比と一緒に食事でもしよう。約束した通りに食器を買うのにも付き合ってもらおう。
そんなことを考えていると、電話の向こうから声がした。
『……先生』
「なに?」
『私、先生と会えてよかったです』
「急に何言ってるの」
電話の向こうの声は淡々とした調子だ。
『私、先生と知り合った時、すごく心配だったんです。思い詰めたような顔をして、小説のこととか記録することばかり考えて。自分の生活のことはいい加減で。……いなくなる前の母みたいだなって。だから先生も、いつかいなくなっちゃうんじゃないかって思ったんです』
「……浅比さん?」
『母がいなくなった時、私はまだ子供だったので何もできませんでした。でも、今回はちゃんと自分にできることをやれました。……先生を守ってあげられました』
「ねえ、何言ってるの!」
彼女の声が低くなる。
『……先生。お願いがあります。私のこと、奈々ちゃんって呼んでくれませんか?』
どういうつもりなのだろう。彼女はいったい何を考えているのだ。思わず声が震える。
「……やめてよ。これが最後みたいな言い方。縁起でもない」
『そうですよね。すみません』
電話越しに鼻をすするような声が聞こえる。
『それじゃあ、失礼します。……ご飯、ちゃんと食べてくださいね』
「浅比さん?」
どこかで地鳴りのような低い音がした。
電話が切れる。
その夜、何度かけ直しても彼女が電話に出ることはなかった。




