第26話 誤った選択
私は考え続けた。何かに従うようにしてこのまま物語を書き続けていいのか。それともここで筆を折るべきか。
机の端に置いた白い紙。そこに薄い字で記された『続きを書け』という文章。
夢の中の女が伝えてきた『ここから先は、書いてはいけない。』という言葉。
どうしても答えは出せなかった。
どちらを選んでも何かが起きそうな気がして恐ろしかったのだ。
そうしていると次第に寝食も疎かになっていった。
数日後。思い立った私は、部屋の中を片付け始めた。
蛇塚村の資料。地図。コピー。古い写真。関口教授の研究資料。
こんなものが目に入る場所にあるのがよくないのだ。
一つずつ段ボールに詰める。
捨ててはいけないような気がした。けれど、机のそばに置いておくのも嫌だった。
心の中で言い訳をする。これは処分だとか封印だとか、そういうわけではない。
ただしまっておく。それだけだ。
私は段ボールの蓋を閉じた。ガムテープを貼る。
大きくため息を吐いた。
これでいい。
これで、もう何も起きないはずだ。
◇
その日の夕方。浅比が来た。
「何ですか、その荷物。引っ越しでもするんですか、先生」
「今までの取材の資料よ」
「それ全部ですか?」
「ほとんどそう」
浅比は段ボールを見た。
「捨てるわけじゃないんですよね」
「ええ。それもなんだか違う気がして」
浅比は頷いた。
「じゃあ、手元には残しておくんですか」
「残すわ。でも、今は何も見ない」
「そうですね。それがいいと思います」
私は少し笑った。
「あなた、本当に変わったわね。カメラを通してだったら見ても怖くないんじゃなかったの?」
浅比は拗ねたように口を尖らせる。
「意地の悪いことを言わないでください。私も色々あったんですよ。それに変わったのは先生もです」
「どういう意味よ」
「前なら、そんなことしてなかったじゃないですか」
確かに以前の私なら資料から目を背けることなどしなかっただろう。
すぐ調べていた。すぐ書いていた。
今は違う。それだけではいけないことを知っている。
「浅比さんの言う通りね。……これでもう何も起きないかしら」
「どうでしょう。でも、やってみてもいい思います」
浅比にそう言われるとより安心できた。頬杖をついて彼女を見る。
「ねえ、浅比さん。そんなことよりコーヒーが飲みたいんだけど」
「先生もそろそろ自分で淹れられるようになってください。コーヒーメーカーの使い方なら教えますから」
「必要ない。あなたがいる時は淹れてくれるでしょ」
「うわっ、モラハラ発言」
「どっちかっていうとパワハラでしょ。仕事仲間なんだから」
「もう友達だって先生が自分で言ったんじゃないですか。家庭内モラハラです」
「家庭内ではないでしょ」
そう言うと浅比は笑った。彼女も最近はよく笑うようになったと思う。
◇
つい話し込んでしまい、気がつくと日が暮れていた。
時間も遅い。二人で夕食を食べることにした。
コンビニで買った弁当と、インスタントの味噌汁。
特別なことはない。それでも、私は妙に嬉しかった。
ホラーの話をしない夜。記録の話をしない夜。
浅比の母親の話も出なかった。
ただ、今日あったくだらないことを話す。
「今日、ここに来る途中で観光客っぽい人に道を聞かれました。スマホのアプリを見ながらなんとか案内しましたけど、こういうの毎回焦りますね」
「あなた、そんなによく道を聞かれるの?」
「結構聞かれますよ。近所ならともかく出かけた先で聞かれることもあって。そういう時はとても困ります」
「意外。あなた、こんなに無愛想なのに」
「言っておきますけど、先生も大概ですからね」
笑う。
こういう時間が、こんなにも大切だとは思わなかった。
◇
食後。浅比が帰る。
「やっぱり食器は買いに行った方がいいですよ。今後もこういう機会はあるでしょうから」
「そうね。浅比さん、付き合ってもらえる?」
「いいですよ」
私は玄関まで見送る。
「じゃあ、また」
「はい」
「そういえば結局カメラはどうしたの?」
「まだ買ってません」
「それで大丈夫?」
「必要になったら買いますよ」
「そう」
浅比は立ち止まった。躊躇うように言う。
「……先生。今日、泊まっていっちゃダメですか?」
「どうしたの、いきなり」
少し驚く。私は言った。
「嫌ってわけじゃないけど。でも、泊まるにしたって着替えとかないと困るでしょ。私だって何も準備してないし」
「そうですよね。すみません、急に変なこと言って。……今日は、このまま帰ります」
一瞬だけ視線が合う。
その瞳が暗く沈んでいるように見えた。
不安なのだろうか。
何か言おうと思った。だが、言葉が出てこない。
玄関のドアが閉まる。
静かになる。
私はしばらくその場に立ち尽くしていたが、部屋へ戻った。
室内を見渡す。
部屋の隅。段ボールは閉じたまま。
机のパソコンも閉じている。
何も起きていない。
そのことが嬉しかった。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように言う。
大丈夫。もう大丈夫だ。
帰り際の浅比はどこか様子がおかしかったが、気にするほどでもないだろう。
彼女も疲れが溜まっていたのかもしれない。
あの子はしっかりしているから、何かあれば言ってくるだろう。求められればまたハグくらいならしてもいい。
これ以上、何も起きはしない。そのはずだ。
この日、私はしばらくぶりに落ち着いた気持ちで湯船に浸かった。
風呂から出て、部屋の電気を消す。
私は、布団に入るとすぐに眠りに落ちた。
◇
夜中。何かの音で目が覚めた。
紙が擦れるような音。
私は目を開けた。
部屋は暗い。
机の方から聞こえる。
――サ……ササ……。
私は起き上がらなかった。
見に行くことはしない。ただ、耳を澄ませる。
しばらくして音は止まった。
私は目を閉じる。
眠ろうとする。
すると机の方からカチリ、と。パソコンを起動する時の音がした。
私はゆっくり目を開けた。
暗闇の中でパソコンの電源ランプだけが点いていた。
画面そのものは開いていない。
私は起き上がらなかった。
朝になるまでずっと考え続けていた。
私は、どこかで間違ったのだろうか。




