第25話 偽りの帰還
翌朝。担当編集の佐久間から電話が来た。
『真宵先生、体調どう?』
「特に問題はないです」
『それならよかった。連載のことなんだけどさ』
やはりその件だ。私は目を閉じた。
「そのことですが。……今やってる連載はもう終わりにしたいんです」
案の定、佐久間は慌てた。
『何を言ってるの、真宵ちゃん。今が一番乗ってるところじゃない!』
「私は書きたくありません」
『せっかくのヒット作じゃないか。読者が待ってるんだよ』
「ですから、読者のためにも書くことはできません」
電話の向こうで、佐久間が黙った。少しして。
『……先生』
声が少しだけ低くなる。
『一回、普通の話を書いてみない?』
「普通の話? 何ですか、それ」
『怪談でもいいよ。けど、今やってる取材記録じゃなくてさ。先生が昔書いてたような、普通の小説』
私は少し驚いた。彼がそんなことを言うとは思わなかった。
「……少し考えてみます」
『うん、それでいいよ。また相談しよう。考えがまとまったら連絡ちょうだい』
「分かりました」
電話を切った。
私は机の前に座った。何も考えずにパソコンの画面を見つめる。
普通の話。書けるだろうか。今の私に。
ただ呆けたように視線を彷徨わせる。
ふと机の脇の本棚が目についた。
本が並んでいる。私が昔から好きだった小説たち。
泉鏡花、岡本綺堂、小泉八雲、横溝正史。そして、昔の自分の本。
古い怪談。幽霊。妖怪。誰かの過去。どこかの家系。
私が好きだったもの。私が愛していたもの。
少しだけ、懐かしかった。
本棚から適当に文庫本を手に取り、パラパラとページをめくった。
たまたま開いたその本は泉鏡花の『婦系図』だった。学者の主人公が元芸者の女と付き合うことを師から反対されて苦悩する、そんな悲恋の模様を描い小説だ。
「怪談じゃないじゃん。……まあ、いいか」
私は、構わず読み始めた。
慣れ親しんだ文章のおかげだろうか。気がつくと私は、夢中で読みふけっていた。
読み終わると本を閉じ、胸元で抱えるようにして小さく息を吐く。
眼鏡を直し、本棚から別の本を取り出した。ページをめくる。次の物語を読む。
いつの間にか私は床に座り込んだままの格好で本を読み続けていた。そばには読み終えた本が積まれていく。
窓の外の電車の音も、近所の子供の声も、もう聞こえなかった。
文字が読みにくくなってきたことに気づき、顔を上げる。部屋が暗くなっていた。いつ日が沈んだのだろう。
私は、うっすらと笑った。こんなにのめり込むようにして小説を読んだのは久しぶりだ。
首が痛い。腰もだ。
肩を軽く叩きながら立ち上がる。
何でもいい。書こう。そう思った。
ほんの少しずつでも書くしかない。私には、それしかできないのだから。
気分が前向くと急に空腹を思い出した。先ほどまで全く気にならなかったというのに不思議なものだ。
まずは腹ごしらえをしよう。
私は、ふらつく足取りでキッチンに向かった。
◇
夜。私は髪をまとめると再び机の前に座った。
パソコンを開く。新しいファイルを作る。
タイトルはつけない。一行だけ書く。
深く考えず、思いついた文章をそのまま形にすることにした。
『ある家に、誰も使わない部屋があった。』
そこで止めた。
わずかに身構える。
だが、何も起きない。当然だ。
私は少し笑った。
「これでいいのよね」
怪しい出来事や化け物のことを説明しなくていい。
何かと別の何かを繋げなくてもいい。
ただ一つの話を書けばいい。
考えてみればなんて単純なことだったのだろう。
ただ文章を書く。物語を記す。それだけでいい。危ないことなど何もない。
そう思うと、胸の内に安堵が広がる。
続きを書いてみよう。キーボードに手を伸ばしかけた、その時。
カーソルが一文字分だけ右へ動いた。
思わず息を吞む。
どうして。
私はまだ触ってもいなかった。
画面には、何の文字も増えてはいない。ただ、カーソルの位置だけが変わっている。
私はしばらく画面を見つめた。
小さく頭を振る。
ただの気のせい。もしくは目の錯覚だ。
そのままファイルを閉じた。保存はしない。
今日は、これでいい。
これで、おしまいにしよう。
何も起こるはずがない。そのはずなのだ。
◇
その夜、夢を見た。
誰かが文章を書いている夢だった。
背中しか見えない。
長い髪。暗い部屋。古い机。
私はその人物を知っている気がした。
でも、顔は見えない。
机の上には紙が一枚。その人が何かを書いている。
尋常な様子ではない。何を書いているのだろう。
その人は喜んでいるのだろうか。それとも怒っているのだろうか。よく分からない。
知らなくてもいいはずなのに、どうしても気になる。
私はゆっくりと近づく。
すると、紙の上にある文字が読めた。
『ここから先は、書いてはいけない。』
その人が、顔を上げた。目が合う。
女だ。
――その女は。
酷く悲しそうな顔をしていた。
私は、そこで目を覚ました。
朝だった。
じっとりと嫌な汗をかいている。
私はしばらく天井を見ていた。
夢。ただの夢だ。
そう考えた。
起きて、机へ向かう。
机の上のパソコン。昨日閉じた時のままだ。
だが、その横に、一枚の紙が置かれていた。
昨夜はこんな紙はなかったはずだ。
恐る恐る手に取る。
しかし、何も書かれていなかった。
紙を裏返す。やはり白紙だ。
少し安心した。
何も書かれていなくても気になりはする。さっさと処分してしまおう。
ゴミ箱の前に立ち、丸めて捨てようとしてその手を止めた。
白い紙。その端に鉛筆で薄く、短い文章が書かれていた。
『続きを書け』
私は紙を机に戻した。文字は消さなかった。書き足しもしなかった。
その短い文章を見ないようにしてキッチンに向かう。なるべく何も考えないようにしながら簡単な朝食を作った。
カップの中。ティーパックの紅茶を見つめながら呟く。
「私にどうしろって言うの……」
浅比が淹れてくれるコーヒーが無性に飲みたかった。




