第24話 友人として
翌日の夕方、浅比が来た。電話で約束した通りだ。
「先生。なんだか顔色が悪いですよ」
玄関を開けるなり、そう言われた。
「家に来て早々に何よ。というか、あなたに言われたくないんだけど」
「えっ。もしかして私、顔色悪いですか?」
「少しね」
「……そうですか」
浅比は靴を脱ぎ、いつものように部屋の隅へバッグを置いた。ただ、ハンディカメラだけは持っていなかった。
私はすぐに気づいた。
「あなた、カメラは?」
「蛇塚村で壊れてからまだ新しいのを買ってないんです。なんとなくそういう気になれなくて」
「仕事に支障が出ない?」
「今はとりあえず編集の仕事とかだけ引き受けてます」
浅比はそう言って、コーヒーを淹れ始める。いつものように私の分のカップを机に置いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外を電車が走る。その振動で、カップの表面が小さく揺れた。
「昨日、声を聞いたわ」
私が言った。
コーヒーを飲もうとした浅比の手が止まる。
「私もです」
「浅比さんが聞いた声はなんて言ってたの?」
「……名前を呼ばれました」
私は少しだけ目を伏せた。
「私もそう。先生って、呼ばれた」
私と浅比のもとで全く同じことが起きている。でも、それ以上は何も聞かなかった。
私は蛇塚村の話をしようとして、やめた。代わりに少し考えて別のことを訊いた。
「お母さんのこと、考えてた?」
「はい」
浅比は答えた。
「ずっと考えてます」
「寂しい?」
浅比は少し考えた。
「寂しいです」
珍しく、素直な答えだった。
「でも……前とは少しだけ違います」
「どう違うの?」
「私は、母が残したものを全部知れば、母に追いつけると思ってました」
浅比はカップの中を見つめていた。
「でも、多分、そうじゃなかったんです」
「うん」
「知らないままでも、生きていけるんですね」
私は黙っていた。彼女のその言葉が、胸に残った。
私はずっと逆だった。
知らないことが怖かった。
だから本を読んだ。調べた。意味を作った。文章を書いた。
分からないものを、分かるものに変えようとしていた。
でも、分からないものが残っていても、人は朝になれば目を覚ます。ご飯も食べられる。他の人と話すこともできる。
そんな当たり前のことを私はようやく理解し始めていた。
「浅比さんの言ってること私にも分かるわ」
「そうですか」
「……浅比さん。もし一人で寂しければいつでも私の家に来ていいし、連絡してきてもいいから。私たち、もう友人みたいなものでしょ」
彼女は少し驚いたような顔をする。
「……まさか先生からそんなことを言われるとは思いませんでした」
「私も変わったの。色々なことがあったから」
「そうですか。なら、遠慮なく甘えさせてもらいますね」
浅比はそう言って両手を広げる。
「……何それ」
「ハグですけど」
「ええっ……。私が想定してた甘え方と違う」
「先生が言ったんじゃないですか。甘えていいって」
「そうだけどさぁ……」
浅比は真顔で私を見つめてくる。私は観念したように小さくため息をついた。
「もう。しょうがない……」
両手を広げ、浅比を引き寄せる。彼女の小柄な身体をぎこちなく抱きしめた。
「良い感じですよ、先生」
「意味が分からない。……言っておくけどさ。私は友人ではあるけど、あなたの母親でも恋人でもないんだからね」
「分かってます。先生は先生ですよ」
浅比が抱きついたまま囁く。
「……雨宮真宵、先生」
抱き合ったままの姿勢のせいで、その声はすぐ耳元で響いた。名前を呼ばれただけなのに思わずどきりとしてしまう。
私は、慌てて彼女の身体を引き離した。
「……はい。もう終わり」
「分かりました」
浅比は素直に離れるとデスクの少し後ろの位置に立つ。私は気まずくて彼女の顔を直視することもできない。
しかし、浅比の方はどうにも平然とした様子だ。人の気も知らないで呑気なものだと思う。
「先生」
浅比が言った。それだけでなぜか心臓が跳ね上がりそうになる。
「連載。これからはどうします」
「どうって」
「……もう、やめます?」
私は苦笑した。
「ええ。実はそう思ってたところ」
「私はいいと思いますよ。でも、佐久間さんがうるさいでしょうね」
「でしょうね。まあ、その辺は上手く説得するわ」
二人で笑う。
それから浅比は立ち上がった。
「じゃあ、帰ります」
「分かった。連載の件は佐久間さんと話してみる。進展があったら連絡するわね」
「はい。待ってますね」
少し迷ってから私は言った。
「気をつけて」
「先生も」
玄関で別れる。
浅比は振り返らなかった。
私はドアを閉めた。
◇
一人になる。部屋が急に広く感じられた。
私は机の前に座った。
パソコンは閉じたまま。ノートも。資料も。
何も触らない。
しばらく椅子に座っていると時計が十八時を示した。
カチ。
その瞬間、壁掛け時計の秒針が止まった。
私は顔を上げた。
一秒。二秒。三秒。
止まったまま動かない。
でも、驚かなかった。
数秒後。
秒針が動き始める。カチリ、と。何事もなかったように。
私はため息をついた。
「……そういうこともあるわよね」
自分に言い聞かせるように口にする。まるで私らしくない言葉だ。
その言葉が、本当に自分から出たものなのか少しだけ自信がなかった。




