精神科診療録(一部抜粋):雨宮真宵に関する経過記録
副題:取材活動後に生じた一連の知覚体験・記録異常に関する聞き取り
【対象】雨宮真宵(28歳・女性/怪談作家)
【担当】氏名記載なし(以下、担当医)
【記録方針】本資料は、本人の申告、本人が提示した資料、診察時の観察を区別し、経過の順に整理したものである。以下に記す異常現象の多くは独立した第三者による検証を経ておらず、医学的判断のみで原因を確定できない。本人の苦痛は認めつつ、体験の原因や超常的な解釈を事実として断定しない。
【診療番号】AM-01 【主題】受診に至る経緯・取材開始
患者は雨宮真宵、二十八歳、職業は怪談作家。山中で発見され、警察により保護される。発見時点で著しい衰弱と栄養失調の傾向が見られた。初診時の聞き取りでは、近作の売上不振により職業的な自信を失いかけていたこと、担当編集者・佐久間氏から「記録資料を用いた実話風の怪談」を提案され、旧・神明トンネルの取材を引き受けたことを述べた。患者は当初、この手法を文学的に不誠実なものと考えていたという。
面接中の受け答えは整然としており、現実検討能力にも明らかな破綻は認めない。患者は「物語なら自分が作ったと分かっている。記録は、誰が作ったのか分からなくなる」と発言した。この言い回しを、当初は創作論上の比喩と解釈した。
【診療番号】AM-02 【主題】旧・神明トンネル取材
患者は撮影担当の浅比奈々《なな》氏と初めて本格的な現地取材を行った。浅比氏は「レンズ越しなら、見たものが錯覚かどうか後から確認できる」と説明していたという。患者自身は、記録の正確さよりも、目撃者が恐怖を感じた理由を探ることに関心を示していた。
患者の話では、現地の壁面は肉眼では通常のコンクリートに見えたが、撮影映像の一部だけが揺れ、形状を変えたように見えた。患者はその場で確定的な説明を避けている。同行者との信頼関係は、この時点では仕事上の協力関係として語られたが、面接の終盤で患者は「大切な友人」と小声で付け加えた。
【診療番号】AM-03 【主題】異常音声と映像の不一致
患者は旧・神明トンネル内で録音機器の波形が上限を超えるほど振れた一方、本人たちには警告音以外の音が聞き取れなかったと述べる。さらに、浅比氏のカメラには肉眼で確認できなかった壁面の揺らぎが映っていたという。
帰宅後、患者は録音ファイルから自分の笑い声に似た音を発見した。本人は録音時に笑った記憶がなく、当時は口を閉じていたと強く主張する。提示された資料だけでは音声の発生源を特定できず、編集・機器由来の可能性も排除できない。患者は「自分の声であることは分かるが、自分が出した声だとは思えない」と述べた。発言時、患者は恐怖より困惑を強く示していた。
【診療番号】AM-04 【主題】記録形式への移行
患者は当初、取材体験を通常の怪談として執筆しようとしたが、文章にした途端、現場の感覚が失われるように思えたと述べる。その後、物語としての説明を避け、音声データ、時刻、撮影ログ、取材メモを並べる構成へ変更した。
同時期、患者のパソコンに『REC_2312.wav』という見覚えのないファイルが表示されたという。作成時刻は午後十一時十二分とされるが、作成経緯は確認できていない。患者は「誰かが続きを書かせようとしている」とは明言せず、「ファイルが、私の知らない時間を記録していた」と表現した。創作上の演出と実体験の境界を本人が意識的に分けようとしている点は、引き続き確認する必要がある。
【診療番号】AM-05 【主題】作品の反響と反復行動
患者が発表した『旧・神明トンネル音声記録抄』は予想外の反響を得た。読者は記録の真偽を議論し、担当編集者から連載化を提案された。患者は商業的成功を喜ぶ一方、従来の小説よりも「説明されていない記録」の方が恐ろしいと評価されたことに複雑な感情を示した。
以後の取材を断らなかった理由について、患者は金銭的な理由以外にも「何が起きたのか、自分たちにも分かっていなかったから」と説明した。睡眠や食事への影響はこの時点では軽微とされるが、患者は録音ファイルや映像を繰り返し確認するようになった。症状の持続を促す要因として、恐怖そのものに加え、未解決の疑問と仕事上の成功が相互に作用していた可能性がある。
【診療番号】AM-06 【主題】配信者ソラ氏の相談
患者は次の取材対象として、オカルト系配信者ソラ氏を紹介された。当初、患者は再生数を稼ぐための演出ではないかと疑っていた。実際、ソラ氏は過去の配信で小道具や効果音を用いた演出を行ったことを認めていたという。
ただし、面接で患者が強調したのは、相談時のソラ氏が疲労と恐怖を隠せない状態に見えた点である。患者は「嘘をついてきた人が、嘘では説明できないものに出会ったと言っていた」と述べた。これは患者の解釈であり、ソラ氏の申告内容を独立して検証する資料は十分でない。患者は取材を続けた判断について後悔と責任感の両方を語った。
【診療番号】AM-07 【主題】撮影画面上の人型影
患者の供述によれば、ソラ氏の部屋は昼間の光で通常どおり照らされていたが、ハンディカメラの液晶画面上に限り、壁の一部が人型に近い黒い輪郭として映った。患者は光の反射や影の重なりによる現象と説明しようとしたが、同行した浅比氏はその説明に納得していなかったという。
患者は「見えないものを見たのではなく、見えるはずのものが自分の目には見えなかった」と繰り返した。面接時、患者は映像が実際に何を示していたかを断定せず、撮影機器の特性や画像処理の可能性も認めている。一方で、カメラ画面を見続けることへの抵抗が強まり、話題を切り替えようとする様子が見られた。
【診療番号】AM-08 【主題】撮影中断と再点灯
患者によると、人型の影は画面の中で位置が定まらず、目を離すとどこに映っていたか分からなくなった。浅比氏は撮影を中止し、カメラの電源を切ったという。その直後、誰も触れていないはずの配信用ライトが傾き、停止したはずのハンディカメラの液晶が再び点灯したと患者は話した。
画面の隅には黒い輪郭が再出現していたというが、該当映像は診察時に確認できていない。患者は「カメラがあれば安心だと思っていた。けれど、画面が消えたときの方が、何がいるのか分からなくなった」と述べた。これは、それまで患者が頼りとしていた確認手段への信頼が揺らいだ重要な転機と考えられる。
【診療番号】AM-09 【主題】映像再検証
数日後、患者はソラ氏の配信アーカイブと浅比氏の撮影映像を並べ、時刻やフレームの差を検討した。通常再生では分からなかった不一致が、コマ送りでは複数見つかったと述べる。ただし、患者は具体的なフレーム番号や原データの保管場所を一貫して示せておらず、機器側の編集・圧縮処理による可能性は残る。
面接中、患者は作業に浅比氏が同席していたことを、事件の恐怖と同じくらい細かく語った。彼女がそばにいると作業が続けられたという。事件の記録だけでなく、浅比氏の存在が患者の安心感を支えるようになっている。一方、映像を何度も見直す習慣は継続しており、苦痛を軽減する行動が同時に不安を再燃させている可能性を説明した。
(中略)
【診療番号】AM-13 【主題】複数資料の共通項
患者は旧・神明トンネルの音声、ソラ氏の室内映像、関口教授の音声資料を並べ、『事実』と『解釈』を別々に整理した。低い音、名前を呼ぶ声、画面端の黒い輪郭などが共通しているように見えるものの、患者自身も共通性を見出そうとする姿勢が結論を歪める可能性を指摘している。
その後、患者の自室で黒い人影が再び見え、床付近では細長い紐状のものが動いたと訴えた。この時点で幻覚等の兆候が見られ、錯乱傾向にあった模様。その後、浅比氏が患者の手を取り、二人で部屋を離れたという。患者は「証拠を集めるために見続けること自体が、何かをこちらへ近づけているように感じる」と述べた。診療録においては、患者の自己観察と恐怖の訴えを区別して記載する必要がある。
【診療番号】AM-14 【主題】自宅での警戒行動・旧鬼沢家別邸
患者は浅比氏と一度外出した後、自宅に戻り、スマートフォンで室内を隈なく撮影した。映像には人影や蛇状のものが確認できなかったが、患者は以後、周囲を撮影していないと何かが近くにいるように感じるようになったと述べる。これは不安をやわらげるための確認行動だが、長期化すれば恐怖への注意を強めるものである。
同時期、二人は旧・鬼沢家別邸の取材を始めた。患者は「行き先を自分で選んだのか、仕事に選ばされたのか分からなくなった」と語った。自発的に取材を続ける理由と、取材から離れられない感覚が混在している。患者は不安を認めながらも、取材の中止を具体的に検討するには至っていない。
(中略)
【診療番号】AM-18 【主題】蛇塚村への移動
患者と浅比氏は、関口教授の資料と古い地形図を照合し、現行の道路地図には記載されていない蛇塚村を探した。山道は枝木に塞がれ、村へ至る経路も明確でなかったという。患者は危険そのもの以上に、見聞きした断片を一つの物語へ結び付けてしまう自分の傾向を恐れていた。なお、この蛇塚村という村落については患者の証言以外で存在が確認されておらず、詳細は不明である。
患者は「何かに襲われるのが怖いのではなく、私が勝手に意味をつなぎ、取り返しのつかないところまで進んでしまうのが怖い」と述べた。これは一連の出来事を通じて初めて明確に表現された自己認識である。にもかかわらず、二人は調査を続け、村の奥にある記録祭祀所へ向かった。
また、患者はこの診療記録をやめるよう発言した。忌避行動の一種であろうか。
(中略)
【診療番号】AM-22 【主題】帰路の異常・退避
患者の供述では、村を離れようとした際、車のエンジンが始動せず、携帯電話も圏外だった。車外では低い音と複数の足音が聞こえ、浅比氏は母親の声に似た呼び声を聞いたという。ただし、本人の記憶にある声とは異なり、母親のカメラに残っていた音声を模倣しているように聞こえたようだと患者は説明した。
二人は記録を残さず、その場から歩いて離れた。患者は「追ってくるものがいたのか、足音の方向を自分がそう解釈したのかは分からない」と述べている。現地での出来事は、恐怖による記憶の混乱、環境音の誤認、その他の要因を含め、事後に検証できる資料がない。患者自身もその限界を認識しているが、身体反応としての恐怖は今なお強い。
(中略)
【診療番号】AM-27 【主題】模倣する人物・三度のノック
患者は、夜間の小さな物の変化や低い音を、意識して記録しないようにしていた。その後、浅比氏から電話があり、彼女が患者宅の近くまで来たものの、玄関の前には「自分と同じ姿の何か」が立っていると告げたという。患者の部屋でもインターホンが鳴り、玄関の外から三度ノックする音が聞こえた。
患者は蛇塚村の聞き取り資料を思い出し、扉を開けなかった。電話の向こうの浅比氏は「今のことを記録しないで」と頼んだとされる。通話は低い音とともに途切れ、それ以後、連絡が取れなくなった。患者は内容を詳細に語る一方、これを記録すべきでないという浅比氏の希望を何度も強調した。ただし、浅比氏は患者が証言した日時には既に死亡しており、この時点で患者は強いせん妄状態にあったと思われる。
【診療番号】AM-28 【主題】喪失の受容と再接続行動
患者は、浅比氏がすでに死亡している可能性を警察から示されたようだが、当日の説明内容は曖昧にしか思い出せないと述べた。その後、浅比氏から届いたとするメッセージに返信し、以前と同じように連絡を取り合ったという。しかし患者自身、相手が本人なのか、記憶や願望が作り出した存在なのか判断できずにいる。
患者は「事実を受け入れたら、もう二度と会えない気がする」と話した。悲嘆と否認が同時に存在することは理解できるが、連絡の継続が喪失の認識を困難にしている可能性がある。記録上、患者の説明する出来事の順序には矛盾があり、浅比氏が生存していることを裏付ける第三者の情報も確認できていない。患者は最後に、浅比氏と食器を買いに行く約束を果たせなかったことを繰り返し悔やんだ。
また、面接時にこの診療記録をやめるようさらに強い口調で発言した。警察の指導に伴い、診察は継続とする。
(中略)
【診療番号】AM-43 【主題】その後の取材に関する追加申告
患者はその後の出来事として、浅比氏とともに繰り返し取材に行ったと語った。そのうちの一つとして長野県の宿泊施設「天渓館」を訪れ、覗き鏡にまつわる死亡事故を調査したと説明した。古い鏡を覗くように天井裏から片目が見えたという。宿の構造図では、天井裏へ上る梯子は十年前に撤去され、空間も封鎖されていた。患者は、目撃したものが死者の顔の残像なのか、鏡や建物の特性なのか、あるいは自分の知覚によるものかを断定できないと述べた。
さらに患者は、依頼者宅のロフトに横たわる中年男性の遺体を、浅比氏のカメラ画面越しに見たと申告した。患者の説明では、その男性の遺体は映像上にだけ存在するかのように見えたとのこと。前回までの面接では患者本人からも浅比氏の死亡を示唆する話があったため、本件の時間的位置と同行者の身元には重大な不整合がある。患者は矛盾を指摘されると、「時系列に間違いはありません」と答えた。再度指摘したところ錯乱状態となり、酷く暴れたため面接は中断した。
【診療番号】AM-44 【主題】最終面接後の追記・未確認資料
患者は最終的に、東京の自宅ではなく、蛇塚村の洞穴に身を置いているとする発言を残した。この発言に関しては患者が山中で発見されたという事実とも符合する。そこでは浅比氏と共同生活を送っていると語り、日常的な会話や食事の描写が続く。しかし、患者の語る「食事」などの生活の様子は現実の状況とは一致していない。患者は「浅比をそばに留めておくためには、次の取材へ行かなければならない」と述べ、頻繫に病棟を抜け出そうとしている。
本件記録の原本には、診察時に医師が入力した覚えのない文字列が末尾に加わっている。「かさね、ぬい、なは、へび、つなぐ」。患者が自ら加筆したのか、別の編集過程で混入したのかは確認できない。これまでの診察において、患者は一貫して記録と解釈を分けようとしていた。しかし、面接中にも何かに対して繰り返し謝罪をする様子が見られた。謝罪内容については支離滅裂な部分が多く、何に謝罪していたのか定かではない。
【担当医・最終注記】
患者が何に対して謝罪していたのか分かった。私に謝っていたんだ。
あの女、ふざけやがって。
よくも私を巻き込んだな。
私は何もしていない。
私は何も悪くないのに。
あれがいる。どうしていいか分からない。
どうすればいい。
家の前に立っている。
助けてくれ。
助けて。




