第21話 破られた安全地帯
記録祭祀所の裏手には、地図にあった例の場所へと続く道があった。地図上で『蛇』とだけ書かれていた地点だ。
山肌に沿った細い道。その先に、小さな洞穴がある。
「行きます?」
浅比が訊いた。
私は入口を見る。
暗い。何も見えない。
「行きましょう。ここまで来たんだから」
そう言ったものの、不安は拭えなかった。この奥に何が待ち受けているのか、私にはまるで予想もつかない。
私たちは洞穴に入った。
内部は外から見た時よりもさらに暗く感じた。まるで暗闇が凝固したようだ。
懐中電灯の明かりが頼りなく感じられる。
そのまま数十メートルは進んだ。
湿った土。濡れた岩。天井から落ちる水滴。
そして、低い音。
――ドン。
私は足を止めた。
「……聞こえた?」
「はい」
また。
――ドン。
記録祭祀所で聞いた音と同じ。建物の外から響いていたあの音だ。
旧・神明トンネルの音とも似ている。あれは、この音だったのだろう。祭りの、太鼓の音。
私は反射的にスマートフォンへ手を伸ばしかけ、止めた。
浅比もハンディカメラを下ろしている。
「撮らないの?」
私が訊く。
「……撮りたいですけどね」
「私も撮れるものなら撮りたい」
二人とも、少し笑った。
けれど、浅比はカメラを首に下げたままにした。
「今は、やめます」
私も頷いた。
◇
洞穴の奥には、小さな祭壇の跡があった。
関口教授の研究資料を思い出す。
――社の奥にある穴からあれを戻す。縄を締め直して、奥へ。
聞き取りのカセットテープでは、そう言っていた。
ここか。この場所で、蛇塚村の祭礼が執り行われていたのか。
何かを置くための石がある。その上に、古い木札。文字はほとんど消えている。
「何て書いてあるんでしょう」
浅比が訊く。
私は顔を近づけた。読めない。
薄く残った線から元々の文字を推測できたかもしれないが、それはあまりよくないことのような気がした。
「……無理ね。判別できない」
「先生でも?」
「私でも」
また、笑った。
ところがその時。洞穴の奥から、別の音がした。
――ザッ。
土を踏む音。
私たちは同時に振り返った。
誰もいない。
もう一度。
――ザッ。
今度は、先ほどより少し近い。
「……嫌な感じがします。戻りましょう、先生」
浅比が言った。
私も頷く。
ところが、出口へ向かおうとした瞬間、浅比のカメラが勝手に起動した。
ハンディカメラの液晶モニターが点く。
そこに洞穴の奥が映っている。
私たちが今いる場所とは、少し違う。
古い祭りのような光景。白い服の人々。松明。
その中央に、誰かが立っている。
「お母さん……?」
浅比が息を呑んだ。
「……違う。あれはお母さんじゃない。誰か別の、男の人です」
映像が乱れる。
人影がこちらを向く。
その顔だけが映らない。手にカメラを持っている。
人影がゆっくりとこちらに近づいてくる。
距離が近くになるにつれて徐々に分かってきた。
その人影の顔は、映っていないのではない。あれには、初めから顔などないのだ。そこだけが白く空洞のようになっている。
手に持っているものもカメラではない。形はよく似ているが、別の何かだ。何をする道具かは分からないが、あれは――。
あれは、酷くおぞましいものだ。
胸の奥から吐き気がこみ上げてくる。
耳鳴りがした。高い金属音が響いている。
次の瞬間、ハンディカメラの画面が暗くなった。
「切れました……」
浅比がカメラを見る。
電源は入っている。けれど、映像ファイルは残っていなかった。
「……何も記録されていません」
浅比が震える声で呟く
私は、背筋が冷えた。
見た。あれを。
確かに見た。
二人とも。
なのに、何も残っていない。
私たちには、もうどうすることもできないのだ。
今、分かっているのはそれだけだった。
◇
洞穴を出る。
村へ戻る途中、後ろから音がした。
――ドン。
太鼓の音だ。
――ドン。
また。
私は振り返らないようにした。
でも、音は続く。
――ドン。
――ドン。
少しずつ近くなっている。
「先生」
浅比が私の腕を掴んだ。
「見ないでください」
私は頷いた。
「見ないわ」
二人で歩く。
音は追ってくる。
その時、私の頭の中に、文章が浮かんだ。
『山の奥で、二人の女が歩いている』
気がつくと私の手はバッグの中を探っていた。ノートとペンを取り出し、その文章を書いてしまいそうになった。
私は目を閉じる。
「……浅比さん」
「はい」
「私、今、文章にしそうになった」
「分かります」
「……どうしよう」
「大丈夫です。……大丈夫」
浅比の手が、私の腕から離れなかった。
それだけで、少し落ち着いた。
「よし。じゃあ、戻ろう」
「はい」
私たちは走った。
記録しない。
振り返らない。
理由を考えない。
ただ、この村から出る。
必死にそれだけを考え続けた。




