第20話 記録者の痕跡
記録祭祀所のさらに奥で、私は小さな箱を見つけた。小箱には黒い染みがついている。鍵をかけられる構造のようだが、施錠はされていなかった。
中には、写真とメモが数枚。
その一番上に、女性の名前があった。
『浅比恵』
浅比が息を呑んだ。
「……私の、母です」
私は何も言わず、紙を渡した。
そこには、短い文章が書かれていた。
『記録は、残せばいいというものではない』
その下に、別のページ。
『残したものを、誰かがどう読むかまでは選べない』
さらに。
『だから私は、記録することをやめる』
浅比は黙っていた。
私は紙をめくる。
浅比の母親による調査記録のようだ。この蛇塚村のことや村の祭礼のことが書かれている。
彼女が何らかの目的でこの蛇塚村のことを調べていたのは間違いない。
けれど、その目的までは分からない。何かからこの村を守ろうとしていたのか、それとも何かに巻き込まれて逃げようとしていたのか。そこまでは書かれていなかった。
記述の仕方からすると彼女がこの村の出身だったか、もしくは村人の近親者だったと推測することはできる。しかし、どうしても断定することまではできなかった。
ただ、何度も同じ言葉が出てくる。
『続きは残さない』
『名前は書かない』
『場所を特定しない』
『全てを揃えない』
私は思わず呟いた。
「そうか。これは……」
浅比が顔を上げる。
「浅比さんのお母さん、ある時期から記録することをやめたって言ってたでしょ。でも、たぶんそれは記録そのものを嫌っていたわけじゃない」
「どういうことですか」
「残し方を選んでいたのよ」
浅比は紙を見つめた。
「全てを残すことだけは避けていたってことですか。……母も、この村の人たちと同じことをしようとしていた?」
私は頷いた。
「……たぶん」
たぶん、だ。その言葉を自分で使えることが、少し嬉しかった。
以前の私なら、すぐに断言していた。
浅比の母親は『何か』を封じようとしていたとか、記録にはこういう力があるとか、村人はこうやって祀られている『何か』を固定していたとか。そんな風に。
でも、今は分からない。
分からないまま、資料を見る。
それでいいのだと思った。
その時、浅比が小箱に入っていた資料の中から一枚の写真を取り出した。
記録祭祀所の写真だ。建物の前に、誰かが立っている。
背が高い男性だ。顔は見えない。カメラを持っている。
写真の裏に、短い文章が書かれていた。
『これを追わないこと』
浅比の母の字だ。
「誰なんでしょう」
浅比が訊く。
「分からない」
写真は、その一枚だけだった。
私は裏返した。
もう一枚、古い紙が挟まっている。ノートの切れ端のようだ。
そこには、『あれは外へ出た』と書いてあった。
私は目を止めた。
「外へ出た?」
浅比も読む。
「これ……母のことを言ってるんですかね」
「分からない。でも、この紙切れ、どこかで見覚えがあるような……」
切れ端を手にしたまま立ち上がる。
さっきの部屋にあったノート。そういえばあれも最後のページが千切れていた。
『今年の祭りは、誰も書き役を担当しなかった。それでも、祭りは行われた』
あのノートの最後のページには、そう書かれていた。文章はそれで終わりなのだとばかり思っていたが。
もしも、ここにある切れ端がその後に続くのだとしたら。
『あれは外へ出た』
私は、ほとんど条件反射のように思考を巡らせる。
「……人口が減少し、村には記録を付ける人間が誰もいなくなった。だから、祭りを執り行っても効果はなかった。その結果、あれは村の外に出てしまった」
浅比が私を見る。
「……先生。何か危なくないですか」
「問題はあれというのが何なのか。カセットテープの聞き取りでも老人が語っていた。夜中に戸を三回叩かれても返事をしてはいけないという。名前を言ってはいけないあれ」
ふと手元の写真を見る。
記録祭祀所――私たちがいるこの建物の前で、誰かが立っている。
背が高い男性だ。顔は見えない。手にカメラを持っている。
「もしかして……この写真に映っているのが」
顔の見えない、男。
「これが、そうなの?」
口にした瞬間、音がした。
――とん。とん。とん。
建物の戸を誰かが叩くような音。
びくりとする。私と浅比は顔を見合わせた。
お互いに一言も発することができない。
戸板のすぐ向こうに誰かが立っている気配がする。
いや、そんなわけがない。ここは廃村なのだ。誰もいるはずがない。
カセットテープの老人の声が思い起こされる。
――夜中に戸を三回叩かれたら、返事をしてはいけない。
何も答えては駄目だ。
私と浅比は息を殺してじっとしていた。
彼女の方をちらりと見る。その手が震えていた。
浅比の手を握って安心させてやりたい。けれど、少し動いただけで外のあれに気取られたらと思うと身動きすることもできなかった。
どれくらいそうしていただろう。
やがて外の気配が消えたような気がした。
私と浅比はほとんど同時に息を吐き出した。荒くなった呼吸を少しずつ整える。
私は手元の紙を急いで折り畳んだ。写真と一緒に箱へ戻す。
浅比が驚いた顔をした。
「……いいんですか。あれの手がかりがまだ残されているかも」
「そうね。でも、いいわ」
「調査をやめるんですか?」
「やめないわ」
私は答えた。
「でも、今ここに書かれているものだけで物語を作るのはやめる。この村では、きっとそれはよくないことなんだと思う」
浅比が少しだけ笑った。
「いいと思いますよ。……先生、変わりましたね」
「失礼ね」
「褒めてるんです」
「なら、いいわ」
私も笑った。
私たちは、急いでこの建物を離れることにした。
――建物を出る前。
私は記録祭祀所の中央に立った。
数十年前の誰かが、この場所でこれらの大量の紙に文章を書き記した。
写真を整理した。音声を残した。
その人たちが恐れていたのは、きっとあれなのだろう。その記録を読む現代の私たちは、まだ何かを見落としているのだろうか。どうしても答えは出せない。
浅比がハンディカメラを取り出す。
私は何も言わなかった。
彼女はしばらく考えたあと、電源を入れた。
ハンディカメラの液晶モニターが青白く光る。
「撮ります」
「何を?」
「今の、この場所です」
私は頷いた。
録画開始の電子音が鳴る。
その瞬間、液晶の端に何かが映った。
人の形に見える。けれど、よく分からない。
浅比がカメラを動かす。像が少し鮮明になる。
背の高い、男性のようだ。顔はよく分からない。
手にカメラを持っている。
消えた。
「今の……」
「見ました」
肌が粟立つ。
二人とも、確かに同じものを見ていた。
「……さっき。返事、してないわよね」
「してないはずです。私も、先生も」
浅比は、録画を止めた。
しばしの沈黙。
どちらも言葉にはしなかったが、考えていることは同じだった。
これ以上、この建物を調べるのはやめようと。そう決心した。
ただ、一つだけ引っかかっていたのは。
壁に貼られた古い地図。『蛇』とだけ書かれた場所。
そこに何があるのかは分からない。だが、私たちはその場所を見に行かなければならないのだろう。そんな義務感にも似た焦燥に駆られていた。




