第17話 破綻する構成
東京へ戻ってから数日後。私は、あの洋館での出来事を原稿にしようとした。
いつものように資料を並べる。
取材記録。映像。地図。建物の資料。
私は最初に客観的な事実だけを書くことにした。
『振り子時計が二度鳴った。針は十一時七分で停止していたままだ』
そこで、手が止まる。こんなものは何も客観的ではない。
私は時計の音を聞いた。だが、それを裏付ける録音データはない。カメラの録画にも、音が上手く残っていない。
ならば、これは私の証言にすぎない。
私は文章を消した。
気持ちを切り替えねば。次だ。
『カメラ映像に、現在とは異なる室内の様子が記録された』
これも書いてから迷った。異なる、と言えるのか。
単なる映像の乱れだったのかもしれない。
私はまた消した。
最後には原稿は白紙になった。
私は笑ってしまった。
「……何も書けないじゃない」
以前なら、ここから物語を作った。
起きた現象や現れた化け物の由来を考える。伏線を置く。読者が理解できるように、点と点を繋ぐ。けれど今は、それをやるのが怖かった。
意味を与えることで、何かを変えてしまう気がする。
それが私の思い込みなのか、実際に起きてしまっていることなのか。それすら分からない。
私が頭を抱えているとインターホンが鳴った。浅比だ。
私が出迎えると彼女はそのままキッチンに向かう。そして、何も言わずにコーヒーの用意を始めた。私の部屋に来るのにすっかり慣れてきている。
浅比は私の分のコーヒーをデスクに置き、机の上を見た。パソコンの画面には白紙のままの原稿が映っている。
「先生。まだ何も書いてないんですか」
「ええ」
「珍しいですね」
「私だって、何も書けない日くらいあるわ」
「締め切り、そろそろですよね。大丈夫なんですか」
「……あまり大丈夫じゃないかも」
お互いにしばらく無言のままだった。
浅比がおもむろに口を開く。
「……蛇塚村へ行きます?」
私は顔を上げた。
「浅比さんは行きたいんでしょ?」
「そうですね。知りたいという気持ちはあります」
浅比は短く言った。
「……母のことを」
それだけだった。
私は少し考えた。
「私も、知りたいと思う」
「先生もですか? でも、私の事情に先生を巻き込むのはあまり気が進まない、というか……」
彼女の視線が落ちる。
「私は、別に巻き込まれてるなんてつもりはない」
私は眼鏡を直した。
「あなたとは理由が少し違うだけ」
「どんな理由なんですか、先生のは」
「ここまで来たら、途中でやめるのが気持ち悪いのよ」
浅比が少し笑った。
「なるほど。先生らしいですね」
「それ、褒めてる?」
「半分は褒めてますよ」
「じゃあ、もう半分は馬鹿にしてるってことじゃない」
「馬鹿にはしてません。ただ、面白いなって思ってるだけです」
「それを馬鹿にしてるって言うんでしょ。本当に年上への敬意が足りないな、こいつは」
彼女の頭を小突く。私はこの日、初めて笑った。久しぶりに声を出して笑ったような気さえした。
◇
その夜、私は取材資料を整理した。
旧・神明トンネル。ソラの部屋。関口教授の研究資料。旧・鬼沢家別邸。
そして、蛇塚村の地図。
四つの出来事は、まだ一本にはならない。
だから、一つにはまとめなかった。
それぞれ別の紙に書く。
ただ、中央にだけ。蛇塚村、と記した。
そこから線は引かなかった。引かないまま、紙を閉じた。
これでいい。少なくとも、今は。
その時、部屋の向こうから、浅比の声がした。
「先生」
「なに?」
「カメラ、見てください」
私は立ち上がった。
浅比のカメラは机の上に置かれていた。
録画はしていない。液晶モニターも消えている。
けれど、画面の中に一瞬だけ、洋館の書斎が映った。
私たちが立っていた部屋。
そこに、誰かがいた。
机の前に座っている。
古めかしい服。長い髪。
顔は見えない。
その人物はこちらではなく、机の上にある『何か』に向かっていた。
表情は分からないが、鬼気迫る様子だ。何かを、書き記しているのか。
次の瞬間、映像が消えた。
浅比と私は、何も言わなかった。
「……先生。明日、行きませんか」
浅比が言う。
私は頷いた。
「ええ」
それだけでよかった。
蛇塚村へ行く。
今度は取材という言葉を使わない。
母親のことを確かめたい浅比と。自分がどこまで物語を作ってしまっているのか確かめたい私。
二人とも、同じ場所へ行く理由がある。
だから、行く。
ただそれだけだった。
◇
荷物をまとめた後、私は最後に一度だけパソコンを開いた。原稿の画面を確かめる。
白紙のままだった。
カーソルが点滅している。
私は何も入力しなかった。
その代わり画面を閉じた。
部屋の明かりを消す。
暗闇の中で、パソコンの電源ランプだけが小さく光っていた。
その光を見ながら、私は思った。
明日、蛇塚村で何かが分かるかもしれない。
何も分からないかもしれない。
どちらでもいい。
今度は分からないものを、分からないまま見る。
そう決めて、私は眠りについた。
その夜、電源を切ったはずのパソコンの画面が一度だけ暗闇の中で、ひとりでに点いた。
浅比に声をかけようとし、今日は家に泊まっていないことを思い出す。
無性に寂しかった。
(『 第4章 旧・鬼沢家別邸の記録』・完/『 第5章 蛇塚村祭祀録』へ続く)




