第16話 記録者の部屋
旧・鬼沢家別邸を出た後、浅比が私の家に泊まりたいと言い出した。このまま一人になりたくなかったのだろう。私も気持ちは同じだったから一も二もなく了承した。
とはいえ私の家は来客など想定していないから布団は一組しかない。浅比は強情で、自分のジャケットを布団代わりにして床で寝ると言って聞かなかった。私はなんとか彼女を説き伏せ、一組の布団を分け合って端と端で眠ることになった。
「電気、点けておく? その方が怖くないとかあるかな」
「消しちゃっていいですよ。どうせ肉眼で見えないなら電気が点いていても意味ないですし」
部屋の明かりを落とす。
布団の中。背中越しに彼女の声が聞こえる。
「……あれからどうですか。黒い影とか蛇とかいました?」
「いない。というか、怖くなりそうな話するのやめてよ」
「すみません」
浅比が笑う。
「私、雑談ってあまり得意じゃないんですよね。先生が話題を振ってください」
「私もそんなに得意な方じゃないんだけどな」
苦笑する。とはいえ彼女が素直に頼ってくれるのが少し嬉しくもあった。
「私の家の食器や調理器具を買いに行くって話、延び延びになっちゃってるわね。結局いつ行く?」
「いつがいいでしょうね」
「この間、逃げながら無意味に街を彷徨ってた時あるでしょ。どうせならあの時に買い物も済ませちゃえばよかったわね」
「ダメですよ。買い物ってそういう気持ちでするものじゃないです」
「何それ」
「買い物というのはもっと楽しい気持ちでするものなんです」
「生活必需品を買うのに楽しいも何もないでしょ」
「お皿やカップを買うんですよ。どの色が可愛いとか話しながら買いたいじゃないですか」
「……変な女」
「変なのは先生です」
布団の向こうで彼女が寝返りを打つ気配が伝わってくる。続けて欠伸の音。
「眠いなら寝たら?」
「……そうします」
そう言って浅比は再び大きな欠伸をする。
「……先生」
「なに」
「先生はいなくならないでくださいね」
「どうしたの。急に」
寝返りを打ってそちらを見ると、彼女は穏やかな寝息を立て始めていた。
「何よ。言うだけ言って」
私は、しばらく彼女の寝顔を見つめていた。普段は生意気なことばかり言う癖にこうして見ていると、あどけない小娘のようだ。
「……いなくならないわよ。あなたを一人にできないでしょ」
私も疲れ切っていたので、その後はすぐに眠った。
寝ている最中に学生時代の夢を見た。そんな夢など見たのは数年ぶりだ。内容ははっきりとは覚えていないが、酷く幸福な気持ちになる夢だった。
翌朝。私は目を覚ますと、昨夜の旧・鬼沢家別邸での映像を何度も確認していた。
映像を繰り返し見ながら考える。
問題は、どこまでが記録で、どこからが私の解釈なのかだ。そこからして分からない。
映像の中に、確かに別の部屋がある。
けれど、それが過去なのか別の空間なのか何も断定できない。ただ同じ部屋に見えるだけかもしれない。私はそう書こうとした。
『同一地点と推定される室内に、異なる時期の映像が重なったように見える』
タイピングする手を、そこで止めた。
――ように見える。
それ以上は書かない。書きようがない。
浅比も横で編集画面を見ていた。
「……先生」
「何?」
「ここ」
彼女が指差した。
映像の端。
昨日は気づかなかった。
誰かが、机の横を通っている。
長い髪。古めかしい服。
顔は見えない。
その人物が、机の引き出しに何かを入れている。
「何でしょう、これ」
「……この人、あなたのお母さん?」
浅比はしばらく黙った。
「いえ。これだけでは分からないです」
映像を拡大する。画質が荒い。
けれど、手にしているものは分かる。
小さな紙。そして、カメラ。
「机の引き出し、昨日見たわよね」
「はい」
「でも、何もなかった」
「はい」
私は躊躇いながら立ち上がった。
「もう一度、見に行くしかないかな。……正直あそこに行くのは気が進まないけど」
「先生が深追いしそうになったら私が止めます。だから、私が危ないことをしそうになったら先生が止めてください。……それでいいんじゃないでしょうか」
浅比は少し笑うと、立ち上がってハンディカメラを手に取った。
◇
洋館に戻る。
二階へ上がり、書斎へ。
机の引き出しを開ける。
やはり何もない。
「ありません」
「ええ」
浅比がハンディカメラを置く。
私は机の周囲を調べた。
すると、机と壁の間に、小さな隙間がある。
指を入れる。何かに触れた。
紙だ。
私は指先で引っ張り出した。
古い紙片。
そこには、手書きの地図があった。
簡単な線。
山。川。道。
そして、ひとつの地名。
――蛇塚村。
私は浅比を見る。
彼女の顔から血の気が引いた。
「……私は知らないです」
「まだ何も聞いてないわよ」
「すみません。つい」
浅比は紙を見つめた。
「これ……母の字に似ています」
「確かなの?」
「文字の癖が同じです」
浅比の指が震える。
「でも、こんな場所にあるなんて……」
「昨日の映像もそうだけど、やっぱりお母さんがここへ来た可能性はあるんじゃない?」
「……私にはなんとも言えません」
浅比は地図を見た。
「母は、昔から記録していたんです。いろんな場所を」
私は黙って聞いた。
「祭りとか。古い家とか。変な噂とか。だから、これもその一つかもしれません」
浅比は一度、息を吐いた。
「でも、母は途中から、記録すること自体を嫌がるようになりました」
「どうして?」
「分からないです」
浅比は首を振った。
「私が子供だったからか、母は何も説明してくれませんでした。……ある頃からぱったりと記録を取るのをやめて。それと同時に食事とか着るものとか全然、気を遣わないようになっていって。そして、いなくなりました」
その言葉は、責めるものではなかった。ただ、長い間残っていた空白を眺めるような言い方だった。
私は地図を見た。
「蛇塚村へ行けば、何か分かるかもしれない」
「……はい」
「でも、分からない可能性もある」
「それでも行きたいです」
私は頷いた。
その時だった。書斎の奥から。
カチリ、と。また音がした。
二人で振り返る。
壁際に、古いカメラが置かれていた。
昨日はなかった。
少なくとも、私はそう思っていた。
浅比が近づく。
「触らない方がいい」
私は言った。
浅比が止まる。
カメラのレンズは、私たちを向いていた。
電源は切れている。
それでも赤いランプが、一度だけ点滅した。カチリ、と。
そして、それ以上何も起きなかった。それが、かえって不気味だった。
「浅比さん、引き返そう」
「先生、引き返しましょう」
彼女と声が被った。こんな状況だというのに妙におかしな気持ちになる。
「仲良しじゃないですか」
私の肩を小突きながら微笑む浅比。
「うるさい。早く行くわよ」
私は彼女の腕を掴んで早足で歩き出す。
屋敷から逃げる間中、誰かの視線を感じていた。見られている。それも一人や二人ではない。
感じていたのは浅比も同じだったろうが、私も彼女も何も言わなかった。
洋館を出ると、東の空がわずかに白み始めていた。山の空気を含んだ冷たい風が、湿った頬を撫でていく。
車に戻り、浅比がエンジンをかける。ハンドルを握る彼女が、バックミラー越しに洋館を見た。
「……いっぱいいます」
それだけ言うと、浅比は車を走らせる。
何が『いっぱいいる』のか、私は彼女に尋ねることができなかった。




