第15話 反復する屋敷
テープの駆動音が暗がりの中で響き続ける。
浅比の持つハンディカメラではない。別の場所から聞こえるその微小な機械音が、静まり返った館の廊下に響いている。
私たちは、半開きになった突き当たりのドアへと吸い寄せられるように歩を進めた。
扉を開ける。中は書斎だった。
大きな机。壁一面の本棚。古い振り子時計。
長い間、人が使っていなかったはずなのに、部屋全体が妙に整っている。
浅比がカメラを向ける。
「何かありますかね」
「どうかしら」
私は机の引き出しを開けた。
空だった。
二段目も。
三段目も。
それでも、なぜか気になって、机の周囲を調べる。
側面に、細い傷があった。何度も何かを擦ったような傷。
「これ、見て」
浅比が近づく。
「何でしょう」
「分からないわ」
指先で触れる。
木は乾いている。ただ、その傷の形だけがどこか見覚えがあった。
私はノートを出した。書こうとして、やめる。何をどう書けばいいのか分からない。
「先生。最近、前よりもノートを開くの減りましたね」
「そうかしら」
私としてはそんな自覚はなかった。
「減りましたよ。私、ずっと一緒にいるので分かります」
「浅比さんが言うならそうなんでしょうね。……作家としては屈辱よ」
「私はいいと思います」
「どうして?」
「先生はいつも考えすぎるし、感情移入しすぎますから」
私は少しむっとした。
「失礼ね」
「事実です」
「あなたも大概でしょう」
「そうですか?」
「そうよ。何でも撮るでしょ、あなた」
浅比が少し笑った。私もつられて笑いそうになる。
その時だ。振り子時計が鳴った。
――ボーン。
静まり返った屋敷に響く音が、やけに大きく感じられる。
私たちは同時に振り子時計を見た。
針は止まっている。時刻は、十一時七分を指していた。
動いていないその時計が、もう一度。
――ボーン。
鳴った。
浅比がゆっくりカメラを向ける。
ハンディカメラの液晶の中では、時計の針が動いている。
十一時七分。
十一時八分。
十一時九分。
カメラのモニターから視線を外す。現実の時計は止まったままだ。
「……どっちが正しいの?」
私が呟く。
浅比は答えなかった。
ハンディカメラの液晶の中で、部屋の様子が少しずつ変わっていく。
机が新しい。壁紙が綺麗なままだ。カーテンがある。
同じ部屋なのにそこだけ時間が違っているようだった。
そして、画面の奥に人がいた。
長い髪。古めかしい服。カメラを持っている。
「――お母さん?」
浅比の声が震えた。
画面の中の人物が、ゆっくり振り返る。
顔は見えない。しかし、その手に持っているカメラだけははっきり見えた。浅比が母のカメラだと言っていたものによく似ている。
浅比が一歩近づく。
すると、映像の人物も一歩近づいてくる。
今、この場にいる浅比が動いたからなのか。それとも、別の理由なのか。私には分からなかった。
「……浅比さん」
「分かってます」
浅比は立ち止まった。
画面の中の女性も止まった。
二人が、向かい合っている。
その時、女性の手元にあるカメラから、小さな音がした。
カチリ、と。録画開始の音。
同時に、浅比のカメラも鳴った。
カチリ。
浅比が凍りつく。
「触ってないです」
「分かってる」
私は近づいた。
彼女のカメラは録画表示になっていた。しかし、その指はボタンから離れている。
画面の中には、今の私たちが映っている。
そして、そのさらに奥に二つの人影が立っていた。
今の私たちと同じ位置。同じ立ち方。
二十代前半の金髪の女と、六、七歳くらいの男の子だ。
私は思わず画面を見つめた。金髪の女に見覚えがある。
「……ソラさん?」
取材が終わってから連絡がつかなくなっていたオカルト系配信者のソラだ。
だとすれば、隣の男の子は――。
十年以上前に事故で亡くなったという少年か。
取材ノートをめくる。
名前は、確か。
鬼沢勇樹くん、といったか。
少年は、隣に立つ女の手を握った。
画面の中の二人が、こちらを見つめてくる。
その表情は真顔で、ただ呆けているようにも、こちらに何かを訴えかけているようにも見えた。
カメラに写り込んでいるこの映像は何なのか。過去なのか、こことは別の場所なのか、目の前に存在しているのに肉眼では見えていないだけなのか。それとも、ただの映像の乱れなのか。何も判断がつかない。
だから、私はそれ以上何も言わなかった。
その代わり、浅比の手を握った。
「行こう」
「でも……」
「今は、見届けない方がいい」
「あそこにお母さんがいるんです。母のことが何か分かるかもしれないんですよ……!」
私は、彼女の肩を掴み、強引にこちらを向かせた。
「浅比さん! 私が今まで深入りしそうになった時、いつもあなたが止めてくれていたよね。今度は私の番。これ以上、ここにいるのはよくない。引き返そう!」
浅比は少し驚いた顔をした。それから、小さく頷く。
彼女が私の手にそっと触れた。その手を握り返す。そのまま二人で一歩下がった。
その瞬間。画面の中の女と少年は手を繋いだまま歩き出し、屋敷の奥へと消えていった。
私は見なかったことにした。それでも見なかったことにした、という事実だけは頭の中に残った。
浅比と一緒に振り返ると、そのまま書斎を出る。早足で廊下を歩き、階段を駆け下りた。屋敷を出る最中、彼女に声をかける。
「……浅比さん、ごめんなさい。私、もしかしたら余計なことをしたかもしれない。このままここにいたら、あなたのお母さんのことが何か知れたかもしれないのに。でも、どうしても見過ごせなかった」
浅比はわずかにこちらを見る。
「……いえ。ありがとうございます」
それから彼女は少し黙った。
「すみません、こういう時に自分の気持ちを上手く言葉にできなくて。……でも、ありがとうございます」
「伝わってるから大丈夫。どういたしまして」
屋敷を離れる直前、一度だけ振り返る。
古びた洋館。蔦が絡まり、錆びた鉄柵は半ば壊れ、割れた窓ガラスが月の光を鈍く反射している。
何かの鳥が高く鳴き、木が揺れた。
もう二度とこの場所を訪れることがないといいのだが。そう、強く願った。




