第12話 消えない文字列
私は例の文字列を完全に削除することにした。正確には、この文字列にこだわり、考え続けることに疲れたのだ。
『かさね……ぬい……なは……へび……つなぐ』
意味が分からない。由来も分からない。それでも文章の中に残っている。それだけで気味が悪かった。
だから私は、一度全て消してしまおうと思った。
BackSpaceを押す。文字が消える。空白になる。保存する。
パソコンを閉じかけて思い出す。少し前にこの状態でファイルを開き直したところ消したはずの文字列は元に戻っていたのだ。
もうこうなったらいっそ文字起こしした原稿ごと削除してしまおう。
テープをもう一度初めから書き起こすとなるとそれなりに時間はかかる。だが、締め切りまではまだ余裕があるのだ。構うまい。
浅比と一緒に買い物に行く予定は少し先延ばしになってしまうが、それだって急ぎの用事というわけでもない。
私は、原稿のファイルにカーソルを合わせ、削除する。
それだけのことだった。
それだけで胸のつっかえが取れた気がする。
――ところが翌朝。消したはずのファイルは元に戻っていた。躊躇いながらファイルを開くと例の文字列もそのまま残っている。
『かさね……ぬい……なわ……へび……つなぐ』
「……またなの?」
私は画面を見つめた。
いや、昨日と全く同じではない。一箇所だけ違っている。
『なは』だった部分が、『なわ』になっている。
「縄……?」
私は椅子から立ち上がった。その言葉に覚えがある。
――縄が巻き付けられたような古い柱。旧・神明トンネルとソラの部屋、そして浅比の母のカメラの映像。全てに映り込んでいたものだ。
旧・神明トンネルで聞いた、あの音。ソラの部屋で現れた黒い輪郭。浅比の母親のカメラに映っていた場所。
それらが頭の中で重なりそうになる。
やはり三つの事件は繋がっているのではないか。
私はすぐに検索しようとして、手を止めた。
まただ。私は自分から繋げようとしている。
一つ一つの事象は、まだ別々かもしれない。にもかかわらず私は同じものだと考えたくなっている。
それが作家としての習性なのか、それとも別の『何か』に誘導されているのか、判断できない。
その時、インターホンが鳴った。
突然の音に心臓が飛び跳ねる。
玄関の覗き穴を恐る恐る覗いた。
浅比だ。
安堵のため息が漏れる。そういえば来ると言っていた気がする。
浅比は、部屋に入るなりキッチンに向かうと二人分のコーヒーの準備を始めた。最近はすっかりそれがルーティンになっている。
彼女は相変わらず言葉数は多くないが、それでも一緒にいるだけで安心した。二人でする他愛ない会話がありがたく感じる。
浅比は、私のデスクの少し後ろでコーヒーをすすりながら言った。
「そういえば先生の家のキッチンってそもそも調理器具が少ないですよね。炊飯器とか見当たらない気がするんですが」
「ああ。捨ててはないはずだからたぶんどこかにはあると思う。どこにあるかは分からないけど……」
「はい……?」
彼女には珍しく素っ頓狂な声だった。
「炊飯器なんてどうしたら失くすんですか……?」
「失くしたんじゃないって。どこにあるか分からないだけ」
「それを失くしたって言うんです。……そんな生き方でよく部屋が散らからずに済んでますね。奇跡ですよ」
「散らからないように物を少なくしてるから……」
気まずそうに言うと浅比が小さくため息をつく。
「炊飯器、あとで探してもいいですか。一緒に他の調理器具も確認しておきます」
「いいけど、別にそこまでしてくれなくても……」
「心配になるんですよ。先生が嫌ならやめます」
「嫌では……ないけど……」
「けど?」
私は躊躇いがちに口を開く。
「……そこまでしてもらっていいのかなって。お金が出るわけでもないし」
「私が好きでやっていることですので」
「だったら……お願いする」
奇妙な感覚だった。ここ何年もずっと一人で暮らし、他のものはできる限り切り捨てて小説を書くことばかり考えてきたのだ。だというのに、この女と出会ってからというもの少しずつ人間らしい生活に引き戻されようとしていた。
本当に変な女だと思う。
「浅比さんって家事とか好きなの?」
ふとした疑問を口にすると、浅比は目を細めた。
「小さい頃に母がいなくなったので。一人で何でもやってきたんです」
「……ごめん、そんなこと言わせて。私の想像力が足らなかった」
「いいえ。気にしてませんので。……そういえば原稿はどうですか?」
「ああ。その件ね……」
私は、昨夜からの一連の出来事について話した。浅比の言う通りに例の文字列を元の『不明』という表記に直そうと原稿ごと削除したこと。そして、つい先ほどのこと。
机の上を見るなり、浅比はすぐにパソコンの画面上の文字列に気づいた。
「消しても元に戻ったんですね」
「ええ」
私は言った。
「でも、前とは少し違う」
「もう一度消さないんですか」
「消してなんとかなると思う?」
浅比は答えなかった。
私は画面を見つめた。
「私には、これがメッセージなのか、無意味なノイズなのか判断できない」
口にしてみると、妙にすっきりした。
分からない。――ようやくその言葉をそのまま口にできた。
「だったら、放っておけばいいんじゃないですか?」
浅比が言う。
「そうすれば、これ以上、何も起きないかもしれません」
「確かにそうかもしれない」
私は頷いた。
「でも、もう起きてるわ」
「……何がですか?」
「私がこの文字を見て、意味を考えてしまってる」
浅比の目が少し細くなった。
私は続けた。
「それだけで、もう影響されてるのかもしれない」
しばらく二人とも黙っていた。
「ねえ、浅比さん。私、文字起こしは正直これ以上どうすればいいか分からないんだけど、小説としてなら書けそうな気がしてきたんだよね……」
「またですか。先生、本当に書くことばかり考えてますね」
「小説家だからね、私。浅比さんが撮ることばかり考えてるのと同じ。……それに、今までみたいに記録の通り書けば『何か』に影響される余地もないと思うんだよね」
「まあ、いいんじゃないでしょうか。本来の趣旨とは違ってきてしまうので佐久間さんに許可は取らなきゃいけないでしょうけど。連載のネタができるなら佐久間さんも喜びますよ」
そう言って浅比はわずかに表情を緩めた。
◇
その夜。私は原稿を書いた。
怪談だとか、化け物の話ではない。
目の前で起きたことだけを、できるだけ平板に。
日時。音声。文字列。浅比の発言。私自身の反応。
余計な意味づけはしない。
物語にしない。
説明もしない。
ただ、記録する。
私はそう決めた。
数時間後。保存を終えて、画面を閉じる。
すると、デスクの横に置いた紙が一枚、床に落ちた。
拾い上げる。そこには、私が書いた覚えのない一文があった。
『記録する前からもう始まっている』
私は紙を裏返した。
何もない。
表をもう一度見る。
やはり書いてある。
私はその紙を机の引き出しにしまった。
捨てることはしなかった。
証拠として残したかったからではない。
捨ててしまったらその一文そのものが、最初から存在しなかったことになる気がしたからだ。
その判断が正しかったのか。私にはまだ分からない。




