第11話 侵食するテキスト
その夜、私は一人で文字列を調べていた。
『かさね』
『ぬい』
『なは』
『へび』
『つなぐ』
古語辞典。方言辞典。民俗学の論文。地方の祭礼記録。思いつく限りの資料を開いた。けれど、どれも決め手にならない。
「かさね」と言ってまず思い浮かぶのは累ヶ淵の伝承に登場する「累」という女の怨霊だ。だが、この文脈で出てくることはまずあるまい。だとすれば「重ね」だろうか。
「ぬい」は「縫い」かもしれない。祭礼において着物や装束を縫うというのは何も不自然ではない。
「なは」は「名は」だろうか。祀っている神の名を示そうとしているのかもしれない。
「へび」は、そのまま蛇かもしれない。蛇神信仰というのは日本各地で見られる信仰形態だ。
それぞれの言葉に意味を求めることはできる。だが――。
『重ね……縫い……名は……蛇……繋ぐ』
並べてもどうにも文章にならない。
私は椅子にもたれた。
「……まるで意味がない」
そう呟いた瞬間、妙なことに気づいた。
私は最初からこの文字列には意味があるものだと考えていた。
だから、資料を探していた。蛇に関する祭祀。各地で祀られる神の名称。村落共同体の儀礼。
どれも、この文字列に意味を与えるための材料だ。
だが、もしかするとこの言葉は、何かを伝えているわけではないのかもしれない。
意味のないものに、私が勝手に意味を作ろうとしているだけなのではないか。
そう考えると、急に嫌な気分になった。
その時、ヘッドホンから、音がした。
再生ボタンは押していない。
私はキーボードから手を離した。
もう一度、低い声。関口教授の声ではない。湿り気を含んだ、若い女性のような声だ。
『……か……さ……ね……』
「……っ」
部屋には誰もいない。
ヘッドホンを外す。
音は消えた。
怖気づいてなどいない。自分にそう言い聞かせた。
私はもう一度ヘッドホンをつける。
今度は何も聞こえない。
音声ファイルを確認する。再生位置は動いていない。
「……疲れてるだけよ」
私は画面に向き直った。
その時だった。カーソルの右側に、新しい文字が現れた。
私は触っていない。
一文字。また一文字と。
『か』
『さ』
『ね』
「……やめて」
文字は止まらなかった。
『ぬ』
『い』
『な』
画面の上で、見覚えのある断片が並んでいく。
私はマウスを動かし、範囲を選択して削除した。
消えた。
私は息を吐く。
削除したままの原稿を保存する。
ファイルを閉じる。
そして、すぐに開き直した。
『か』
『さ』
『ね』
『ぬ』
『い』
『な』
消したはずの文字列は残っていた。
「なんで……」
私は保存履歴を調べた。
おかしな更新記録はない。ただ、そこにある。最初からそうだったように。
私はしばらく画面を見ていた。そして、あることに気づいた。
文字列の最後。
さっきまでなかったはずの、一文字。
『へ』
それだけだった。
「……蛇?」
口にした瞬間、部屋の奥で物音がした。
振り返る。
何もない。
私は机の上のペンを握った。
しばらく待ってから、立ち上がった。
本棚。窓。カーテン。
視界の端で何かが揺れた。
棚の隅に何かが入っていったように見えた。細長い、紐のようなもの。
いや、紐ではない。ぐねぐねと動いていた。
――あれは、蛇か。
私は、頭を振った。
あり得ない。部屋の中に蛇などいるわけがない。
戻ってパソコンの画面を見る。
先ほど現れた文字が消えていた。
代わりに、最初の五つの断片だけが残っている。
私は椅子に座り直した。
何が起きたのか、分からない。
でも、一つだけ確かなことがある。
やはり私の知らないところで文章が変化している。
分かっているのはそれだけだった。
◇
翌日、浅比が部屋に来てもすぐにはそのことを話す気になれなかった。
彼女は今度は自分のタンブラーを持ち込んでコーヒーを飲んでいる。自分の部屋でもないのにくつろぎすぎではないかと思うが、なぜかあまり腹も立たなかった。
「先生、食器の買い出しに行く日を決めましょう。結局いつが暇なんですか?」
「あのね、浅比さん。前々から言っているように私は売れない作家なの。あなたが思っているほど金銭的な余裕はないのよ」
「なんで売れないんでしょうね。この間、先生のデビュー作も読みましたよ。『沈黙の社にて』でしたっけ。面白かったです」
その言葉に小さくため息を吐く。
「そんなこと言ってくれるのはあなただけよ。……今時は私が書くような小説は流行らないんですって」
「そういうものなんですかね。……とはいえ、先生。今のこの生活はよくないですよ」
彼女は私をじっと見てくる。
「今時は百均ショップでもある程度お洒落な食器は買えます。紙皿と紙コップで生活するよりはずっとマシですよ」
私は、視界の端に彼女を捉えながら絞り出すように言った。
「……今、抱えている仕事はこの文字起こししかないから。別にそんなに忙しくない。いつでもいいわ」
「じゃあ、この仕事が終わったらにしましょうか。進捗はどうなんです?」
「進捗ね……」
とうとうそこに踏み込まれた。私は、躊躇いながらも昨日起きた現象のことを話した。蛇のようなものが見えたことも。
「蛇、いました?」
浅比が振り返って部屋を見回す。物の少ない部屋だ。本ばかりが無数にある。
「いないと思う。気のせい」
「気のせいですか」
「でも、パソコンのバグで片付けられない気がしてきちゃったのよね……」
浅比は真剣な顔で私を見る。
「……先生。この文字列。この部分は書かない方がいいと思います」
この前と同じことをまた言われた。
「まだそれを言うの?」
「はい」
「……私は取材を仕事にしてるの。資料を整理して、文章にする。それをやめたら何も残らないでしょう」
浅比は少し考えてから答えた。
「残さない方がいい記録もあると思います」
その言葉に、私は黙った。
彼女の母親のカメラ。最後に残された映像。
『これ以上、記録しないで』
あの声が頭をよぎる。
「……浅比さん。あなたは、お母さんのことがあったからカメラマンになったんでしょ。記録をし続けているのもお母さんのためじゃなかったの?」
「そのつもりでした」
浅比は答えた。
「でも、最近少しずつ分からなくなってきました」
私は何も言えなかった。
浅比は画面の文字列を見ていた。
「先生。これ……最初からこうだったわけじゃないですよね」
「そうね」
「仮定の仮定で、話してもいいですか」
「なに?」
「もしもこの文字列を入力した『何者か』がいるとして――」
浅比は平坦な声で言う。
「その『何者か』はいったい何が狙いなんでしょう?」
その質問に今度は私が、答えられなかった。




