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これは実話ではありません――女二人でモキュメンタリー風ホラーの取材を始めたら、本物に侵食されました  作者: すかいはい
第3章 故・関口教授研究資料

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第11話 侵食するテキスト

 その夜、私は一人で文字列を調べていた。


『かさね』

『ぬい』

『なは』

『へび』

『つなぐ』


 古語辞典。方言辞典。民俗学の論文。地方の祭礼記録。思いつく限りの資料を開いた。けれど、どれも決め手にならない。


 「かさね」と言ってまず思い浮かぶのは累ヶ淵の伝承に登場する「累」という女の怨霊だ。だが、この文脈で出てくることはまずあるまい。だとすれば「重ね」だろうか。


 「ぬい」は「縫い」かもしれない。祭礼において着物や装束を縫うというのは何も不自然ではない。


 「なは」は「名は」だろうか。祀っている神の名を示そうとしているのかもしれない。


 「へび」は、そのまま蛇かもしれない。蛇神信仰というのは日本各地で見られる信仰形態だ。


 それぞれの言葉に意味を求めることはできる。だが――。


『重ね……縫い……名は……蛇……繋ぐ』


 並べてもどうにも文章にならない。


 私は椅子にもたれた。


「……まるで意味がない」


 そう呟いた瞬間、妙なことに気づいた。


 私は最初からこの文字列には意味があるものだと考えていた。


 だから、資料を探していた。蛇に関する祭祀。各地で祀られる神の名称。村落共同体の儀礼。


 どれも、この文字列に意味を与えるための材料だ。


 だが、もしかするとこの言葉は、何かを伝えているわけではないのかもしれない。


 意味のないものに、私が勝手に意味を作ろうとしているだけなのではないか。


 そう考えると、急に嫌な気分になった。


 その時、ヘッドホンから、音がした。


 再生ボタンは押していない。


 私はキーボードから手を離した。


 もう一度、低い声。関口教授の声ではない。湿り気を含んだ、若い女性のような声だ。


『……か……さ……ね……』


「……っ」


 部屋には誰もいない。


 ヘッドホンを外す。


 音は消えた。


 怖気《おじけ》づいてなどいない。自分にそう言い聞かせた。


 私はもう一度ヘッドホンをつける。


 今度は何も聞こえない。


 音声ファイルを確認する。再生位置は動いていない。


「……疲れてるだけよ」


 私は画面に向き直った。


 その時だった。カーソルの右側に、新しい文字が現れた。


 私は触っていない。


 一文字。また一文字と。


『か』


『さ』


『ね』


「……やめて」


 文字は止まらなかった。


『ぬ』


『い』


『な』


 画面の上で、見覚えのある断片が並んでいく。


 私はマウスを動かし、範囲を選択して削除した。


 消えた。


 私は息を吐く。


 削除したままの原稿を保存する。


 ファイルを閉じる。


 そして、すぐに開き直した。


『か』

『さ』

『ね』

『ぬ』

『い』

『な』


 消したはずの文字列は残っていた。


「なんで……」


 私は保存履歴を調べた。


 おかしな更新記録はない。ただ、そこにある。最初からそうだったように。


 私はしばらく画面を見ていた。そして、あることに気づいた。


 文字列の最後。


 さっきまでなかったはずの、一文字。


『へ』


 それだけだった。


「……蛇?」


 口にした瞬間、部屋の奥で物音がした。


 振り返る。


 何もない。


 私は机の上のペンを握った。


 しばらく待ってから、立ち上がった。


 本棚。窓。カーテン。


 視界の端で何かが揺れた。


 棚の隅に何かが入っていったように見えた。細長い、紐のようなもの。


 いや、紐ではない。ぐねぐねと動いていた。


 ――あれは、蛇か。


 私は、頭を振った。


 あり得ない。部屋の中に蛇などいるわけがない。


 戻ってパソコンの画面を見る。


 先ほど現れた文字が消えていた。


 代わりに、最初の五つの断片だけが残っている。


 私は椅子に座り直した。


 何が起きたのか、分からない。


 でも、一つだけ確かなことがある。


 やはり私の知らないところで文章が変化している。


 分かっているのはそれだけだった。


 ◇


 翌日、浅比《あさひ》が部屋に来てもすぐにはそのことを話す気になれなかった。


 彼女は今度は自分のタンブラーを持ち込んでコーヒーを飲んでいる。自分の部屋でもないのにくつろぎすぎではないかと思うが、なぜかあまり腹も立たなかった。


「先生、食器の買い出しに行く日を決めましょう。結局いつが暇なんですか?」

「あのね、浅比さん。前々から言っているように私は売れない作家なの。あなたが思っているほど金銭的な余裕はないのよ」

「なんで売れないんでしょうね。この間、先生のデビュー作も読みましたよ。『沈黙の社にて』でしたっけ。面白かったです」


 その言葉に小さくため息を吐く。


「そんなこと言ってくれるのはあなただけよ。……今時は私が書くような小説は流行らないんですって」

「そういうものなんですかね。……とはいえ、先生。今のこの生活はよくないですよ」


 彼女は私をじっと見てくる。


「今時は百均ショップでもある程度お洒落な食器は買えます。紙皿と紙コップで生活するよりはずっとマシですよ」


 私は、視界の端に彼女を捉えながら絞り出すように言った。


「……今、抱えている仕事はこの文字起こししかないから。別にそんなに忙しくない。いつでもいいわ」

「じゃあ、この仕事が終わったらにしましょうか。進捗はどうなんです?」

「進捗ね……」


 とうとうそこに踏み込まれた。私は、躊躇《ためら》いながらも昨日起きた現象のことを話した。蛇のようなものが見えたことも。


「蛇、いました?」


 浅比が振り返って部屋を見回す。物の少ない部屋だ。本ばかりが無数にある。


「いないと思う。気のせい」

「気のせいですか」

「でも、パソコンのバグで片付けられない気がしてきちゃったのよね……」


 浅比は真剣な顔で私を見る。


「……先生。この文字列。この部分は書かない方がいいと思います」


 この前と同じことをまた言われた。


「まだそれを言うの?」

「はい」

「……私は取材を仕事にしてるの。資料を整理して、文章にする。それをやめたら何も残らないでしょう」


 浅比は少し考えてから答えた。


「残さない方がいい記録もあると思います」


 その言葉に、私は黙った。


 彼女の母親のカメラ。最後に残された映像。


『これ以上、記録しないで』


 あの声が頭をよぎる。


「……浅比さん。あなたは、お母さんのことがあったからカメラマンになったんでしょ。記録をし続けているのもお母さんのためじゃなかったの?」

「そのつもりでした」


 浅比は答えた。


「でも、最近少しずつ分からなくなってきました」


 私は何も言えなかった。


 浅比は画面の文字列を見ていた。


「先生。これ……最初からこうだったわけじゃないですよね」

「そうね」

「仮定の仮定で、話してもいいですか」

「なに?」

「もしもこの文字列を入力した『何者か』がいるとして――」


 浅比は平坦な声で言う。


「その『何者か』はいったい何が狙いなんでしょう?」


 その質問に今度は私が、答えられなかった。

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