第10話 呪言の文字起こし
浅比の母のことを知ってから数日。私は、何度も記録を見返していた。
彼女が残した古いカメラ。その映像にある、縄のようなものが巻き付けられた古い柱。煤けた土壁。そして、旧・神明トンネルとソラの部屋で似たように現れた、あの歪み。
偶然だと考えるには重なりすぎている。けれど、繋がっていると考えるには、まだ材料が足りなかった。
だが、浅比の母についてはどうしても詳しく調べる勇気が出なかった。調べれば何かが繋がってしまいそうな気がしたからだ。
もしもこれ以上、何かが出てくれば本当にただの偶然では済ませられなくなってしまう。
だから、今はなんとなく曖昧なままにしていたのだ。
だが、その手の曖昧さは、私の好むところではない。
作家として、私はいつも曖昧なものに意味を与えてきた。
意味が分からないから怖い。
だから調べる。
調べて、名前を付ける。
名前が付けば、少なくとも輪郭ができる。
その輪郭を文章にすれば、恐怖を物語の中へ収められる。そう、信じていた。
だからこそ今のこの状況はどうにも歯痒い。曖昧なままのものがすぐ目の前にあるというのに何もできないのだ。ただただもどかしい。
それが嫌ならばいつも通り調べればいい。調べて、言葉にすればいいのだ。
だが――そうした瞬間、何かが崩れ去ってしまいそうな予感があった。
私は、どうするべきなのか。
考えれば考えるほど堂々巡りだ。気が滅入った。
編集部から新しい依頼が来たのは、そんな折だった。
「民俗学者の関口教授って知ってる?」
佐久間が机の上に置いたのは、古いカセットテープと、その音声をデジタル化したUSBメモリだった。
「数年前に山で行方不明になった人。遺族から研究資料の整理を頼まれてる。特に古い祭礼の聞き取りが多くてね。真宵ちゃん、こういうの得意だろ」
私はテープを手に取った。古い記録。地方の祭礼。土地に残った伝承。嫌いなはずがない。
「やります」
即答した。きっと良い気晴らしになるだろう。そんな思いもあったのだ。
「奈々ちゃんには音声データの整理を手伝ってもらうよ」
「分かりました」
浅比も迷わなかった。
編集部からの帰り道。エレベーターの中で浅比に声をかける。
「佐久間さんさ、私たちのことを『ちゃん付け』で呼んでくるじゃん。あれ、気持ち悪くない?」
「分かります。やめて欲しいですよね」
お互いに少し笑う。
浅比は私の方を見て平坦な声で言った。
「でも、先生。それにしては嬉しそうじゃないですか?」
「そう?」
「先生。こういう仕事、好きそうですもんね」
「そんなこと――」
照れ隠しで誤魔化そうとしたが、私の胸は躍っていた。
紙袋の中のカセットテープを確かめる。民俗学、古い伝承、土地の風習――それらは、私が作家として最も得意とし、愛してきた領域だ。ただ資料に触れているだけでも楽しい。
それに、これまでの取材のように予備知識もないまま動画配信者やネットの都市伝説に振り回されるのとは訳が違う。ようやく私の本領を発揮することができる。そう思った。
「……まあ、好きだね」
否定しきれず、そう言ってしまった。
「好きなんじゃないですか」
浅比が微笑む。私もつられて笑った。
◇
その夜、私はヘッドホンをつけて、一人で音声を聞いた。
ざあっ、という古いテープ特有の雑音。
その向こうから、老人の声がする。
『あの祭りはな、三十年に一度だけだった』
『何をするお祭りなんですか?』
『社の奥にある穴から……あれを戻すんだ』
『あれ、というのは?』
そこで一度、音が乱れた。
『縄を……締め直して……奥へ……』
私は入力欄に文章を打ち込んでいく。
祭礼。穴。縄。
断片的だが、意味は拾える。
問題は、その後だった。
『その神様の名前は?』
老人が答える。
だが。
ざらりとしたノイズ。
音が潰れた。
私は停止して、同じ部分を何度も再生した。
声そのものが消えているわけではない。
何かが、そこだけ上から重なっている。
低い音。遠い振動。
耳の奥に残るような音だった。
「……何なの、これ」
音量を上げる。
低音を削る。
ノイズを抑える。
それでも、名前だけは出てこない。
私は仕方なく、文字起こしに『不明』と入力した。
そのまま保存して、パソコンを閉じた。
◇
翌朝。私は昨夜のファイルを開いた。
そして、手を止めた。
不明、と入力したはずの場所に、文字があった。
『かさね……ぬい……なは……へび……つなぐ』
「……え?」
何度見ても同じだった。
私は昨日の入力履歴を確認した。その文字列を打った記録はない。
音声認識の履歴にもない。コピーした覚えもない。
ただ、その五つの断片だけが、昨夜からそこにあったように収まっている。
私は画面を見つめた。
意味は分からない。
けれど、不思議なことに。意味がないはずなのに、私は意味を想像できそうな気がした。
「重ね……縫い……」
口に出しかけて、やめる。
画面の文字を見ていると、頭の奥が妙に熱くなる。
何かが繋がりそうだった。
それが、気持ち悪くて仕方がなかった。
◇
午後、浅比が来た。
勝手に持ち込んだ機械でコーヒーを淹れている。
「美味しいですよ。先生も飲みます?」
半ば強引に紙コップを手渡され、一口飲んだ。悔しいが、確かにインスタントよりも美味だった。
「それにしても先生の部屋ってなんでこんなに食器が少ないんですか? 飲み物を飲む時もいつも紙コップですし」
「食器洗いがしたくないのよ。紙皿とか紙コップなら使ったあとに捨てれば済むでしょ。どうしてもお皿を使う時はラップを巻いて、使い終わったらラップを剥がして捨ててる」
それは、長い間の一人暮らしで私が身につけた知恵だった。家事の中でも洗濯物を畳むことと、食器を洗うことは最も嫌いな部類なのだ。かける時間も手間もなるべく最小限にしたい。
しかし、その説明をすると浅比はいかにも嫌そうな顔をする。
「……今度、一緒に食器を買いに行きましょう。洗い物が嫌なら私がしに来ますから」
「何それ。要らないわよ。別に困ってないし」
「困るとか困らないの問題じゃないんですよ。いいですね、先生」
結局、浅比に押し切られてしまった。私も浅比もフリーランスだからスケジュールの都合はつけやすい。そのうち本当に買い物に連れ出されるだろう。
だが、彼女のペースに巻き込まれるのが最近は少しだけ楽しく思えている自分もいた。
ただ――それよりも今は目の前の問題だ。
小さくため息ををつくと浅比に言う。
「浅比さん。これ、見てくれる?」
私は何も言わず、パソコンの画面を見せた。
浅比は少しの間、文字列を見た。
「……先生」
「何?」
「これ、実際はノイズで聞こえてない部分ですよね。なら、何もしない方がいいです。『不明』に戻しましょう」
私は眉をひそめた。
「どうして?」
「分からないからです」
「分からないなら調べるのが普通でしょう」
「だからです」
浅比は静かに答えた。
「分からないものを、先生が分かったことにしないほうがいいと思います」
その言い方が妙に引っかかった。私は少し呆れたように笑う。
「それじゃあ資料の文字起こしにならないでしょう。佐久間さんは私の見識を見込んで依頼してくれたの。意味の分からないノイズや、潰れた言葉を解読して、そこに隠された歴史や伝承を文章として蘇らせるのが今回の私たちの仕事よ」
「それは、そうなのかもしれませんが」
浅比はそれ以上言わなかった。
そして、画面の文字列をもう一度見る。
「……これ、先生が入力したわけじゃないんですよね?」
「ええ」
「じゃあ、誰がやったんでしょうね」
その質問に、私は何も答えられなかった。
パソコンの時計だけが、静かに進んでいた。




