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理論で恋は解けません!――天才兄貴の学術的聖域は、妹とメイドと親友のバグで溢れている  作者: 水上 空


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9/10

無糖の対話と、再計算される日常



「……よし。合格だ」


翌朝、俺は差し出された「普通の」味噌汁を口にし、短く評価を下した。


立ち上る湯気と共に鼻を抜けるのは、煮干しと昆布の純粋な出汁の香り。

そこには余計な糖分も、静香が好む「脳活性化用添加物」の雑味もない。

塩分が穏やかに胃へと落ちていく感覚。


過剰な糖分という暴力によって蹂躙され続けていた俺の味覚細胞が、ようやく本来の解像度を取り戻していく。


「本当? よかった……。お兄ちゃん、薄味すぎて物足りなくない? 足りないなら、私のこの『妹の愛情カロリーゼロ』をスパイスに……」


「不要だ。物理的に質量のない、あるいは観測不可能な概念は空腹を満たさない。むしろその発言による聴覚へのリソース割譲が、私の摂食効率を低下させている」


俺は理央の抽象的な提案を一蹴し、淡々と箸を進めた。


隣では、静香が「精密管理」された低GIの玄米粥を、まるで医療器具のような正確さで俺の前に並べていた。


「湊様。昨夜の睡眠ログおよび心拍変動を解析した結果、糖分制限により深い睡眠の割合が12%向上しました。本日の脳内パフォーマンスは、理論上、過去三十日間における最高値に達する見込みです」


「そうか。ならばこのまま、午後のゼミに向けた計算に入りたい。……無駄なエネルギーを排したことで、思考の霧が晴れていくようだ」


俺は食後のコーヒー(もちろん、一滴のミルクも砂糖も入っていないブラックだ)を一口飲み、眼鏡を人差し指でクイと押し上げた。


部屋の床に引かれた青と赤の境界線は依然として存在感を放っているが、一時の「糖分爆弾」という名の軍拡競争が終息したことで、301号室の空気は以前よりも澄んでいるように見えた。


だが。

この二人が大人しく「静寂」を維持するなどという事象は、この世界の物理法則において極めて低い確率でしか発生しない。


「……ところで、理央。お前はなぜ、さっきから私の膝の上にノートPCを設置しようとしている?」


俺は、青いラインから身を乗り出し、俺の太ももの上に高スペックな精密機器を無理やり載せようとしている妹を、冷徹な目で見つめた。彼女の指先は、不自然なほど俺の膝に近い場所を彷徨っている。


「え? だって、お兄ちゃんが集中できるように、私が『人間デスク』になってあげようと思って! ほら、私の膝の上なら、タイピングの衝撃も私の……適度なクッション性が吸収するから、より正確な入力ができるでしょ?」


「……非論理的だ。第一にお前の体勢が中腰で極めて不安定であり、転倒によるハードウェアの物理的損壊リスクが跳ね上がる」


「ええっ、そんなこと……!」


「第二に、私の姿勢が強制的に後傾し、第五腰椎への負担が通常時の1.4倍に達する。お前の提案は、私の脊椎に対するテロ行為と同義だ」


「ぐ、ぐぬぬ……! せっかく、お兄ちゃんと一体化して計算リソースを共有しようと思ったのに! 私の膝、世界で一番お兄ちゃんのタイピングにフィットするようにトレーニングしてきたのに!」


理央は悔しげに声を漏らし、ノートPCを抱えたまま、自身の「妹特区」である青いラインの内側へと一時撤退した。

だが、彼女の瞳からはまだ闘志が消えていない。

鼻息を荒くして、俺の胸元を指差した。


「……わ、わかったわ! 姿勢が問題なら、私がお兄ちゃんの背中を支える『人間クッション』になればいいのよね! それなら腰の負担も減るし、お兄ちゃんの体温を感じて私の計算速度も上がる……まさにウィンウィンの、最適解よ!」


理央はいかにも「世紀の発見をした」と言わんばかりの勝ち誇った顔で胸を張った。

実際、彼女はすでに背後から俺の椅子に手をかけ、物理的な「密着サポート」を強行しようと身を乗り出している。


「湊様。主人の背後を無防備に晒すことは、私の護衛プロトコルに反します。背後からのサポートが必要であれば、私がナノカーボン製の姿勢制御フレームを用いて、湊様の脊椎をミリ単位で矯正・保持します」


「静香さんはバケツプリンの容器でも洗ってて! これは妹にしかできない『精神的バフ』……つまり、兄妹の絆によるブーストなんだから!」


「絆という非科学的な変数を持ち出すのは、お嬢様の演算能力の低下を露呈しています」


「なんですって……! お兄ちゃんへの愛は、どんな数式よりも優先される定数なのよ!」


狭い寮の部屋の中で、再び二人の声が重なり合い、物理的な振動となって俺の鼓膜を叩き始める。


俺は再び眼鏡を外し、重く沈んだまぶたの上から目頭を強く押さえた。

糖分という物質的な毒は消えても、この二人の「天才」が放つ、名前のない巨大なエネルギーという名のノイズは、一向に減衰する気配がない。


「……呆れるな。お前たちは、静寂という言葉の意味を一度辞書で引いてこい。私の脳内で行われている多次元配列の整理を、その低俗な言い争いで上書きしようとするな」


俺は自分を支えようとする妹の腕を軽く、だが断固として制し、再びディスプレイに向き直った。


視界の端で、理央が「また拒絶された……」と言わんばかりに頬を膨らませて青いラインの内側へ戻り、静香が「主人の指示を遂行します」と無機質な礼をして赤いラインへ退く。


この「ノイズだらけの聖域」をどう統制するか。


俺は自分の中に芽生えた、以前の孤独な研究室では決して味わうことのなかった「非効率的な充足感」という名のバグを、再び論理の海へと沈めた。



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