共有領域の特異点と、水面の演算
……静香。この洗濯物の分類基準を説明しろ」
大学から戻った俺は、脱衣所に設置された「三つのカゴ」を前にして立ち尽くした。
そこには赤、青、そして白のタグが付けられ、精密な重量センサーまで備え付けられている。
「湊様。赤は私が管理し、分子レベルで汚れを分解・滅菌する『メイド専用洗浄カゴ』。青は理央お嬢様が主張する『妹の手洗い(愛情配合)カゴ』。そして白は、現時点では判断を保留している中立地帯です」
「お兄ちゃん、お帰り! その白いカゴはね、お兄ちゃんが『どっちに洗ってほしいか』を、その日の気分で選べるようにした自由投票箱なの! ほら、今日は私の気分でしょ?」
理央が青いラインから身を乗り出し、俺のシャツを奪おうと手を伸ばす。
「……呆れるな。洗濯という単純な物理化学的プロセスに、占有権や感情を介入させるな。エネルギーの無駄だ」
俺は眼鏡をクイと押し上げ、二人の手をすり抜けて風呂場へ向かった。
だが、そこにはさらなる「非論理的」な光景が待ち構えていた。
「……何だ、この湯船の仕切りは」
浴槽の中央には、耐熱性の透明なアクリル板が設置され、湯が左右で二色に分かれていた。
左側は静香が用意したであろう「生体電流を整える薬湯」、右側は理央が用意したであろう「実家の風呂を再現したという柚子湯」だ。
「湊様。入浴は一日のバイタルをリセットする重要な儀式です。私の計算によれば、左側の薬湯こそが明日の研究効率を最大化します」
「そんなの冷たいよ! お兄ちゃん、右側の柚子湯を見て。これ、私が一個一個、お兄ちゃんがリラックスできるように計算して浮かべたんだから!」
理央は脱衣所の境界線ギリギリに立ち、今にも風呂場に踏み込みそうな勢いで訴えかけてくる。
「……理央。お前はさっきから、その柚子を触ろうとして微妙に青いラインからはみ出しているぞ」
俺が冷静に指摘すると、理央はハッとして自分の足元を見、「……ぐ、ぐぬぬぬぬ」と声を漏らした。
「……これ、これは、柚子の配置が物理学的に不安定だったのを直そうとしただけで……! でも、お兄ちゃんが私の湯船を選んでくれたら、ラインなんて全部剥がしてあげてもいいんだから!」
理央は鼻息を荒くして、いかにも「究極の選択」を迫るような顔で俺を見つめた。実際、彼女の瞳は期待に揺れ、その手は落ち着かずにエプロンの端を握っている。
「湊様。情に流されることは、論理的な判断を曇らせます」
「……いい加減にしろ。私はただ、一日の汚れを落とし、静かに思考を整理したいだけだ」
俺は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
視界が湯気で白く霞む。
二人の天才が、私の私生活の隅々にまで「変数」を書き込もうとしてくる。このノイズを遮断するには、もはやこの部屋自体を真空にするしかない。
「……このアクリル板を撤去しろ。私は、混ざり合った普通の湯に浸かる」
「「えっ!?」」
「不純物が混ざり合うことで生まれる新たな均衡……というわけではないが、お前たちの勝手なルールに私の入浴時間を支配されるのは不快だ」
俺は二人を脱衣所へ追い出し、扉を閉めた。
背後から「お兄ちゃんの意地悪!」「湊様の非論理的行動を記録します」という騒ぎ声が聞こえてくる。
俺の「論理」という名の防壁は、彼女たちの熱量によって少しずつ、だが確実に融解を始めていた。
(続く)




