回帰する有線(ワイヤライン)と、母の「承認」
深夜、父の部屋。湊は暗闇の中で、埃を被った壁面のモジュラージャックを指先でなぞっていた。
理央はWi-Fiを物理的に切断したが、それはあくまで「家庭内無線LAN」という表層のパージに過ぎない。
「……理央、君の『独占』という演算は、あまりにモダン(近代的)すぎたな」
湊は、父がかつて趣味で引いていた固定電話回線のLANケーブルを、持参していたハブを介してタブレットに直結する。
アナログな有線接続――それは、現代の無線追跡から逃れるための、古くて最強のバックドアだった。湊は東京の直道へ、暗号化された最短パケットを送信した。
『――座標特定完了。デコイを回収し、物理的な「移動手段」を確保せよ。目標は、管理者のルーチンが切り替わる午前7時だ』
翌朝。氷点下の静寂を、場違いに明るい玄関チャイムが引き裂いた。
「はーい、どなた?」
母が玄関を開けると、そこには雪まみれになりながらも、不敵な笑みを浮かべた直道が立っていた。手には、湊が羽田で預けたはずのスマートフォンがある。
「おはよう、おばちゃん! 湊に頼まれていた『忘れ物』を届けに来たよ!」
「あら直道君! 東京からわざわざ? 湊、忘れ物ですってよ!」
母の呑気な声が、実家の防衛プロトコルを無自覚に解除した瞬間、湊はすでにパッキングを終えた荷物を手に、階段を駆け下りていた。
その瞬間、母親の監視に安心していた理央、客間で休戦中だった玲奈と静香の端末が、同時に「緊急アラート」を叫び始めた。
「……主人の端末が、この座標の至近距離でアクティブになりましたわ!」
「何ですって!? 直道が来たの!?」
「お兄ちゃんが逃げる……! ダメ、行かせない!」
三人は寝起きのまま、パジャマの上にコートを羽織り、リビングを突き抜けて玄関へと飛び出す。だが、そこで彼女たちの前に立ち塞がったのは、巨大な「管理者」の壁だった。
「ちょっとみんな! まだ朝ごはんも食べてないのに、そんな格好で外に出ちゃダメよ!」
その数秒のラグが、湊にとっての「勝利の演算」を完成させた。
「おばちゃん、ちょっと世界をパージ……じゃなかった、遊びにいってくるわー!」
玄関の外では、直道が手配したキャタピラ仕様の雪上車が、既にアイドリングの咆哮を上げていた。
湊はスマホを奪還し、後ろの座席へ飛び乗る。
「待って、お兄ちゃん!」
理央が雪の中に裸足で飛び出すが、雪上車は道なき雪原を直線距離で突き進み、一瞬にしてホワイトアウトの向こう側へと消えた。
静香のドローンは、極寒による着氷でプロペラがロックされ、玲奈の車も膝まで積もった新雪に足を取られて1ミリも動かない。
三人の端末には、湊からの最後の通知が届く。
『――追跡者諸君。この「クローズド・サークル」を維持していたのは、私の知略ではなく母さんのホスピタリティだったようだ。私は次のフェーズへ移行する。探さないでくれ』
湊を乗せた雪上車は、真っ白な雪原に一点の轍を残し、新幹線の始発駅へと消えていった。
物語は、北海道という「箱庭」を飛び出し、さらなる広域逃走劇へと加速する。




